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  捕虜殺害の司令部命令について 渡辺 2004/01/19 02:58:59  (修正2回)
  小俣記者の見聞の限界と軍司令部の心理 タラリ 2004/02/02 22:00:01 
  小俣行男『戦場と記者』1967年,冬樹社との違... 渡辺 2004/03/24 14:07:56  (修正2回)

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捕虜殺害の司令部命令について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/01/19 02:58:59 ** この記事は2回修正されてます
すでに知られているとは思いますが、小俣行男『侵掠』(徳間書店)に「南京大虐殺」について、「読売」連絡員から聞いた話が掲載されています。
そこを読んでいて、幕府山捕虜に関してK−Kさんやeichelberger_1999さんなどと資料を追って議論して得た結論とほぼ一致する興味深い記述があるのに気がつきました。
注目すべき部分を箇条書きにすると、
1) 捕虜も全部で十万人くらいいるらしい。
2) 最初に入城した部隊が、「この捕虜をどうするのか」と軍司令部にきいたら、「適当に処分しろ」という話だった。
3) そこへ軍命令がきた。「捕虜は殺してはならぬ。後方に送って、道路工事やその他の使役に使う」。そのときは、すでに数知れぬ捕虜が処刑されたあとだった。

特に 2), 3) の箇所ですが、3) については、現在では飯沼日記(12月21日記事『南京戦史資料集 I』p.164)という限られた資料を注意深く読んで分かることなので、小俣氏の聞いたことは事実に基づいた話しであると思われます。
連絡員の話は、下関での事件について述べていますので、南京での捕虜殺害は、幕府山以外も司令部からの命令によるものということになります。(飯沼日記は幕府山捕虜についての記述なので、検討の必要があるようですが。)
「捕虜は殺してはならぬ」の命令は、飯沼日記より12月21日以降になると思われますので、この頃の前後では、捕虜殺害の事情も変わってくるのかも知れません。
ということで、新しいチェック項目ができました。
ご意見、ありましたらよろしくお願いいたします。

---
<資料1>
eichelberger_1999さんの投稿:
旧K−Kさん掲示板
http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log09.html
eichelberger_1999さん 02/09/11投稿「戦史おたく様へ」

---
<資料2>
小俣行男『侵掠』1982年、徳間書店、pp.19-21

- p.19 -
   南京大虐殺

 上海支局に着いたその夜[1]、夜更けになって二人の連絡
員が南京から帰ってきた。現地採用の武田と畦崎の二人
だった。側車をつけたオートバイを飛ばせてきたので、
顔は埃で真っ白、眼だけが異様に光っていた。
「寒いの、なんのって――」。
 頬がこわばって口がきけないほどだといった。二人と
も南京陥落へ昭和十二年十二月十三日)後はじめての帰還
だった。ちょうど一カ月めである。バスを浴びてウィス
キーをのみながら、話し出した彼らの話はたいへんなも
のだった。昂奮さめやらぬ口調で語った彼らの話を、か
いつまんで書いてみる。
――南京では掠奪や強姦が随所で行われた。入城したと
- p.20 -
きは、まだ多くの建物が残っていたが、翌日から放火が
はじまり、主な建物は片っ端から焼かれていった。兵士
たちは目ぼしい建物のなかにとびこみ、室内をかきまわ
し、金目のものを掠奪して火を放った。
「蒋介石の家へ入ってね、私も寝室から宋美齢のはいて
いた靴を記念に持ってきましたよ」。
 連絡員の二人はそういって刺繍の入った美しい布靴を
出して見せ、さらに「これが机の引出しに入っていた宋
美齢の名刺ですよ」と、私に一枚の名刺をくれた。それ
にはたしかに「蒋 宋美齢」と印刷されてあった。
 住民は一人残らず自分の住んでいた家を追い出され、
中華門寄り(七〇ページの地図)の一角に「難民区」をつ
くって、そこに収容されているという。
 捕虜も全部で十万人くらいいるらしい。最初に入城し
た部隊が、「この捕虜をどうするのか」と軍司令部にきい
たら、「適当に処分しろ」という話だった。(この命令は
事実だった。当時の山田旅団長のメモによると、「〔十二
月〕十五日 捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣
せしところ『始末せよ』との命を受く」と書かれている。
適当に処分ということは、始末に困れば殺してしまえ、
ということで、これが最初から軍の方針だったのだ)。
 そこで、楊子江岸の下関(七〇ページの地図)へ、捕虜
を連れていって首を切った。日本兵は捕虜を一列になら
べて首を切った。最初の列の処刑が終ると、次の列を前
進させて、死体を楊子江に投げこませて、それから前と
同じように一列にならべて処刑した。こうして朝から晩
まで、つぎつぎに首をはねたが、一日に二千人しか斬れ
なかったという。
――彼らの話はまだつづく。
 二日目には手が疲れてきたので、機関銃をかつぎ出し
た。二台の重機をすえて十字砲火を浴びせた。河岸に向
って一列に並ばせて、ドドドドッと、重機関銃の引き金
を引いた。捕虜たちはいっせいに河に向って逃げだした
が、岸までたどりついたものは一人もいなかったという。
 そこへ軍命令がきた。「捕虜は殺してはならぬ。後方
に送って、道路工事やその他の使役に使う」。
 そのときは、すでに数知れぬ捕虜が処刑されたあとだ
った。揚子江には中国兵の死体がいっぱい浮き、河の水
- p.21 -
は真っ赤で正視できぬ惨状だった、という。
 当時、上海租界内の英米警備地区内で発行されている
英字新聞や華字新聞に、南京に在留していた外人記者の
手によって撮影された便衣の青年、女、子供の死体の写
真が掲載されていたが、この捕虜銃殺の話はくわしくは
報道されていなかった。
 私は、連絡員の話をききながら、またしても、“聖戦”
のイメージが崩れていくのを感じた。私は、「皇軍」の軍
規は厳正なものだと信じてきた。戦闘後、降伏した捕虜
は、厳正に取扱われているものと思いこんでいた。これ
ではまるで屠殺場ではないか。しかも、つぎに処刑され
る者に、眼の前の被処刑者を始末させるとは、残虐行為
以外の何ものでもないではないか。
 捕虜だけではない、多数の民間人も殺された。連絡員
はこもごも道路に民間人の死体がいっぱい転がっている
のを見た、といっていた。
 「何人ぐらい殺されたのだろうか」。
 「そんな数は発表もされないし、いちいち勘定もできま
せんよ。何しろ死体だらけでした」。
 難民区に入らずに、市内に残っていた住民は“一掃”
されたとのことだった。
---
引用者註 [1] 1938年1月13日(私が上海に着いたのは、南京が陥落して間もない昭和十三年一月十三日だった。p.16)

