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  田岡良一氏の「戦数論」について−1 靴屋 2003/10/23 16:45:27 
  田岡良一氏の「戦数論」について−2 靴屋 2003/10/23 16:46:14 
  田岡良一氏の「戦数論」について−3 靴屋 2003/10/23 16:46:53 
  田岡良一氏の「戦数論」について−4 靴屋 2003/10/23 16:47:30 
  田岡良一氏の「戦数論」について−5 靴屋 2003/10/23 16:48:12 
  田岡良一氏の「戦数論」について−6 靴屋 2003/10/23 16:48:45 
  田岡良一氏の「戦数論」について−7 靴屋 2003/10/23 16:49:18 
  田岡良一氏の「戦数論」について−8 靴屋 2003/10/23 16:49:53  (修正1回)
   └靴屋さん、こんにちは。 K−K 2003/10/25 21:48:06 

  田岡良一氏の「戦数論」について−1 靴屋 2003/10/23 16:45:27  ツリーへ

田岡良一氏の「戦数論」について−1 返事を書く ノートメニュー
靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:45:27
田岡良一氏の「戦数論」について−1

○概要
 本稿は、戦中〜戦後にかけて戦時国際法の大家でもあった田岡良一氏によって1944年に著した『戦争法の基本問題』(岩波書店)で論じられた「戦数論」について私見を述べるものである(但し、この所論は既に昭和十六年の「國際法外交難誌四十巻一號」に掲載されたものだそうである。なお、戦後の法学大全集の中の『国際法3』(有斐閣)で氏が論じた「戦数」もこれと内容的にはほとんど同じである。ただ、ここで取り上げる「戦数論」の方が肯定論・反対論等の諸説の解説が詳細である)。

 この「戦数論」では、所謂「戦数(クレーグスレーゾン:Kriegsraison)」についての当時までの諸外国の国際法学者達による論争の内容と田岡氏自身の見解が述べられている。田岡氏のこの所論は1〜8までの項として分けられており、この項番号にタイトルが振られているわけではないが、敢えてタイトル付けを行うとその内容は以下の通りである。

1 戦数の語義
2 戦数肯定論
3 戦数反対論
4 中間説
5 中間説の誤り
6 戦数肯定論の誤り
7 戦数否定論の誤り
8 著者(田岡氏)の見解

 このように比較的まとまりよく述べられている。しかし、この内容に見られるように、肯定論でも反対論でも、或いはその中間説でも誤りがあるというのは興味深い所である。
 それでは田岡氏の所論を項目番号に沿って見ていこう。

※引用箇所について
(1)本来論文の最後に註がまとめられていたが、ここでは参照しやすくする為に引用毎に示すこととした。
(2)引用文原文はOCRで読み取ったが、文字解析の都合上、旧字体や旧字体でないものが混在している。
(3)ドイツ語の発音記号であるウムラウトは<>で示すこととした。
(4)傍点等の強調は《》で示すことにした。
(5)【】で示された箇所はそれ以降が原著の何頁目であるかを示す。

1 戦数の語義

−−−

 戦数は、独逸の學者が Kriegsraison(kriegsraeson 又はKriegsr<a>son)と名附ける所のものに我が國に於いて普通に與へられる譯語である。クリーグスレーゾンに於ける「レーゾン」はStaatsraisonに於ける「レーゾン」と同じく、緊急的(非常的)必要を意味するものの様である。從つてクリーグスレーゾンは又 Kriegsnotwendigkeit 及び militarische Notwendigkeit とも呼ばれる。近頃は寧ろ此の方が廣く用ひられる傾向を生じたやうである(一)。英佛に於いてクリーグスレーゾンの譯語としては la raison de guerre と言ふ言葉も用ひられないでは無いが、一般には la necessite de guerre, necessity of war が用ひられる。邦譯に於いても「戦時緊急必要」及び「戦時非常事由」等の譯語も用ひられるが、「戦数」が比較的廣く用ひられ、且つ簡箪であるから、本稿も之を採ることとした。
 戦数は戦争法規に優先し、交戦國は戦敷に由つて戦争法規の拘束から免れる、と言ふ説は、独逸に於いて、殊に世界大戦前廣く唱へられた。此の説は和蘭を通じて早くも維新前西周助氏の萬【100】國公法中に紹介昔られ(二)、之に賛成する者と反對する者とが對立して居る。此の論争に對して私見を陳べるのが小稿の目的である。


(一) Verdross, V<o>lkerrecht 一九三七年、二九二頁。Kunz, Kriegsrecht und Neutralit<a>tsrecht (一九三五年)二六頁。Vanselow, V<o>lkerrecht(一九三一牢)一七七頁等を参照。
(二)我が國最初の海外留學生として文久三年榎本武揚、津田眞一郎氏等と共に和蘭に派遺せられた西周助氏は慶応二年帰朝し、幕府開成所に於いて國際法を講じたが、英の議義の内容を覗ふべき同氏の著書「和蘭畢酒林氏萬國公法」−−畢酒林は和蘭ライデン大学致授 Vissering を指す−−の第三巻戦時泰西公法の條規の第二章「戦争の間遵守すべき條規」の章の始めに次の言葉がある。
「文明の諸國戦争の時相對して守るへき條規は三つに定まれり
 第一には 所謂本來の戦権
 第二には 戦習
 第三には 戦勢
 所謂本來の戦権は戦を交ふる両國相對するの権と義と又夫局外の國へ對する権と義とに在り。
 戦習とは戦を交ふる両國戦ふ時守るへき條規を指す也。
 戦勢とは尋常守るへき通規に違ふと雖も非常に臨み巳む可らさる勢に出る処置を名くる也」
 フィッセリン氏の議義の原文を見ずして断定することは出來ないが、此処に言ふ「戦勢」は、通常の法規に違ふと雖も非常に臨み止むを得ざるに出づる措置、と説明せられて居るのであるから、後の學者が戦時非常事由又は戦時緊急必要と譯する所と同一のものを指すことは、殆んど疑ひないと思ふ。
 明治十年に著はされた、海弗得[ヘフトル]氏萬國公法の邦譯では、右に該當する箇所、即ち原著の Eigentiches Kriegsrecht, Kriegsmanier, Kriegsr<a>son と題する箇所は、「戦数」「戦則」「戦略」と譯せられて居る。即ちクリーグスレーゾンは戦略となつて居る。
「戦数」譯語は何人に始まつたかを私は審かにしない。明治三八年発行の高橋作衛著「戦時國際法要論」に此の語は現はれて居る。緒論第三章の題は
 「戦数 Kriegsraison, raison de guerre, ratio belli, jus oder titulus necessitatis」
となつて居る。jus と titulus といふラテン語の間に oder と云ふ独逸語が挿まつて居るのは奇妙な感じがするが、ホルツェンドルフの國際法ハソドブーフ第四巻のリューダーの戦争法概説の中に Kriegsraison(raison de guerre, ratio belli oder, wie Grotius sagt, jus oder titulus necessitatis)
と云ふ言葉がある(二五四頁)。高橋博士の書の原語は此処に由來するもののやうである。
−−−

 ここで興味深いのは、註の解説で、クリーグスレーゾンを「戦数」としたのは、高橋作衛氏が最初ではないかと田岡氏が言いたげなことであるが、高橋作衛氏は「戦数」という語と同時に「戦争の必数」という言い方も『戦時國際法要論』の中でしており、これを短く「戦数」としたもののようである。但し、註の(2)で示されるように「戦数」という語自体はそれ以前から日本ではあったようである。

 ところで「戦数」とは何かというと、田岡氏はここで「戦数は戦争法規に優先し、交戦國は戦数に由つて戦争法規の拘束から免れる、と言ふ説」と簡単に述べている。ではどのような根拠により「戦争法規の拘束から免れる」のかは、始めて「戦数」を体系化したリューダー教授の説として次項に述べられる。

<次項に続く>

  田岡良一氏の「戦数論」について−2 靴屋 2003/10/23 16:46:14  ツリーへ

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靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:46:14
田岡良一氏の「戦数論」について−2

