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  「東京日日新聞」ベイツインタビュー記事 ゆう 2003/12/07 05:26:01  (修正2回)
  ベイツ=「国民党顧問」説 ゆう 2003/12/07 05:53:41  (修正1回)
  │└資料のありか 渡辺 2003/12/07 18:40:37  (修正1回)
  │ └「国民党」と「中華民国」 ゆう 2003/12/07 19:18:20 
  │  └Re:「国民党」と「中華民国」 渡辺 2003/12/08 00:33:13 
  スキャナーを買いましたので・・・ ゆう 2003/12/07 06:54:56 
  │├>画像を添付できませんでした。どうすれば... ja2047 2003/12/07 08:50:36  (修正1回)
  ││├DELETED  ゆう  2003/12/07 09:24:31  (削除)
  ││├再送信テスト ゆう 2003/12/07 09:32:12 
  ││└何とか送信できるようですが・・・ ゆう 2003/12/07 09:39:07 
  ││ └この写真は、「丸」の鈴木二郎記事の扉と同... ja2047 2003/12/07 09:47:00 
  │├その本、実は私も探していたんですが・・・... 熊猫 2003/12/07 23:05:35 
  ││└この報道は知りませんでした ゆう 2003/12/08 21:32:57 
  ││ └コレクター・ユイですね(^_^) 熊猫 2003/12/09 01:58:11 
  ││  └守山義雄文集 ゆう 2003/12/09 20:47:58  (修正1回)
  │├画報近代百年史第十五集1937〜1940... タラリ 2003/12/07 23:50:24 
  ││└くやしぃーーーいっ!!! 熊猫 2003/12/08 01:00:57 
  │└私も入手しました。 熊猫 2003/12/10 22:52:11 
  同じ記事が無いかと 熊猫 2003/12/12 23:47:18 

  「東京日日新聞」ベイツインタビュー記事 ゆう 2003/12/07 05:26:01  (修正2回) ツリーへ

「東京日日新聞」ベイツインタビュー記事 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/07 05:26:01 ** この記事は2回修正されてます
1937年12月16日付「東京日日新聞」の、ベイツインタビューを紹介します。

この記事は、田中正明氏「南京事件の総括」P167に取り上げられています。洞富雄氏も、田中氏に反論する形で、「南京大虐殺の証明」P20以下でこの記事について触れています。

内容的には、どうも記者の創作くさい部分、怪しげな部分も目につきますが、「資料」としてはなかなか興味深いので、そのまま全文を紹介します。


******************************

「東京日日新聞」昭和12年12月16日 第11面

(横見出し)空襲下の南京生活  金陵大学・米人教授に聴く
(縦見出し)高物価と税金の挟撃  ”足”を奪はれた市民  宋美齢・噂の前線慰問

(リード)
【南京にて若梅、村上両特派員】
記者等は十五日朝鼓楼にある有名な金陵大学を訪れた、屋上に星条旗を掲げたミツシヨン・スクールだ、ここはすでに教授・学生とも漢口へ移転して英、米、独、デンマークの四ケ国で組織された避難民救護所本部に充てられてゐる、刺を通ずると出て来たのは教授エム・エス・ベーツ氏でスマートな米国の青年学徒だ、ベーツ教授は『東日さんですか、私の子供東京にゐます、河井逍(みち)子さん、その他代議士などにも友人が沢山あります、秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです』と記者の手を握つた、そのすぐあとから支那服の老人が出て来た 『東日さんですか、私は日本に留学したものです』と流暢な日本語で語り出した。教授陳■氏だ、陳教授は明治三十八年札幌の北大農学部第一期卒業生だ、当時の学長佐藤男爵の話などそのころの日本留学生生活を懐しみつつ語つた、記者は両氏と次の如く一問一答を試みた

(本文)
「戦争はどこが一番ひどかつたですか」

「中山門、光華門、通済門の各城門や故宮、大校場飛行場目がけて日本軍の空爆や砲弾の集中は物すごかつた、ここは幸ひに空襲砲撃から隔離され安全地帯だつたので夜など二階から見物したが実に荘厳でした」

