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「幕府山の捕虜」の記事 ゆう 2003/11/18 20:46:39 (修正2回)
├ 全文は初めて見ました。 ja2047 2003/11/19 06:17:50
│└ そうか、「さながら」ですか ゆう 2003/11/19 06:43:16
│ └ 難しい漢字について 渡辺 2003/11/19 16:08:43
└ 『新申報』について情報ください 渡辺 2003/11/19 16:38:42
「幕府山の捕虜」の記事 ゆう 2003/11/18 20:46:39 (修正2回) ツリーへ
「幕府山の捕虜」の記事
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ゆう <pmyqfxtjon>
2003/11/18 20:46:39 ** この記事は2回修正されてます
「通州事件」を調べるついでに、「幕府山の捕虜」に関する例の有名な記事も手に入れてきました。 中ごろの沈参謀インタビューにまで触れた本はあまりないと思いますので、ここに資料として全文紹介します。 未聞の大捕虜群 ”殺さぬ”に狂喜し拍手喝采 句容敗戦が致命傷 沈参謀なげく 【南京にて横田特派員 十六日発】 両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台附近の山地にて捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は、なにしろ前代未聞の大捕虜群とて捕へた部隊の方が聊かあきれ気味で、こちらは比較にならぬほどの少数のため手が廻りきれぬ始末、まづ銃剣をすてさせ附近の兵営に押しこんだ。 一ケ師以上兵隊とて寿司づめに押しこんでも二十二棟の大兵舎があふれるばかりの大盛況、○○部隊長が「皇軍はお前達を殺さぬ」とやさしい仁慈の言葉を投げると、手をあげてをがむ、しまひには拍手かつさいして狂喜する始末で、あまりに激変する支那国民性のだらしなさにこんどは皇軍の方で顔まけの態だ それがみな蒋介石の親衛隊で、軍服なども整然と統一された教導総隊の連中なのだ、 一番弱つたのは食事で、同隊でさへ現地で求めてゐるところへ、これだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので第一夜だけはたうとう食はせることが出来なかった、部隊では早速大小行李の全駄馬をかり集めて食物をかき集めてゐる 捕虜のうち判明した将校は今までに十名ゐるが筆頭は教導総隊参謀沈博施だ、記者は同兵営保護の部隊田山隊長の紹介で捕はれの沈参謀と対面した、 兵営からまる腰で出て来た沈参謀は長躯白眥、年齢わづか三十歳の好男子で、外套の襟のらつこといひ、軍服の立派さといひ、みるからに中央軍中有数な青年将校とみうけられた。南京戦に面やつれした姿も淋しく 勝敗は時の運で仕方がありません、日本軍は私らの想像以上に強かつたのです、私は紫金山要塞の参謀を努めてをり、南京戦の全戦局を語る資格を持ちませんが、句容の一線が防げなかったのがそもそも失敗でした。私は奉天省生れで奉天中学の出身中国十五年(昭和七年)奉天の陸軍大学を卒業しましたが、満州事変には参加してをりません、後でいろいろ申上げます、私の心が静まるまでこれ以上きいて下さいますな となかなかしつかりしたものだ、最後の記者が「今夜は食事を与へられるさうですよ」とつけ加へると 深謝します、私に自動車と護衛さへつけて下されば、富貴山砲台の地下室に何百俵と米を蓄へてあるところにご案内します、そしたらここにゐるみなの者はもとより日本軍にも給与されることが出来ませう と頭を低くたれた *「ゆう」注 元記事は、沈参謀の言葉以外には改行が全くなく、読みにくいものです。ここでは読みやすくするために、随時改行を入れました。他の本で読めるものと、かなり漢字やふりがなが異なっていますが、こちらが正確です。 (「大阪朝日新聞」昭和十二年十二月十七日 二面 中下の三段見出し、二段記事) なお、このすぐ上に、「富貴山の敵大本営を発見」との四段見出しの大きな記事があり、沈参謀の「富貴山砲台の地下室」云々が間抜けに見えてしまう仕組みになっています。(新聞の面組担当者がそこまで考えたかどうかはわかりませんが) 南京の抗日、惨めな残骸 富貴山の地底深く 敵大本営を発見 豪壮!宛ら大ホテル
