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  鈕先銘証言を記した崔萬秋『抗戦第二年代』 渡辺 2003/09/26 02:02:18  (修正4回)

  鈕先銘証言を記した崔萬秋『抗戦第二年代』 渡辺 2003/09/26 02:02:18  (修正4回) ツリーへ

鈕先銘証言を記した崔萬秋『抗戦第二年代』 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/26 02:02:18 ** この記事は4回修正されてます
崔萬秋著・大芝孝訳『抗戦第二年代』(ジープ社、昭和25年)に、『還俗記』の著者である鈕先銘の体験が記述されていることを発見いたしました。
これは、小説ということになっていますが、訳者の解説にあるように、ルポルタージュ(記録文学)というべきものでしょう。翻訳も軽妙で、文学的にも優れた作品であると思います。

本書の著者・崔萬秋は、『曾虚白自伝 上集』p.202 によれば、武漢時代の「国際宣伝処」第三科主対敵・科長ということになります。
『抗戦第二年代』の「訳者序」によれば、崔萬秋は広島高師及び広島文理科大学に留学、歴史学を専攻し江戸文学を研究、夏目漱石・武者小路実篤・林芙美子などの作品を翻訳し、日本文学に関しては中国の権威者と紹介されています。

「著者序」によれば、『抗戦第二年代』は1938年に書き出し、1941年の秋に「重慶時事新報」の文芸欄「青光」の連載小説として発表し、1942年冬に単行本とされたとしています。
この中で、著者が本書の中心的人物として描いている柳剣鳴は、その回想の内容から、下記のように名前が変えられているものの、明らかに『還俗記』(1968年発表、1971年単行本出版)の著者の鈕先銘のことです。

1. 鈕先銘(Niu Xien Ming/ニィウ・シェンミン)が柳剣鳴(Liu Jian Ming/リュウ・チェンミン)に変えられている。
2. 盲目の和尚の名前は、共に「守印」(3月に「円寂」した、つまり死亡したと『抗戦第二年代』にあり、実名のまま記述されたと思われる。)
3. もう一人の僧侶の名前=『還俗記』は二空、『抗戦第二年代』は二宮で、似た名前に変えられている。
4. 寺の名前=共に「永清寺」
5. 二人の僧侶が、もともといた寺の名前=共に「鶏鳴寺」

この本で、私が、とくに着目したのは、
1)鈕先銘の証言は、遅くとも 1941年には知られていたことになる。
2)抗日文学である『抗戦第二年代』では、『還俗記』に記述されたような南京事件での被害者数や惨状に対する具体的記述は、されていない。

『抗戦第二年代』では、「公路上に於て、通行人と敗殘者の兵隊が大勢虐殺された」、「敵」が、軍人を隠匿してはいないかと捜索し「難民區では、その件で、既に無数の惨事、が惹起していた」と記述しているが、具体的には書かれていない。
一方、『還俗記』では、大湾子で「同胞の俘虜二万以上を虐殺」された他、目撃者しか知りえない幕府山捕虜の殺害についての状況が記述されています。(『南京事件資料集 2中国関係資料編』p.240)
このことから、当時の出版物では、『還俗記』にあるような自国の多大な被害を記述することは避けられたという実例を示すものと考えられます。

以下、『還俗記』の南京事件と重なる部分をOCRで読込み、転載いたします。
これは、死んだと思われていた、柳剣鳴がひょっこり現われて、その体験を回想する場面です。

------
崔萬秋著・大芝孝訳『抗戦第二年代』(ジープ社、昭和25年)
(「ゆう江門」の「ゆう」は本文では漢字)