「城内守備の支那軍はどの位だつたですか」

「五万乃至十万といはれ四川、広東、広西、福建の全国から集まつた兵隊です、総指揮官は唐生智です」

「蒋介石が戦線を視察したといふがその姿は見なかつたですか」

「新聞にはさう書いてありましたが日本の南京総攻撃がはじまつてからは恐らく南京にはゐなかつたでせう。宋美齢女史はなかなか活発な婦人ですから幾度も前線に慰問に出たといふ話です」

「上海と連絡を断たれてからの南京の市民の生活はどうでしたか」

「南京は戦争前は百万の人口があつたのですが、上海が陥落して連絡がなくなつてから最近一ケ月間に三分の一に減り、今避難民はざつと十万ばかり残つてゐます、何しろ南京は生産都市でないため製造品の入荷がバツタリ消えてからは物価は気狂ひのやうに騰つてしまひました、マツチ、煙草、砂糖、衣服の類は二倍の騰貴、砂糖一片四十銭もする、それでも実際は品物がないから市民の手にはなかなか渡りません。石炭は五割、しかし米と野菜、塩は揚子江沿岸から出るので食ふだけは不自由しませんでした」

「戦争にバスが徴発されたので乗物は困つたでせう」

「もう二タ月も前から市内のバスは殆ど運転されず二週間前からは一台もありません、唯一の交通機関がないので市民の多くは歩くよりほか仕方がありませんでした、自家用の車を持つてゐるものでもガソリンは一日一台五ガロン以内の消費を制限されました」

「軍費のため大分税金が上つたでせう」

「戦争がはじまつてから財政部で取る所得税は月収三十円が毎月五十銭、百円が二円五十銭の割合で取つてゐます、飯店(料理屋)で食事をしても一円につき五銭の税がかかり映画を見ても入場料の一割が税金、何もかも税金づくめでした」

「支那兵は塹壕や陣地構築に土民を使ふやうだがその制度は」

「概して南京市民はあまり使はれなかつたが郊外の人々は軍から命令があると百姓達は田畑からすぐ戦場に送られ使はれてゐたさうです」

******************************


この記事のすぐ下に、浅海特派員の、「外人記者連、口々に 日本軍隊を礼賛 「第一チップを取らない」」という記事が掲載されています。14日昼過ぎの、浅海特派員と、スティール、マツクダニエル、スミスの三記者との会見記録です。

この記事は、最後にこう締められています。

(浅海記者)「これからどうするんだ」
(外人記者)「早速ニュースを送るだけだ、うんと日本軍の正義を宣伝するつもりだ、期待してくれたまへ」

三人のうち誰の発言かはわかりませんが、どう考えても「外人記者」が「正義を宣伝するつもりだ」などという発言を行うはずがありません。田中氏は、ベイツの「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」の発言を「虐殺がなかった」根拠として使っているようですが、この頃のこのような新聞記事のつくりを見ると、このベイツ発言も記者の「創作」である可能性が高い、と考えるべきでしょう。


*なお、1938年1月4日付「東京朝日新聞」にも、ラーベ、ベイツへのインタビューが掲載されています。コピーしそこなったので紹介はできませんが、これまた、まずありえない「日本軍礼賛」発言でした。



また、12月17日には、日本に残っていたベイツの家族へのインタビューが、写真付きで掲載されています。


**************************************

「東京日日新聞」昭和12年12月17日 第11面

(見出し)
戦火に割かれて三月 夫君の消息に”奇遇”
本社の南京特電に感謝するベーツ博士夫人

(本文)
既報、本社の若梅、村上両特派員が十五日朝南京鼓楼にある金陵大学を訪れた際会見した同大学教授M・S・ベーツ博士(四○)はその談話中に「妻子は東京に在る」といふことであつたが、その夫人と愛息は友人の世田谷区上北沢ニの四七五米国宣教師ミス・トラウト方に寄寓し、戦線の南京に留まって避難民の救助に献身的な努力を続けてゐる夫君の身を案じてゐたところ、博士と本社特派員の会見記の出たのを見て非常に喜んでゐる。十六日午後同夫人を寄寓先に訪ふとベーツ夫人(三六)は満面に喜びと安堵の色を浮べて次男ロバート君(九ツ)と共に記者の手をとらんばかりに応接間に招じ喜びの言葉を矢つぎ早に語るのだった。

