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ちょっと古い新聞記事ですが 熊猫 2004/01/01 16:14:31 (修正1回)
├ 写真は南京棲霞寺を撮影したもの。南京棲霞... 熊猫 2004/01/01 16:21:48 (修正4回)
│├ 今度はイギリス公文書館だそうです。 ja2047 2004/01/03 07:29:32
│└ シンバーグの正式な名前が解りました。 熊猫 2004/02/01 18:45:11 (修正1回)
│ └ ラーベの日記=BernhardArpSindberg 渡辺 2004/02/02 00:13:31
│ └ また、宿題ができましたね(^^; 熊猫 2004/02/02 20:18:45
├ 命がけの大災難の中、棲霞地区は二つの難民... 熊猫 2004/01/10 02:01:17 (修正1回)
├ 中山門での、人道と残虐の対峙 熊猫 2004/01/17 05:46:38 (修正1回)
│└ 固有名詞について 熊猫 2004/01/17 14:20:50
│ └ 人民日報では、栖霞となってましたので後日... 熊猫 2004/01/18 01:47:20
│ └ 棲霞山と栖霞山 渡辺 2004/01/18 18:24:44
│ └ 渡辺さんがご指摘した内容については、勉強... 熊猫 2004/01/19 03:07:14
│ └ Re:「棲」と「栖」 渡辺 2004/01/19 12:56:00
│ └ ラーベの日記では「棲」が使われてますね。... 熊猫 2004/01/22 01:53:33
├ 人類の名義で、すべてをこの関係者に 熊猫 2004/01/23 13:47:14 (修正2回)
│└ 翻訳していて、気になったのですが「ラーベ... 熊猫 2004/01/29 00:12:28
│ └ 前から不思議だったのですが・・・ ゆう 2004/01/29 21:55:27
│ └ 中国語版にもありません(^^)。1月1日は... 熊猫 2004/01/29 23:59:59
├ 彼らは更に多くの外国人に棲霞の歴史の目撃... 熊猫 2004/01/31 16:02:08 (修正1回)
│└ 南京事件資料集1アメリカ関係資料編P31... 熊猫 2004/01/31 23:07:08
│ ├ 明白了!明白了! 熊猫 2004/02/01 03:06:50
│ │└ huashucun 渡辺 2004/02/01 12:39:38
│ │ └ これで120%間違いありません。 熊猫 2004/02/01 14:11:09
│ └ 現在の南京の地図ですが 熊猫 2004/02/07 18:17:16
├ “いまだに中国人が私達を覚えているなんて... 熊猫 2004/02/01 22:56:18 (修正1回)
├ 戦後、ギュンターは赤十字勲章を授与 熊猫 2004/02/07 20:30:39 (修正3回)
└ 中国に帰った41枚の歴史的写真 熊猫 2004/02/08 03:22:24 (修正2回)
├ 2月8日21時25分:棲霞地区の翻訳は修... 熊猫 2004/02/08 21:30:19
└ 「写真」について 渡辺 2004/02/09 12:34:07
└ 原文は、「照片」zhao4pian4ですので写真と... 熊猫 2004/02/09 20:48:07
├ 東中野氏が話題にしていますが・・・ ゆう 2004/02/09 21:08:05
│└ 樺墅村については、その後、色々と調査しま... 熊猫 2004/02/10 00:36:48
└ ごめん 渡辺 2004/02/09 23:25:20
ちょっと古い新聞記事ですが 熊猫 2004/01/01 16:14:31 (修正1回) ツリーへ
├ 写真は南京棲霞寺を撮影したもの。南京棲霞... 熊猫 2004/01/01 16:21:48 (修正4回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/01 16:21:48 ** この記事は4回修正されてます
写真は南京棲霞寺を撮影したもの。南京棲霞に居住した老人は、当時の寺は難民でぎっしり詰まって、厳冬の時期に回廊の上でさえ人は寝たと言う。写真にある難民の胸元の更に下には1本の帯状の布がある。難民の大部分は子供である。 ■2000年5月13日、記者は歴史書類の中から南京大虐殺当時の中国の難民を救助することに立ち上がったドイツ人カール・ギュンター博士に関係する記述を見つけた。 ■
2001年8月29日、ドイツにある中国企業の社長の金存桐は北京に帰って、41枚の歴史写真を一枚のCD-ROMに記録して、慎重に記者の手元に渡した。 歴史書類の中からカール・ギュンターを見つけた経緯 去年5月12日、記者は南京大学史学部の高興祖教授が日本軍の中国侵略による南京大虐殺の目撃者を訪ねることを報道した―――デンマーク人のベルンハード・アルプ・シンバーグ(B.A.Sindberg【Bernhard
Alp
Sindberg】)の消息。翌日、記者は南京から遠い郊外の江南セメント工場に向かって、シンバーグの資料を引き続き探して、意外な出来事を発見した。 【ラーベの日記英語版ではBernhard
Arp
Sindbergとのこと】 この工場の協力で、記者は数枚の黄ばんだ歴史書類を閲覧して、ギュンターのフルネーム、生涯の事績を見つけ、そして一枚の35歳の外国人紳士の写真に出会った、その当時彼は難民達に“老昆”、“ドイツの昆先生”と呼ばれていた昆徳(Karl
Günther,現代語訳“卡尓・京特【カール・ギュンター】”)。これは数十年隔てた後に、あの歴史を研究で人々は初めてギュンターのイメージ出会った、そして彼に対してより詳しい理解を始めた。【他にも「孔特」とも呼ばれていました。】 1937年末と1938年初、ギュンターとシンバーグは一緒に、南京の棲霞山であのとても悲惨な大虐殺を目の当たりにした、そして力の限りを尽くして江南セメント工場と棲霞寺の二つの難民キャンプの4〜5万中国難民を助け、難民から“守り神”
だと見なされた。(本紙去年5月15日、17日の報道より) 【棲霞山:http://etxly.com/jdjsh/jiangsu/nanjing/xixiashan.htm 】 最近の取材で、南京棲霞の当時の幾人かの難民は、もしドイツ人の“老昆”がいなければ、その時死んだ民衆は間違いなく更に多くなると依然として非常に感嘆して言っている。
│├ 今度はイギリス公文書館だそうです。 ja2047 2004/01/03 07:29:32 ツリーへ
│└ シンバーグの正式な名前が解りました。 熊猫 2004/02/01 18:45:11 (修正1回) ツリーへ
Re: 写真は南京棲霞寺を撮影したもの。南京棲霞...
