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松岡環さんの聞き取りの手法の批判について タラリ 2003/09/14 21:39:15
├証言について 熊猫 2003/09/15 03:29:50
└Re:松岡環さんの聞き取りの手法の批判につい... 渡辺 2003/09/15 14:02:49 (修正1回)
└Re:Re:松岡環さんの聞き取りの手法の批判に... タラリ 2003/09/15 22:03:26
松岡環さんの聞き取りの手法の批判について タラリ 2003/09/14 21:39:15 ツリーへ
松岡環さんの聞き取りの手法の批判について |
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タラリ <vgezpxzsqe>
2003/09/14 21:39:15 |
『正論』誌、平成14年11月号の阿羅雑文批判を2002/12/19に当板に投稿したが、続けて聞き取り方法はどうあるべきかについて書こうと思っていた。
阿羅氏から兵士の聞き取りの手法についての次の批判があった。
A1.数十年前の事件についての記憶であるから、あやふやな部分があるはずだ。何回も聞いて、勘違いや記憶違いを取り除かないと聞き取りにならない。
A2.聞き取りに応じるか、否かは本人の自由だから、まず、手紙で依頼し、電話で確認し、承諾してもらう。
A3.松岡さんは虚をついて強姦や殺害を語らせるかに腐心している。これでは、別の人が聞けば違った話になる。
A4.すべて匿名で所属が大隊までの表記になっているのは反対尋問にさらされて告白が崩壊するのをおそれているからだ。
A5.告白が事実かどうか、さらにまわりの兵士から聞き取りをし、確認をとり、裏をとることが必要だが、まったくしていない。特に強姦や殺害の告白についてそれが言える。
阿羅氏の本文は少し拡散気味でまとまりがないので、私が意をくみ取り箇条にまとめたことを明記しておく。
ところで意外なことにほとんど同様の批判が南京大虐殺の在野の研究家である小野賢二氏からされていた。次の批判の要旨も阿羅氏の場合ほどではないが、整理のため、私が少し書き直したものである。
『南京戦』何が問題か 小野賢二 『週刊金曜日』 2002/12/20(441号)
O1.事前調査、事実関係を知った上でなければ、証言の真意の把握はできない。 O2.対象とした部隊が多いのに準備期間が短すぎる。 O3.聞き取り回数が少ない。 O4.いきなり訪問するのはよくない。あらかじめ、手紙で申し入れるべきで、断られれば行くべきでない。 O5.突然の訪問はしてはいけない。 O6.元兵士の私生活を乱してはいけない。 O7.ビデオ、カメラ、カセットを持ち込めば、信頼関係は崩れ、抑圧的・高圧的となる。 O8.編著が杜撰で誤りが非常に多い。
■ 証言は史実を語らなければならないという誤った考え方(A1,5とO1,2,3,8)
両者に共通するのは証言者に完璧な真実、誤認のない真実を語らさせよ、という姿勢である。証言者が事件当時に誤った認識を持っていたとすれば、それを訂正させよ、編著に反映させよ、年月を経たことによる誤記憶をも訂正させ、編著に反映させよという主張になる。そして、実際の著書に記された誤まった認識と誤記憶についてO8の非難をぶつけている。
これはまったくの誤りである。聞き取り者が証言のあれこれの間違いに介入し、当時の誤った認識や、誤記憶を訂正する努力を傾ければ、その聞き取り証言は一次史料ではなく、編著者による二次史料に転化するのである。引用者が引用文の誤字・脱字、旧かな遣いなどの一字一句を完全に再現しなければ、ときにはそれがもとで引用文がねつ造に転化するおそれさえある。あるいはそう受け取られるおそれがある。ちょうどそれと同じく、証言者の誤まった認識、誤記憶はそのまま再現すべきなのである。
証言者の誤った認識はその証言者の事実に対する認識の程度を示している。誤記憶はその事実に対する印象度の深さを示している。誤った認識、誤記憶で丸ごと史料を形成しているのである。これを強引にただそうとすれば、聞き取り者の認識や、価値観、ときには恣意が無意識のうちにでも証言の中に織り込まれることになるのである。
