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週刊新潮「百人斬り」の記事 ゆう 2003/10/19 09:32:39
├ゆうさん、こんばんは。資料をありがとうご... KOIL 2003/10/22 23:10:50
│└Re:遺書や日記など 渡辺 2003/10/23 15:31:30
│ └向井少尉の手記について KOIL@冷や汗 2003/11/11 21:31:00 (修正1回)
│ └そうか、『世紀の遺書』は抜粋ね 渡辺 2003/11/13 00:52:49 (修正1回)
│ └ところで、ご指定の『正論2003年3月』に該当... KOIL@冷や汗 2003/11/14 00:36:37
├不思議です! 熊猫 2003/10/23 03:02:22
│└資料の捜し方 ゆう 2003/10/23 20:33:51
│ └Re:資料の捜し方 渡辺 2003/10/25 23:17:29 (修正2回)
│ └ゆうさん、渡辺さん有難うございます。 熊猫 2003/10/26 03:44:30
│ └Re:過去の傷には触れない日本の「文化」 渡辺 2003/10/26 18:35:03 (修正1回)
├↓これもぜひ紹介して下さい ja2047 2003/10/23 06:42:23 (修正1回)
│└大宅壮一氏と西条八十氏 ゆう 2003/10/23 20:09:12 (修正1回)
│ ├ああ、なるほど ja2047 2003/10/23 22:05:10 (修正1回)
│ └大宅壮一氏には以下の証言もあるようです。 指環 2003/10/24 09:03:38
│ └いや、お恥ずかしい。 ゆう 2003/10/24 20:44:44
│ └宋美齢さん死去 ゆう 2003/10/24 21:31:38
│ └他にも106歳という説と、103歳という... 熊猫 2003/10/25 20:27:50
│ └1897年生まれ 渡辺 2003/10/27 15:22:28
│ └1897年説が最も有力なようですが以下コ... 熊猫 2003/10/28 00:08:26
│ ├Re:あらら(^^; 渡辺 2003/10/28 14:09:49
│ └誕生日もまちまちのようで・・・・・ KOIL 2003/10/29 00:58:07
├百人斬りの論点は次のように整理される。 タラリ 2003/10/26 20:55:43
└阿羅健一「名誉回復のその日まで」『正論』... 渡辺 2003/11/13 01:39:39
週刊新潮「百人斬り」の記事 ゆう 2003/10/19 09:32:39 ツリーへ
週刊新潮「百人斬り」の記事 |
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ゆう <pmyqfxtjon>
2003/10/19 09:32:39 |
「百人斬り」をめぐる、『週刊新潮』1972年7月29日号記事を紹介します。
この記事は、『「南京百人斬り」の"虚報"で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形』なる何ともおどろおどろしい標題で、浅海一男記者への「批判」を主テーマとしているようなのですが(ただし「批判」は標題以上のことはほとんどなく、無内容です)、佐藤振寿カメラマン、鈴木二郎記者へのインタビューもあり、結構興味深く読めます。
ネットの世界でもこのインタビューの内容はたまに見かけますが(「思考錯誤」板でも、とほほさんの「星徹さんの記事」に一部が紹介されています)、全文を紹介したものは私の知る限りではないと思います。
全体は、リードと中見出しなしの文、「南京に送られ、銃殺」(鈴木氏の「南京大虐殺のまぼろし」の紹介)、「同僚記者二人の証言」、「浅海記者の華々しき戦後」という構成をとっていますが、このうち「同僚記者二人の証言」の部分です。
******************************
ここからは、”鈴木明レポート”を、さらに広げ、深める作業である。
まず、問題の『東京日日』の記事は、完全なデッチ上げであったのかどうか―。”第一報”の記者として「浅海、光本、安田特派員発」とあるうち、「浅海」は浅海一男氏のこと、「光本」は京都支局の記者だが、戦後二十五年に病死、「安田」は記事を打電する電信技師である。”第四報”のほうは「浅海、鈴木両特派員」の記事に、「佐藤(振)特派員」の写真が付いている。可能性として、記事は創作することもできるが、写真をデッチ上げるのはむずかしい。
佐藤振寿カメラマン(五八)は、現在、写真評論家としてフリーの生活を送っている。
「浅海さんたちとは、一つのチームを組んでいたんだね。浅海、鈴木、光本、無線の安田、それにカメラの私ね。どこでいっしょになったかは覚えてないが、蘇州から無錫、常州、南京までだいたいいっしょだった。鈴木さんは無錫から合流したんだと思うが・・・。このうち光本さんは京都支局の人で、彼はずっと向井少尉らの属していた十六師団についていた。十六師団は京都の部隊ですからね。あとの四人は東京本社からの派遣だった。私の事情をいえば、なにしろ、南京突入の第一報をどこの社が撮るか、大へんな競争でしたよ。兵隊も競争なら、新聞社も競争だ」
社内での競争もある。当時、東京の『東京日日』は、正式には、『大阪毎日新聞社東京日日発行所』に過ぎず、ボーナスも大阪に比べると一割低かったという。生活のためにもスクープが必要だ。そのため、このチームも本来なら東京が本拠である一〇一師団に従軍するべきところなのだが、「この部隊が、都会の兵隊で弱いんだね。こんな部隊についてちゃ、第一報はダメだ」というので、強そうな十六師団を追った。
「とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。
私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」
まったくの作り話ではない、少なくとも当人たちから直接聞いた話なのだ、という証言である。それでは、ただ一方的に聞きっぱなしていたのかというと、そんなこともない、という。
「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。―それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ」
佐藤カメラマンがニ将校に会ったのは、その時一度きり。そのあとは、南京入りまで浅海記者とも別行動になってしまった、そうだ。
察するところ、十二月十三日付(第四報)に載った佐藤カメラマン撮影の写真は、〔常州にて廿九日〕と日付のある”第一報”取材の時点で撮ったものなのだろう。写真は記事ほど早く送るわけにはいかない。
”第四報”に名前の出て来る「鈴木」特派員も健在だった。毎日新聞東京本社地方部長の地位で昭和三十六年退社し、その後は北海道にできた毎日系の別会社の役員などをしていた鈴木二郎氏(六五)である。