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/01 18:45:11 ** この記事は1回修正されてます
シンバーグの正式な名前が解りました。 Bernhard Alp
Sindberg 追記して修正しています。 中国語の漢字より、ベルンハード・アルプ・シンドベーグと訳したのですが、漢字も馬鹿にできませんね。カタカナよりもいいかも?
│ └ ラーベの日記=BernhardArpSindberg 渡辺 2004/02/02 00:13:31 ツリーへ
Re: シンバーグの正式な名前が解りました。
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/02/02 00:13:31
ラーベの日記 = Bernhard Arp
Sindberg どういう趣旨だったか、忘れましたが、「シンバーグ」のフルネームは「ラーベの日記」に出てきますよ。 ただし、
本文と索引では、Alp でなく、 Arp
になってますけど(^^; 独語では、「ベルンハルト・アルプ・ズィントベルク」みたいになるんじゃないでしょうか。 1937年12月20日 ... In
der Ninhai Lou angekomen, lerne ich Herrn Bernhard Arp Sindberg von den
Kiangnan Cement Works in Hsi Sha Shan kennen. ["John Rabe Der gute
Deutsche von Nanking",
DVA,1997,p.129] あ、講談社版(p.130)では、「シンバーグ氏」とだけなっているぅ...
│ └ また、宿題ができましたね(^^; 熊猫 2004/02/02 20:18:45 ツリーへ
Re: ラーベの日記=BernhardArpSindberg
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/02 20:18:45
また、宿題ができましたね(^^; ぼちぼち、調べます。デンマーク人の知り合いがいれば早いかと思いますが・・・ベルンハルトとしなかったのは、彼がドイツ人ではないからです。ベルンハートというデンマークの建築家と同じかな?と判断しました。この件、更に調べます。
├ 命がけの大災難の中、棲霞地区は二つの難民... 熊猫 2004/01/10 02:01:17 (修正1回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/10 02:01:17 ** この記事は1回修正されてます
命がけの大災難の中、棲霞地区は二つの難民キャンプを形成 ギュンター博士は1903年の秋、中国唐山で生まれの技師であり、唐山啓新洋灰公司の磁器工場の社長である。1度ドイツに帰って勉強する以外、1950年末に至るまで、彼は中国で生活した。【唐山啓新洋灰公司:メジャーなセメント会社でした。中国の検索エンジンで調べたら196件ヒットしました。】 満州事変【1931年9月18日】の後、唐山啓新洋灰公司は東北の市場が日本軍に占領されたため、株主は江南に投資をして江南セメント工場を創設した。この工場はデンマークのFLスミス社とドイツの禅臣洋行にそれぞれ、2本のセメント生産ラインといくつかの電器設備を予約購入した。生産に入って直ぐに、戦火は南京に近づいた。江南セメント会社が天津に設置した役員会はドイツが“同盟国”、デンマークが中立国なのであることを考慮し、打ち合わせして両国の商社の設備を納めた工場に行ってくれる代表を派遣して、工場に残る人員は協力して工場を保護した。唐山啓新洋灰公司のギュンターは招聘を引き受け、禅臣洋行の代表名義で毅然と危険をものともせず南下して、江南セメント工場の工場長代行に就任したのである。彼が上海に駆けつけた時、既に滬寧交通【上海−南京】は途絶えており、江蘇省の北へは回り道をするしかなく、とても辛い思いをした。ギュンターとシンバーグが工場に来て間もなく、国民政府は西に移動を開始しており、彼らの工場には僅か少人数しか残っていなかった。 銃砲の音はますます近くなり、日本の飛行機は頻繁に南京の都市と農村を爆撃した。ギュンターの料理人の賈有永の記憶によれば、ギュンターは工場北門の木の橋附近に人を呼んで(現在ではすでにセメントの橋に改築してしまっている)、石灰で地面に“カギ十字”(当時のドイツ国旗のマーク)を一つ描くと、その後日本の飛行機はもう工場の上空を飛ばなくなった。 南京陥落の際、日本兵は中国人を見つければ銃で撃ち、女を見つければ強姦し、牛、ブタ、ニワトリ、アヒルは略奪し、道路沿いの家は全て日本兵に燃やされた。厳冬の時期に、大勢の中国難民は布団を巻き、耕作用の牛、背の低いロバを引いて江南セメント工場と近くの棲霞寺にどっと入り込んだ。棲霞寺は災難のため人が満杯で、“千仏洞”の仏壇の内外さえ難民が横たわっていた。工場の難民区には湯山、花園、龍潭、北圩(現在ここは既に入江の中に沈んでいる)、樟橋、華墅と句容、鮑亭などから逃げて来た難民を収容しており、その中にはいくらか中国の将兵がまだいて、甚だしきに至っては紫金山と下関の日本軍による大虐殺の生存者もいた。難民の中には、まれに、頭に包帯あるいは手にガーゼを巻き付けた負傷者を見ることが出来た。難民達は鍋を埋めて煮炊きし、葦と稲藁のアンペラ小屋“滾地龍”(編者注:所謂、人の字形の低い藁葺小屋)はどこでも見られて、後からの難民は、女性でも布団を巻いて子供を抱きその上に座るしかなかった。その後、江南セメント工場と棲霞寺とは、それぞれ少なくとも2万余人と1万余人を形成する難民キャンプとなった。 ギュンターとシンバーグは難民キャンプと工場にドイツとデンマーク両国の国旗を立て、それによって難民と工場の生産を保護することにした。ギュンターは王という名字の者に、その夜、急いでドイツの“カギ十字”の旗とデンマークの十字の旗を作ってもらい、人を派遣して工場の難民区から西北西(北西)にある棲霞駅、南の梅墓村、東の西渡溝にそれぞれ“難民区”の板の標識を掲示し、そして両国の国旗を交差して立てさせた。