ところが阿羅氏と小野氏は証言自体がすべて真の事実を語らないといけないというのである。そのために、長時間かけて事前調査をしたり、他の証言と引き比べて証言内容を修正して出すべきだ、そうでないと証言にならないというのである。これは証言内容イコール史実でないといけない、というまったく誤った考え方に基づいている。証言は史料の一種であり、それは歴史の構成材料であって、歴史の内容そのものではないのである。
材料をどう判断するか、どれをとり、どれを捨てるか、あるいは証言のどの部分だけを生かすかなどは読者ないし、歴史家にゆだねられるべきなのである。
他の証言者との照らし合わせをして、証言者に「あなたの記憶は確かか、誰々さんはこう言っているが」という情報をもたらせば、あるいは、証言者は発言を撤回、修正することがあるかもしれない。ただし、他の証言・記録と考えあわせて、「自分の方の記憶違いかもしれない」と思い直してした証言はすでに、その人のオリジナルな証言ではなくなる。 そして、もし、そのようにして得られた証言であるならば、その修正過程をきちんと記録しておかなくてはならない。阿羅、小野両氏はそうではなく、それらの修正作業は編著者が自分の判断で読者の目にはさらすことなく、秘密裏にすることを考えているようである。
修正作業の情報は正しく記録されなければならない。その修正作業の中には不適切なものがあったか、なかったか判断するのは聞き取り者以外のものにまかせなければならないのである。
証言の中にある当時の誤った記憶、言葉遣い、それも容易にわかるものはそのままにしてよい。これは証言の信憑性について疑いを持たせるものではないからである。しかし、本人が意図して隠し、あるいは故意に嘘をついていることが明らかな場合、その疑う根拠を示して真実の発言を引き出す努力を惜しむべきではない。
たとえば、松岡氏は聞き取りのさいに当人の日記を読み、本人の証言との食い違いを指摘し、何回か嘘の証言をしたことを暴き出している。
他の証言内容との照らし合わせは読者ないし歴史家の仕事なのである。照らしあわせを行った結果、食い違いが大きく、どうしても再質問を要するならそれは再び聞き取り者にリクエストされるべきである。
ところで、是非とも修正しなくてはならない内容もある。それは体験内容、目撃内容の日時・場所が明らかに違っていると感じられるときである。これだけはきちんと確認しておかなくてはならない。これがなければ、他の証言との引き合わせそのものが不可能になるからである。
■ 突然の訪問について(A2、O4、O6) これは聞き取りの任意性について問うていることになる。南京事件について元兵士が証言を拒否、忌避する最大の理由は自ら手を下した、殺害、強姦その他に対する良心のこだわりであることは言うまでもない。『南京戦』の記述を読んでもほとんどの兵士が自らの非道な行為について、そのときはどうあれ、今では深く悩んでいるのが見て取れる。
しかし、南京事件についての聞き取りをすることは自分がした行為と向き合うことを避けがたく求める行為にほかならない。したがって、元兵士の証言忌避の姿勢を尊重し、元兵士の心の平安を完全に保障することは聞き取りの目的とは相反するのである。あらかじめ来意を告げて、元兵士にあれこれと思い迷わせ、結果として証言を拒否する理由を見つける時間を与えることになる。
松岡さんの聞き取りは結果として、突然の訪問であっても応じてもらっているのである。聞き取りが私生活を乱すようなものであれば、その時点で聞き取りを止めて帰ってもらっているだろう。
■非道な行為、特に強姦について (A3) 強姦などについて他の人に聞き取りをさせれば違う結果になる、という。これはまさしく、そうであろう。このような証言はもし、本当にしていなければしたとは絶対に言う性質のものではない。また、本当にしていた場合も信頼関係がなければ絶対に言うものではない。したがって、証言した時点で他人の証言との引き合わせなどまったく必要はない。証言の任意性は発言があったということで完全に証明されているのである。
■ビデオ撮影などについて (O7) 小野氏がビデオ、カメラ、カセットを持ち込めば、信頼関係は崩れ、抑圧的・高圧的となる、というのは承伏しがたい。このようなことが出来るのはむしろ信頼関係があることの証明ではなかろうか。もし、証言者に耐え難いことがあればその時点で証言は中断されるはずである。