- P.101 -
 「ええ、ふるいむかしのことは、さて……といたしまして…………
 ――十二日の午後四時のことである。陰鬱な天気だつた。前線の砲聲は午前中に較べて少し収つ
ていたが、機関銃の音だけは激しくなつてきた。その三日前に、光華門の城壁のトンネルに突入し
た八人ばかりの敵と、二挺の重機関銃のため、拂暁には我が某聯隊の小隊附撲存徳と、四人の兵士
が壮烈なる犠牲となつて敵の重機とともに自爆を遂げたのである。お陰で、光華門の局部的な戦況
は、完全に危険状態から脱して安全となつた。
 僕は戰況がやや落着いたことと、前日負傷した大隊附の黄由宇の病態が気に掛つたので光華門
から一時鼓樓の大隊本部に歸つた。そして今後の給與、弾薬の補充もするついでに、四五日間腹一
ぱい食つたことのない胃袋にも補給してやろうと考えた。
- P.102 -
 六時頃だつた。富貴山にある總司令部から電話がかかつてきた。参謀長から緊急用務のため、至
急に来い、ということである。僕は早速總司令部へ赴いた。参謀長は部屋にいた。その部屋には、
各級幹部がぎつしり詰めかけていた。ひとしく誰の顔にも、緊張と憂鬱の色が漂つている。参謀長
の説明では、右翼に於ける戰局が激烈で、中華門外の雨花台は敵手に落ち、光華門は大丈夫とはい
え、中山門外天實城の第三方面左支隊は、既に敵の包圍のため混乱状態に陥つている。只今、衛戊
長官の命令により、九時より退却を開始する。よつて各隊は各個に渡河を決行、浦口の鳥衣に集結
して命令を待つべし。という意味のことが使えられた。
 次いで、各級幹部は夫々個別に命令及び指示を受領すると、相繼いで退出した。最後に私の番が
きた。参謀長は、「何人兵がいるか?」と尋ねたので、「三個聯隊」と答えると、「死傷者の具合は
?」と問う。「異常なし、士気至つて旺盛」と答える。すると、「それは非常に結構だ」といつてか
ら、「光華門は敵の攻撃の重點である。若し今夜にでも敵に突入されたならば、全般の退却計畫は
水泡に歸してしまわねばならぬ。謝承瑞の兵團は、この一週間の頑強なる抵抗により、三分の二以
上の損失を出している。もはや、これ以上防禦線をもちこたえる力はあるまい。そこで貴官には明
拂暁迄抵抗して頂き度い」ということになつたのである。
- P.103 -
 軍人は服従を以て天職とする。この千釣一髪の危機に際し、僕には勿論辞退すべき理由もない。
ただこの重大且つ困難なる任務が達成できなくして、大局に累を及ぼしてはならぬと心配した。僕
は唯一言、「ハイッ!」以外何もいうべき言葉はなかつた。
  参謀室をでようとすると、彼はもう一度私を呼戻していつた。「もし夜半の一時以降にたつて、
情況が許せば、大隊本部を連れて先行渡河し、収容の準備に當るがよい」と附け加えた。僕は参謀
長一の好意にすつかり感激して、しつかり彼の手を握りしめた。そして急いで總司令部を飛び出した
のである。
 大急ぎで光華門の前線に歸ると、軍の企圖及び我が部隊の退却援護任務を、三名の聯隊長に傳達
し、更に一コ小隊を拔いて、必要な器材を先行させ、渡河準備に遅らせることにした。
 七時から十時までの間は、戰局も割合に閑散だつた。しかし十一時になると、急に砲聲が激しく
なりだした。城壁の上にいた工兵がバタバタと敵弾に倒れた。敵は既に光華門に突入して、五日間
にわたる攻撃を續けているので、闇夜でも眞赤に照らされた大隊本部附近に對する敵の砲兵射撃は、
非常に精確であつた。我が方は既に野砲級以上の砲聲は聞えなくなつてしまつている。重機の銃聲
ですらめつきり減つている。防禦線の部隊が減少したことは心細いが、逆に安全に退却してくれた
- P.104 -
證據だと思えば却つて慰められた。
 陰暦ならば十日前後であろうか。新月は西に沈んでしまい。微かな殘光が、城壁上を見えつ隠れ
つして前進してくる敵兵の姿を透して映している。我が軍退却の企圖を察知したのか、敵は拂暁を
待たずして攻撃を開始した模様である。夜半一時になると、中華門方面は、天をも灼き盡さんばか