難民区の北側の工場地区は両国の国旗を上げた。 その時、南京にいた外国人にも安全の保障は少しもない。彼らはそれぞれ日本軍の銃口と軍刀の脅しを受け、銃撃する日本軍に遭った;日本軍に拘留されることがあり、日本軍に首を刺され刀傷ができたこともある;腕には日本大使館の発行した腕章を着けて街へ行っても、日本兵に遭えば殴られる。アメリカ領事でさえ日本人にビンタを打たれたことがある。また日本人に縄で縛られたドイツ人もいる。 日本兵は何度も江南セメント工場の難民区にやって来ては“若くて美しい娘”を要求した。毎回、ギュンターは昼夜の区別なく、通訳を連れて勇敢に立ち向かい、極力阻止した。彼は海外に居住する“同盟国”の同胞であり、日本兵は彼には逆らわず、勝手放題に振舞うこともなかった。シンバーグも表に出て難民を保護した。日本兵が来たら、難民区の人はシンバーグを叫んで呼び、工場に来て守ってもらった。シンバーグは十字の旗を振り回し甘んじることなく大声で叫びかけたので、日本兵は向きを変えた。 1937年冬、日本兵は撮山鎮に機関銃を据え付け、民家に放火して焼き払い、すでに王さんの家を燃やし、胡さんの家など10数件燃やした。藁葺きの家が火事になったため、とても速く火は広がった。日本兵がいたので、誰も堂々と火事を消す勇気などない。当日、既に日本兵は鎮【撮山鎮】の雑貨店の店番の老人と難民区に薪を送る人を殺していた。 鎮の全てが燃やされるのを、みすみす見ていた。鎮の何さんという講談師はとっさに思いついて、その鎮と川を一つ隔てた所にあるセメント工場まで走って行きギュンターに助けを求めた。それ以後、ギュンターとシンバーグの得た日本軍による民家を燃やした報告は少なくない。農民の家からの日本軍の略奪物は果実とは限らない、家主に自分で柴草を運ばせ、自分で火をつけて、家を燃やすことを強制し、家主を傷つけた。 知らせを受けたギュンターは、火事場には真っ暗な機関銃の銃口ときらきらと光る銃剣を持った日本兵がいることを承知の上で、彼は躊躇することなく旗を担いで、江南セメント工場の守衛と、通訳と、愛犬を連れて、大至急火事場へ向かった。 日本軍はさすがにドイツ人に対しては、いくらか気兼ねしていた。南京安全区国際委員会の代表はラーベである、乱行や悪事を働く日本兵に向かって大声で“ドイツ”と叫んだので、たとえ日本兵だろうと慎まざるを得なかった。此度の日本兵は旗を担いで人を連れて駆けつけるギュンターに出くわして、撤退するほかはなかった。ギュンターと民衆は火災を消火して、全鎮の大部分の家屋が燃やし尽くされるのを免れた。記者は見た、今でも撮山の街頭の長さ約300メートルに、まだいくつかその年代の古い家が残っている。 1938年夏、交通常態は回復した。ギュンターは日本と交渉して、難民達はやっと各自の安全な家に帰った。凡そ1938年春頃あるいは更に幾らか遅い時、シンバーグは工場を離れ、彼の同胞の牛爾森【ニューオルセン?】に引き継いだ;ギュンターを残して去った。1949年以後、ギュンターはこの工場の化学技師に職務が変わり、1950年12月に辞職して工場を離れた。 昨年【2000年】5月13日の夜23時と24時に、江南セメント工場のサイレンが2回長く鳴った。記者に連想させるのは、毎年12月13日の南京に鳴り響く防空警報、人々にその年この古城が陥落した痛ましい時間をしっかりと心に刻むように気付かせている。サイレンの音の中で、記者は思った、ギュンターとシンバーグ、あなた達とあなた達の親族は今どこにいるのだろう?
├ 中山門での、人道と残虐の対峙 熊猫 2004/01/17 05:46:38 (修正1回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/17 05:46:38 ** この記事は1回修正されてます
中山門での、人道と残虐の対峙 記者は南京棲霞の二人の“シンドラー”を去年より探し始めて、第一段階の重点はシンバーグを探すことであった。 ギュンターと同じで、シンバーグも伝奇的な人物の一人で、難民達は彼を“デンマークの辛先生”と呼んだ、江南セメント工場では彼を“辛波”と呼んでいる。【伝奇:唐・宋時代の文語体の短編小説、明・清時代に流行した長編戯曲】 1938年1月14日、シンバーグのオートバイが南京中山門の近くを走らせていた、バイクには更に傷を受けた5,6歳の児童を一人乗せていた。大きな門の暗いトンネル、城門のいちばん上には日本の旗が翻っている。 バイクに乗せた子供の傷は日本兵の爆破によるものだ。日本兵は棲霞地区の村落へ食糧を略奪に行き、犬が暴れ鶏が飛んで騒いだ。ニワトリを捕獲できず、彼らは手榴弾で爆破した。手榴弾の破裂は子供の全身に深刻な傷を負わせて、爆破により片方の目は悪くなった;別の農民の一人は左手を損傷させられた。子供の父親は棲霞山のセメント工場を訪ねた、シンバーグが見ると子供の傷の程度は深刻であり、傷口は感染していたにで、南京城内に送り届けて応急手当てをして救うことにした。 日本兵は銃剣を構えて、オートバイの行く手を横暴に遮った。その一瞬の間、正義と邪悪、人道と残虐が城門で対峙した。 このような対峙はすでに初めてではなかった。25日前にも、シンバーグは数名の負傷させられた中国人を城内の医者にかかりに送るつもりだった。日本兵は負傷者が通ることを許さず、彼は彼らを再び棲霞山に返さざるを得なかった。 シンバーグにとって、彼が送る子供は、中国兵ではない;これは医者に治療を頼む、1つの幼い命を救うことである。死にかけている人を救助し、負傷者の手当てをすることは公認の人道主義の原則で、一般の良心のある人なら、これを見れば自覚して道を譲るか、あるいは主導的に助ける、どこに阻止する理由があるのか? しかし、シンバーグが見ていない32日前のあの一幕。1937年12月13日の夜明け方の3時10分、日本軍の大野隊はこの城門を占領した。