昔のことは、「体験者に聞けば分かる」、これが普通の人の理解だと思います。 ところが、半世紀も前の出来事について、実際に聞き取りをすると、失望に終わることが多いのです。
記憶は、その再生が繰り返されることによって維持されるため、その過程で変化を生じたり、正しい記憶を語ろうとして、推測で記憶の間を繋ぐという問題もあります。しかし、60年前ともなりますと、なによりも、昔の事は忘れてしまうという単純な事実が先行します。 よほど、明確に記憶するような事情があったとか、加害者や被害者という立場で、強烈な記憶が刻み込まれていないかぎり、人の記憶は、かなり危ないものです。ただし、これも個人差がありますので、一般化できません。 しかし、1937−8年頃についての証言を、現時点で回想によって得ることの難しさを感じます。
今回、Timperley
の元奥さん Elizabeth Chambers が、中国に行くところから、Timperley
から離婚の決断を知らされるところまでの手紙の内容(デジタル化されたもの)を入手しました。 はっきり言って、このケースでは、60年前の手紙は、60年後のインタビューをほとんど無意味にするような、具体的な内容でした。彼女は極めて聡明で、Timperleyの仕事を理解していました。手紙は具体的な内容で、比較的、長文です。 別途、Timperleyがガーディアン編集者に送った手紙の抜粋も検討していますが、両者の手紙はオープンで透明性があり、内容も驚くほど整合しています。
現時点では、まだ、その内容を公開できませんが、同盟の松本重治氏には特別の敬意を抱いていたことや、自宅での食事に招いたときに、松本氏が軍部の批判をしたことが書かれています。 また、南市の難民区設立のとき、ジャキノ神父が日本側と接触できるように、最初の設定をしたのが
Timperley であることも Elizabeth は知っていました。 Timperley
は、大変忙しい人で、戦争の悲惨から中国人を守るために、YMCAや国際赤十字などからの要請を引き受けていたようです。 Timperleyの人脈は豊富で、中国要人にも、W.H.Doanald、宗子文といったような知人・友人がいますから、そういった人とも接触が当然あり、協力もしています。 「中央宣伝部(Ministry
of
Information)」(2004.1.16「国際宣伝処」という記述を削除しました)の顧問になったのは、間接証拠や本人の手紙から1939年の、恐らく4月であることは、ほぼ間違いがありません。 それ以前に交流があったのは、むしろ外交部や経済界関係の人々だったと思われます。
以上のような、経緯で、情報を小出しにできる状態ではありませんが、もう少し解明できたら、なんとかまとめてみたいと思います。
しかし、今回は、インタビューをしたり、回想を取り扱うことの難しさを実感しました。 はっきり言って、半世紀も昔のことについて、「私は見たことがない、知らない」などという回想を集めても、ほとんど無意味だという確信を持つに至りました。
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