りの大火災を生じた。砲聲もその附近が殊に激しい。敵は攻撃の重點を、光華門から中華門に變更
したらしい。新街口以南では、次から次へと大炸裂音が間えてくる。百米と距てた先は、全然不明
だ。僕は二コ分隊の兵を派遣して、捜索に當らせたが、とうとうこの兵士らも遂に誰一人として歸
つて來なかつた。
 三時になつた。下關方面の火災は益々大きくなり、城内では幾所からも火光が見える。主力が撤
退を始めてから既に六時間以上を經過している。おそらく大半は渡河を完了したに相違ない。拂暁
までは光華門から侵入してくることはあるまい。以後になれば、殘留を命ぜられたこの三個聯隊は
渡河の希望をなくする。そう考えた私は決心をした。先ず極く少数の兵力を残置して敵を阻止させ
る。自分は三個聯隊を集合させてゆう江門へいこう。
 ところが、途中、盲滅法の亂射亂撃に、敵も味方も區別がつかず、泡のように湧いて出た亂兵
- P.105 -
が、目標もなく右往左往している。おかげで、我々がゆう江門に着いた頃には、友軍の亂射のために
兵力は半数そこそこにたつてしまつた。全くゆう江門に於ける惨状は、目もそむけたいばかりに酷い
ものであつた。
 どうにかして下關に着いたものの、渡河材料が全然手に入らない。止むを得ず、筏を組んで三々
五々各個渡河に移つた。ところが揚子江の水流はなかなか急である。とうとう僕の乗つていた筏
が、河の眞中まで来て、轉覆してしまつた。水泳の技術は僕には自信がない。僕はすつかり溺死す
るより路はない、と諦めていた。だが僕は満足だつた。かゝる惨敗を喫したからには、死は當然の
罰である。かくして、揚子江を浮きつ沈みつすること約二時間あまり、辛うじて葦の生い繋つた沙
洲の上に漂着したときには、疲労の挙句、人事不省に陥つていた。どうして俺は河のど眞中で死ね
なかつたのか、天の恥辱だ、と恨しくさえ思われた。
 江岸には、小さな廟[ミャオ]がたつた一軒だけあつた。本堂は荒れ果て、佛像が地上に轉つたまま、その
邊一面は軍装品や、こまごました遺棄品が散亂していた。附近の公路上には、往来する人影が見え
る。遠くからも、近くからも、銃聲が絶え間なく響いてくる。この廟[ミャオ]には誰も住んでいないのじや
あないかと疑われた。
- p.106 -
 廟の右側は一間の茅屋になつていた。内部は眞闇で、人影も見えない。首をつき込むようにして
覗いていると、突然、ガタッ、という音がした。そして聲がして、
 「此處は出家どもの場所でございます。お入りになつては厄介なことに相成るでございます故…
…」
 「ええ、承知いたしております。ただ誰方かお一人おいで願えませんか?」
 すると、三十歳餘りの坊さんが一人出て来た。僕は戰争に敗れたこと、この水に濕れた軍服の着
換えが欲しい、等ということを申し出た。件の僧は、僕の姓名、原籍、軍隊番號、階級等を問い正
した。僕はいちいちすばやく返答した。勿論全部嘘ばかりである。すると、その坊さんは一度茅屋
の内側に歸つていつたが、再び出て來ていつた。
 「お留め申し上げてもよろしいでしょう。ただ着物と仰言つても、僧侶のものがあるだけですが、
どうせ着換えるからには、綺麗さつぱり變装したほうが、疑われなくつて好都合でしょう」
 僕はことがこんなに順調に運ぶとは、思いもよらなかつた。そのときばかりは、すつかり感激の
涙に噎んだ。
 茅屋には五人の僧侶が住んでいた。四人までは五十歳以上の老人、その内二人は七十歳前後で一
- p.107 -
人が盲目、二人は小柄な田舎風體の老人だつた。もう一人が、私と口をきいた若僧である。後にな
つてわかつたことだが、盲目の僧老が若僧のお師匠さんだつた。彼は湖南の人で、庚子の年には、
北京で大隊長をやつたとのこと*、彼が北京時代の中國青年たちが外國の侵略に對して抵抗したとき
の失敗を回憶してくれたのが、僕を収容してくれた動機であつた。もう一人の老僧は、彼の弟子で、
やはりこの廟、永清寺の住職であつた。盲目の坊さんは、その弟子であつたとのこと。元來は臺城
の鶏鳴寺に住んでいたが、戰亂の為にこの田含寺に移つてきた、ということであつた。