鈴木氏は抗州湾敵前上陸を取材する目的で、(十二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終っており、「そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです」
南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに、前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが、その中で、「今、向井、野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら、その後どうなったか、何人斬ったのか、聞いてくれ」といわれた。
「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」
ということは、〔紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発〕とある十二日か、記事中に出てくる十一日に会ったということなのだろう。とすると、「十二月二日負傷して十五日まで帰隊しなかつた」という向井少尉に対する富山隊長の証明書は”偽造アリバイ”ということにもなりかねないが、これも元の部下の生命を救うための窮余の一策だったのかも知れない。
鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。「本人たちから、”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で”見たまま” ”聞いたまま”を記事にして送ったんです」
記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう。死者にはお気の毒だが、ニ将校の側もある程度、大言壮語をしたのだと思われる。そして記者の方が、「こりゃイケる話だ」とばかりに、上官に確認もせずに飛びついて送稿し、整理する本社もまた思慮が浅くてそのまま載せてしまった、という不幸な連係動作があった―と考えるのが妥当なのではあるまいか。
当時、従軍記者たちは、この種の武勇談を数多く将兵たちから聞かされた。しかし、適当にあいづちを打っておいて、記事にする話とそうでない話はチャンと区別していた、というのが多くの元従軍記者たちの回想である。”百人斬り”の記事も、もしその文章にリアリティーがあれば、当時でも他社が「あと追い」をしたはずである。が、そういう形跡は見られないのだ。
******************************
最後のまとめがいかにもとってつけた感じになっているのが気になりますが、証言内容自体は大変興味深いものです。「資料」として、ここに紹介しておきます。
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├ゆうさん、こんばんは。資料をありがとうご... KOIL 2003/10/22 23:10:50 ツリーへ
Re: 週刊新潮「百人斬り」の記事
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KOIL <yyiivymypb>
2003/10/22 23:10:50 |
ゆうさん、こんばんは。資料をありがとうございます。
この論争で個人的に不満に思うのは、向井氏側が様々な資料を持っているハズなのに ちっともそれを公開しようとしない事だったりします。 たとえば、産経新聞のこの記事http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/630.htmlでは「野田少尉が獄中で書き残した遺書や日記などB4判の紙で五十枚以上の文章」(!!) があるというし、『正論』の記事に寄れば、向井氏の獄中手記は「B4サイズの紙に約四十枚」もあるといいます。 それらの資料を、人の手が加わっていない状態で、よんでみたいなぁ・・とか思うのですが…。 向井少尉の獄中手記なんて『南京大虐殺のまぼろし』のときからその存在が知られていますけれど、手記の一部が引用されたり、『正論』に掲載されることはあっても、いまだその全文を読んだ事がないですし。 引用されていない部分に何が書かれているのか、非常に気になるのですが。
ン十年前とは違って、現在はインターネットというものがあるわけですし。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
そういえば今回の訴訟にしても、訴状その他をちっとも公開していませんね・・・・ |
│└Re:遺書や日記など 渡辺 2003/10/23 15:31:30 ツリーへ
Re: ゆうさん、こんばんは。資料をありがとうご...
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/10/23 15:31:30 |
Re:遺書や日記など
KOILさん:> ----- この論争で個人的に不満に思うのは、向井氏側が様々な資料を持っているハズなのに >ちっともそれを公開しようとしない事だったりします。 たとえば、産経新聞のこの記事http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/630.htmlでは「野田少尉が獄中で書き残した遺書や日記などB4判の紙で五十枚以上の文章」(!!) があるというし、『正論』の記事に寄れば、向井氏の獄中手記は「B4サイズの紙に約四十枚」もあるといいます。 それらの資料を、人の手が加わっていない状態で、よんでみたいなぁ・・とか思うのですが…。 -----
これは、巣鴨遺書編纂会『世紀の遺書』(昭和59年、講談社)に掲載されている「遺書(日記)」のことじゃないでしょうか。
野田 毅 pp.1-4 向井敏明 pp.40-42 谷 寿夫 pp.50-51 田中軍吉 pp.82-83
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│ └向井少尉の手記について KOIL@冷や汗 2003/11/11 21:31:00 (修正1回) ツリーへ
Re: Re:遺書や日記など
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http://alpha01.manekineko.ne.jp/s32311/index2.html
<yyiivymypb> 2003/11/11 21:31:00 **
この記事は1回修正されてます |
向井少尉の手記について
KOIL>この論争で個人的に不満に思うのは、向井氏側が様々な資料を持っているハズなのに KOIL>ちっともそれを公開しようとしない事だったりします。 KOIL>があるというし、『正論』の記事に寄れば、向井氏の獄中手記は「B4サイズの紙に約四十枚」もあるといいます。 KOIL>それらの資料を、人の手が加わっていない状態で、よんでみたいなぁ・・とか思うのですが…。