ほんとうに安心しました。御社の若梅、村上両特派員のお蔭で三ヶ月ぶりに元気な様子を知り今までの心配が一度にスーッと消し飛んでしまひました。去る六月下旬夫とロバートと三人で仕事の用務をかねて野尻湖に避暑に参りましたが、今度の事変のため、夫だけ九月中旬南京に帰り、私共はトラウトさん方に御世話になつてゐます、その後戦線が拡大し正義日本軍の勝利は一歩一歩確実になつて行きましたが、これと同時に夫からの便りは全然絶え私からいくら手紙を出しても何の返事もなく、それこそどんなに心配したことでせう、殊に数日前米艦パネー号事件が伝へられた時は「もしや夫が乗り込んではゐなかつたらうか」とここ数日間は食物も喉を通りませんでした。米国大使館に調査を頼みましたが詳細がわからずスツカリあきらめてゐた時、御社の特電で非常に元気に活躍してゐることを知りました。私ども母子の喜びを御想像下さい・・・・ほんとうに有りがとう御座いました、若梅、村上両氏にくれぐれもよくお礼を申上げて下さい。早速私も夫に通知し厚くお礼を申させます

と嬉し涙を浮べて語ると、ロバート君も上手な日本語で『ドウモ、アリガトウゴザイマシタ』と可愛い金髪の頭を下げて記者の手をしつかり握つた

ベーツ博士は北米オハイオ州ハイラム大学を卒業、ロード・スカラーシップを得て英国オツクスフオードに学び更に帰米後エール、ハーヴアド両大学を卒業、支那に渡り爾来十七年間金陵大学で歴史と国際事情を教授する傍ら日支親善のため活躍を続けてゐる親日家で今回の南京陥落の際には避難民のため安全地帯設置委員として身の危険を忘れて活動した在南外人の恩人である。しかも親日家の同博士は数年前から長男モルトン君(一ニ)を神戸のカナデイアン・アカデミーに遊学させ真の日本の姿を学ばせてゐる。

**************************************


**余談になりますが、12月3日付「東京日日新聞」には、「夏シャツの勇士達へ 嬉し真綿の襦袢 川越の料理屋の女将さんが真心こめた贈り物」という記事が掲載されています。「この二、三日上海戦線には猛烈な寒さが訪れて酷暑の時分からここに活躍する飯塚部隊の戦士たちの中にはいまだに夏服、夏シャツでふるへてゐる者が多数あるが・・・」云々という書き出しです。前後を眺めているうちに気がつきましたので、合わせて報告します。

  ベイツ=「国民党顧問」説 ゆう 2003/12/07 05:53:41  (修正1回) ツリーへ

Re: 「東京日日新聞」ベイツインタビュー記事 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/07 05:53:41 ** この記事は1回修正されてます
ベイツ=「国民党顧問」説

ベイツ絡みの話題を、もう一つ。

ベイツは「国民党顧問」―最近、掲示板の流行です。

一応これは、東中野氏の「功績」ということになっているようですね。『南京「虐殺」研究の最前線 平成十五年度版』では、次のような記述が見られます。

>しかもベイツは中華民国政府の「顧問」であったことも判明した。又、フィッチの夫人は蒋介石の夫人と「親友」であったことも分った。(同書P260)

あっさりしたものです。こんなわかりきったこと、いちいち説明する必要もないだろう、と言わんばかりです。


さて、この根拠は何か、とこの本を見ていきますと、このような「注」があります。

(5)Esther Tappert Moetensen Papers, Record Group No21, Box7, Folder 120, Yale Divinity School Library, New Haven, Connecticut.

よくわからないが、何やらもっともらしい。さぞかし、しっかりした根拠に基づいてこの記述を行っているんだろうな・・・と、ほとんどの方が錯覚すると思います。


さて、この本では省略されていますが、この「根拠」は、次のようなものであったようです。


**************************************

「南京大学教授ベイツの”化けの皮”」

そのティンパーリと反日的な点で同志関係にあったベイツも、中華民国政府顧問であったことも次の史料から明らかになった。

それを証明したのが、イエール大学で私が発見した小さな新聞記事の切り抜きであった。写真説明は次のようになっている。

「中国の首都南京の城門を攻める日本軍の砲撃がこだまするなか、それに怯むことなく、オハイオ州・ハイアラム出身の南京大学歴史学教授にして、中華民国政府顧問のマイナー・サール・ベイツ博士(写真)は、城壁で囲まれた南京城内の自らの持ち場を離れることを拒否した。アメリカ大使館は、ベイツ博士が最後の瞬間に逃げることを許可し、彼に、城壁をよじ登って降りるさいの縄ばしごを提供した」