 其處は八卦洲對岸の沙洲になつていた。下關からは八里下流に當る。上流には、ほどない距離に
上元門があり、そこを南に五里程行くと、和平門の停車場に通ずる。
 次の日、即ち十一月十四日の朝になつて、敵兵がやつて來た。公路上に於て、通行人と敗殘者の
兵隊が大勢虐殺された。我々のところは廟であつたため、物品をかつさらわれた以外、生命には別
條なかつた。その日からは、殆んど連日のように敵兵が偵察にやつて來た。同時に、八卦洲にも行
つて掠奪強姦の限りを恣にした。
―――――――――――――――――――――――――――
    * 明治三十一年、北京に起つた義和團の事件を指す。
- p.108 -
 我々は、晝問は敵の捜索に應侍し、夜分は灯のない稻の藁束の中に入つて一緒に休んだ。 たまた
ま、庚子以來中國が蒙つた列強の侵略問題に話題が及ぶと、盲目の老僧と僕とは、たとえ時代こ
そ異なれ、感覺は同じであつた。兵敗れ、城陥ち、妻子が虐殺の目に遭つている時、己だけは身一
つになつて、辛うじて俘虜の恥しめから免れたのである。それからは氣も心もめいつて、逐に宛平
の小廟に出家することになつた。というのが、彼の半世の經緯である。
 彼はしきりに僕にも、出家してはどうか、そうすれば弟子にして上げる、と勤めてくれた。絶望
のどん底に於ては、宗教こそ無上の慰めであろう。それで僕も、敵兵が捜索にくる度毎に、宗教的
観念のお蔭によつて、自己の精神を鎮めることができたのである。決して僕は迷信を信仰するも
のではない。ただこうしていなければ、一秒だつて住みこんでいるわけにはいかなかつたのであ
る。
 永清寺に住みついてから、約一カ月が經つた。恩師守印と師兄二宮とは、鶏鳴寺の廟産を棄てる
には忍びないとみえて、遂に一策を講じ、城内に入つて探りをいれてみることになつた。その結果
は、比較的良好だつた。そこで私も遂に二月の末、幾多の困難を突破して、鶏鳴寺に移住したので
ある。
- p.109 -
 毎日、景陽樓の上に登つて、はるか彼方臺城のほうを眺望すると、まことに杜工部の詠める「國
破れて山河あり、城春にして草木探し」の光景そのものであつた。
 光華門に於ても、下關に於ても、はたまた揚子江に於ても、死に損つた僕は、肉體のみは依然と
備わつていても精神はすつかり藻抜けの穀だつた。朝な夕な、金剛經を奉誦するのが日課だつた。「人
生如夢幻泡影、如露亦如雹、一切有為法、應作如是觀」僕は残りの人生は出家して、とまで思い立
つた。 しかし、天意はいつまでも愉安を許さなかつた。即ち第一に、恩師守印は三月病氣のために
圓寂してしまい、僕は信仰の保障を失つたこと。第二には、敵が常時うるさく、我が軍人を隠匿し
てはいないかと、捜索の眼を鋭くしてきたためであつた。難民區では、その件で、既に無数の惨事、
が惹起していた。師叔の守志と、師兄の二宮が相談した結果、双方の安全のためにというわけで、
僕を虎口に送り出すことに決定したのである。
 かくして僕は、種々の困難を経て、やつと敵の特務機関の證明書を獲得することができた。 しか
し、萬が一を慮つて、師叔は六十九歳の高齢にかかわらず、自ら上海まで送つて來てくれた。 汽車
に對しては、敵のほうでも我が遊撃隊の活動を封じようとして、憲兵を以て、列車の出入口に對し
厳重なる監視をさせていた。我々は十一時間というもの、水一滴を口にするでなく、便所へも碌々
- p.110 -
行けず、我慢辛苦の末、やつと上海に着いたのである。
 北停車場は、依然として、垣くずれ、家傾ける惨澹たる光景であつた。途中我々は、十一回もの
敵の守備隊の檢査を受け、やつと外白渡橋に到着、スカート姿のスコツトランド兵の防備線をくぐ
つて、辛うじて、『孤島の天堂』に入つたのである――」
 一座の友人たちは、劍鳴のこの悲壮な述懐を聞いているうちに、すつかり感動してしまつて、咳
も出なくなつてしまつた。最後に、私は沈黙のまましつかと彼の手を握りしめた。


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