渡辺さん>これは、巣鴨遺書編纂会『世紀の遺書』(昭和59年、講談社)に掲載されている「遺書(日記)」のこと
じゃないでしょうか。
もし渡辺さんのいうとおりだったら、とんだ投稿をしたんだなぁ・・と思いつつ国会図書館に『世紀の遺書』の該当ページを請求しました。
『南京大虐殺のまぼろし』にはp59、p68、p75、P83、p92の5ヶ所に向井氏の遺書ないし手記が掲載されています。(ページ数は文庫版)
『世紀の遺書』『正論 2003年3月』掲載の向井手記のどちらにも、 p68、p75、P83、p92に掲載されている手記に該当する部分がありませんでした。
---- 「寝る前に、千重子! と呼んで、何となく恥しい気持がす る。寝苦しくて仕方がない。家恋しさが、頭から離れない。 千重子の顔がちらついて恋しい。呼んでみる。次の部屋から 飛んで来るやうな気がする。無心なる子等が笑って近く映つ て来る。心の中で抱き上げてやる。正義は誕生日を過ぎて大 きくなつたらう―――」 (向井少尉の獄中の手記より) ----『「南京大虐殺」のまぼろし』/鈴木明/文春文庫 p68
---- 「母上様 永ク生キテ下サイ 祈リマス護リマス オ母サン ト呼ブタビニ オ姿ガ浮ンデキマス 孫タチノタメニ一日モ 早ク元気ニナツテヤツテ下サイ 母ガ泣キ悲メバ私ガ苦シイ デス 子供タチヲ仲ヨクサセテ下サイ ヒガマセナイデ下サ イ 君ガ代ヲ歌ツテ逝キ今ヨリ帰リマス 可愛ガッテ下サイ 我ガ子ガ帰ツタト抱イテ下サイ 必ズ幸福ガクルト信ジテ下 サイ 天皇陛下万歳! 再建日本万歳! 生存中御世話ニナ ッタ各位ニ宜シク」 (向井少尉の母宛の遺書より) ----『「南京大虐殺」のまぼろし』/鈴木明/文春文庫 p75
--- 我等三人とも 死を宣告されたと思へない呑気さで困つた ものです 先月の初めの頃は 如何にして死と云うものに対 して覚悟すればよいか苦しみましたが 念仏中に目裏に仏光 を感じ死をさとりました 私は貴方まかせの死ではなく 天 命により自ら神仏に召され死するもので 死を以て神仏の近 影に接する事の最上の喜びを知り落付いてきました (向井敏明の遺書より) ---『「南京大虐殺」のまぼろし』/鈴木明/文春文庫 p83
--- 自分は一体、何のために殺されるのか解らなくなつてきた。 生来誰一人手をかけた事もないのに、殺人罪とは。自分を殺 す奴こそ殺人罪ではないのか。余りにも呑気に南京迄も来た ものだ。馬鹿さかげんにあきれる。信じてゐたのが悪かつた がこれも馬鹿のいふことだ。天の命ずるまゝに死を知らずし て死ぬるを宜とするか、知つて反省し足らざるを悩みつつ死 するを可とするか、なやむ。 (向井敏明の手記より) ---『「南京大虐殺」のまぼろし』/鈴木明/文春文庫 p92
『正論 2003年3月』掲載の向井手記には、p59に掲載されている手記と似た部分があるのですが…… 微妙に表現が違いますし、書かれた(もしくは、書かれたと推定されている)期日も違います。
-----
「一、新聞記事ハ創作ナリ 嘗テ南京ニ来タルコトナ シ 一、日本人ハ嘘ヲ言ハナイ 一、日本ノ戦闘ハ神聖 ナリ
我等堂々ト闘ヘリ 一、日華平和ノ為ニ一命笑ッテ 捧グルモノナリ 以上ノ五条ヲ 繰リ返シ唱フ」
(昭和二十二年十二月、向井少尉の獄中の手記より) -----鈴木明 『南京大虐殺のまぼろし』 文春文庫 p59
----- 一、記事創作なり一、南京に来た事なし 一、日本人は嘘を言はない一、日本の戦
闘は神聖なり、我等は清く戦へリ一、日 華平和の為には一命笑って捧ぐるものな りの五條を唱ふ。 (中略)
(期日不明、昭和二十三年正月か) -----『正論』00.3 p70
ちなみに、私の知る限り・向井敏明の手記・ないし遺書は以下の文献に収録されています。
1)鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』/文春文庫 2)巣鴨遺書編纂会『世紀の遺書』/講談社 3)向井千恵子『無実だ!父の叫びが聞こえる』/『正論』00.3
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│ └そうか、『世紀の遺書』は抜粋ね 渡辺 2003/11/13 00:52:49 (修正1回) ツリーへ
Re: 向井少尉の手記について
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/11/13 00:52:49 ** この記事は1回修正されてます |
そうか、『世紀の遺書』は抜粋ね
『世紀の遺書』p.42
に「日記の中より」とあるのは、日記の一部を抜粋したという意味なんですね。だから、未公開のものがあるわけか。
ところで、ご指定の『正論 2003年3月』に該当記事を見つけることができなかたったのですが、2000年のものでしょうか?
>『正論 2003年3月』掲載の向井手記には、p59に掲載されている手記と似た部分があるのですが微妙に表現が違いますし、...
鈴木明氏の引用には問題があることが、洞氏によって指摘されています。 この件は、洞『「まぼろし」化工作批判 南京大虐殺』(現代史出版会,1975年)pp.9.58-62
あたりをご覧ください。 『新「南京大虐殺のまぼろし」』でも、かなりいいかげんです。これは、引用文の入手の仕方にも問題があるようです。つまり、きちんと原文を確認したり、コピーをしていない、手で写すときに正確さを欠くなどの問題があります。
--
参考 -- 『鈴木明氏の資料引用の問題点:ティンパーリーの死亡記事の場合』(2002/11/02 問答有用板投稿) http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=15980&range=1
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│ └ところで、ご指定の『正論2003年3月』に該当... KOIL@冷や汗 2003/11/14 00:36:37 ツリーへ
├不思議です! 熊猫 2003/10/23 03:02:22 ツリーへ
Re: 週刊新潮「百人斬り」の記事
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熊猫 <dhcvsuquwp>
2003/10/23 03:02:22 |
不思議です! 日中戦争関係の本を含め、一生懸命読んでいるのですが、ここの掲示板の皆さんの資料の豊富さには、頭が下がります。ドラえもんのポケットみたいに、次から次へと資料が出てきますねぇ(驚)。否定本も主なものは入手したんですけど、南京の本だけではものたりなくて、関連していそうなものは読むようにしています。毎週、古本屋巡りをするのが生活パターンに組み込まれてしまいました(笑)。 古い雑誌の記事なんかどうやって、入手しているんですか? |
│└資料の捜し方 ゆう 2003/10/23 20:33:51 ツリーへ
Re: 不思議です!