当日、日本兵は中国兵の捕虜を高さ32メートルの城壁の上に一列に立たせ、続いて銃剣を構え、大声を出して捕虜の胸、腰を突き刺した、鮮血は空中を跳ね上がり、一人の捕虜に対して一つの銃剣で城外へ突き刺して落とした。戦争は多くの将兵に悪魔が侵入したのかも知れない、日本兵も既に“軍人ではなく匪賊同様になっている”ことを自認しており、更に彼らにどのような人道を言うことが出来るであろうか? シンバーグは、日本兵は彼本人が町に行くことを阻止していると思い、彼に代わって日本兵に子供を病院に送り届けるように懇願したが、相変わらずきっぱりと拒否された。 シンバーグはそれでも諦めず、彼は再び子供を棲霞山に返したくないので、そこで太平門へ迂回し、危険を冒して歩哨所を猛スピードで通過して、ついに鼓楼病院にたどり着いたのである。アメリカ籍の外科医のウィルソンが子供のために治療をした。 【鼓楼病院:http://baby.sina.com.cn/hos/2002-01-16/135/13.html 】 ウィルソンにとってシンバーグの来訪は始めての受け付けではない。21日前のあの恐怖のクリスマスの前夜を、彼はシンバーグから聞いて知った、城外の中国人が日本人の戦車の前進を阻止するため掘った塹壕の中に、死体をいっぱい積み重ね、ひどいのはまだ数名の負傷兵がいた。日本兵は塹壕に戦車を通すために、なんと近くの罪のない市民を惨殺し、死体を使って塹壕を平らに埋めた。シンバーグはカメラをひとつ借りて、数枚の現場写真を撮影して証拠とした。 シンバーグはまたかつて1937年12月14日から1938年1月27日まで、彼は自ら処理した日本兵の殺人、略奪、放火の26件の記録文章を整理して、南京安全区国際委員会事務局長のスマイスに送り届け、スマイスを通じて日本大使館へ送付した。今は、これらの記録文章はアメリカのイエール大学神学院図書館の“ベイツ文献”の中に保存されている。 当時南京の少数の外国の人士は認識していた、日本軍の対中政策の主要な柱のひとつは日本の治外法権の保護下の、条件を利用して麻薬の生産と経営に便宜を図ることである。シンバーグはドイツ大使館南京分館のローゼンに日本が棲霞占領後のことを暴露している、近くの龍潭にはアヘンが出始めた。 シンバーグは南京市民に彼の写真を残すことはなかった。昨年【2000年】の5月、記者は80年代にセメント生産ラインを販売するデンマークの会社【FLスミス社】の副社長が江南セメント工場を訪問したことを知っていた、すでに何とかしてこの会社の北京駐在事務所のファックス番号を聞き出していたのである。後に、本紙国際部と記者はそれぞれ関連する公使館の広報部とこの会社の北京駐在事務所にメールを送り、シンバーグの行方を捜すことに協力を求めた、現在も依然として結果を待っている(聞くところによると、生前の高興祖【2001年1月8日逝去】が依頼したデンマーク、オーストリアのアルプスの3人の人士以外に、一名の日本の人士も探している)。 今年【2001年】6月、本紙の記者部の副主任の趙異は北京で一枚のフロッピーディスクを帰国する金存桐に手渡した、ディスクには一枚の63年前のギュンターの写真が記録されていた、この写真は南京のものである。これはまたギュンターの経てきた過程を探すスタートとなった。 今年【2001年】7月末、金存桐は彼の帰国処理をした夫人の張毅梅さんに記者へメールで報告させた、ギュンターがドイツに帰国後に住んだ最初の都市には、現在同姓同名が540人いて、その他の市にも数十人いた。
│└ 固有名詞について 熊猫 2004/01/17 14:20:50 ツリーへ
Re: 中山門での、人道と残虐の対峙
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/17 14:20:50
固有名詞について 翻訳の際、固有名詞(特に外国人の人名等)ついては思考中です。 中国語の文章を訳す場合。 ジョン・ラーベ → ヨハン・ラーベイ スマイス → スミス シンバーグ → シンドベーグ ローゼン → ローソン ウイルソン → ウィルソン 最終的にはどちらかに統一したいと思います。 棲霞も、栖霞とするべきか悩んでおります。中国人の方が日本語に翻訳した文章などを読んだ場合と、日本の書籍とでは人名が結構違うもんで・・・・。
│ └ 人民日報では、栖霞となってましたので後日... 熊猫 2004/01/18 01:47:20 ツリーへ
│ └ 棲霞山と栖霞山 渡辺 2004/01/18 18:24:44 ツリーへ
Re: 人民日報では、栖霞となってましたので後日...
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/01/18 18:24:44
棲霞山と栖霞山 これは、2つ表記があるみたいです。 日本の文献では「棲霞」が多いようですが、従軍日記か海軍関係の地図に「栖霞」という表記のものがありました。最初は、別の場所ではないかと疑いましたが、結局、同じと判断しました。なぜ、2つ表記があるのかまでは、今のところ分かりません(^^;
│ └ 渡辺さんがご指摘した内容については、勉強... 熊猫 2004/01/19 03:07:14 ツリーへ
Re: 棲霞山と栖霞山
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/19 03:07:14
渡辺さんがご指摘した内容については、勉強不足で知りませんでした。中日辞典第2版(小学館)では、「栖」の昔の字が「棲」であり同じ文字として扱われております、簡体字かなと思っていましたが、1930年代には既に「栖」という文字が使われていたということですね。当時の日本人も私と同じ事で悩んだかも(^^)。 人名については、ラーベの日記の日本語訳にあわせようと思います。シンバーグにします。シンドベルグあたりが、かっこよくて好きなんですが(^^;
│ └ Re:「棲」と「栖」 渡辺 2004/01/19 12:56:00 ツリーへ
Re: 渡辺さんがご指摘した内容については、勉強...