阿羅氏が証言否定の立場から埒もない批判をするわけはよく理解できる。しかし、小野氏が否定派と同列の低水準の批判をあえて雑誌という媒体を通じてする訳は理解できない。もし、松岡氏のやり方に疑義があるなら、雑誌ではなく、手紙などで行う方法もあったろう。
小野氏に言いたいこと、反論したいことはまだあるが、南京大虐殺の解明に大きな力を尽くされた氏をおとしめるのはもちろん、私の主意ではない。私の主目的は聞き取りの正しいやり方を提示することである。それによって小野氏にもわかってもらえるのではないかと思う。
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├証言について 熊猫 2003/09/15 03:29:50 ツリーへ
Re: 松岡環さんの聞き取りの手法の批判について
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熊猫 <dhcvsuquwp>
2003/09/15 03:29:50 |
証言について 私の好きな文章を紹介します。多分タラリさんも、読まれたことがあると思いますが・・・「脱ゴーマニズム宣言」上杉聡(東方出版)P30より 1.人は、自分が感じたことを、そのまま「事実」と理解する傾向がある。思い違い、勘違いは、ここから来る。 2.自分に都合の悪いことを隠す傾向がある。逆に都合の良いことは誇張される。 当事者の証言は、勘違いや誇張や嘘を含めて、それら全体が事実の一部なのだ。事実とずれる事があるから証言に価値がない、信用できない、などと言っては何も始まらない。真実は、常に全体の中から、私たちがつかみ取るものなのだ。
近代史の場合、生存者の証言は立派な一次資料であり、軽視することは許されないと思います。古代史の研究家にとっては羨ましい部分ではないでしょうか。 |
└Re:松岡環さんの聞き取りの手法の批判につい... 渡辺 2003/09/15 14:02:49 (修正1回) ツリーへ
Re: 松岡環さんの聞き取りの手法の批判について
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/09/15 14:02:49 ** この記事は1回修正されてます |
Re:松岡環さんの聞き取りの手法の批判について
阿羅健一の、あの記事から、タラリさんが要点を的確に抽出されているのに驚きました。 私は、タラリさんに賛成する部分と、若干、異なる考えの部分があります。 (『南京戦』何が問題か 小野賢二 『週刊金曜日』 2002/12/20(441号)は読んでおりません。)
なお、最近、歴史証言と脳の記憶メカニズムに興味を持っています。近年、犯罪での証言、特に間違った目撃証言が生成されるプロセスに関連して、記憶や検索のメカニズムの研究が進んでいるようです。 もし、歴史証言と脳の記憶メカニズムについて、既に研究書がありましたらお教えください。
1) 阿羅氏: A1.数十年前の事件についての記憶であるから、あやふやな部分があるはずだ。何回も聞いて、勘違いや記憶違いを取り除かないと聞き取りにならない。
「何回も聞いて、勘違いや記憶違いを取り除かないと聞き取りにならない」というのは、方法論として誤っています。 これは、「勘違いや記憶違い」を聞き手が知っていることが、前提になっています。いつもその前提が成り立つわけではないし、逆に、「勘違いや記憶違い」を取り除こうとして、聞き手の予断で証言者自身の記憶や発言を歪めたり、証言そのものを捨ててしまう可能性があります。 明らかな「勘違いや記憶違い」と思われていたことが事実であったり、記憶が歪んでいても、そこに、ある事実の断片が現われていることもあります。 私は、『季刊 中帰連』21号〜24号で、資料を調べてまとまった歴史の記述をするという作業を、初め経験しました。その過程で、思いがけないこと、あるいは間違いと思われていたことが事実であったという体験が幾度となくありました。 また、証言や記述のささいな部分に、ある事実の一角が現われていることもあります。ですから、証言を含めて、あらゆる資料は、一度目を通して判断すればよいというものではありません。 本人が、こうだと記憶しているという以上、それがインタビューの結果です。
阿羅氏の、A1.の見解の背景には、誤り=ウソ、という単純な認識があるようです。ただし、ご自分の著書では、そう考えていないようですが...