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ゆう <pmyqfxtjon>
2003/10/23 20:33:51 |
資料の捜し方
私の場合は、実に単純です。 本やネットで紹介されている「資料」は片っ端からメモに残しておく。 そして、「ネット古書店」で検索したり、図書館で調べたりで、現物に当たる。
たいていの方が「一部引用」しかしていませんので、この方法ですと、思いがけずも面白い文に出会える確率が高いです。
ちなみに最近では、「証言による南京戦史」に掲載されている「住谷盤根氏証言」を元の雑誌「東郷」に当たってみたら、かなりいろいろな「省略」があることを発見してしまいました。
(なお、文の一部を私のページにも引用しましたが、この部分は原文通りでした)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/tamesigiri.html
まあ、冗長な部分、「事件」と直接に関係ない部分をカットしただけですので、「偕行」編集部は原文をゆがめて紹介したわけではありませんが・・・。
あの真面目な「偕行」編集部ですらこの程度の「省略」はしてしまうのですから(あの記事を読んだ方は、「省略」があるとは想像もできないと思います)、紹介された資料は、原典に当たるまで絶対に信用しない、というのが私の主義です。
PS この手の質問は、私のようなど素人よりも、渡辺さんにお尋ねになった方が、はるかに面白いお答えが返ってくると思います。(^^) |
│ └Re:資料の捜し方 渡辺 2003/10/25 23:17:29 (修正2回) ツリーへ
Re: 資料の捜し方
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/10/25 23:17:29 ** この記事は2回修正されてます |
Re:資料の捜し方
>渡辺さんにお尋ねになった方が、はるかに面白いお答えが返ってくると思います。(^^)
いえ、いえ、ゆうさんこそ、結構、集めていますよ。 資料がないと、やはり、推測が多くなり、行き詰まってしまいますから、議論よりまず資料収集に努めています。 それから、資料の中に出てくる人物、組織、出来事など、その背景となる事実を知っておくのは大切なことです。このあたりが、専門家とアマチュアの分かれ目になってくるようです。
ゆうさんの投稿と重なりますが、今まで経験した資料集めの方法は下記のようなものです。資料の所在を知ることと入手は別の作業になることもありますが、ここでは一緒に書いておきます。
1)
先行研究を調べて、参考文献をリストアップする。(基本作業) 2)
その文献の内容から、ヒントとなるような別の資料の存在やヒントなる事柄を知る。(これは、極めて重要) 3)
自分で行ける図書館で、書名・著者・キーワードなどでオンライン検索して、これといった文献を探しまくる。図書館によっては、中国関係を得意分野とするところがある。ただし、丸秘(^^) 4)
資料館(archives)で、キーワード検索する。(デジタル画像の無料サービス、有料コピーサービスをしてくれる資料館があります。) 5)
オンライン書店・古書店で、それらしい文献がないか検索しまくる。 6) 古書店を巡ったり、古書祭りのような催しをのぞいてみる。 7)
オンライン・オークションでアラート機能を使って、特定のキーワードの商品が出品されたら通知されるようにしておく。 8)
事件などに関係がありそうな文献を、題名、著者、組織をキーワードに 3)〜 5)、7) の方法で調べてみる。 9)
当時の新聞、特に雑誌が閲覧できる図書館を見つけたら、ときどき行って、順にくまなくチェックする。(新聞については、『支那事変実記』が時系列データーとしてインデックス代わりに便利。) 10)
人脈を作って、情報交換・資料交換をする。同じテーマでなくても関連があればよい。 11)
あとは、生き証人や親族を探して、手紙などが残っていないか聞いてみるというのもありますが、日本ではなかなか難しいみたいです。海外では、高齢の人がインターネットをやっていますので、生前のTimperley
を知っている二人の方とメールし、資料も送っていただきました。それから、Timperleyが晩年にかかわったクエーカーに問い合わせたときは、即日、回答があって驚きました。個人といい団体といい、資料の保存と整理の良さ、それに公開性は、欧米のほうが格段に優れているようです。 12)
どうしても入手できない資料は、あてもなく、じっと機会を待つ。または、あきらめる。
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│ └ゆうさん、渡辺さん有難うございます。 熊猫 2003/10/26 03:44:30 ツリーへ
Re: Re:資料の捜し方
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熊猫 <dhcvsuquwp>
2003/10/26 03:44:30 |
ゆうさん、渡辺さん有難うございます。 >11)
あとは、生き証人や親族を探して・・・日本ではなかなか難しいみたいです。
実は、私の会社の同僚が福岡県内の証言を集めて「原爆被害者証言集」を出版しており、今年で第9巻目の本を出版しました。同様に戦争経験の証言を集めようとしましたが、「楽しい思いではない」「思い出したくない」との声が強く証言が集まらず断念してしまいました。過去の傷には触れないようにするのが、日本人の文化なのかも知れませんね。 以前も投稿しましたが、私の母が子供のとき、福岡県田川市で纏足の中国人女性を見たと言ってましたので、戦時中に中国人女性が何故、日本にいたのか調べました。・・・中国人の強制連行があったんですね。謎が解けると同時に、あらためて戦争の悲惨さを実感してしまいました。
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│ └Re:過去の傷には触れない日本の「文化」 渡辺 2003/10/26 18:35:03 (修正1回) ツリーへ
Re: ゆうさん、渡辺さん有難うございます。
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/10/26 18:35:03 ** この記事は1回修正されてます |
Re:過去の傷には触れない日本の「文化」
熊猫さん、 レス、ありがとうございます。
>戦争経験の証言を集めようとしましたが、「楽しい思いではない」「思い出したくない」との声が強く証言が集まらず断念してしまいました。過去の傷には触れないようにするのが、日本人の文化なのかも知れませんね。
海外では、事件や事故の当事者、それも加害者やその家族までもがインタビューに答えて証言するというTV番組があります。個人差はあるでしょうが、日本では、そういう番組を制作するのは難しいでしょうね。 日本だけではなく、アジア、特に東アジアには過去の傷を語らない傾向があるように思います。これは、村社会・血族社会の人間関係とか、儒教的な価値観の影響、過去の出来事対する見方の違いなどが背景にあるんでしょうね。
>以前も投稿しましたが、私の母が子供のとき、...