私たちが新聞の切り抜きをする際、しばしば購読紙名をいちいち書かないのと同じように(「ゆう」注 普通は書くぞ)、この切り抜きにも、何月何日の何新聞か、何も書かれていない。ただ、「日本軍が南京の城門を攻めるなか」とあることから、昭和十二年の十二月十三日の城門陥落前後の記事と判断される。

この紹介記事の中に、ことさら虚偽の履歴が書き込まれるべき強い理由も見当たらないから、ベイツが「中華民国顧問」であったことを疑う理由もないであろう。

(「諸君」2002.4 P154)

**************************************


えっ、これだけ? と、読んだ方は驚かれると思います。

氏がたまたま「イエール大学」で見つけた、紙名もわからない、どこの誰が切り抜いたかもわからない「写真説明」に、たまたま「国民党顧問」の肩書きで紹介されていたことだけから、「明らかになった」といきなり断定されても・・・。他に「ベイツ=国民党顧問」説を裏付ける資料が何も存在しない以上、この記事については、記者の誤認、という可能性も当然あるわけですから。


まあ、ひょっとすると、今後研究が進んで、ベイツが「国民党顧問」であったことが「証明」されないとも限りません。しかし少なくとも、これでは「断定」の根拠としては弱い、と見るのが普通でしょう。

  │└資料のありか 渡辺 2003/12/07 18:40:37  (修正1回) ツリーへ

Re: ベイツ=「国民党顧問」説 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/12/07 18:40:37 ** この記事は1回修正されてます
資料のありか

ゆうさん:>
>さて、この根拠は何か、とこの本を見ていきますと、このような「注」があります。

>(5)Esther Tappert Moetensen Papers, Record Group No21, Box7, Folder 120, Yale Divinity School Library, New Haven, Connecticut.

それは、ここの↓ Esther Tappert Moetensen 関係文書 Box 7. File 120 のことですね。
http://webtext.library.yale.edu/xml2html/divinity.021.con.html#seriesN3008
インデックス:
http://webtext.library.yale.edu/xml2html/divinity.021.nav.html

ベイツは、歴史学ですから、まぁ、故宮博物館で助言[advise]していた顧問[adviser]かもね(^^)

  │ └「国民党」と「中華民国」 ゆう 2003/12/07 19:18:20  ツリーへ

Re: 資料のありか 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/07 19:18:20
「国民党」と「中華民国」

インターネットで検索できるとは。渡辺さんの情報収集能力に、驚きました。


>ベイツは、歴史学ですから、まぁ、故宮博物館で助言[advise]していた顧問[adviser]かもね(^^)

で、私は勘違いしていますね。私は「国民党顧問」と表現しましたが、東中野氏もこの記事も、「国民党顧問」ではなく、「中華民国顧問」と書いてあります。(ネットでも、「勘違い」の引用が見られます)

「国民党顧問」であれば「政治」の匂いが濃厚でしょうが、「中華民国顧問」であれば、おっしゃるとおり、単なる「助言者」であった、という可能性もありそうです。

  │  └Re:「国民党」と「中華民国」 渡辺 2003/12/08 00:33:13  ツリーへ

Re: 「国民党」と「中華民国」 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/12/08 00:33:13
Re:「国民党」と「中華民国」

>インターネットで検索できるとは。...