(「ゆう」注 意味不明) 南京にて 足立特派員 十六日発 (リード) 南京陥落の数日前まで蒋介石は城内東北角富貴山砲台の近くに設けられた戦時大本営に陣取つて直接軍の指揮に当つてゐたといはれる、その大本営を探すために記者(足立特派員)は十四日富貴山附近をさ迷ふこと二時間、東南麓の岩陰に擬装網で隠された入口を漸く発見することが出来た (本文) 鉄扉を押して地下道に下ればそこからアーチ型のトンネルが富貴山の中に深く突入してゐるのだった (以下、内部の様子についての詳細な紹介がありますが、省略します) なお、北村氏「南京事件の探究」に、こんな記述があります。 >この『新申報』の三七年十二月二十五日の紙面には、幕府山に収容されていた二万人近い中国人捕虜の扱いに関する興味深い記事が載っている。中国人記者(そう考えるのが自然である)が直接に現地を尋ね、山田部隊長の紹介で捕虜の一員であった中央軍教導総隊の沈博施にインタビューしたのである。(P112) この本をお持ちの方は読んでいただければすぐにわかりますが、これは明らかに横田特派員のインタビューをそのまま紹介したものです。「二万人」という数が食い違うのが気になりますが、あとは全く同一内容で、北村氏の「中国人記者(そう考えるのが自然である)」はちょっと的を外したものでした。
├ 全文は初めて見ました。 ja2047 2003/11/19 06:17:50 ツリーへ
Re: 「幕府山の捕虜」の記事
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ja2047 <zguiletmbk>
2003/11/19 06:17:50
全文は初めて見ました。 前半の部分は「秦 南京事件」や「決定版 南京大虐殺」などにも引用されてますが、最後の米の在処の話とは、こういう繋がりになっていたのですね。 >宛ら大ホテル
(「ゆう」注 意味不明) ”宛”は普通「あたかも」と読むのですが、ここでは「さながら」と読ませているようですね。
│└ そうか、「さながら」ですか ゆう 2003/11/19 06:43:16 ツリーへ
Re: 全文は初めて見ました。
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ゆう <pmyqfxtjon>
2003/11/19 06:43:16
そうか、「さながら」ですか いや、昭和1ケタ生まれの方に見ていただいたのですが、読めなかったので・・。 「幕府山の捕虜」の資料、私のページには使うところがありませんので、よろしければ、K−Kさんあたり、お使いになりませんか? *なお、小野賢二氏の論稿「批判 渡辺寛著『南京虐殺と日本軍』」(「季刊 戦争責任研究 第21号」(1998年秋季号)も合わせて入手しています。思い切りボロくその「批判」です。
│ └ 難しい漢字について 渡辺 2003/11/19 16:08:43 ツリーへ
Re: そうか、「さながら」ですか
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/11/19 16:08:43
難しい漢字について 私事都合(^^)により、せっかく掲載いただいた資料も、熟読できなくて申し訳ありません。 しかし、ゆうさんも、そろそろ漢字判読地獄にはまりつつあるようです(^^; 手書きの資料となりますと、かなり厳しい文字判読地獄の世界...どうでもいいような1文字のために資料が引用できないとか。 私の場合、漢字の読みは、岩波の国語辞典(+英和+和英)がパソコンにインストールしてありまして、これでチェックしています。岩波の辞書は物足りない場合もありますが、読みについては、だいたいこれで用が足りています。あ、それから、普通の漢和辞典も
たまに必要ですね。 因みに「宛ら」は岩波の辞書に掲載されていました。それから、なんと Windows
付属の漢字変換で「さながら」から一発変換されました。「しじつごう」が変換されないのに、ったく...
└ 『新申報』について情報ください 渡辺 2003/11/19 16:38:42 ツリーへ
Re: 「幕府山の捕虜」の記事
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渡辺 <oogeblxyju>
2003/11/19 16:38:42
『新申報』について情報ください 『新申報』について何か研究やら資料がありましたら、お教えください。 陸軍では、少なくとも日中戦争の初期には中国報道機関のオーバーライドを意識的にやろうとしていたようです。 南京の放送局を空爆した後、同じ周波数で放送をするという、イラクの米軍さながらの計画もあったようです。『新申報』は、もともと上海にあった『申報』に似せた名前の新聞を特務機関で作ったわけです。 (以上、偕行社『南京戦史資料集』にある資料を、あっちゃこっちゃと調べた結果。) ですから、『新申報』は特務機関の中国語の宣伝紙と察せられますが、埋葬についての記事もあるようですから、それなりの資料性があるようです。残念ながら、実物やマイクロフィルムがそんじょそこらに無いので、記事は閲覧できません。 もし、どなたか『新申報』について詳しく書かれている研究や資料をご存知でしたらお教えください。