こちらは、親戚に満鉄の職員がいまして、子供の頃に、満州での体験談、特にソ連軍や馬賊に追われた日々の苦労話しを聞きました。 人は殺されるときに、どの国の人でも、お母さんを呼ぶのだとういうことで、「マーマ、マーマ」と叫んだり、斬首された瞬間に肌が真っ白になるという話など強烈に記憶しています。 敗戦のとき、中国の南のほうでは日本軍が残虐行為をやったが、満州では現地の人と友好関係にあったので、満州は大丈夫、南のほうは復讐で大変なことになると思っていたそうです。ところが、蒋介石の演説で中国は比較的平穏だったのに、満州ではソ連軍が入ってきて大変なことになり「国家がゼロになる」ということがどういうことかが分かったということでした。 当時は、満鉄といえば、ただの鉄道会社だと思っていました。かなり情報を収集していたと思いますので、元気なときに聞いておけばよかったと思います。
>・・・中国人の強制連行があったんですね。
知り合いの無線機器の店主は、戦争中は国鉄職員で、自作の受信機で、隠れて米国の対日放送を聞いて空襲の日時を知っていたという変わった体験の持ち主でした。 娘が「つくる会」の歴史教科書を見て、「父さん、日本は何も悪いことしてないじゃないの」と言ったとのことでありました。その店主は、「私は、朝鮮人が手を縛られて、飛行場の建設現場へ連れていかれるところを見ているんだから、戦前はひどいことをしたんだから」と憤慨していました。その人によれば、強制連行された人の一部がが住み付いて、戦後に紡績などの仕事を始めたとのことでした。在日韓国人で、そういう歴史をハングルで書いた人がいるとのことでしたので、機会があったら調べてみたいと思います。 また、その人によれば、「支那事変」の1,2年目に、帰国した兵が小学校に来て体験談を話していったそうですが、最初の頃は、平気で残虐行為を子供に語っていったそうです。話の内容から、その人の聞いたのは「北支」での体験談ようです。 その人の体験談を録音させていただく了解を得たのですが、その後、しばらくして急にお亡くなりになってしまいました。 過去の記憶が、こうして忘れ去られて行くのかという感慨と共に、記憶を記録する機会があったにもかかわらず、その機会を逸した責任を感じました。
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├↓これもぜひ紹介して下さい ja2047 2003/10/23 06:42:23 (修正1回) ツリーへ
Re: 週刊新潮「百人斬り」の記事
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ja2047 <zguiletmbk>
2003/10/23 06:42:23 ** この記事は1回修正されてます |
↓これもぜひ紹介して下さい
>以上、実は「思考錯誤」板向けに準備していたネタなのですが、kuuboakagi00さんの投稿に反応して、ついこちらに使ってしまいました(^^;
yahooのトピなんて、いつ消えてしまうか分からないんだから、こちらにも残して置かなくちゃ (^o^
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│└大宅壮一氏と西条八十氏 ゆう 2003/10/23 20:09:12 (修正1回) ツリーへ
Re: ↓これもぜひ紹介して下さい
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ゆう <pmyqfxtjon>
2003/10/23 20:09:12 ** この記事は1回修正されてます |
大宅壮一氏と西条八十氏
では、お言葉に甘えて・・・。
まず、田中正明氏の文の引用から始めましょう。
>この狭い地域に腕ききの新聞・雑誌・ラジオ・映画等のカメラマンや従軍記者一ニ○名が取材に当ったのである。・・・また大宅壮一、木村毅、西条八十といった高名な文筆家も入城していた。・・・これだけの血なまぐさい大惨劇が連日行われたというのに、一ニ○人もの従軍記者や特派員カメラマンのだれ一人として目撃した者もおらず、噂すら聞いた者もいないということは、いったいどう解釈したらいいのか。 (「南京虐殺の虚構」P241〜P242)
木村氏まで調べきれませんでしたが、このうち大宅氏と西条氏がどのようなものを書き残しているのか、以下、見ていくことにしましょう。
まず、大宅壮一氏です。宇都宮徳馬氏との対談より。
***********************************
「大宅壮一人物料理教室」より「アジアをかける自民党の一匹狼」(「週刊文春」1965年)
大宅 中国でも、軍の方針が割れたわけですね。袁世凱や蒋介石を援助したり・・・。
宇都宮 山県たちは清朝とか、袁世凱とか、つまり、現状維持派を助けましたね。いっぽうでは、新しい勢力を支持する意見もあったらしいんです。わたし、ずっとあとになって、本荘繁太郎大将から聞きました。「南方派と呼ばれていたんだ。きみの親爺、わたし、松井石根などがそれをやっていた」・・・。
大宅 松井大将は気の毒でしたね。絞首刑になって・・・。南方派は少なかったのに、惜しいです。
宇都宮 松井家とは、家族的につき合っていたんです。あのあと、奥さんと電車のなかで会いましてね。「わたしゃ、共産党になりたい」・・・怒っていましたよ。南京虐殺の責任者にされたんだが、事件のとき、松井さんは嘆いたそうですね。日本軍の軍紀が、こんなに乱れたのははじめてだ・・・。あれは柳川平助中将が・・・。
大宅 あの人は上陸と同時に、演説をブッたそうですね。「山川草木、全部、敵なり」。ひどい非常手段で進んできたんです。ボクら、南京に入るときにあの兵団と会いましたよ。
宇都宮 日本の陸軍にも、変なご都合主義ができちゃったんですね。わたし、戦争中、荒木貞夫大将に会いました。こういうんですよ。横浜を通っていたら、捕虜のヒツギを運んでいるのにゆきあったそうでしてね。それが箱のまま、むき出しだった。「むかしの陸軍なら、黒い布をかぶせて、花の一輪でもそえたものだが」・・・。
*「ゆう」注 「週刊文春」の何月何日号だったか、記録するのを忘れてしまいました。どなたか、ご存知ありませんか? (^^;
***********************************
大宅氏は、「柳川兵団」が「ひどい非常手段で進んできた」と認識していました。
さらに、氏の1966年の中国訪問記からです。
***********************************
「サンデー毎日臨時増刊 大宅考察組の中共報告」(1966.10.20)より
四旧追放と孫文ゆかりの地 9月15日 南京
小谷 南京は大宅さんにとって思い出の土地ですが、まず大宅さんから南京がどのように変わったか、戦前と対比しながらうかがっていきたいと思います。
