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  昭和12年12月15日付、火野葦平の手紙 ゆう 2003/12/13 15:48:40  (修正1回)

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昭和12年12月15日付、火野葦平の手紙 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/12/13 15:48:40 ** この記事は1回修正されてます
「文化人と南京事件」(仮題)というコンテンツを考えています。過去に投稿してきた「大宅壮一」「西条八十」に加え、渡辺さんの「問答有用」板への投稿以外ではなかなか読むことのできない「石川達三」(「読売新聞」記事確認済み)、といったラインアップを予定しています。

言うまでもありませんが、これは、

>大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀市、あるいは西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった高名な評論家や詩人、作家も陥落とほとんど同時に入城している。

>終戦になり、東京裁判が始まって、軍の作戦や旧軍人に対する批判が高まった時でも、これらの作家や評論家や詩人のだれ一人として南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。

>批判力旺盛な口八丁、手八丁と言われた大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった。

という、田中正明氏の記述(「南京事件の総括」P237〜P238)を意識したものです。


その中に、「南京」そのものではありませんが、「火野葦平」も取り上げようと考えています。ネタは、「国文学」2000年11月号に掲載された花田俊典氏の論稿、「火野葦平の手紙 昭和十二年十二月十五日、南京にて」です。

*一応解説しておきますと、「火野葦平」は、第十八師団第百十四連隊(小倉)に「伍長」として従軍し、のちには軍報道部に勤務、「徐州会戦」をテーマにした「麦と兵隊」などの戦争文学を著した人物です。


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それから、戸口の方へ廻ると、中でがやがや声がして居ます。戸を破らうとしたが、頑丈で破れない。コンクリイトの厚さは二尺近くもあります。見ると、扉の横から電話線が通じてある、これは相当な奴が居ると思つたです。戸口を銃剣でつついて、「ライライ」とどなりました。支那語は知らんし、来い来い、といふ言葉で、出て来いといふ意味を云ふ外なかつたのです。

ライライと何度もどなつてゐると、中の奴が、戸口の方へ来る様子です。出がけに打たれてもばからしいと思つてゐると、戸が内側からあいて、若い支那兵の顔が見え、向ふから銃をさし出しました。抵抗しないといふ意味でせう。それから、次々に銃を出し初めましたが、何と、十鋌(ママ)、十五、二十、と、意外にも三十以上も出しました。それから四人最初出て来ましたが、一人は頬べたが半面千断れてゐました。分隊の兵がそこへ坐れといふと、一人逃げ出したので、すぐ、その兵隊が射つと、たほれました。

ライライといふと、次々に出て来るのが、皆、若い兵隊ばかりです。これは所謂精鋭なる正規兵です。手榴弾にやられたらしく、アゴのないのや、眼のつぶれたのや、息たえだえのやが、出て来て、手をあはせて、ぺこぺこしながら、二十四五人も出て来ました。あんまりたくさん居るので、応援をよぴにやつたら、山崎少尉はじめ、一小隊の兵隊が十人ばかり来ました。手伝つて貰つて、ジユズつなぎにしました。

まだ居るらしいのが、出て来ないので、危いから入らんがよいと兵隊がいひましたが、拳銃をもつて中に入りました。それから五人ほど出て来た。

すると、奥の方で大声でわめく声がする。手榴弾でやられて、うなつてゐるのだらうと思つたのですが、とうも、よく聞くと、泣き声らしい。暗いので、すかして見ると、二人ほど居るのが、泣きわめいてゐるのです。

ライライとどなつても、しばらく出て来ませんでしたが、私が入つて行くと、立ち上つて、わんわん泣いてゐる、暗いので、戸口の近くまで引き出すと、十六七の可愛らしい少年兵です。首の所に手をやつて、僕をおがむやうにし、命だけは助けてくれといふ意味でせう、しきりに、何かいふのかわからないけれども、田舎に、両親も居るし、日本に抵抗したのが悪かつた、親のところへかへりたい、といふ意味らしく感じました。眼を泣きはらして、僕の両肩へ、すがりながら表に出ました。

皆、兵隊がつないで、大隊本部の位置に引き上げました。トーチカの中から、書類や、弾薬をとつて、かへりました。トーチカの中は寝台もあり、天井に、傘がならべて、つるしてあつたのは支那式だと思ひました.傘に、サツクをかぷせて、ちやんと青天白日のマークが入つてゐる。それを、支那兵は行軍の時はかついで行くらしいのです。大隊長も非常によろこんでゐました。

つないで来た支那の兵隊を、みんなは、はがゆさうに、貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、はがいい、とか何とか云ひながら、蹴つたり、ぶつたりする、誰かが、いきなり銃剣で、つき通した、八人ほど見る間についた。支那兵は非常にあきらめのよいのには、おどろきます。たたかれても、うんともうん(ママ)とも云ひません。つかれても、何にも叫び声も立てずにたほれます。

中隊長が来てくれといふので、そこの藁家に入り、恰度、昼だつたので、飯を食べ、表に出てみると、既に三十二名全部、殺されて、水のたまつた散兵濠の中に落ちこんでゐました。山崎少尉も、一人切つたとかで、首がとんでゐました。散兵濠の水はまつ赤になつて、ずつと向ふまで、つづいてゐました。

僕が、濠の横に行くと、一人の年とつた支那兵が、死にきれずに居ましたが、僕を見て、打つてくれと、眼で胸をさしましたので、僕は、一発、胸を打つと、まもなく死にました。すると、もう一人、ひきつりながら、赤い水の上に半身を出して動いてゐるのが居るので、一発、背中から打つと、それも、水の中に埋まつて死にました。

泣きわめいてゐた少年兵もたほれてゐます。壕の横に、支那兵の所持品が、すててありましたが、日記帳などを見ると、故郷のことや、父母のこと、きようだいのこと、妻のことなど書いてあり、写真などもありました。戦争は悲惨だと、つくづく、思ひました。

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「ライライ」と言って誘い出し、「ジユズつなぎにし」た捕虜を、「貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、・・・とか何とか云ひながら」、上官の命令もないままに、自然発生的に「誰かが、いきなり銃剣で、つき通し」て、結果として三十二名全員を殺害してしまう。これはちょっと「正当化」のしようがない「捕虜殺害」でしょう。

当時の戦場ではこの種の「捕虜殺害」が常態化していたことを伺わせる資料のひとつです。

なお、元の文は、とんでもない長文です。全文はこちらにアップしておきましたので、関心のある方はご覧下さい。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/hinotegami1.html


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