イエール神学図書館には、ベイツの文書をはじめ、南京事件関係の資料がたくさんありますから、資金ができたら、行ってみたいものです。ということで、そのときに、どこに資料があるかチェックしているわけです。
オンラインで資料の所在が検索できる資料館や図書館でないと話にならないので、そういうところを捜しています。
国連の公文書館は、いまのところオンラインサービスはないみたいだし、国際赤十字に至っては、全くあてがありません。何か情報があったらお願いいたします。

>で、私は勘違いしていますね。私は「国民党顧問」と表現しましたが、東中野氏もこの記事も、「国民党顧問」ではなく、「中華民国顧問」と書いてあります。(ネットでも、「勘違い」の引用が見られます)

それは、以前から気になっていたところです。
しかし、中華民国でも国民党でも、ま、いいか、と思って問題にしなかったんです。

『季刊 中帰連』21号(2002夏) pp.66-68 あたりを見ていただけると、秦氏が「蒋介石政権」、私が「中国」、北村氏が「国民党」、『近代来華外国人名辞典』が「国民党政府」と、微妙に表現が違うことが、おわかりになるでしょう。当時の中国に対する認識の違いが現われているのかもしれません。ただし、不正確なのは北村氏だけですね。
意図的に「国民党」と表現していると思います。もし、問題になれば、国民政府も国民党も同じことだと答えるつもりなんでしょうね。確かに、そういう部分もありますからね。
これからは、私も「国民党」と「中華民国」については、区別するように注意しましょう。

ところで、当時の英文の資料では、通常は China、政府なら national government となっていて、Republic of China (ROC) というのは、あまり見たことはないですね。 「中華民国顧問」というのも、本当かな、という気はしますけど。あるいは、中国という表記が嫌いなんじゃないかな(^^)







  スキャナーを買いましたので・・・ ゆう 2003/12/07 06:54:56  ツリーへ

Re: 「東京日日新聞」ベイツインタビュー記事 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/07 06:54:56
スキャナーを買いましたので・・・

こちらは、「ベイツ」とは関係のない投稿です(^^)

「画報 近代百年史 第十五集 1937〜1940」(国際文化情報社、1952.11.5発行)という本を入手したのですが、この中に、「南京大虐殺 日本軍の乱行」というページがあります。(余談ながら、この時期に、もう「南京大虐殺」という表現が使われていますね)

解説文をそのまま引用しますと、

>南京に入城した日本軍(主として中島師団)は、市内の掃蕩に当つて、近代史上最大の虐殺事件といわれる恐るべき悪虐行為を行つた。事件の証人たちの述べるところによれば「2万人からの男女、子供達が殺され」4週間にわたつて南京は血の街と化したといわれる。ほとんど総ての女性は老若をとわず野蛮な被害を受け、家という家は掠奪を受けた。「南京における日本軍の乱行」(南京の強姦)として世界に宣伝され」て、日本の名誉は地に墜ちた。日本軍はこの事実が外に漏れることを恐れ、あらゆるニュース・ソースに対して厳重な検閲をおこなつたが、一部外国人も残留しており、また事実は覆いかくすべくもなかつた。この南京の残虐行為こそ、結局中国をして徹底抗戦に導く結果をもたらしたものであつた。

この時期の「南京事件」への認識がわかって、結構興味深いものです。


さて、写真については、

>この写真は当時中島師団に従軍した本誌の不動編集長の撮影したもので、本誌によつて初めて世に出たものである。

とのことで、これが初出であるようです。タイトルを並べると、

>刑場へ運ばれる中国人捕虜
>銃剣で突殺した瞬間
>ころがる子女の虐殺死体
>死体にとびつく野良猫
>兵市民の区別がつかぬ捕虜群と処刑された人々

といったところです。中には「捕虜収容所」の看板の写真があります。そういえば東中野氏が、「南京に捕虜収容所があった」ことを、ものすごい大発見であるかのように書いていましたね(^^)


私は「映像資料」についてはほとんど知りませんので、ひょっとすると有名な写真なのかもしれませんし、あるいは「どうも怪しい」ということになっている写真なのかもしれません。とりあえず、スキャナーを買った記念に(^^)、この投稿に画像を添付しておきます。


*・・・と思ったら、「サーバーエラー」になってしまい、画像を添付できませんでした。どうすればアップできるのでしょうか?

  │├>画像を添付できませんでした。どうすれば... ja2047 2003/12/07 08:50:36  (修正1回) ツリーへ

Re: スキャナーを買いましたので・・・ 返事を書く ノートメニュー
ja2047 <zguiletmbk> 2003/12/07 08:50:36 目次1.jpg ** この記事は1回修正されてます
>画像を添付できませんでした。どうすればアップできるのでしょうか?


参照で画像のある場所を指定するだけでよかったはずですが・・・

ひょっとして、画像の解像度を上げすぎて容量が大きすぎではないですか?