大宅 ぼくは南京攻略のとき上海からずっと軍について南京にはいったわけだけどね、一番乗りは光華門で、ぼくらは二番手で中山門からはいったんだが、その中山門に土のうを積み込んではいれない。それを遠くから日本軍が土のうをくずすために大砲をどんどん撃ち込むんですね、日本の大砲は正確ですね、真ん中に穴をあけて、そこを突撃するわけですね、当時はですね、南京を占領すればですね、あの日華事変は終わるもんだというふうな考え方が一般的で、兵隊もそう考えて張り切っていた。張り切ったあまり、相当悪いことをしたもんでね。非常に思い出の深い土地だね。
(中略)
大森 ハルピンからきてるのもいたなあ。ぼくも紅衛兵といっしょに、あの中山陵の何百段の階段を登ったんだけれども、途中でお前はどこからきたんだというと、一人の大学生は「北京」、私が「東京」といったら、ちょっと顔色が変わりましたよ。 南京という土地柄を考えて、それから私もちょっとこわくなった。南京大虐殺という歴史に残っている事件を彼らも知っているでしょうしね。そういうこちらの罪悪感が非常に強く影響した気持がありましょうしね。
大宅 ちょうどね、われわれが南京にはいったときにね、たくさん殺した兵隊さんと、だいたい同じ年配の連中がわれわれの前を歩いている・・・。
***********************************
大宅氏は、日本の「兵隊」たちが「相当悪いことをした」と認識しています。また氏は、少なくとも、「南京大虐殺」という言葉に対して否定的反応はしていないようです。
次に、西条八十氏です。文芸春秋社の雑誌『話』昭和13年2月号に、「燦(さん)たり南京入城式」と題する一文を寄せています。
***********************************
燦たり南京入城式 西条八十
下関波止場に立ちて
僕等の乗った駆逐艦「H−」が南京の下関埠頭に着いたのは深夜だつた。朝九時になつてやつと上陸が許された。
夙く起きた連中は、対岸に盛な銃声を聞き、遠く炎々と火の手の揚るのを見たといつた。
想ふに、晴れの入城式を前にして、昨夜は一夜、街路の死体取片付や、残敵の掃蕩で、兵隊さんたち徹宵忙しかつたらしい。
(中略)
なんにしても、一刻も早く今日の式場へ行きたいので、艦に交渉して、やつと消防自動車へ乗せて行つて貰ふことにした。
乗り込むとなつたら、運転手の兵隊さん、どこからか薔薇の花模様のついた素晴らしく華麗なレースの布を持つて来て、ゴシゴシそこら拭掃除をはじめた。
「勿体ないですな、そんな布で」 「なあに蒋介石の賜り物ですよ」 兵隊さん、ニヤリと笑ふ。
このとき読売紙の村田東亜部長が、遅ればせに、社の自動車で僕を迎へに来てくれた。
だが、結局、氏も、消防組に加入することになつて、みんな横坐り、電線の燕よろしくの恰好で出発。
出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があつた。その中は、支那兵の死体の山。「そろそろ始まつたな」と思ふ。
入城式光景
(以下略)
***********************************
何しろ検閲厳しい昭和十三年の文章ですので、氏の文章の真意は、「行間を読む」しかありません。私は、「「そろそろ始まつたな」と思ふ」のあとに、かなりの文章が省略されているような気がしてなりません。
しかし、この出来事の日時、状況から考えて、「そろそろ始まつた」のは、「入城式」を前にした「第一次敗残兵狩りの処刑」のことだった、と解釈するのが最も自然だと思います。
以上、いずれの資料も、マイクロフィッシュまたはマイクロフィルムにしか残されておらず、該当箇所を捜し出すのに結構苦労しました(^^)
大宅氏も西条氏も、自分の体験談として明確に「南京虐殺」を語っているわけではありません。しかし、田中氏のように、「だれ一人として目撃した者もおらず、噂すら聞いた者もいない」とまで断言してしまうのは、ちょっと無理があると思われます。
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│ ├ああ、なるほど ja2047 2003/10/23 22:05:10 (修正1回) ツリーへ
Re: 大宅壮一氏と西条八十氏
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ja2047 <zguiletmbk>
2003/10/23 22:05:10 ** この記事は1回修正されてます |
ああ、なるほど ようやく納得が行きました。
「決定版 南京大虐殺」のP44〜46にある
「出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があった。その中は支那兵の死体の山。「そろそろ始まったな」と思ふ。 まっしぐらに走ってゆく、幅広い中山北路、ポプラの並木路、閲兵式に列する軍隊が続々行進して行く。」
という引用を読んで、「そろそろ始まったな、と思ったのは捕虜処分じゃなくて入場式の事じゃないの?」 と、思ったのですが、 会場への足が車であったのなら、納得ですね。 「そろそろ始まったな」と「まっしぐらに走っていく」とのつながりは、車で移動したなら、ぶつりと切れてしまいます。
私は、「タンホイザー」の歌合戦の場面の前場のように、遠くからファンファーレが聞こえてきて「あ、いけない、歌合戦が始まる」という光景を連想していたのです。(^^
そういえば、 「広い河筋、隅田川ぐらい濁っているが、浮いている死体など見えない。でも、膩(あぶら)らしいものがキラキラ一面に光っていて,見馴れない黒い水鳥が、艦近く、浮いたり沈んだりしている」 というのも不思議な表現ですね。
冷静に読めば、「浮いている死体など見えない」、 「誰も、そんなこと聞いとらんがな、なんでそんな話するのや ・・つまり、見えんけどあった、と言いたいわけやな?」と言いたくなります。
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│ └大宅壮一氏には以下の証言もあるようです。 指環 2003/10/24 09:03:38 ツリーへ
Re: 大宅壮一氏と西条八十氏
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指環 <jtydsgukon>
2003/10/24 09:03:38 |
大宅壮一氏には以下の証言もあるようです。
【引用開始】 入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。三十万とか、建物の三分の一とか、数字はちょっと信用できないけどね。まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分いえるね 【引用終了】 (1966年、現地南京での座談会で) 洞富雄「南京大虐殺の証明」朝日新聞社(1986年)、248ページより再引用
