巷では、まだ『曽虚白自傳』が話題になっている掲示板もあるそうな。 引用された一部だけで論じるのは危険です。せめて、その前後くらい確認しましょう。あるいは、6000円出して中文出版社で全3巻を買いましょう(^^) 大サービスとして上集のpp.200-201
をアップしておきました。 問題の箇所はここ↓ね。
剛巧有両個外国人、留在南京目睹這惨劇的進展;一位是英国曼徹斯特導報記者田伯烈,一位是美国教授史邁士。(『曾虚白自伝(上集)』P200)
http://hist1937.hp.infoseek.co.jp/Ceng/Ceng1.gif (横線は私が入れたもの)
北村稔氏は、研究者としてやってはいけないことをしています。この一文まで引用すると、曽虚白の回想は大丈夫なのかという疑問が当然起こるわけです。だから、福田証言に替えているわけですね。これは、いけません。
ティンパーリーは、1937年5月初めに上海から南京に移り、すぐ
Elizabeth Chambers
と知り合い、8月28日に英国領事館(大使館)で結婚。9月4日に、書籍・資料・家財道具などをハルク(廃船)に置いて、午後6時の列車で16個の荷物と共に南京を出発したことが分かりました。 Timperleyは、1937年11月末(12月末を訂正)から1月初めにかけて、他のジャーナリストがしたように漢口で取材をし、蒋介石にインタビューしています。『漢口記』を書いたことについて、Timpeleyは手紙で触れています(『米国関係資料集』のどこかにある)。 曽虚白が言っていることは、1940年頃の事実と混同しているフシがあります。中国の他の研究書でも、Timperleyの本を国宣処が主体的に発行したかのような記述をしているものがありますが、年代としては
1940年頃になっています。この件については、北村氏は引用しながら、コメントしていません。何か、この頃に出版されているかもしれません。 フランス語版の刊行は、序文からフランスがドイツに占領された直後と思われるので、この頃に何か動きがあったのかもしれません。
当時の中国関係者でティンパーリーを知らない人はいないと思われますし、人脈も非情に豊富です。従って、実情は、従来の資料では予想できないほどに、複雑かつ動的です。
曽虚白自伝は、全体としては貴重な資料ですが、部分的に疑問な箇所が他にもみられますので、要注意です。時間の順序にあまりこだわらない書き方も誤解を招くかもしれません。p.201も10ヶ月くらいの幅があるようです。
追伸:以前、Timperleyの漢口行きを11月末から12月初めと書きましたが、Tipmperley自身の手紙から、正確な日付は分からないものの
1月5日に香港(「1月3日前後に漢口」は間違い)にいたことがわかりました。(「Elizanbeth
の回想は1ヶ月間違っていたようです。」を削除します。)
-- 訂正・追加
-- 前投稿では、「1月3日前後に漢口にいたことがわかりました」としましたが、1月5日に香港にいたが正しい内容です。 また、Elizanbeth
の回想は、正しかったようです。つまり、Timperley
は、11月末から1938年1月初めまで香港と漢口にいたということになります。 Timperley は
1937年11月末、ダーディンら他のジャーナリストと共に、香港経由で漢口に行ったと思われます。 1937年12月1日には、漢口で国際宣伝処、第一次外国新聞記者会議[2]が開かれています。 Elizabeth
の手紙(未公開)によれば、これが最後の漢口取材の機会であったとされています。 漢口では、12月末には外国人の退去勧告が出されているので、残留した記者以外は、漢口から12月末に香港に帰ったと思われます。1月5日には、Timperleyの手紙(未公開)によれば、まだ香港にいたので、上海にもやはり1月初めに戻ったと推測されます。 従って、Timperleyは南京陥落時には漢口で他の記者たちと取材をしており、南京で残虐事件があったことは、上海に帰ってから知ったと考えられます。 -----
なお、国際宣伝処は、1937年11月6日に軍事委員会第5部(責任者は董顕光・中央宣伝部副部長)が改組されたもので、曽虚白が処長に就任しました。[2] その後、1938年に国民党中央宣伝部(Ministry
of Information)の指導下に置かれました。[2] -- 出典
-- [2]『抗戦時期重慶的新聞界』p.100
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