ただし、A1.については微妙な問題もあります。確かに、「勘違いや記憶違い」を聞き手が知っていることもありえるのです。 私の経験でいいますと、Timperley
の元奥さんとの手紙やメールでのインタビューで、こういうことがありました。 エリザベスさんは、南京から上海へ移ったのは秋が深まってからと記憶していました。これは、サンフランシスコ・クロニクルのチャールズ・バレス記者がインタビューしたときも同じ内容でした。 しかし、入手した資料から推測するに、それは、1937年8月末から9月始めの事と思われました。たとえば、ヴォートリンの日記から、8月末に米国人女性は南京からの退去を勧告されていました。 もちろん、私のほうから誘導尋問をして、「そうかもしれない」などという回答が来たら意味がありません。 決定的だったのは、Timperley
が、上海にある日本領事館に日本への新婚旅行について入国が可能かどうかを問い合わせたという公電を「アジア歴史資料センター」で見つけたからです。(結局、新婚旅行には行かなかったが...) この件に触れたメールを読んだ、エリザベスさんが、自分が当時書いた手紙を取り出して読んだところ、9月の始めに、1週間前(5日頃にあたる)に上海に着いたという記事を発見したのです。 で、入手していたすべての情報が、一致したのです。 しかし、これは場合にもよりますし、微妙です。やはり、エリザベスさんが、間違っていても、そう記憶していたということは、それで尊重しなければいけないのではとも考えられます。 なぜなら、上海へ移った時期は、結局、彼女の手紙という文書によって分かったからです。 つまり、証言自体を正すより、他の資料との突き合わせ、そのなかで証言を使うということでいいのではないかと思います。 エリザベスさんは、南京の空襲を経験していますが、その体験を聞いたところ、危険とは感じたことはなく、ホテル(首都飯店)の屋上から見える対空射撃の弾丸の光が花火のようできれいだったと記憶しているとのことでした。 他の資料から判断するに、かなり記憶が脱落しているのではないかと思います。しかし、そう記憶しているなら、それはそれで尊重したいと思います。
2) 阿羅氏: A5.告白が事実かどうか、さらにまわりの兵士から聞き取りをし、確認をとり、裏をとることが必要だが、まったくしていない。特に強姦や殺害の告白についてそれが言える。
これは、あほらしいとしかいえません。資料集の範囲を超えた要求です。 確かに、一つの証言について「さらにまわりの兵士から聞き取りをし、確認をとり、裏をとること」は、可能であれば、すべきことです。 しかし、「強姦や殺害の告白」など、個人や小グループで行われたことの「確認」や「裏」など、どうやってとるんでしょうか。 まず阿羅氏が自分の著書でおやりなさいということにつきます。(例えば、ライフ誌に掲載された「上海南站」の子供の写真の件。映画までハケで修正できるかってんだ。) それより、阿羅氏のひどい誘導尋問のほうが問題です(^^;
3) 小野氏: O3.聞き取り回数が少ない。
得られた証言を検討すれば、また新たな質問事項が生まれてきますので、可能なら複数回インタビューすべきだと思います。その過程で、証言者の埋もれていた記憶が蘇ることもあります。 しかし、この投稿の最後にある8−2)のように、複数の聞き取りの場合に注意すべき点もあります。 A1の「何回も聞いて」というのは、その目的が誤っていますので、小野氏の発言と趣旨が違うと思います。
4) 小野氏: O1.事前調査、事実関係を知った上でなければ、証言の真意の把握はできない。 O2.対象とした部隊が多いのに準備期間が短すぎる。
これは、「証言は史実を語らなければならない」という意味ではないと思います。 「事前調査、事実関係」を、把握していなければ、その証言の内容が即座に理解できないところが多くなります。また質問の内容も的を外れたものになるかも知れません。
5) 小野氏: O8.編著が杜撰で誤りが非常に多い。
他人のことは言えませんが、やはり資料となるものは、編集を複数の人で行ってチェックすべきです。 また、専門用語、方言、隠語の説明など、それから明らかな証言内容の誤りについては、本文と分離して脚注でコメントすべきだと思います。 偕行社の資料は、括弧書きで編集者の解説が入っており、本文との区別が明瞭でない箇所があります。また、脚注であっても「これは噂だった」というような編集者の解釈を記述していますが、これはすべきではありません。そういうことを書きたいなら、別の資料を紹介して、こういう資料もあるという程度にすべきです。 誤字脱字については、明示的に文中に入れるべきだと思います。