2 戦数肯定論
−−−


 De Visscher が戦数を論ずる其の著の中に言ふ様に(三)、戦数の学説を初めて真に體系的な形で述べたのは独逸の十九世紀の学者 Lueder であり、更に此の説は Christian Meurer 其の他の学者によつて精繊化せられたのである。故に先づリューダーの言を籍りて戦数学説を紹介しよう(四)。
 リューダーは戦数の語を、交戦者が戦争法の拘束から免れる場含を総て抱擁する廣い意味の言葉として用ひる。従つて敵が戦争法に違反して行動する爲に我軍も戦争法の拘束から免れて行動する場合と、戦略又は戦術上の非常的必要に基いて戦争法から離脱するの止むなき場合とを含む(二五四頁)。通常の用語に於いて前者は戦時復仇又は戦時報復と稱せられ、後者のみを戦数と呼ぶのであるが、リューダーは二つを戦数の語を以つて蔽ふのである。しかし前者については、「当【101】事者の一方の不履行は、彼をして相手方の履行を請求する権刹を失はしめる」と云ふ法原則の一つの現はれとして、自明の問題であるとして多くの説明を加へす(二五五頁)、後者の説明に移る。
 「同様に、戦数が緊急的事態の発生の際に、正當化されることも否定することは出來ない。個人の場含にすら緊急状態が彼の爲す重大な侵害行爲を不可罰のものとするならば、より多くの利益が賭せられて居る戦争に於いては、尚更左様でなくてはならない。故に戦争目的の達成及び重大危険からの回避が戦争法の障壁によつて妨げられ「戦争法の障壁を破ることによつてのみ戦争目的が達せられ、又重大危険が避けられ得るが如き事情の下に於いては、戦争法の障壁を破ることは許される。……勿論かゝる衝突(戦争上の必要と戦争法との)は甚だ例外的にのみ発生するであらう。何となれば戦争法の規則は、恒常行はれる慣習と善く衡量された條約とによつて、原則として遵守され得るやうに作られて居るからである。此等の規則は、通常発生する事実関係の上に打建てられて在ること、恰も國内公法及び私法と同じく、從つて同様に特別の例外的状態のみが遵守を不可能ならしめる。……故に戦数が頻繁に軽々しく勝手氣儘に適用せられ、実際上の使用について戦争法と同一線に立つが如く見なされることは、本來有り得ベからざることである。【102】只例外的にのみ起ることであり、從つて戦数を許すことは元より危険視さるべきことではない。併し一旦例外が発生した時其の例外たる性質に基き原則を排除して、戦数は戦争法に優先する。
 戦争法の恒常的有効性は、斯く単に例外的にのみ可能なる戦数の登場によつて保たれる。若し人あつて、戦数が非常の緊急且つ例外的に認めらるべく、且つ認められざるを得ないごとを理由として、「結局拘束力ある戦争法なるものなし、何となれば、戦争法は戦略的必要との衝突と言ふ正に重要な場面に於いて遵守さるることを要せざるものなればなり、故に戦争法なるもの無く、只(法的拘束力なき)戦争の習はし(Kriegsgebrauch)なるもの有るのみ」と稱するならば、其れは所謂的を超えて射るものであり、総ての法的制度及び総ての法規に内在する局限と言ふものを如らないものである。戦数の戦争法に對する関係は、緊急状態の刑法に對する関係に等しい。人は、右の議論と同程度の正しさを以つて、結局刑法なるものなし、何となれば其の規定は緊急状態の場合に遵守さるることを要せざればなり、と言ひ得るであらう。一が誤りならば他も亦誤りなることは明白となるであらう」(二五五-二五六頁)
 リューダーの説は多くの独逸学者によつて祖述せられたが、其の中モイラーの意見を左に紹介【103】したい(五)。
モイラーは Kriegsr<a>son oder milit<a>rische Notwendigkeit として「戦藪」と「軍事的必要」とをシノニムとして用ひる(八頁)。彼は、軍事的必要を(一)Gesetzespolitikと(二)Rechtsdogmatikとの両方面から研究する。
 (一)軍事的必要ば、戦争法関係の條約を作るに当つて、充分の顧慮を梯はれるごとを必要とする。條約は戦争の目的を達する爲に必要ならざる加害行爲を禁止するが如く作らるべきであり、共れ以上に亙つて(戦争の目的を達する爲の必要を阻害して迄も)交戦國の行動に制限を加へようとする條約は失敗に帰せねばならぬ(九-一二頁)。
 (二)若し実定法規が軍事的必要を阻害するが如く作られてある場含には、軍事的必要は、実定法の設ける障壁の前に停止することを要しない。リューダーの言ふが如く、戦数と戦争法との関係は、刑法上の緊急状態が刑法に對する関係と同一である。軍隊の生存の維持の爲に、又は他の方法によつては避け難き危険を回避する爲に必要な場合、又は其れ白身違法ならざる軍事行動を遂行し、又は其の成功を確保する爲に必要なる場含に執られる軍事的措置は、戦争法の侵犯と【104】ならない(一二-一五頁)。
 以上がモイラーの戦数について説くところの要旨である。尚ほ余談に亙るが、リューダー及びモイラーは、戦数によって優先さるべき通常の戦争法規を指す爲にKriegsmanierと云ふ言葉とKriegsrechtと言ふ語とを交互に用ひて居る。後に戦数否定諭者中に述ぶべきオッペンハイム等の学者がKriegsmanierとKriegsrechtとに異る意味を付與し、前者は法たらざる戦時の習はしを指すものであるとし、從つて独逸の法諺Kriegsraison geht vor Kriegsmanier は、戦数が「法たらざる慣行」に克つことを意味するのみであつて、戦争法規 Kriegsrecht を破ることを意味しない、と稱するのに鑑みて、右の事実は注意されねばならない。
 我が國に於いては、千賀鶴太郎博士の國際公法要義の中に、右のリューダーに類する一節を発見する(六)。
「交戦條規(Kriegsmanier)と相ひ對する者は即ち所謂戦時非常事由(Kriegsraison)是なり戦時非常事由とは非常の場含に際して交戦條規に背くことを許すをi云ふ而して斯る非常の場含に二種の別あり即ち【105】
 第一種は對手國に於いて先に交戦條規を犯したるに因り報仇として我よりも亦之を犯すことを云ふ報仇は戦時に於ては平時よりも一層之を利用すること多し時としては報仇を行はさるか爲に却て我軍の夫敗を來すとと無きに非す但し戦争中第三國の同惰を得んか爲めには成るへく報仇を行はさるを可とす就中無益の報仇は一切之を行ふへからす
 第二種は特別の事情あるか爲めに交戦條規に背きて我敗衂を防止する者を云ふ例へは城塞を攻むる爲めに已むを得す近傍の民家を焼き盡すとも可なり又俘虜の数非常に多くして遙に我兵員の上に出て且つ蜂起する虞ある時に悉く之を銃殺するとも可なり此種の場含に於て戦時非常事由は其性質たるや交戦中の緊急法に属す既に緊急法とあれは之を濫用することを許さす殊に第三國の同情を得んと欲する時は決して之を口実として容易に交戦條規を犯すへからす」
 又高橋作衛博士の戦時國際法要義は、戦数に関する独逸学者の説と、英國学者の反對説とを掲げ、自説としては
「余の見る所を以てすれば今日の実際に於て必数の原則は之を認むるを可とす」
と言はれる(七)。【106】


(三)De Visscher, Les lois de la guerre et la theorie de la ne'cessite' 佛國際公法雑誌一九一七年抜刷、二七頁。
(四)Holtzendorff, Handbuch des V<o>lkerrechts 第四巻、一八八九年、二五三頁以下。
(五)Christian Meurer, Die Haager Friedens-Konferenz 第二巻、七頁以下。
(六)千賀鶴太郎、國際公法要義、七版、四五六頁以下。
(七)高橋作衛、前掲(註二の終りに在り)、一一頁以下。
−−−

 注意しておかなければならないのは、リューダーなどが言う「戦数」の意味である。田岡氏によればリューダーは「戦数の語を、交戦者が戦争法の拘束から免れる場含を総て抱擁する廣い意味の言葉として用ひ」ているわけである。この「廣い意味」とは、一般に言われる戦数と復仇である。従ってリューダーは、戦争法上違法性のある行為についてその違法性が免責される場合を全て、戦数という枠組みで考えたのであろう。しかし、通常の場合、復仇は戦数と同列には論じられることはないし、ウェストレーキが指摘するように復仇と戦数は違法性を免責する論理的根拠が異なるので、特に含めて考える必要はないだろう。一般に復仇は、敵が違法行為を行うならば、同程度の違法行為を相手方にも認めるということを意味し、先に違法行為を行った敵側にその責任があるということである。この場合は違法性阻却と言うよりは、責任性阻却と言うべきかもしれない。