かくいう私も、「33連隊編成表」の画像はうまく添付できたのに、「浅海一男記事」の場合、ファイル名だけ表示されて、画像は未検出になっています。

ちょっとテスト

・・・出ませんね(^^;;

  ││├DELETED  ゆう  2003/12/07 09:24:31  (削除) ツリーへ

Re: >画像を添付できませんでした。どうすれば... 返事を書く
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/07 09:24:31 ** この記事は削除されました

  ││├再送信テスト ゆう 2003/12/07 09:32:12  ツリーへ

Re: >画像を添付できませんでした。どうすれば... 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/07 09:32:12 gahou001.jpg
再送信テスト

あまりにばかでかいサイズの画像になってしまったようなので、解像度を「低い」まで落として実験です。

  ││└何とか送信できるようですが・・・ ゆう 2003/12/07 09:39:07  ツリーへ

Re: >画像を添付できませんでした。どうすれば... 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/07 09:39:07 gahou002.jpg
何とか送信できるようですが・・・

続きです。
しかし、サイズがばかでかいですね。何とか1ページに収めて表示する方法はないのでしょうか?

  ││ └この写真は、「丸」の鈴木二郎記事の扉と同... ja2047 2003/12/07 09:47:00  ツリーへ

Re: 何とか送信できるようですが・・・ 返事を書く ノートメニュー
ja2047 <zguiletmbk> 2003/12/07 09:47:00 P95-2.jpg
この写真は、「丸」の鈴木二郎記事の扉と同じですね。

サイズは「画像サイズ」で変えればいいのですが。
2ページを1ページに結合するのは適当な画像ソフトがあれば簡単です
PAINTでも可能だけど、スキャナのオマケでなんか付いてると思いますよ。

  │├その本、実は私も探していたんですが・・・... 熊猫 2003/12/07 23:05:35  ツリーへ

Re: スキャナーを買いましたので・・・ 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <xhcvsuquwp> 2003/12/07 23:05:35
その本、実は私も探していたんですが・・・・
http://j.people.ne.jp/2000/02/14/newfiles/a1290.html
流石、ゆうさん!恐れ入りました。^^

  ││└この報道は知りませんでした ゆう 2003/12/08 21:32:57  ツリーへ

Re: その本、実は私も探していたんですが・・・... 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/08 21:32:57
この報道は知りませんでした

ネット古書店からたった1000円で入手したのですが・・・。
試しに国会図書館の所蔵本を検索してみたら、簡単にヒットしました。

残念ながら、「コレクター・ゆう」を名乗るには、まだまだ道は遠いようです(笑)。

*一応書きますと私の娘が大好きなテレビ番組のもじりなのですが、わかりますよね?

  ││ └コレクター・ユイですね(^_^) 熊猫 2003/12/09 01:58:11  ツリーへ

Re: この報道は知りませんでした 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <xhcvsuquwp> 2003/12/09 01:58:11
コレクター・ユイですね(^_^)
一瞬、「ユウ」だったかなと思ってしまいました。
12月23日の「大阪毎日新聞」の記事も入手されています?
http://j.people.ne.jp/2000/01/25/newfiles/a1360.html

実は、来週からこつこつと「西日本新聞」と「福岡日日新聞」の南京事件当時の記事を調べて見ようかなと思います。年末は忙しくてあまり出来ないと思いますが、来年あたりに何か収穫があれば報告します。

これなら、「コレクター・ゆう」もまだ入手してないと思いますが・・・・。

  ││  └守山義雄文集 ゆう 2003/12/09 20:47:58  (修正1回) ツリーへ

Re: コレクター・ユイですね(^_^) 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/09 20:47:58 ** この記事は1回修正されてます
守山義雄文集

まあ一度、「コレクター・ゆう」のジョークを使ってみたかったものですから(^^; 。私の資料源は公共図書館とネット古書店だけですので、とても「コレクター」なんてレベルにはありません。世界を視野に入れる大コレクター、渡辺さんに笑われそうです。

先日、「通州事件」の記事をチェックするついでに、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」「東京日日新聞」の1937年12月の記事をパラパラと眺めてきました。先に紹介したベイツインタビューなど、結構面白い記事がありましたが、「大阪毎日新聞」はとりあえず私の守備範囲外です。ぜひ、紹介して下さい。