6) 小野氏: O4.いきなり訪問するのはよくない。あらかじめ、手紙で申し入れるべきで、断られれば行くべきでない。
これは、マナーの問題もありますが、どいう趣旨で証言をしてもらうかという技術的な面とも関連しています。 内容がプライバシーに関するものは、公開してよいかどうかという問題もあります。 私の場合は、ある程度、自分の立場とインタビューの趣旨を説明して申し込みました。 しかし、あまり説明しすぎると、相手に予断を与え、ときには、相手の記憶を変形してしまうかもしれません。 それから、確かに一種の信頼感が相互にできないと、よい証言はとれないと思います。私は、かなり気を使っています。しかし、信頼感を形成する過程で、相手に影響を与えてしまうかもしれません。 ジレンマがそこにあるわけです。
7) 小野氏: O7.ビデオ、カメラ、カセットを持ち込めば、信頼関係は崩れ、抑圧的・高圧的となる。
これは、承諾を得ればいいことですね。 ただし、こういう方法で記録されることを意識すると、発言そのもが抑制的な(早い話が「よそ行き」の)内容になる恐れがあるかも知れません。
8−1) ここでは、直接には問題となっていないことですが、言葉による証言を文書化する際に紛れ込む、聞き手の解釈や聞き誤りは、表にでないだけに注意を要すると思います。 最近、裁判の証拠として、テープの会話の「反訳(はんやく)」をしました。 証拠として提出するビデオ、録音は、そのテープ全部を提出し、会話は文書化する必要がでてきます。 実際に反訳をして、会話を文章にすることの難しさがよく分かりました。 まず、ことばの解釈ですが、単純な例でいいますと、例えば「とった」を「取った」と「盗った」のどちらに記述するかによって、意味が変わってしまいます。 今回は、例えば、文脈から「盗っただろ」「ああ取ったよ」という会話だと解釈できても、実際には解釈を避けて、どちらも「とった」という平仮名にして、判断を読者に任せることにしました。 また、実際の会話を文章にすると、感情や抑揚が伝わらないので、実際とはずいぶんニュアンスが変わってしまいます。
問題なのは、話し言葉では、無駄な言い回しや言葉が多いことです。裁判の証拠では、ささいな言葉でも忠実に記述しなければなりません。 しかし、インタビューによる証言集の多くは、きれいな文章になっています。きれいな文にする過程で、聞き手の解釈や聞き誤りが混入している恐れがあると思いました。
8−2) 証言がインタビューによるものと、最初から文書で書かれたものとの違いについて、最後に補足いたします。
裁判では、証言は口頭でするのが基本です。これは、裁判が弁論主義というところから来るのでしょうが(私の専門ではないので表現が不適切かもしれません)、証言を最初から文書で書くと、前後の脈略や、文書全体が与える印象などを考慮しながら、証言者が辻褄合わせをして書く恐れがあることも理由のようです。 歴史の証言でも、同様のことが言えます。回想録の類で困るのは、著者が正確を期すために、他人の書いた資料を参考にすることです。 資料を見ることにより、記憶によるものなのか、他の資料から得た情報なのかの区別ができなくなります。 また、資料から得た情報により影響を受けたり、記憶が変わったりしてしまうこともあります。 松本重治『上海時代』に、
Timperley
が「中国における日本軍の残虐行為」(ジャパニーズ・アトロシティーズ・イン・チャイナ)なる書物を編集・発行することになったという箇所があります。 「ジャパニーズ・アトロシティーズ・イン・チャイナ」は、中国語訳の原書にだけ現われる題名ですので、4月始めにはそういう題名を予定していたという証拠になります。 ところが、松本氏は竜渓書舎から出版された邦訳の復刻版を知っていたことが次頁に書かれていますので、あるいは、邦訳の訳者解説を読んで、題名に関する記憶が塗り替えられた可能性もでてくるわけです。
こういうことを考えますと、インタビューを何回も重ねたものを、あたかもひとつの証言かのように記述することには問題があるといえます。 一方、不十分でも、初回のインタビューや、一回限りの場合も、それなりに意味があるということになります。 証言の収集方法、証言を得たときの質問など、証言集にはそういった情報も明記してほしいものです。
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└Re:Re:松岡環さんの聞き取りの手法の批判に... タラリ 2003/09/15 22:03:26 ツリーへ
Re: Re:松岡環さんの聞き取りの手法の批判につい...