 さて、戦数の枠組みを正当化する理屈としてリューダーは、(1)戦数が適用となるのは例外の稀有な場合に限られ戦争法を否定するものではないこと、(2)むしろ戦数があることによって戦争法が恒常的有効性を保つ、という二点が述べられている。またモイラーはよりはっきり、戦争法(条約実定法として)は交戦国の行動を妨げるようなものであってはならず、軍事的必要を妨げるようなものならそんな実定法など守る必要はなくそのような場合は違法ではない、と言う。

 無論これらの前提には、「緊急性」が念頭に置かれていることは言うまでもない。なお、高橋作衛氏が『戦時国際法要論』の「戦規と戦数」で紹介するウェストレーキの所論では、「緊急性」のような必要すらもないのに戦規を守らないでも良いとさえ公言するようなフランスの将官もいたそうである。
<次項に続く>

  田岡良一氏の「戦数論」について−3 靴屋 2003/10/23 16:46:53  ツリーへ

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靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:46:53
田岡良一氏の「戦数論」について−3

3 戦数反対論
−−−
 三

 右の戦数の理論に對して反對論を詳しく述べた者の嚆矢は英國のウェストレーキであらうと思はれる。
 リューダーがホルツェンドルフの國際法ハンドブーフの第四巻に戦争法概論を書き、其の中に戦数の理論を説いた五年後に、ウェストレーキは「國際法の原理に関する数章」と題する書を著はし、其の中にリューダーの説を精密に譯出して、之に對する反對意見を述べた(八)。又同一の見解は、彼の國際法教科書の中にも、簡単ではあるが説かれて居る(九)。ウェストレーキの説は、我か國に於いて高橋博士の「戦時國際法要論」の中に比較的詳しく紹介されて居るから、此処に省くこととする(一〇)。
 オッペンハイムも亦戦敷の反對者として著名である(一一)。其の國際法教科書の第二巻戦時の部に、戦争法の起源を説くに当り、戦争法は始め usages, manners of warfare(戦時の慣行、戦争の習はし)として発生し、次第に慣習及び條約によつて法規となつたものである、と説き、【107】独逸語に言ふ Kriegsmanier も右の manners of warfare と同義語であるとする(六七齣)。次に、戦争法の拘束カを説くに当り、
「独逸の法諺 Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier は、戦争方法が未だ慣習法及び國際條約より成る戦争法規によつて規整せられずして、只戦争の習はし(Manier, Brauch)によつてのみ規整せられて居た時代に発生し、認められたものであり、其の言はんとする所は、戦時の必要は、戦争の習はしを破る、と言ふことである。然るに今日戦争方法は最早や習はしによつてのみ規整せられずして、大部分は法規によつて−−國際條約又は一般的慣習によつて承認せられたる確固たる規則によつて−−規整せられる。此等の條約及び慣習上の規則は、自己保存の必要ある場含に適用なきが如く作られて居るものを除き、必要によつて破られ得ない。故に例へば毒を施せる武器及び毒物の使用を禁止し、又敵軍に属する個人を背信的に殺傷することを許さずとする規則は、たとへ之を破ることが重大なる危険を避け又は戦争の目的を達成する結果を齎す場含と難も、拘束力を失はない。海牙陸戦條規の第二十二條は明白に、交戦者が敵を害する手段を選擇する権利は無制限にあらず、と規定する。そして此の規則は必要の場含にも拘束力を失はない。軍事的【108】必要の場含に無視することが許されるのは、戦争法規ではなくして、たゞ戦争の習はしである。Kriegsraeson geht vor Kriegsmanier, but not vor Kriegsrecht!」(六九齣)。
 此のオッペンハイムが独逸の法諺に與へた解釋は、ド・ヴィッシェルの著「戦争法規と必要の理論」の中にも引用せられ、賛意を表せられて居る(一二)。
 又類似の説はファンぜロウによつても述べられて居る(一三)。
「Kriegsbrauch, Kriegsmanier とは、成文的戦争法発生以前に於いて、将軍及び軍隊が相互間の武士道的行動の不文法典に自発的に拘束されることを言ふのである(die freiwlligen Bindungen der Heerf<u>hrer und Truppen an einen ungeschriebenen Code des ehrenhaften Veehaltens gegeneinander)。只戦数−−國家又は軍隊が滅亡を免れる爲に総ての手段を盡さざるを得ない急迫状態のみが、Kriegsbrauch の無視を許さるべきものとした。條約的戦争法は、今日尚ほ恒常的行動からの離脱が詐され得ることを指示する場合がある(事情の詐す限り、と言ふ約款の存する場含が之である)。條約に此の指示を欠く時、條約法規の侵犯は戦数によって辯解され得ない。」【109】
 オッペンハィムが Kriegsmanier を以つて、戦争法に對立するものとし、法たらざる慣行を意味するものと解するに反して、ファンぜロウは、條約法に對立する不文法典を指すものと解するが、しかし「自発的拘束」といふ言葉を用ひて居る所から察すれば、法的拘束力なき規則と解する点に於いて異らない様である。是等の学者は「戦数は Kriegsmnier に優先す」といふ格言を、其の Kriegsmanier と言ふ語に法たらざる慣行と言ふ意味を付與して、自説と調和せしめようとするのである。此の解釋の下に於いて此の格言は法律上は無意味のものとならねばならぬ。併し之が正しい解釋であるか否かは疑問であらう。少くともリューダー、モイラーの如き十九世紀独逸の戦争法の権威は、Kriegsmanier を斯く解せず、時として Kriegsrecht と Kriegsmanier とを混合的に使用するのである(一四)。
 戦数否定説は Rodick の「國際法に於ける必要の理諭」の中にも説かれて居る。此の書は第一章を初期の國際法学説の研究に充て、第二章乃至第五章を平時國際法に於ける必要の理論の研究に、又第六葦以下を戦時國際法上の夫れに充てて居る。後者が戦数に関係するのであるが、其の要旨は次の様である(一五)。
 軍事的必要に関して二つの学説がある。第一説によれば、軍事的必要によつて戦争法規を破ることが許されるのは、法規自身が豫めこれについて明示的許容を與へて居る場合に限られる。此の説は大體英米の学者の採る所である。第二説は Kriegsraison geht vor Kriegsmanier といふ格言によつて表現される。此の説が最も廣く流布して居るのは独逸であり、其の言はんとする所は、戦争法規は通常の場合尊重せらるるを要するとは言へ、戦争法規が國家の終局的安全に對して制限を加へるごとは許さるべきでなく、從つて死活的必要の事態は法規の侵犯を正当化する、と一言ふに在る様である(五九頁)。
 此の二つの見解の内、著者は第一のもの、即ち必要の理論は、法規が之を用ふることの許容を豫め與へた場含に限られねばならぬと言ふ見解を、唯一の法律的正当なものとして賛成する。第二説は海牙陸戦條規の文字及び精榊に反する。此の條規を附属書とする條約の前文に、此の條規の各條は「締約國の所見によれば、軍事上の必要の許す限り戦争の惨害を軽減せんとするの希望によつて」制定されたものであることが述べられて在る。此の言葉を、此の條規の若千の規則が軍事的必要ある場令適用なしとの條項によつて現に制限されて居る事実と併せ考へるとき、又更【111】に海牙條規第二十二條が「敵を害する手段を選擇する交戦者の権利は無制限に非ず」と明言し、面して此の規則は必要の場含にも拘束を夫はないと言ふ事実をも考へる時は、海牙條規の制定者が必要の含法的行使(緊急権の合法的行使)を、法規が其の使用につき明示的許可を與へる場含に限らうとしたと言ふ結論に達することは疑ひを容れない様に思はれる(六〇-六一頁)。
 続いてロディックは緊急権の合法的行使の爲され得べき場合を、陸戦法及海戦法の各個の法規について説明する(六一-一一八頁)。不思議にも彼の例示の中には、法規が「軍事的必要なき限り」と言ふ明示的條款を含んで居ない場含が往々あつて、上述の一般的立言と矛盾を來すのである。然しこの弊は単にロディックに特有なものではなく、オッペンハイムの書もウェストレーキの書も同様である。後に第七項に於いて此のことは詳しく説明するであらう。