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/01/19 12:56:00
Re:「棲」と「栖」 熊猫さん:>中日辞典第2版(小学館)では、「栖」の昔の字が「棲」であり同じ文字として扱われております あ、そういうこと。 愛知大学『中日大辞典』(増補第二版)を調べたとき、〔栖(棲)〕と見出語がなっていたのは、()内が「昔の字」という意味だったのね。 >1930年代には既に「栖」という文字が使われていたということですね。 そこは、何ともいえません。 というのは、偕行社『南京戦史』p.55,
p.78
などに掲載されている地図は、新しく作成されたもので、現在の字体で地名が書かれています。ということは、「棲」を「栖」に直した可能性もありますね。
│ └ ラーベの日記では「棲」が使われてますね。... 熊猫 2004/01/22 01:53:33 ツリーへ
Re: Re:「棲」と「栖」
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/22 01:53:33
ラーベの日記では「棲」が使われてますね。中国の他の資料でも同じ文字が使われていました。今は「栖」ですが、事件当時は「棲」だったのは、間違いないようです。
├ 人類の名義で、すべてをこの関係者に 熊猫 2004/01/23 13:47:14 (修正2回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/23 13:47:14 ** この記事は2回修正されてます
人類の名義で、すべてをこの関係者に 金存桐はドイツでギュンターを探す協力すると同時に、記者も歴史文献より引き続き探した。 1937年12月23日、シンバーグは雨の中を城内に行き、棲霞山1.7万人の難民の日本当局への請願書をラーベに送り届けた。 “日本軍兵士が棲霞山ですることなすこと南京同様に極悪である”、請願書を見た、ラーベは激怒した。当日、ラーベは請願書を日本大使館の田中に手渡して、彼に言った:“目下のところ棲霞山も私達と同様に困難な局面にある。貴方がこの件の成果をあげられることを望みます。” しかし、日本軍の棲霞での暴行は依然として止まることはなかった。 1938年1月4日、暖かく晴れた天気に乗じて、日本兵士を載せた1台のトラックが江南セメント工場から5里【2.5km】離れた棲霞寺まで疾駆した。彼らは牛を9頭奪い、中国人に屠殺するよう強制して、牛肉を運走した。同時に、彼らは時間つぶしに放火して付近の家屋を焼き払った。 1月15日、大勢の日本兵がどっとやってきて、若い女性を追い回し一つに集め、その中から10人選び出して、寺院の大広間で彼女たちに対してはばかりなく強姦した。終りごろになってやっと着いた泥酔した一人の兵士は、家に入り込んで酒と女を要求した。酒を与えて女は出さなかったので、彼は激怒して、銃を乱射し、2人の男の子を殺害した後で大手を振って立ち去った。駅に戻る道中で、彼はまた道端の1軒の家に飛び込み、七十数歳の老婆を殺害し、1頭の背の低いロバを引っ張って行き、それから家に火をつけて燃やした。 1938年1月25日まで、棲霞寺の境内にはすでに20,400人の難民が集まり、彼らの境遇は更に悪くなる状況である。1月4日から19日まで、日本軍は16日間に11回棲霞寺に突入して殺人、放火、強姦、略奪をした。 当時の収容所のユダヤ人があらゆる方法を講じて彼らの悲惨な境遇を外部に知らせたように、江南セメント工場と棲霞寺の難民達も外部の世界に向けて日本軍の暴行を制止することを呼びかけようと考えた。 1938年1月25日、棲霞寺の住職が起草して、20人の人士が難民代表として署名した書簡の表題は《人類の名義で、全てをこの関係者に》、呼びかけは“誰であろうと、我々を助ければこのような非人道的惨忍なことの再現を阻止することは直ぐに出来るはずである”。難民達はこの書簡をギュンターとシンバーグに送り届けた。 ギュンターとシンバーグは、難民達には一つは安全性が無く、二つは飢えと寒さに悩まされていることを知り尽くしていた。大量の食糧は日本兵から奪い去られ、更に難民が残りの食糧である家の米を取りに帰っても日本軍の悲惨な銃撃に遭うのである。 ギュンターの中国で生まれ、流暢な中国語を話し、またドイツに帰って高学歴の教育を受けて、中国語とドイツ語は解っている。1938年正月の4日【2月3日】、シンバーグは雪をものともせず街に行き、ドイツ語に訳した手紙をラーベに手渡した。 ラーベは手紙を見た後、感慨:これは“南京だけが日本兵に苦しめられているのではない証明である、その上、四方八方から日本兵士に関する放火・殺人・強姦のニュースが伝わって来る。私達はこの様に思わずにはいられない、これらの兵士は全て日本の刑事犯罪者が軍服を着ているのだ。”【2月3日のラーベの日記】 この書簡はギュンターが翻訳し、シンバーグが手紙を送り届けたのである、当時それから多方面に奥深い影響が現れた。《南京安全区国際委員会の事態に関する内部報告》はこの手紙の内容を引用した、まもなくアメリカの《密勒氏評論報【The
China Weekly
Review】》に増刊した一文には《南京市の救済活動は依然としてきわめて厳しい状況である》と、再度この手紙が記述する事実を引用して、全世界に公然と日本軍の暴行を暴き出した。今のところ手紙は《ラーベの日記》に収められている、間もなく脱稿して出版しようとしている《棲霞区志》の巻末につける参考資料として組み入れて、歴史を永遠に記載する。 20人の難民代表がこの手紙に署名した翌日、また年長の4人の難民代表はギュンターとシンバーグに1部の“上申書”を書いた。1938年2月13日以後に、江寧県撮山区(今は南京市棲霞区に属している)の4人の難民もまた、1万人余りの代表としてギュンターとシンバーグに別の1部の“上申書”を届けに来た。 2通の“上申書”は日本軍の集団暴行と中国の農民の悲惨な境遇を記録するだけでなく、また日本軍が一人の10歳の少女の腟を切り裂いたことを指摘している;日本軍は無理やり母子に近親相姦をさせた、息子は銃殺されるのを拒んだ、母が強姦された後に自殺をして世間をぞっとさせた事実がある。“上申書”は日本軍が二千余頭の農耕牛を屠殺したことを明るみにし、龍潭から太平門、東陽から中山門までの1.2万余戸の人家を燃やしてしまう犯罪と、更に付け加えたのは梅墓、樺墅などの8箇所の村で46人の殺された者の氏名と、年齢と殺害された時間である、そして13箇所の村の32人の誘拐された女性の氏名と年齢も加えている。 推定すると、ギュンターがこの2通の“上申書”をドイツ語に訳すしかなく、それからシンバーグがユダヤ人のクォーターであるのローゼン書記官に手渡したす段取りを組んだのである。20世紀90年代の初頭に、この2通の中国語からドイツ語に翻訳した“上申書”はドイツ書類保存館ポツダム分館で発見された。