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タラリ <vgezpxzsqe>
2003/09/15 22:03:26 |
Re:Re:松岡環さんの聞き取りの手法の批判について >なお、最近、歴史証言と脳の記憶メカニズムに興味を持っています。近年、犯罪での証言、特に間違った目撃証言が生成されるプロセスに関連して、記憶や検索のメカニズムの研究が進んでいるようです。 もし、歴史証言と脳の記憶メカニズムについて、既に研究書がありましたらお教えください。
少し渡辺さんの問題意識とはずれるかもしれませんが、私は犯罪被害者が被害証言を嫌がる、拒否する、あるいは被害そのものを否定するという事例について、近年の心理学が明らかにした成果を知りたいと思っていますが、果たしていません。(つまり、スマイス調査の誤りの件です。)
>ただし、A1.については微妙な問題もあります。確かに、「勘違いや記憶違い」を聞き手が知っていることもありえるのです。
>エリザベスさんは、南京から上海へ移ったのは秋が深まってからと記憶していました。 >(しかし)エリザベスさんが、自分が当時書いた手紙を取り出して読んだところ、9月の始めに、1週間前(5日頃にあたる)に上海に着いたという記事を発見したのです。
元妻の記憶さえ訂正する渡辺さんの調査能力はすごいですね(笑い)。 聞き取り者が確実な情報、すでに確定された情報を持つ場合、念を押して聞くのは構わないと思っています。 これとは反対に、間違いが誰の目にも(一般読者の目にも)明らかな場合はあえて放置するのも構わないと思います。
(小野氏の O1.事前調査、事実関係を知った上でなければ、証言の真意の把握はできない。 O2.対象とした部隊が多いのに準備期間が短すぎる。 について)
>これは、「証言は史実を語らなければならない」という意味ではないと思います。
これはおっしゃる通りで、この条項が「証言は史実を語らなければならない」という意味に集約されるわけではありません。私が詰めを甘くして書いたな、と自覚していた点をちゃんと指摘されています。
ただし、松岡さんが事前調査、事実関係を知らずに始めたとか、準備期間が短いとかいう批判は松岡氏の実態をすべて知って言っているのだろうと思うわけです。
準備が少なければ、見逃しが多くなりますが、準備を完全にしようとすればいつまでも調査が始められません。証言者の年齢を考えると一日も早いに越したことはないのも事実です。小野氏の批判は一面的で、自分のやり方を絶対化しているのではないだろうか、と疑います。
小野氏:O8.編著が杜撰で誤りが非常に多い。 について。
実は小野氏が「編著が杜撰で誤りが非常に多い」と言っているのは 「三十旅団長の佐々木倒一少将の日記を読んだ」(p18)「機関銃中隊は、歩兵といっしょに行動することはなかったけれど」(p74)「下関には便衣兵の死体がたくさんあって」(p96)「ソ連製のチェッコ」(p99)・・・・ などのことなのです。
そして「これほど間違いやおかしな表現の多い本もめずらしい。人間のやることだから間違いはあるが、この本は度を越えている。」というのです。
>問題なのは、話し言葉では、無駄な言い回しや言葉が多いことです。裁判の証拠では、>ささいな言葉でも忠実に記述しなければなりません。 >しかし、インタビューによる証言集の多くは、きれいな文章になっています。きれいな>文にする過程で、聞き手の解釈や聞き誤りが混入している恐れがあると思いました。
これはその通りです。少しだけ話がずれますが、私もきれいな文にする過程をどのようにするかは非常に難しい問題があると思います。
そのひとつの例は本多勝一氏による聞き取りの方法です。本多氏は新聞記者出身で、5W1Hをもれなく、記して事件の内容を完成させるという立場です。本多氏が聞き取りの際に書いたメモの写真が著作のひとつに載っていますが、一枚の紙をあちらから、こちらから書いてあり、矢印が縦横に入っています。この書き方だと相当の編集が入っていることは確かです。
これは、新聞の取材というのが、対象とする事件が比較的近い過去であって、記憶がかなり保持されており、かつ証言者が故意に歪めた証言をするおそれが少ない、あるいはそのように受け取ろうとる向きが少ない、という特性にとっては有効な方法であると思います。
ただし、南京大虐殺の証言のような場合は話ぶり、話す順番、話の確度やあやふやなことなどすべてが証言の信憑性にとって非常に有用です。このことは幕府山の一連の証言・日誌の検証で実践的に示した通りです。
本多氏の聞き取りはひとつひとつの事柄について、故意にウソが書かれているとはちっとも思っていないのですが、5W1Hをそろえようとして訊いても、もともとの記憶が欠けた状態のところで根ほり葉ほり訊くと、確かな事実と曖昧な事実が同程度の確度で書かれてしまうのです。このやり方では証言者の語る事実の信憑性を検証する側からすると非常にこまるのです。その点松岡さんの聞き取りは素直な聞き取りがされています。
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