(八)Westiake, Chapters on the principles of International Law 一八九四年、二三八−二四四頁。
(九)同氏、國際法、第二巻、第二版、一九二二年、一二六−一二八頁。
(一〇)高橋作衛、前掲、一四一九頁
(一一)Oppenheim 國際法、第二巻。本文に引用せる六七齣、六九齣は、第五版によれば、一八七頁及び一九三−一九四頁。
(一二)De Visscher前掲(註三にあり)、二九−三〇頁。及び三六頁。
(一三)Vanselow V<o>lkerrecht 一九三一年、一七七頁。
(一四)リューダについては、ホルツェンドルフ前掲書(註四にあり)、二五四頁。モイラーについては、前掲書(註五)一五頁以下。
(一五)Rodick, The doctrine of Necessity in International Law 一九二八年、五八頁以下。
−−−

 まず、上記引用箇所の冒頭付近で述べられたウェストレーキの諸説については省かれており高橋作衛氏の「戦時国際法要論」にあるとあるが、これは別に紹介しているので参考にされたい(http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/jioqrf/jioqrf.html)。

 この省略されたウェストレーキの反対説は、最も明快な論理的反対説となっていると思われるが、その論理的骨子は「肯定論では、必要な場合には戦規を守らなくて良いとするが、そもそも戦争は必要だから行うのであって、そこで行われる軍事行為は必要の程度の差しかなく、このような必要の程度如き漠然な基準では、この肯定論の論理的必然として、絶対に守らなければならないような規則でさえも無視してしまうこととなる」というものである。

 オッペンハイムやファンゼロウは特に論理(的必然性上の破綻)としては説かないで、破って良いのは「戦争の習わし」などであり、単に戦規(国際法としての戦争法)は破ってはならない、とだけ説く。ロディックもウェストレーキのような論理上の問題は述べず、ハーグ陸戦条規の精神に反するとして、戦数肯定論に反対する。ただ、ファンゼロウとロディックは、明記された条文の中に軍事的必要条項のある場合に限り戦争法規を破ることが出来る、とする。

 しかし、このような戦数反対論者にせよ、個別的条文で軍事的必要条項を含まない場合でも、「緊急権の合法的行使の爲され得べき場合」を論ずるということは注目されるべきである。田岡氏はこれを矛盾と指摘するのであるが、具体的には後述するとして、彼等反対論者が何に反対しているかを鑑みると、私にはこれは矛盾ではないように感じられる。

<次項に続く>

  田岡良一氏の「戦数論」について−4 靴屋 2003/10/23 16:47:30  ツリーへ

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靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:47:30
田岡良一氏の「戦数論」について−4

4 中間説

−−−
 四

右の戦数否定論と肯定輪との中間説とも言ふべきは、一方に於いて、交戦國が緊急状態に基き戦争法に背いて行動することを是認しながら、他方に於いて戦数を否定する説である。例へばリ【112】ストは
「緊急状態と戦争の必要とは別の概念である。國家の存在と発達力(自已保存と自己発展)とが危くされる緊急状態は、総ての文明國の國内法によつても認められて居る一般原則に基き、如何なる國際法規の侵犯をも正当化する。從つて又戦争法の諸規則の侵犯をも正当化する。之に反し戦数に、換言すれば、或る戦術的又は戦略的目的を達せんとする努力に、個々の戦争手段の禁止によつて限界を劃することは、之が正に戦争法の目的なのである。若し(戦術的又は戦略的)目的がかゝる(戦争)手段の便用によつてのみ達せられるとしても、此の使用は「戦争の必要」によつて正当化されることは出來ない。但し侵犯された法規の拘束力が、所謂「事情約款」(事情の詐す限り、と言ふ約款)によつて制限せられて居る場含は別であり、此の制限は戦争法に於いて実に頻繁に現はれる」として、戦数と緊急状態とを區別し、前者による戦争法の侵犯を否定する(一六)。
フェアドロスの近著「國際法」にも同一の説が現はれて居る。
「戦争法の若干の規範は無制限の効力を有するものではなくして、軍事的必要の許す限りに於【113】いて有効なることを白ら明示して居る。他の総ての規範は絶對的禁止、である。但し此等の規範と雖も、真の緊急状態が存する時は、一般的原則に基き、離脱することが出來る」(一七)。
 此処にフェアドロスが一般的原則と言ふのは、同書の総論の中「違法性の阻却」の項に説かれて居る「自己保存の原則 Grundsatz der Seldsterhaltung」即ち「國家は自已の生存を危くしてまで國際法上の義務に膠着するを要せず」との原則であらうと思はれる(一八)。
 クンツが其の近著「戦争法及中立法」の総諭「戦争法の基本的諸間題」の中に戦数について説く所も、類似の見解であつて、戦数と緊急状態とは別の概念であるとする。彼は戦数の理諭の誤謬を最も明快に指摘した學者の一人であるから、彼の説を多少詳しく紹介して見よう(一九)。
 Kriegsr<a>son geht vor Kriegsmanier と言ふ句は、Kriegsmanier の意味が不明瞭なることに由り、又 Kriegsr<a>son の意味が不明瞭なることに由り、學説の混乱を生じて居る。前者は、時として法規を、時として単なる「習はし」を意味し、時として両者を包擁する。又後者は、若干の単者にユつて復仇櫨を指すものとして用ひられ、叉若干の學者によつて、緊急避難権、自已保存権、緊急防衛権と混同せられる。【114】
 「併し戦数は軍事的必要、即ち軍事的。戦術的及び、戦略的考慮が或る行動を必要ならしめる場含を指すものと解して始めて意味がある。尤も戎る行動が唯一の可能なる、從つて必要なるものたるソしとを、若予の可能なる行動の中で《より》容易く、より確実であり、より成功し易く、從つて合目的のものたることとは、區別さるべきであるが、戦数と言ふ言葉は屡々必要と、単なる合目的との両概念を包擁する。斯かる軍事的必要の援用に對しては、其の許され得ざること、其の遵法なることを断乎として主張せねばならぬ。何となれば、現行戦争法が既に軍事的必要と人道的原則との妥協点である。軍事的必要は戦争法の形成に当つて考慮せられる筈であつて、之が更に又戦争法規範侵犯の辯解として実定法に對立するものとして援用されるごとは出來ない。さもなくば戦争法全體の効力は疑間となる。故に戦争法規の中絶對的の命令又は禁止を定めるものは軍事的必要の援用を許さない。戦争法規範の中には之に反して明示的に軍事的必要への指示によつて制限されて居るものがある。此の場含軍事的必要の援用は−−真の必要にもせよ単なる合目的にもせよ許される。之は法の侵犯でなく法に遵據する行動である。斯かる軍事的必嬰への明示的送致は白地法規であつて、其の【115】決定は國家の該当機関に委ねられる。此の際國家機関が完全に自由なる裁量権を持つ場合と、法規自身によつて一定の限界内に拘束された裁量権を持つ場含とがある」。


(一六)Liszt-Fleischmann, V<o>lkerrecht 第十二版、一九二五年、四五六頁。但しリストは古くは戦敷の肯定者であつた。
(一七)Verdross, V<o>lkerrecht 一九三七年、二九二頁。
(一八)同書、一八九頁。
(一九)Kunz, Kriegsrecht und Neutralit<a>tsrecht 一九三五年、二六−二八頁。
−−−

 この中間説を田岡氏は「最も論理を貫かないもの」とするのであるが、私にもこの説自体は論理的に誤りだとは思われるが、内容は豊富であるように思われる。その理由は、緊急状態と戦争の必要をはっきり分けたことによって、戦争法の目的がまさに戦争の必要から生じる手段の制限にあることを明確にしたからである。クンツが言うように、「現行戦争法が既に軍事的必要と人道的原則との妥協点」なのである。「軍事的必要は戦争法の形成に当つて考慮せられる筈」なのであって、それを更に軍事的必要によって遵守しないと言うことは、軍事的必要条項を含む条文があることを考えても、許されないと解釈するのが、まさに正論であろう。この事は反対論者であるロディックも述べている。

 また、この「中間説」は緊急権(緊急状態では法規侵犯を正当化出来るとする権利)をはっきり分けたことにより、肯定論と反対論の論争の問題点が浮き彫りになった。田岡氏は、この緊急権に戦数が正当化される理論的根拠を求めたことが誤りであるとするのである。この点は後述される。
<次項に続く>