│└ 翻訳していて、気になったのですが「ラーベ... 熊猫 2004/01/29 00:12:28 ツリーへ
Re: 人類の名義で、すべてをこの関係者に
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/29 00:12:28
翻訳していて、気になったのですが「ラーベの日記」の日本語版(講談社文庫)と中国語版は記述量が異なっています。中国語版の方が、記述が多くて、当時の手紙(報告書)などが多く紹介されています。実物を見たことがないので判りませんが、「ラーベの日記」にはまだまだ貴重な資料が、あるかも知れません。
│ └ 前から不思議だったのですが・・・ ゆう 2004/01/29 21:55:27 ツリーへ
│ └ 中国語版にもありません(^^)。1月1日は... 熊猫 2004/01/29 23:59:59 ツリーへ
Re: 前から不思議だったのですが・・・
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/29 23:59:59
中国語版にもありません(^^)。1月1日は日本語版と同じです。日本語版に記述されなかったラーベの日記をテーマに調べるのも面白いかも・・・。
├ 彼らは更に多くの外国人に棲霞の歴史の目撃... 熊猫 2004/01/31 16:02:08 (修正1回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/31 16:02:08 ** この記事は1回修正されてます
彼らは更に多くの外国人に棲霞の歴史の目撃証言をさせた 今年【2001年】8月1日〜23日、記者は江南セメント工場を定年退職した老人の陳述と若干の史料の中から、探し当てたのはギュンターの出生地を含む、年齢、経歴、以前の中国での親戚、ギュンター夫人の身長等は1.1万余りを要する文字の中からである、それから次々と15通のE−mailを金存桐に送信した、彼はその都度毎に糸口を探した、彼はギュンター姓の人やその親族に電話で話すなり直接に面会して確認したのである。 去年【2000年】、1組のドイツの夫婦が中国旅行をした、その奥さんは中国で生まれたのである。旅の途中、彼らは金存桐と出会った。今年、この夫婦は金存桐を家の食事に招待した。 “同郷の人、こんにちは!”彼らは心のこもった中国語で金存桐に挨拶をした。 彼らはあの中国からドイツ帰国者世代の人々によって1冊の住所録を編集していた。金存桐は彼らの協力でギュンターを探しているとき、彼らはその住所録を翻訳した。 カール・ギュンターの名前はいきなり住所録にあり、その詳しい住所が記載されていたのである! 電話で、4戸の家に居住していたことを発見した。住居は既に数回換わっており、ギュンター一家が何処へ引っ越したのか知っている人は居なかった。1本の貴重な解決の糸口は途切れてしまった。 後で記者の発した何通かのE−mailを通じて、金存桐が知ったことはギュンターとシンバーグが当時城内の外国人に一方では穀物とその他の食品を提供して、一方で彼らから難民のための医薬品を送ってもらっていたことだ。この関係で、南京安全区国際委員会の財務主管者のクレーガーと国際赤十字南京委員会議長のマギーらと棲霞地区に行ったことがあり、そして世間の人のためにそこでの日本軍の暴行記録を残した。 当時日本軍は外国人を城外へ出させなかった。1938年2月3日には、日本の福井副領事はまたローゼン書記官がギュンターを訪問するため棲霞山に行くことに八方手を尽くして妨害した、彼らに日本軍が城外で犯した犯行が解ってしまうことを阻止するためである。クレーガーとマギーらが城外で見聞きしたことが、その後日本軍の棲霞地区での暴行の動かぬ証拠となった。棲霞から城内に帰った後、クレーガーは南京国際全区副事務局長のフィッチに見聞きしたことを報告した、その後フィッチは彼の自叙伝の1章節《南京の壊滅(1937―1938)》に記述をしている。 クレーガー本人も1938年1月13日に《南京の災難の日々【南京の運命の日々】》で、日本軍の棲霞地区での暴行を記録した: “(1937年)12月28日に私は初めて棲霞山へ車を運転して行った、道中で見たものは私を驚愕させた。当時の私たちは場外へ出ることを厳しく禁止されていた、しかし私は差し迫って食糧を必要としていたので、そのため私はそこに車で行った、私の道中は滞りなく、トラブルは無かった。私には先入観があり、日本軍の報復行為は南京だけの出来事であり、それは抗日運動の首都であり中心であるためだと、しかし私は今やっと気がついた、日本軍のここでしたこと全てが勝りこそすれ劣らないまではないにしても、市内と少しも劣らないと思っている。 “……日本の軍隊は更に広い範囲で放火行為を引き続き行っていた。彼らは理非曲直を問わず田畑の中の老若男女を銃殺して、このために打ち出すスローガンは:「憎くき中国兵士を掃蕩する」。多くの水牛・ロバ・馬が耕地の中あるいは道路の側で打ち殺されて、犬とカラスが意のままに噛み砕いていた。農民達は昼間は財物を持って山中に隠れ、家には年寄りだけが残っていた、しかしこの人たちの命すらおびやかされた。車中での1時間、私は一人も見ていない、わりと大きな村落が少しあったが一人もいないのだ。家は燃やし尽くされて、人は打ち殺されて、生きている人は自動車を見ると直ぐに逃げてしまい影も形もない。 “千仏(佛)山【正しくは「千仏(佛)岩」のことで記述ミスと思われる。】の麓に難民キャンプを形成しているのは、およそ1万人余りが逃げていた、すべて周辺地区の農民である。しかし日本兵はここでも少しもおとなしくすることはなかった。彼らは思うままに若者を引き出して銃殺刑にして、思うままに少女を強姦した。酒に酔った兵士は目障りな者は銃剣で突いて殺すかまたは負傷させた、これらは遊びである、この地区にはまたいかなる治療を行う救護施設もなかった。寺院の仏像は破壊されるか奪い去られ、彼らは和尚さえ見逃すことなく、虐待した。 “セメント工場には2人の外国人がいた、ドイツ人ギュンター博士と、もう1人はデンマーク人である、だから日本軍の恐怖行為はいくらかおとなしかった。およそ4000人の難民がそこへ持ち運びできる財産を持参して逃げて身を寄せていたのである。” ラーベはこの文章を日記に収めた、ローゼンはそれを漢口に撤退するドイツ大使館に交付した、この大使館はベルリン外交部へ上述の内容を引用した手紙を出した。戦後、極東軍事裁判が日本の戦犯を審議する際、《ドイツ漢口大使館がベルリンのドイツ外交部への手紙》は証拠4039号として審査され、法廷にて朗読された、マギーは証言の中で、同様に日本軍の棲霞の暴行を列挙した。
│└ 南京事件資料集1アメリカ関係資料編P31... 熊猫 2004/01/31 23:07:08 ツリーへ
Re: 彼らは更に多くの外国人に棲霞の歴史の目撃...