ただ、これの原文がどこに掲載されているのかが分かりません。 |
│ └いや、お恥ずかしい。 ゆう 2003/10/24 20:44:44 ツリーへ
Re: 大宅壮一氏には以下の証言もあるようです。
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ゆう <pmyqfxtjon>
2003/10/24 20:44:44 |
いや、お恥ずかしい。
紹介した「大宅・宇都宮対談」は、洞氏「決定版南京大虐殺」P159にそっくり掲載されていました。
「西条八十」の方も、同書のP44にあるようですし・・・。
まあ、「ネットで読めない資料を、原典に当たった上で紹介した」ということで、ご容赦下さい。(^^;
なお、ご指摘の文も、この「大宅考察組の中共報告」に入っているはずですね。図書館では見逃しました(^^;
何しろ、マイクロフィルムを読むのは大変です。週刊誌一冊まるまるの分量から該当箇所を捜し出すのは、至難の業です。前回は、とりあえず「南京訪問」の部分しかコピーしなかったので、残念なことをしました。 (1枚30円で、結構高いのです)
来月あたり、時間ができたら、もう一度チャレンジしてみます。「石川達三」氏の読売新聞の記事とあわせて、私のHPで紹介してみるのも面白いかもしれません。
*余談。おかげさまで、私のHPも、11か月目にしてようやく、まもなくヒット数10000を数えようとしています。
K−Kさんのページに及ぶべくもありませんが、掲示板も設けていない、内容もマニアックの極みのページとしては、まあまあの数字であると自負しております(^^)
記念の10000ヒットを踏むのは、どなたでしょうか? 自分で踏んだら、ちょっと虚しい・・・(笑)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/
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│ └宋美齢さん死去 ゆう 2003/10/24 21:31:38 ツリーへ
│ └他にも106歳という説と、103歳という... 熊猫 2003/10/25 20:27:50 ツリーへ
│ └1897年生まれ 渡辺 2003/10/27 15:22:28 ツリーへ
Re: 他にも106歳という説と、103歳という...
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/10/27 15:22:28 |
1897年生まれ
伊藤純/伊藤真『宗姉妹』(角川文庫、平成13年)によりますと、1897年生まれとのことですから、105歳くらいじゃないでしょうか。 同書によりますと、1998年3月「宋美齢はアメリカ・ニューヨークで百歳の誕生日を迎えたという」となっています。(p.216) 人名辞典を見れば生年月日については解決すると思いますので、今度、図書館へ行ったとき、調べておきましょう。
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│ └1897年説が最も有力なようですが以下コ... 熊猫 2003/10/28 00:08:26 ツリーへ
Re: 1897年生まれ
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熊猫 <dhcvsuquwp>
2003/10/28 00:08:26 |
1897年説が最も有力なようですが 以下コピペ 【台北=若山樹一郎】台湾の故蒋介石総統夫人の宋美齢氏が米東部時間23日夜(日本時間24日朝)、ニューヨークの自宅で死去した。106歳だったとされるが、生年については、1898年や1901年など異説がある。
孫文に革命資金を援助した実業家、宋耀如(別名・宋嘉樹)の三女として上海で生まれた。米国で大学教育を受け、27年に中国国民党の指導者、蒋介石と結婚。36年の西安事件では、張学良(2001年10月死去)に捕らえられた蒋介石解放に尽力した。第2次大戦中には、ルーズベルト米大統領に日本の中国侵略を“告発”したり、米国内で日本軍国主義批判の講演活動を行った。43年、対日処理方針を定めたカイロ会談でも蒋介石に同行した。 ---------------------------------------------------------- 昨年105歳の誕生日を祝っていますから・・・ 結構、謎のある方ですね。 |
│ ├Re:あらら(^^; 渡辺 2003/10/28 14:09:49 ツリーへ
Re: 1897年説が最も有力なようですが以下コ...
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/10/28 14:09:49 |
Re:あらら(^^;
『近代中国人名辞典』((財)霞山会、1995年)によると、宋美齢の出生年月日は1901年3月14日となっていますね。なるほど。 『中国人名辞典』(日外アソシエーツ、1993年)では、1901年3月27日と、... なかなか(^^;
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│ └誕生日もまちまちのようで・・・・・ KOIL 2003/10/29 00:58:07 ツリーへ
├百人斬りの論点は次のように整理される。 タラリ 2003/10/26 20:55:43 ツリーへ
Re: 週刊新潮「百人斬り」の記事
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タラリ <vgezpxzsqe>
2003/10/26 20:55:43 |
百人斬りの論点は次のように整理される。
否定派「白兵戦においての百人斬りなど不可能。また物理的にも不可能」「両少尉の冗談話、ホラ話を(それと知りながら)浅海記者らが適当なストーリーを付加して書いた『創作記事』である」
肯定派「白兵戦においての百人斬りが不可能であるのは当然の話。当時、百人斬りと伝えられるような行為が、実は据え物斬りであった」「浅海記者らの報道は「創作記事」ではなく、向井、野田少尉の自発的な競争と、自発的な申告を記事にしたものであり、据え物斬りは事実」
「百人斬り」の根底資料となるものの数は比較的少数にすぎない。にもかかわらず、論争が論争を呼ぶ展開を続けてきた。今回、訴訟が提起されたが、根底資料は今までの論争で出尽くしたものしかない。過去の論争以後新たに出てきた資料は野田元少尉の「回想メモ」しかない。
このメモは自らの無罪を主張するために事件の約10年後になって獄中でかかれた回想である。したがって、回想内容を支持する別の資料がないと直接の反証材料とはならない。 そこで、論点に帰ると、すでに本多氏と鈴木明、山本七平らの論争の結果によって、「創作記事である」、「冗談話」であるという主張は破産している。この破産は『対抗言論』サイトにおける高橋亨さんと否定派の論争によっても再度確認できる。