  田岡良一氏の「戦数論」について−5 靴屋 2003/10/23 16:48:12  ツリーへ

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靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:48:12
田岡良一氏の「戦数論」について−5

5 中間説の誤り
−−−
 五

 右の三つの学説の内最後のもの、即ち戦数を否定しながら、緊急権による戦争法よりの離脱を是認する説は、最も論理を貫かないものの様に思はれる。此の説を探る学者は、國家が共の生存を危くされる場合、又は國家が其の生存及び発展の能力を害せられる場含、戦争法の拘束から免れることは許されるが、単に戦勝を獲、敗衂を免れんが爲に、戦争法の拘束から免れんとすることは許されない、と説くのである。併し國家は戦争状態に入ること夫れ自身によつて一種の緊急状態に陥るのであり、敵國を克服するに非ざれば、自國の生存又は発展を危くさるべき危険に身を曝すのである。從つて交戦國が其の存在又は発展を危くされる時戦争法の拘束から解かれると言ふ説は、敵國に勝つ爲に絶對必要なる場合には、戦争法を離れて行動することを得ると言ふ説と、同一の結果に至らざるを得ない。【116】
 尤も一戦争に破れることが、國家の生存又は発展の能力に影響を及ぼさない場含もあり得るであらう。しかし夫れは戦争の結末を俟つて始めて知り得ることであり、戦争の進行中に何人も斯かることを豫断出來ない。而して交戦國の政治家又は司令官が、戦争法を遵守して戦争の遂行を進むべきか否かを決断せねばならぬのは、戦争の途中に於いてである。此の時彼等は、戦敗が齎らす最悪の事態を顧慮しなげればならぬ。又たとへ敵國が弱小國であつて戦敗は憂ふるに足らずとも、戦勝の遅延が誘致する第三國の干渉が齎らすべき最悪の事態を顧慮しなければならぬ。從つて若し國家の安全又は発展が脅かされる場合に戦争法の拘束から免れるごとが許され得るものとせば、外國に向つて戦端を開いた國家は、速かに勝利を収める爲に戦争法の拘束から免れて行動するに至るのは当然である。
 或は反對諭者は、其の説が、戦争全體を勝利に導く爲に必要なる場合戦争法からの離脱を許す結果に導くとも、個々の戦闘に於いて勝利を獲る爲に必要なる場合に、軍隊の指揮官が戦争法規を無視して行動することを許す結果には導かないと考へて、其の説が戦数肯定説とは異ることを主張するかも知れない。併し戦争全體の勝利は個々の戦闘に於ける勝利の集積に依つて獲られる。【117】たとへ個々の戦闘に於ける敗北が、全體の勝敗に影響しない例外的事態はあり得るとしても、或る戦闘が之に該当するか否かは戦争の決を俟つて始めて知り得ることであり、現に戦闘に從事しつゝある軍人に何人かかゝる判断を期待することが出來よう。彼等が、此の戦闘は右の如き例外的の場含に非ずして、原則的の場含、即ち其の勝敗が全體の戦局に影響し、從つて國家の安危を左右する戦闘であると信じて行動するのは当然である。
 故に戦術又は戦略上の必要に基く戦争法侵犯を否定しながら、國家の生存又は発展の必要に基く戦争法達反を是認せんとする説は矛盾であり、此の矛盾は、一旦剣を抜いて立つた者は其の一身の安危を勝利に賭けて居る事実を考慮しない爲に生じたものである。
−−−

 無論田岡氏の言うように、中間説では実際的には極端に戦数を認める口実を与えてしまうこととなるであろうことは論を待たない。その理由は田岡氏が示すとおりであり、付け加えることはない。

 ただ実際上、本音と建て前という問題はあるにせよ、戦争に於いて違法行為(と判断せざるを得ないような行為)が絶えないのは、中間説が事実上表明したとおりであろうと思う。「一旦剣を抜いて立つた者は其の一身の安危を勝利に賭けて居る」という、要するに「命がけ」がそれら違法行為の口実でさえあり得てしまうのではあるまいか。余談ながら、戦争という極めて特殊な状況が、法により制限されるという自体、偽善的であるとさえ思われる。反面、この偽善を修復させることが出来ないというジレンマを持つのも人類の大きな問題である。
<次項に続く>

  田岡良一氏の「戦数論」について−6 靴屋 2003/10/23 16:48:45  ツリーへ

Re: 田岡良一氏の「戦数論」について−1 返事を書く ノートメニュー
靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:48:45
田岡良一氏の「戦数論」について−6

6 肯定論の誤り

−−−
 六

 然らば上述の三つの説の内第一説即ち戦数肯定説を以つて正しとすべきか。
 第一説に向けられる最も有り触れた非難は、斯かる説が容易く戦争法を蹂躙する口実を交戦國に與へ、戦争法の拘束カを弱める結果を生ずることである。かゝる危倶は根據なきものでは無い【118】とは言へ、交戦國が戦争法の拘束から解かれる今一つの場合として学者の説く戦時報復の権利も亦濫用の危険多きことは経験上明かであり、現欧洲戦争に於いては交戦國の戦争法侵犯によつて我が國が迷惑を蒙つた事例も、此の権利の濫用に基くのである(二〇)。併し濫用の危険あることは必ずしも権利自身を否定せしめない。交戦國の一方が戦争法規を侵犯する時相手國も亦此の法規の拘束から解かれるのは当然であるから、報復の権利は國際法学者の大部分によつて是認せられて居る。故に戦数に就いても問題は、戦数が理諭的に正当と見倣されるか、の点に重点が置かれねばならぬ。
 此の点に就て、戦数否定論者の側から戦数の不合理性を諭證せんとする多くの試みが爲されて居るが、就中前に引用したクンツの言は決定的な様に思はれる。「本來戦争法規は軍事的必要と人道的原則との妥協点であつて、戦争法規を作るに当つて軍事的必要は顧慮せられてある、其れにも拘らず更に之を軍事的必要に籍口して侵犯することは許され得ない。かくては戦争法全體の効力は疑間となるであらう」。誠に彼の言ふが如く、戦争法は、交戦國の戦争遂行上の必要を尊重しつゝ、人道的要求を活かさうとする試みに外ならない。海牙第四條約の前文に謳はれて居る【119】様に、戦争法は、軍事上の必要の許す限度内に於いて、戦争の惨害を軽減するを以つて旨とする。時として戦争法規が多少の軍事的利益を制限することはあつても、夫れは制限さるべき軍事的利益が重大でなく、他方この制限によつて活かされるべき人道的利益は比を失して大きいと認められる場合である。此の衡量の上に築かれた戦争法規を、戦争遂行上の必要を理由として破ることを許すならば、法規の作られた意義は全然没却されることになるであらう。
 戦数の肯定論者は其の説の支持点を緊急権に求め、或る法規に遵依する行動が國家の生存を危くする時に此の法規からの離脱を許すのは、國際法の一般原則であり、從つて戦時國際法も亦此の原則の支配を受げねばならぬ、と主張する。併し緊急権が平時國際法に於いて一般に認められる以上、戦争法に於いても当然に認められねばならぬと考へるのは、戦争法の特質を知らないものである。
 一度び外國に向つて剣を抜いて立つた國民は、其の安危存亡を勝利に賭ける一種の緊急状態に身を投じたものであり、法は此の國家の立場を認め、其の故を以つて國家を恒常的國際法の拘束から解放する。単に敵者に對する関係に於いて然るのみならす、第三者に對しても、戦争遂行の【120】必要上或る範圍の権利侵害を爲すことを得しめる。之れ法が交戦國の緊急状態を認めるが故に然るのである。從つて恒常的國際法に代つて行はるべき戦争法は、其の安危存亡を戦勝に賭ける國家の状態と両立すべきものとして考案せられて作られた法規の一團であり、緊急状態への顧慮は此の法規の中に既に含まれて居るのである。
 此のことが了解せられたならば、緊急状態に基く違法の阻却が法の一般原則なるごとを理由として、戦争法にも亦此の原則の支配を主張する説の價値は、明かとなると思ふ。
 第四項に紹介した様に、リスト、フェァドロス等の學者は、一方に於いて戦数の不含理を認めながら、今一方に於いて平時國際法を支配する緊急権の原則は当然に戦争法にも適用がなくてはならぬと考へた爲に、戦数を否定しながら緊急権に基く戦争法規侵犯を肯定する説を唱へるに至つた。かゝる説の到達すべき矛盾は既に説明したが、其の根本的な理論的誤謬は本項に述べた所によって知り得られると思ふ。緊急権は平時國際法を一般に支配するが故に、戦争法をも支配すると見傲すのは単純な考へ方であり、此の考への誤りは、彼等の所説の内部に生する右の撞著によつて證明されるのである。【121】