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/01/31 23:07:08
南京事件資料集1アメリカ関係資料編P316 ご存知と思いますが、マギーの報告の「棲霞山セメント工場」は「江南セメント工場」のことです。棲霞山は今もセメント工場がいくつかあります。P317華樹泉(音訳)に該当しそうなところを、バス路線図等で調べたのですが見当たりませんでした。 [huashuquan]の原文のアルファベットをご存知の方は教えていただけないでしょうか。再度チャレンジして見たいと思っています。中国語の資料等で分りましたら、再度報告します。
│ ├ 明白了!明白了! 熊猫 2004/02/01 03:06:50 ツリーへ
Re: 南京事件資料集1アメリカ関係資料編P31...
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/01 03:06:50
明白了!明白了! 解りました(^o^)。自分で質問して自分で解答するのは少し寂しいですが…。一日掛りでセコイ発見をしました。 南京事件資料集1アメリカ関係資料編P317 華樹泉(音訳)は樺墅村です。 [hua
shu quan]と[hua shu
cun]の違いでした。マギーの報告書の原文は読んでませんが、中国側の文献と内容が一致しました。バスの路線図で探したため遠回りしましたが、これで今晩はゆっくり眠れそうです。・・・・晩安(おやすみなさい)
│ │└ huashucun 渡辺 2004/02/01 12:39:38 ツリーへ
Re: 明白了!明白了!
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/02/01 12:39:38
hua shu cun マギー文書中の報告書 --- Report a Trip to
Tsih Hsia Shan (February 16-17,
1938) ... Outrages ... Another man reported that at his
village, Hwa Shu Ts'uen, about five miles from the camp, soldiers had
come on Feb. 15th and killed 7 people and wounded
another. ... [Zhang Kaiyuan, "Eyewitnesses to massacre", An East
Gate Book,2001, p.196] the camp = the camp inside the ground of the
Tsih Hsia Shan Cement works under the supervision of Dr. Gunter and Mr.
Simberg.(p.195) --- 熊猫さんも、大分のめりこんできましたね(^^)
│ │ └ これで120%間違いありません。 熊猫 2004/02/01 14:11:09 ツリーへ
Re: huashucun
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/01 14:11:09
これで120%間違いありません。 有難うございます。樺墅村(hua shu cun)をHwa Shu
Ts'uenと記録したマギーは正確な発音で中国語を聞き取っていたということになります。メモを取りながら慎重に記録を残したのは間違いないと思います。日本語は母音が少ないので上手くカタカナで表示できませんが「ファ シュ ツゥン」とでも申しましょうか・・。全ての条件を満たします。笠原先生に教えてあげたいな〜(^^)。セコイことですが・・・
│ └ 現在の南京の地図ですが 熊猫 2004/02/07 18:17:16 ツリーへ
├ “いまだに中国人が私達を覚えているなんて... 熊猫 2004/02/01 22:56:18 (修正1回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/01 22:56:18 ** この記事は1回修正されてます
“いまだに中国人が私達を覚えているなんて思ってなかった” ドイツでは転居先の戸籍を保存しているが、《個人資料秘密保護法》がある、検索するには関連する権限を授けた申請書類が必要であり、中国側の申請書類は更にドイツの中国大使館を通じた認証が必要であった。政府ルートだと、更に多くの時間と、労力と手続きが必要なため、金存桐は引き続き民間ルートで探すしかなかった。 金存桐は彼の大学の友達の学部主任と食事をする際に、この教授は“私が君を助けましょう”と言った。ドイツの教授はわりと社会的地位が高く、彼はある戸籍センターに大学の便箋で手紙を送り、ギュンター家の転居後の行方捜査を願い出た。 “金、君によい知らせがある、探し当てたよ!”3日以内に、教授は彼に伝えた、“既に私はギュンター夫人と連絡をとり、彼女はたいへん感動して言ったよ:‘いまだに中国人が私達を覚えているなんて思ってなかった’!” 8月11日夜明け方、金存桐は記者に国際長距離電話をかけてきて、言った:“貴方がとても喜ぶよい知らせを伝えます。私のドイツの友達が関連部門を通して既にギュンター夫人を探し当てました―――エディータ女史【Mrs. Edith Günther】。彼女はまだ健在で、今年で80歳になる。私のドイツの友達はすでに彼女には電話で伝えていたから、私は彼女と連絡をとることができました。” こちらの文献でフルネームを含め確かでなかったギュンターの、彼の親族がついに探し当てられたのである。
├ 戦後、ギュンターは赤十字勲章を授与 熊猫 2004/02/07 20:30:39 (修正3回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/07 20:30:39 ** この記事は3回修正されてます
戦後、ギュンターは赤十字勲章を授与 現地時間の8月12日、金存桐はギュンター夫人に電話をした。シンバーグの名前が、ギュンター夫人の口から出た。彼女は更に金存桐に伝えた、彼女の息子は南京鼓楼病院で生まれていた、1994年また彼女は夢に見るほど恋しく思った南京と江南セメント工場を訪ねていたのだ。 “私は当時ギュンター博士から助けられた人々に代わり、心からあなた達に感謝します!”彼女がカール・ギュンター博士の“初婚の妻”と確認した後に、金存桐は言った。 金存桐はとても感動していた、この一声の感謝のために、彼と記者は苦労をしてきたのである。 ギュンター夫人は言った:“今私達は何枚か古い写真を持っています、すでに姪に渡して、あなた達にコピーの一部を渡すように頼みました。”年老いた夫人は後に更にこれらの歴史ある写真の記憶を説明した。 8月13日、金存桐は記者に最新の状況報告を行った。記者は金存桐に彼の捜査費用を知らせてもらった、彼は本心を語った、もしこれが金のためなら、私はあなた達の依頼を初めから引き受けたりはしない。 記者は金存桐にギュンター夫人についてファックスしてもらった。8月22日、ギュンター夫人の返事は、第二次世界大戦以後、中国人はただ単に彼らの帰国送還させたのではなく、夫には謝意を表明し赤十字勲章を授与した、彼らも中国人にとても感謝していたのである。 彼女の話では、彼らの郷里の私達と知り合いになれて、彼女はとても喜んでいる。