しかし、否定派は飽きもせず、まったく同じ主張を繰り返してくる。数だけ見るとウェブ上では否定派サイトが乱立しているのに対し、肯定派のサイトは少ない。少数であってもきちんとした反撃をしなくてはならない。
否定派は両少尉の証言ないしそれを支持する証言と記者たちや、志々目証言などを並列・同等に並べてどちらをとるかという問題だという低次元の主張を繰り返している。もうひとつ、否定派というのはおしなべて当時の大状況の認識というものが欠如している。それが、今日における日本刀や日本刀を用いての戦闘や斬首に対しての感覚からただちに「白兵戦不可能」「百人は斬れない」などのプリミティブな主張に短絡して行く原因であろう。
そこで、私の主張としては 当時、日本刀による斬首が日本軍人として武功、武威を示す誇らしい行動様式として認知され、総てではなくとも大半の将兵と、そして一般国民にとっても日本刀を振りかざしての突撃が武勲を示す行為として認知されて行った経過というものを示す必要があるのではないか。
吉田裕氏の近著「日本の軍隊」においては、1928年頃よりまっとうな作戦・用兵思想が衰退し、精神主義が強調されるようになり、1934年に軍刀が従来のサーベル式から鎌倉末期の太刀型に変わったことを指摘している。(pp184)戦力的にはまったく無意味な日本刀に対して過度の思い入れが生じてきた経過を鮮明にしていくことが非常に重要である。
それによって「そのような行為は称揚され、将兵のあこがれであり、新聞記者たちが争ってその行為を報道するような性質のことであった」ことの理解をしやすく出来るのではないか、と思う。
また、実際に日本刀による斬首、日本刀を用いての白兵戦−「斬り込み」という事例が特に新聞報道とどのようにタイアップしながら拡大していったかを明らかにする必要がある。有意な立論を行うためには、時系列を設定して、ある程度多数の量を収集して示す必要があります。
◇ ◇ ◇
次の文章は『写真記録 日本の侵略:中国朝鮮』 ほるぷ出版1983年 解説黒羽清孝・梶村秀樹からの孫引きです。一読して百人斬りの報道との共通点が多いことに気づかれます。当時の新聞には同様の記事が各社競って掲載されたでしょう。
−東京朝日新聞 1937年8月22日号− 支那兵廿名西瓜斬り 上海陣の”宮本武蔵”
【上海にて高橋特派員二十一日発】 我が東部右翼最前線柴田部隊は十九日午後から二十日払暁にかけて我に十数倍する敵軍と猛烈な戦闘を続けてこれを撃退したが十九日夕刻の戦闘において的の正規兵、便衣隊の中に斬り込み血しぶきを浴びて敵の頸を四つ刎ね又十六名をなぎ倒した二勇士の奮戦ぶりが陣中の話題になっている。【写真は讃井(上)迎の両勇士==大■■発】 <■■つぶれて判読できず> 柴田部隊の讃井、迎両兵曹長がそれぞれ二手に分かれ部下数名づつ引率して敵最前線に近づくと、突如空家と思われた民家の蔭から数十名の便衣隊が次々にピストルを持って発砲してきた。その中に数名の正規兵も混って発砲している。「何を小癪な」とばかり両平荘町は部下を指揮して猛襲する。勇敢無比の我が兵士は片っ端から敵兵を引捕まえてくる。両兵曹長は勇敢にも敵中に躍り込んで日本刀を抜き放って斬って斬って斬りまくる。斯くて讃井兵曹長は敵の頭を四つ刎ね、迎兵曹長は斬りも斬ったり十六人をなぎ倒した、二十一日朝柴田部隊を尋ねるとちょうど讃井、迎両兵曹長が最前線出動の前を仲良く並んで一休みしている所だ。両兵曹長は鞘を払って見せてくれた。氷のような日本刀にはまだ生々しい血がついている。両兵曹長の持物も無銘であるが相当の業物だ。十六名を斬ったというのに一カ所の刃こぼれもない。 支那兵なんてまるで大根か蕪のようなものさ、いくら斬ったってちっとも手応えがない、この調子だと戦が済むまで百人以上は楽に斬って見せるぞ。 両兵曹長は豪快に笑い立ち上がって再び前線に向かった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
表面的には勇壮な白兵戦ですが、「敵兵を引捕まえてくる」という戦況ですから、五分の白兵戦でないことは明らかです。また、白兵戦において「敵の頭を刎ねる」ということなど不可能なことは言うまでもないでしょう。下士官が日本刀をふるったことを誇る気持ちとそれを称揚する報道行動が相い携えて「百人斬り競争」への道を準備したであろうことは想像にかたくありません。
資料の収集や新発見ということはゆうさん、渡辺さんにとても及びませんが、当時の新聞からこのような記事を拾って来るぐらいなら、私にも多少できるかな、と思います。 |
└阿羅健一「名誉回復のその日まで」『正論』... 渡辺 2003/11/13 01:39:39 ツリーへ
Re: 週刊新潮「百人斬り」の記事
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/11/13 01:39:39 |
阿羅健一「名誉回復のその日まで」『正論』2003年12月号
という、「野田少尉」についての記事が、『正論』2003年12月号、pp.148-154
に掲載されています。 どこがどう「創作記事」だったのかはよく分かりませんでしたが、住民運動で「名誉」を回復するつもりだということは分かりました。 「創作記事」について、もっと具体的な論証を期待していましたので、残念でした。
さて、小学校での講演について、気になった部分があったので紹介いたします。
---- 本当に野田少尉はこのように話したのだろうか。私には疑問に思える最大の理由は、百人斬りについてかくも饒舌に語った野田少尉をほかに見つけることができないからだ。... 疑問に思うふたつめの理由は、帝国陸軍の将校が、卑劣でもあり、不可能でもあるそのようなことを話すことはありえないからだ。... [『正論』2003年12月号,p.152] -----
「百人斬りについては寡黙だった」と決め付けて、だから講演で「饒舌」に話すはずはないというのでは、何の根拠にもなりません。そんな憶測で、歴史の事実が分かるなら、私は苦労しません...
「帝国陸軍の将校が、・・・話すはずはない」など何を根拠にしているのだろうか? 私自身も下記に投稿したような、「支那事変」当時の小学校での残虐行為に関する講演を聞いた人を知っています。もっとも、講演したのは「将校」ではないかもしれませんけどね。 http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/roxqrf/ykdqrf.html#ykdqrf この件は、きちんとテープにとって反訳し、記録にしておくべきだったと、後悔しています。
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