(二〇)拙稿、英佛の對独報復措置について、外交時報、昭和十五年新年號。
−−−

 この議論で興味深いのは、反対論ではなく、中間説として示されたクンツの立論が、肯定論の決定的矛盾をついていると田岡氏が指摘する所である。実は前述したように反対論者のウェストレーキも同様の論理的矛盾をついているのであるが、何れにしても、「最も論理を貫かないもの」である中間論にしてさえ、肯定論は鋭くその矛盾をつかれているのである。

 ところで、注意しておかなければならないのは、リューダーによって体系化されたと言われる「戦数」は、復仇は別として、本来緊急権をその正当化の理論的根拠としているということであり、この事は念頭に置かなければならないと思われる。次項で田岡は反対論の矛盾も指摘するが、元々主張されていた戦数は否決された、と言わねばならないだろう。何故なら、反対論が内包する矛盾にのみ着目して、「戦数は否定されていない」というのは誤解を招くものだからである。

 戦数はそもそも、「Kriegsrason geht vor Kriegsmanier(戦数は戦規に優先する)」という法諺にみられるような論理、これ自体が国際法学者の反対論者が反対する動機であり、このようにいわば戦争法を無効化してしまうような論理こそが否定されるのである。従って「戦数は否定されていない」と主張する場合でも、それは必ずその正当化となる根拠を示した上で主張されなければならず、ここで否定された肯定論とても「緊急権」を根拠としているように、単に「戦数によって戦争法を逸脱出来る(ことは否定されていない)」などと主張することは許されるべきではないと思う。
<次項に続く>

  田岡良一氏の「戦数論」について−7 靴屋 2003/10/23 16:49:18  ツリーへ

Re: 田岡良一氏の「戦数論」について−1 返事を書く ノートメニュー
靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:49:18
田岡良一氏の「戦数論」について−7

7 反対論の誤り
−−−
 七

 若し戦数の理論が誤りであるとすれば、我々の與すべきは第二説即ち「戦争法規が軍事的必要によつて破られることが可能なのは、法規自身が豫め明示的に之を許して居る場合に眼られ、然らざる法規は総て絶對的効力を持つ。若干の戦争法規は『軍事的必要の許す限り』、『軍事的必要を害せざる限り』、『軍事的必要なき限り』、『事情の許す限り』等の言葉によつて、其の効力を制限して居る。かゝる條款を含まない法規は軍事的必要に籍口して之を破ることを許さない絶對的命令を形作る」と言ふ説でなくてばならぬ様に思はれる。併し性急に此の説に荷擔するに先立って次の一事が考慮されねばならない。
 戦数を論するに當つて右の説を述べる諸學者は、各個の戦争法規を解説するに当つては、屡々右の様な明示的條款を含まない法規、即ち此の論者の説に從へば絶對的命令である筈の法規が、軍薯的必要によつて破られることを説いて居る。
 例へば海牙陸戦條規第二十三條(ニ)號「no quarter を宣言すること」の禁止(投降者を助命【122】せざるごとの宣言の禁止)は、何人も知るが如く「軍事的必要約款」を含んで居ない。
 然るにウェストレーキの戦時國際法によれば(二一)
 「此の規定が実行不能なる場合として一般に承認されて居るのは、戦闘の継続中に起る場合である。此の時投降者を収容する爲に軍を停め、敵軍を切断し突撃することを中止すれば、《勝利の達成は妨害せられ、時として危くされるであらう》。のみならず戦闘の継続中には、俘虜をして再び敵軍に復帰せしめない様に拘束することが実行不可能なる場合が多い」。
 此の言葉は、戦争法に遵つて行動しては勝利の獲得が困難な場合には、法を離れて行動することを許すものではあるまいか。戦争法が戦術的叉は戦略的目的の達成を妨げる障壁をなす場合には、法の障壁を乗り越えるごとを許すものではあるまいか。
 叉オッペンハイム國際法の戦時の部にも
 「投降者の助命は、次の場合に拒否せられ得る。第一は、自旗を掲げたる後尚ほ射撃を継続する軍隊の将士に對して、第二は、敵の戦争違法反に對する報復として、第三は、緊急必要の場合に於いて(in case of imperative necessity)即ち俘虜を収容すれば、彼等の爲に軍の行動の自【123】由が害せられて、軍自身の安全が危くされる場合に於いてである」
と言ふ一句がある(二二)。但しオッペンハイムの死後の版(第四版)の校訂者マックネーアは、第三の緊急必要の場合云々を削り去り、第五版も之に倣つて居る。恐らく校訂者は此の一句がオッペンハイムの戦数について論ずる所と両立しないと認めたからであらう。両立しないことは確かである。しかし陸戦條規第二十三條(ニ)號の解釋としては、右のオッペンハイム及びウェストレーキの見解が正しいことは疑ひを容れない。此の見解は多数の戦争法研究者によつて支持される所であり、戦数を肯定する嫌ひある独逸学者の説の引用を避けて、たゞ英國の学者の説のみを探ねても、戦争法の権威スペートは共の陸戦法に関する名著「陸上に於ける交戦権」の中に、投降者の助命が戦時の実際に於いて行はれ難く、且つ其の行はれないのは止むを得ないことを論じ(二三)、又投降を許して収容した俘虜さへも、軍の行動の必要により鏖殺するの止むなき場合があることは、ローレンスが、一七九九年ナポレオン軍による土耳古ジャッファ守傭隊四千人の鏖殺の例を引いて説く所である(二四)。故にオッペンハイムの戦数論と陸戦條規第二十三條の解釋とが両立しないならぱ、後者ど削除するよりも、寧ろ前者に向つて反省が加へられる必要がある【124】のではあるまいか。
 又ロディックは、既に述べた様に、必要の理論と戦争法との関係を述べるに当つて、オッペンハイム、ウェストレーキ等の説に賛成した後に、個々の陸戦法規及び海戦法規について、軍事的必要が交戦者を法の拘束から解く場合を列挙するのであるが、此の列挙の中には、法規が軍事的必要條款を含んで居ない場合も見出される。右に論じた不助命宣言禁止の海牙條規については、彼も亦、此の條規の違反が「軍事的必要に基いて辯解され得る場合のあることは擬ひを容れない」
と言ひ(二五)、又英國が南阿戦争に於いてなした所の、占領地の非戦闘員を捕へて concentration camp と名附ける収容所に強制的に収容した事は、軍事的必要に基いて正当化せられ(二六)、又英國がナポレオン戦争中に、佛國の沿岸小漁船の多数を、之が英國侵入の爲に使用せられる危険ありと稱して拿捕抑留した事実も、必要の理論によつて正當化せられる(二七)。
 困みに、此の最後の問題即ち漁船拿捕事件はウェストレーキも亦其の著「國際法の原理に関する数章」の中に、又國際法教科書の中に論じて居るが、彼も英圃の行爲の正当性を認めるのである(二八)。【125】
 要するに、戦数を論ずるに当つて之を否定する諭者も、個々の戦争法規を解説するに当つては、軍事的必要によつて法規の拘束が解かれる場合の在ることは認めざるを得ないのであり、彼等の唱へる「軍事的必要によつて法規から離れることが許されるのは、法規が明示的に之を許す條款を含む場含に限られる」と言ふ断定を、自ら打破って居るのである。かゝる矛盾の生じた理由を我々は反省して見なければならない。


(二一)ウェストレーキ、前掲(詳九の方)、八一−二頁。
(二二)オッペンハイム、前掲(註一一)、§109第三版によれば、一六九−一〇七頁。本文にのベたる如く第四版以下は修正されたり。
(二三)Spaight, War rights on land 一九一一年、九三-九四頁。
(二四)Lawrence國際法、第三版、三三七頁。其の後の版には此の記事は省かれて居る。
(二五)ロディック前掲(註一五)七〇頁。
(二六)同書、七九頁。
(二七)同書、九五頁。
虜(二八)ウェストレーキ前掲(註八の方)二四四頁。同氏前掲(註九の方)、一五七-一五八頁。
−−−