└ 中国に帰った41枚の歴史的写真 熊猫 2004/02/08 03:22:24 (修正2回) ツリーへ
Re: ちょっと古い新聞記事ですが
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/08 03:22:24 ** この記事は2回修正されてます
中国に帰った41枚の歴史的写真 今年8月29日、金存桐は北京に帰って、1枚のCD-ROMを記録された41枚の歴史的写真を、記者へ直接手渡した。CD-ROMはドイツ北部に居住するカール・ギュンター博士の夫人が姪のアニータさんに頼んで、8月23日に金存桐へ郵送したものである。 これらの写真を見た人は、それらは1937年から1938年に日本軍の中国侵略による南京棲霞地区での暴行と中国難民の苦難の記録の側面と、外国の友人の人道と良識を記録したものでもあると言っている。 ギュンターとシンバーグを探したのは、彼らの崇高な人道主義の精神に感謝し、あのような非人間的な大災害が永遠に再発しないためである。歴史を尊重し、平和を守るため;歴史を振りかえり、人々と共に侵略戦争の罪悪を認識するためである。この点について、多くの日本人と中国人は共通の認識を持っており、当時の加害者は良心の叱責を深く受け入れている。 南京大虐殺の証人であるベイツ博士はかつて言った―――“世界に平和を、人類に慈悲を。” 編者注:“シンドラー”―――映画《シンドラーのリスト》より例えてドイツ人のシンドラーと称した、第二次世界大戦の時に陰でナチスドイツに対抗して、その工場で働くユダヤ人を救う物語である。 1937年12月23日、デンマーク人のシンバーグは雨の中を城内に行き、日本当局に棲霞山1.7万人の難民の抗議書を渡した、しかし日本軍は決して暴行を終わらせることはなかった。1938年1月4日〜19日の間、日本軍は11回棲霞寺に突入して、放火・殺人・強姦、財物を略奪した。 1938年1月25日棲霞寺の住職が起草して、20人の人士が難民代表として署名して表題は《人類の名義で、すべてをこの関係に》の書簡を送った。1938年の旧暦の正月4日【2月3日】、シンバーグは大雪の中を、城内に行きラーベに難民の書簡を送り届けた。ラーベは見た後、感慨し、これは“南京だけが日本兵に苦しめられているのではない証明である、その上、四方八方から日本兵士に関する放火・殺人・強姦のニュースが伝わって来る。私達はこの様に思わずにはいられない、これらの兵士は全て日本の刑事犯罪者が軍服を着ているのだ。” ギュンターが訳した棲霞寺の難民の書簡は今もドイツ書類保存館ポツダム分館にある。
├ 2月8日21時25分:棲霞地区の翻訳は修... 熊猫 2004/02/08 21:30:19 ツリーへ
Re: 中国に帰った41枚の歴史的写真
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/08 21:30:19
2月8日21時25分:棲霞地区の翻訳は修正を含めて終了しました。次回は、続編の前に、ギュンターがラーベに宛てた手紙の翻訳をします。
└ 「写真」について 渡辺 2004/02/09 12:34:07 ツリーへ
Re: 中国に帰った41枚の歴史的写真
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/02/09 12:34:07
「写真」について 今、PC不調で中国語が表示できないブラウザーが入ったもので見ているので、原文を確認していないのですが、確か「歴史的写真」の「写真」は原文のままだと思います。 内容から、この「写真」は文書のことで、「写実」あるいは「実録」という意味じゃないでしょうか。 こういう意味での「写真」の用例として、スマイスの『南京地区における戦争被害』の中国語訳の題名『南京戦禍写真』というのがあります。
└ 原文は、「照片」zhao4pian4ですので写真と... 熊猫 2004/02/09 20:48:07 ツリーへ
Re: 「写真」について
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/09 20:48:07
原文は、「照片」zhao4pian4ですので写真と訳して間違いないです。この写真は、既に他のURLで発表されていますので、皆さんに紹介するつもりです。41枚無いのが気になりますが・・・。棲霞山のギュンターは中国では話題になりましたが日本ではあまり話題になりませんね(^^; この件は、否定派がいないせいでしょうか?
├ 東中野氏が話題にしていますが・・・ ゆう 2004/02/09 21:08:05 ツリーへ
│└ 樺墅村については、その後、色々と調査しま... 熊猫 2004/02/10 00:36:48 ツリーへ
Re: 東中野氏が話題にしていますが・・・
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2004/02/10 00:36:48
樺墅村については、その後、色々と調査しました。本日、残念ながら私よりも先に、既に中国では周知の事実であることが解りました(T-T)。中国の雅虎(ヤフー)で「樺墅村」と「日軍」で検索していたら華樹泉は樺墅村のことだと書かれていました・・・。 各地の日本軍の行為は、地名+日軍or歴史で検索すると色々と出てきます。(注:簡体字でないと検索できません)
└ ごめん 渡辺 2004/02/09 23:25:20 ツリーへ
Re: 原文は、「照片」zhao4pian4ですので写真と...
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/02/09 23:25:20
ごめん 熊猫さん: >原文は、「照片」zhao4pian4ですので... あ、ごめん。 問題なければ、よっかたです。 原文が表示できなかったので、記憶に頼ったらまちがったようです(^^; >棲霞山のギュンターは中国では話題になりましたが日本ではあまり話題になりませんね 「安全区档案」では関連資料が多いので周辺状況がかなり詳しく分かっていますが、棲霞山の場合は、それに比べると全体像がわかりにくいところがありますね。 南京の農村部の状況の資料として、これから注目されて行くんじゃないでしょうか。