(面白い記事だと思いますが、「人民日報」の紹介は、どうも針小棒大のような気も・・・)


さて、昨日、「守山義雄文集」が我が家に届きました。題名から、「朝日新聞・守山記者への追悼文集」という感じの薄っぺらいパンフレットを想像していたのですが、あにはからんや、守山氏の生涯の記事を集大成した、450ページをこえる、分厚い本でした。

私が収集してきた「1937年12月」の記事も、何点か載っています。日中戦争の記事は意外と少なく、ベルリン支局長時代より後の記事が中心なのですが、当時の日本のジャーナリストのナチスドイツへの視点がよくわかり、読み物としてもなかなか面白く読めます。今日の「通勤の友」にしてきました。

*「マニア」でない読者のために一言申し添えますと、この本には、足立和雄記者が寄せた「南京の大虐殺」という有名な文が収録されています。私の目当てもこれでした。


今日帰ってみたら、注文していた福島民友新聞「郷土部隊戦記」、また「野州兵団奮戦記」(宇都宮百十四師団)が到着していました。秦氏の「盧溝橋事件の研究」も読まないといけませんし、しばらくは通勤に退屈しないで済みそうです(^^)。

  │├画報近代百年史第十五集1937〜1940... タラリ 2003/12/07 23:50:24  ツリーへ

Re: スキャナーを買いましたので・・・ 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/12/07 23:50:24
画報 近代百年史 第十五集 1937〜1940。
ああ、これなら持っています。子どもの頃から読んでいました。

熊猫さんのご指摘のとおり、人民日報でも紹介されたものです。
人民日報の記事を読んだときは、こんなものが今更証拠?
と驚いたものです。

あと、スキャナーを買うとたいてい、おまけのソフトが
ついており、縮小できると思うのですが。

私はおまけのソフトよりフリーソフトのVixを愛用しています。
窓の杜ですぐdownloadできます。

  ││└くやしぃーーーいっ!!! 熊猫 2003/12/08 01:00:57  ツリーへ

Re: 画報近代百年史第十五集1937〜1940... 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <xhcvsuquwp> 2003/12/08 01:00:57
くやしぃーーーいっ!!!
タラリさんも持っていましたか・・・・・。
人民日報を読んだときは、きっとすごい資料だろうと思って、なんとしても入手して皆さんを驚かそうと企んでいたのですが・・・・。私が、あまかったです。

  │└私も入手しました。 熊猫 2003/12/10 22:52:11  ツリーへ

Re: スキャナーを買いましたので・・・ 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <xhcvsuquwp> 2003/12/10 22:52:11
私も入手しました。
第一集〜第十八集全巻そろいのバインダー付で3000円でした。欲しいのは第十五集だけなんですが・・・・。
バラの第十五集は見つかりませんでした^^
きっと誰かが買ったんでしょうね^^;

  同じ記事が無いかと 熊猫 2003/12/12 23:47:18  ツリーへ

Re: 「東京日日新聞」ベイツインタビュー記事 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <xhcvsuquwp> 2003/12/12 23:47:18
同じ記事が無いかと
「福岡日日新聞」に同じ記事が無いかと調べたのですが、見つけることが出来ませんでした。「南京事件」日本人48人の証言(阿羅健一)でお馴染みの、三苫幹之介記者の記事が多かったです。地域によって新聞記事の内容って違うようですね。
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乱れ飛ぶデマに対し軍当局談を発表
【上海廿四日発同盟】最近某国人に依ると某国々旗を日本兵が水中に投じたとか又は略奪を行つたとか種々の虚報が飛んでゐる模様であるが軍としては斯の如き事項を未然に防ぐことに対しては作戦の終始を戒飭しており軍隊又勝つておごらず堂々と日本軍の真面目を発揮してゐることであるから斯くの如きことが起らうとは全く信ぜられず戦ひの一段落と云ふので、一般にこれらのデマ続出するの傾向がある時特にこれらに迷はされて、皇軍の真正なる存在を傷つけることなき様切望に堪へぬ
昭和十二年十二月廿四日 福岡日日新聞
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当時から、日本軍の略奪の噂(デマとなっていますが)があったということ・・・・・。


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