 この反対論の内包する矛盾の解決は、次項で示されているのでここでは述べない。ここで重要なことは、個々の条文上の解釈に於いては、戦争法を必ずしも守らなくて良い場合があると、彼等反対論者はちゃんと認識しているということである。田岡はこれを矛盾というが、論理的に矛盾していると考えることは否定されないが、捉えようによって矛盾でないと見ることも出来る。

 何故ならば、ハーグ陸戦条約中に「一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄」とあるように、明文法自体に完備性が欠けることとに対してそれを補足解釈を加えた上で、不完備な法を実情に応じて適用することと、法という存在の一般観念上で戦数を否定することは両立するからである。これは戦争法に限った話ではなく、一般論としてあらゆる法が完全ではないことは当たり前のことであるわけで、法に沿って厳しく判断すべきではあっても、実情を踏まえた上で法的判断は為されるべきなのは当然である。もちろん、彼等反対論者が「軍事的必要によつて法規から離れることが許されるのは、法規が明示的に之を許す條款を含む場含に限られる」と述べたところで言われた「法規」をそもそも不完備なハーグ陸戦条規などと捉える限り、厳密には誤っていると言わざるを得ないが、法理的判断に於ける理念として誤っているわけではないのである。

 無論のことだが、ほぼ田岡氏の次項に説明される持論もほぼこの趣旨の主張である。
<次項に続く>

  田岡良一氏の「戦数論」について−8 靴屋 2003/10/23 16:49:53  (修正1回) ツリーへ

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靴屋 <uypqsyhqon> 2003/10/23 16:49:53 ** この記事は1回修正されてます
田岡良一氏の「戦数論」について−8

8 著者(田岡氏)の見解
−−−
 八

 前に第六項に述べた様に、戦争法規を作るに当つて交戦國の軍事的必要は常に顧慮せられ、交戦者に或る行爲を命ずることが、彼の軍事的利益を害せずと認められる時、又はたとへ害することは豫測せられても、害される軍事的利益は重大ではなく、軍事的利益の犠牲によつて救はるべき人道的利益は比を失して重大であると認められる時、交戦者に此の行爲を命ずる法規が作られるのであるが、併し此の場合に顧慮せられる軍事的必要.は、戦時に《通常》発生すべき事態に於ける軍事的必要である。法規制定者は、通常発生する事態を念頭に置いて、此の事態の下に於ける軍【126】事的必要の性質及び程度を考慮し、之と人道的要求との調和を計るのである。其の結果として表面上或る法規の妥当すべきが如く見える場含であつて、而も此の法規の制定者が豫見した軍事的必要と人道的要求との均衡は保たれ得ず、より強い軍事的必要が支配すると言ふ特別の場含は生ぜざるを得ない。
 例へば武器を捨てて降を乞ふ者を攻撃せず自軍に収容して保護することは、通常の場含には軍の安全及び軍事行動の成功を害する虞はないであらう。しかし我が軍の迅速な移動作戦が必要な場含、又は我が軍の食糧が欠乏して居る場合に、投降者を収容することは、軍事行動の成功を害し、又は軍の安全を害する場合があるであらう。睦戦條規第二十三條(ニ)號「助命せざるの宣言の禁止」は通常の事態を念頭に置いて作られた規定である。文言の表面上、此の規定は総ての場合に於ける投降者に適用せらるべきものの如く見えるが、此の法規の根抵に横はる人道的要求と軍事的必要との均衡に鑑みる時、此の法規の妥当しない例外の場含は生ぜざるを得ないのである。
 又爆発性又は燃焼性の物質を以つて充填せる弾丸にして四〇〇瓦以下のものの使用を禁止する聖ピドタースブルグ宣言は、制定者の意圖に於いては、陸戦のみならず総ての戦闘に適用せらる【127】べきものとして作られたのであるが、此の宣言の禁止する所が四〇〇瓦以下の弾丸即ち小銃弾に止り、四〇〇瓦以上の投射物即ち砲弾、爆弾、手榴弾に及ばないのは、後者が多数の敵兵を一時に斃し又建造物工作物の破壊に用ひられ、其の軍事的有効性大なるに反し、前者即ち小銃弾の効果は其の命中せる個人の戦闘能力を喪はしめるに止るが故に、特に此の種の惨酷なる弾丸を用ひずとも、普通の銃弾を以つて略々同一の効果を挙げ得ると考へられたからである。然るに飛行機が敵飛行船又は軍用氣球を攻撃する場合には、普通の弾丸は殆んど効果なく、燃焼性のものを用ひて氣嚢を爆発せしめることが必要となる。而して軍用飛行機は通例大口径の砲熕を搭載せず、又し得ず、其の空中戦闘の武器は機関銃又は小銃である。從つて世界大戦の後半交戦國の航空機は皆燃焼性の機関銃弾を使用した。聖ピータースブルグ宜言の制定者は、当時豫見し得べき通常の場含、即ち人體に命中せしめて其の個人の戦闘能力を奪ふ場含に於ける此の種の弾丸の軍事的有効性を念頭に置いて、人道的利益と軍事的必要との釣合を衡量したのであるが、当面の場含には宜言の豫見した両者の釣合は破られて、後者のみが比を失して重大となつた。從つて世界大戦中の交戦國の実行は達法に非すと見做され、大戦後一九二三年の空戦法規も其の第十八條に、聖【128】ピータースブルグ宣言は航空機間の戦闘に適用なきことを規定する(二九)。
 又都市の攻圍の場含、砲撃を開始するに先立つて都市の老幼婦女子を避難せしめる爲に豫告する義務を砲撃者に課する陸戦條規第二十六條は、「強襲の場含」即ち歩兵の突撃を以つて都市を略取する軍事行動の掩護としてなされる砲襲の場含に除外例を認め、豫告義務を面ずるが、其れ以外に除外例を認めて居ない。強襲の場合に除外例を認めた所以は、攻圍の場合に於ける砲撃は、歩兵部隊の進撃の掩護として爲されることが多く、從つて砲撃の豫告を受けた敵軍は、歩兵部隊の進撃のあることを豫期して之を反撃する準傭を整へるであらうから、強襲の企圖ある砲撃を豫告することは、此の軍事行動の成功を妨げるに因る。之に反してかゝる企圖なく、単に都市から遼隔の地に放列を敷いて都市を砲撃すること自身は、豫告によつて危険を生じないと見做され、非戦闘員避難の人道的要求を容れて、豫告の義務を設けたのである。併し豫告が重大な軍事的不利益を齎すことは、只張襲の場含に限るであらうか。例へば潰走せる敵軍が都市に遁入し、此処に據つて兵を纒め、再び隊伍を整へて逆襲に出る危険のある場合、之に加へる砲撃は、非戦闘員避難の爲の猶豫期聞によつて遷延せしめられることを許さない(三〇)。強襲の場含と同様に、此【129】の場合も亦豫告は重大な軍事的不利益を齎さすに措かない。前の場合には、我が軍の探らんとする作戦行動を敵に暗示する結果を生ずるが故に、後の場含には、非戦闘員避難の爲の時間−−此の時間を與へずしては豫告は無意味である−−が敵に軍事上の利益を與へるが故に。故に陸戦條規第二十六條の根柢をなす軍事的必要と人道的要求との釣合に鑑みる時、後の場合にも砲撃者は豫告の義務を免ぜられると結論しなければならないのである(三一)。
 此の種の例は蓋し枚挙の暇がない。何人も知る糠に、《凡そ法規は、其の文言の通常の意義が及ぶ範圍に完全に妥當するものではなく、妥当の範圍は其の法規の存在理由に照らして、一定の限界を持つ。戦争法規も亦其の存在理由に照らして一定の限界があることは言ふまでもなく、如何なる場含に法規が妥当性を失ふかは、各個の戦争法規の解釋の問題として、研究さるべき事柄である、此の研究は畢竟平時法と戦争法と通じて國際法学者の任務である所の、法規の存在理由を究め、之に基いて法規の擴充の限界を定めることに外ならない》。
 然るに戦争法規は軍事的必要と人道的要求との一定の釣合の上に成立するものであるから、戦争法規について、法規存在の理由に鑑みて法規が妥当しない場含と言ふのは、畢竟此の均衡が破【130】られ、軍事的必要が他の要素に優越する場合である。リューダー其の他の戦数肯定論者が「戦争法規は通常の場合には遵奉せられ得、又せられねばならぬものであるけれども、特に強い軍事的必要が生じた場合には、此の軍事的必要は法規に優先する」と言ふのが、若し上述の事理を表現しようとするものであるならば、彼等の考は根柢に於いて誤つたものではないと言はねば広らぬ。然し彼等は其の説の支持点を緊急権の理論に求めようとした所に、基礎の選擇を誤つたのであつて、第六項に述べた様に、緊急権の観念は戦争法の中に豫め含まれて居るものであり、此の法を更に緊急権に基いて侵犯することを許さんとするのは理論的誤謬であるばかりでなく、斯かる基礎が採られた結果、「如何なる場合に強き軍事的必要に基き交戦者が戦争法規の拘束から解かれるかは、個々の法規の解釋の間題である」とは説かれずして、「一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる」と言ふ概括的な漠然たる立言がなされた。軍事的必要によつて戦争法が妥当しない場合は、一つ一つの法規に就いて、法規解釋の問題として研究せられ、確定られねばならぬ事柄に属するのである。
 戦数否定論者は、恐らく右の如き、誤つて基礎づけられ、誤つて表現せられた戦数肯定論に反【131】對して立つたものであつて、戦争法規の解釋の問題として、強き軍事的必要が法規の妥当性を失はしめる場合の生ずることをも否定しようとしたものでないことは、彼等の戦争法の著述を通じて、各法規に對する彼等の把握を覗ひ知る時は明かとなる。從つて彼等の内心懐抱する観念は本來正しいのであるが、彼等が之を表現するに当つて「総て戦争法規は、法規自身が明示的に之を許す場合の外、軍事的必要によつて破られ得ない絶對的効力を持つ」と唱へた時に誤りを生じた。法規が「軍事的必要約款」を含まない場合にも、軍事的必要によつて妥当しない場含は多く、彼等の戦争法の著述白身も此の事を證明する。彼等は一般論としての戦数肯定諭に對立して、一般論としての戦数否定諭を唱へたのであるが、後者も亦誤れる点に於いて前者と異らない。斯くの如き形に於いて表現せられた戦数否定論が反對論者を信服せしめ得ないのは当然である。
 《恐らく両論者が、戦争法と軍事的必要との関係、後者が前者の効力に及ぼす影響について、心中に抱く観念は同一であつて、唯之を学説として述べるに当り、雙方の不用意な基礎づけ方と不用意な表現とか、両論者の説を外観上霄壤の距りあるものと化したのではなからうか》。そして両論者各々相手方の説を観察するに当つては、表面に現はれた其の弱点を攻撃し、自説に就いては、【132】外部に表現せられた形に於ける其の弱点を深く顧慮せずして、内心に抱く観念の正しきを信じ−−而して真に正しきが故に−−両々相譲らないのではなからうか。國際法学の論争の内、実定法規の解釋に関するものは別として、平時法又は戦争法の基本間題と稱せられる抽象的な諸問題に就いて、同等の價値ある学者が二派に分れて對立して相譲らす、果しなく永續する諭争には、斯かる性質のものが少くないのである。此の種の論争の起因を深く究めて爾者の各々の誤れる所と正しい部分とを明かにして、不必要な争を止揚することが、現代の國際法学の急務である様に思はれる。
 從來戦時國際法の著述を書く者は、屡々其の序論的部分に於いて、戦数に関する一勧を設け、肯定説又は否定説を主張した。そして此の場合に、肯定論者は、一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる、と唱え、否定論者は、一般に戦争法規は、軍事的必要約款あるものを除き、軍事的必要によつて破るを許さず、と唱へるのを常とした。併し私の信ずる所によれば、軍事的必要と戦争法の効力との関係に就いて、斯かる概括的一般的な立言をなすことは危険であつて、問題は個々の戦争法規の解釋に移されねばならぬ。曾つて著はした戦争法の綜合的著述に、私は【133】序論的部分に於いて一般諭として戦数を説かずして、個々の法規に就いて軍事的必要によつて破られる場合を、法規の存在理由と對照しつゝ説明する方針を採つた。斯く普通の體系と異る方針を採つた所以を、其の著書中に説明する餘裕がなかつた爲に省略したが、講壇に於いては数年來説き來つたことであつて、今囘機會を得て、愚稿を公けにすることにしたのである。


(二九)拙著國際法大綱、下巻二二O−二二二頁。
(三〇)Despagnet et de Boeck, Cours de droit international public 一九一〇年、五三〇齣(八四八頁)
(三一)拙著、空襲と國際法、二八六頁以下。
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 田岡は諸説の誤りの結論的原因として「彼等は其の説の支持点を緊急権の理論に求めようとした所に、基礎の選擇を誤つたのであつて、第六項に述べた様に、緊急権の観念は戦争法の中に豫め含まれて居るものであり、此の法を更に緊急権に基いて侵犯することを許さんとするのは理論的誤謬であるばかりでなく、斯かる基礎が採られた結果、「如何なる場合に強き軍事的必要に基き交戦者が戦争法規の拘束から解かれるかは、個々の法規の解釋の間題である」とは説かれずして、「一般に戦争法規は軍事的必要によつて破られる」と言ふ概括的な漠然たる立言がなされた」為である、と述べる。しかしながら、田岡は「彼等の考は根柢に於いて誤つたものではない」とも言う。

 もちろんこれは上述引用で明確なように、肯定論の理論的根拠乃至は反対論者が反対する肯定論の理論的根拠、或いは中間説が正当化されるものとして分けた「緊急権の理論に求めようとした所」が誤りなのであって、「法を逸脱出来る場合がある」という事自体は否定されていないというわけである。それを確認した上で田岡は「軍事的必要によつて戦争法が妥当しない場合は、一つ一つの法規に就いて、法規解釋の問題として研究せられ、確定られねばならぬ事柄に属する」とするのである。

 田岡は、戦数が孕む問題について「一般的な立言をする」こと自体が危険だという。このような判断からは、戦数は一般に肯定するべきでもなく、また一般に否定すべきでもない、ということになるであろう。要するに「戦数は否定されている」乃至は「戦数は否定されていない」と軽々に言うべきではない、ということであろう。田岡の言うように、確かに個々の法規を文字通りの遵守することが無理なケースはあることは認めざるを得ないが、だからといってそうした状況を概括して「戦数は認められている」、などと言うべきではなく、個々の法規の解釈上の問題として考えなければならないわけである。

 しかし敢えて私見を披露すれば、この考え方も些か危険であるように思われる。何故なら、個々の法規の解釈として、戦数があり得るというのであっても、これも場合によっては軍事的必要に対して都合の良い解釈を与え、戦争法の有効性を低下させ得る懸念があるからである。実際、現代に於いてもそうした解釈を巡る議論が絶えないことは例を挙げるまでもない。

 そもそも戦争は、当事国が正当化の上に行うものであり、本来的に解釈上で正当化が議論されることが本質的な問題なのであって、戦数の問題の本質もここにあったはずである。具体的に法規を適用する段になって、田岡のような議論があり得ることは認めざるを得ないとしても、人道上の配慮という戦争法を構成する重要な要素を見過ごすことはあり得るべきではないと思うし、こうした観念は過去リューダーに至るまで共有されているように思う。それ故、論理の必然として誤っているにせよ、「緊急時に限っては」などと制限を加えた上で、戦争法の持つ本質的効果を損なわないよう配慮した議論を行うわけである。

 以上、田岡良一氏の『戦争法の基本問題』の「戦数論」に対する論考を終わる。

   └靴屋さん、こんにちは。 K−K 2003/10/25 21:48:06  ツリーへ

Re: 田岡良一氏の「戦数論」について−8 返事を書く ノートメニュー
K−K <ecoepxmujl> 2003/10/25 21:48:06
 靴屋さん、こんにちは。
 毎度、助かります。

 これは閲覧することは出来るのですが、コピーが出来なかったので、この様な紹介をして頂くと非常に助かります。高橋作衛氏の『戦時国際法要論』ともども、プリントアウトして活用させて頂きます。


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