  小俣記者の見聞の限界と軍司令部の心理 タラリ 2004/02/02 22:00:01  ツリーへ

Re: 捕虜殺害の司令部命令について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2004/02/02 22:00:01
小俣記者の見聞の限界と軍司令部の心理

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注目すべき部分を箇条書きにすると、
1) 捕虜も全部で十万人くらいいるらしい。
2) 最初に入城した部隊が、「この捕虜をどうするのか」と軍司令部にきいたら、「適
当に処分しろ」という話だった。
3) そこへ軍命令がきた。「捕虜は殺してはならぬ。後方に送って、道路工事やその他
の使役に使う」。そのときは、すでに数知れぬ捕虜が処刑されたあとだった。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


1)は現場にいる兵士たちの噂を総合したもので、数字の精度は別としてそのような噂が
あったことは確かだったと思われます。

2)これは最後が「・・・という話だった」と小俣記者の伝聞体で書いてあります。
記者自身が責任ある上級将校から聞いた話とは思われません。

現地の兵士か下士官が「上からの命令」を師団命令と軍司令部の命令とにわけて詳しく
分けて認識していたか、どうか疑問があります。入場直後の問い合わせに対して、命令
下達がすぐ来たということはその命令が師団命令であった可能性もあります。「軍命
令」なるものが師団が発したものか、支那派遣軍司令部に発したものかは、別に師団、
軍司令部の文書で確かめる必要があります。

3)これは飯沼日記にある通りなので、信頼できます。

軍司令部も上海からの追撃戦の途次においては比較的少数の捕虜の「処刑」を容認して
いたようです。南京攻略戦のときのように大量の捕虜が出たときの対応は、決まってい
なかった、あるいは考慮の範囲外であったというのが実状に近いと思われます。

小俣記者は重要な証言を得ていますが、情報原に近くないときにはそれなりに信憑性を
疑ってかかる必要があると思います。


■eichelberger_1999さんの鋭い指摘を受けて、しかし、軍司令部の方針転換は
【なかった】ということは「3.軍命令に反する捕虜開放について」で書いた通り
である、と今も思っています。


ところで飯沼守日記と上村利通日記には非常に不審な記述が見られます。
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飯沼守日記
 十二月二十一日
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。

上村利通日記 
十二月二十一日
N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

栗原氏の証言、小野氏の日記発掘によって得られた結論は間違いなく、「全員を射殺
した」であったはずです。ところが、二人の日記には申し合わせたように、「相当数に
逃げられた、下手なことをやった」と書かれています。

もし、軍命令によって殺害したものなら、「一人の逃亡も許さず、間違いなく全員射殺
しました」と軍司令部に報告するはずです。もし、軍命令が殺害から、後送に変更にな
ったが、その伝達が遅れて伝わらなかった、という場合でも軍司令部への報告は同じに
なるはずです。

ところが、事実に反して「相当数に逃げられた」という噂が立つ、ということは山田
支隊自身があえて、そういう噂を流したということしか考えられません。

また不審点の第二は飯沼参謀長、上村参謀副長に山田支隊の命令違背に対する【怒り】
が希薄であるということです。

かれらは松井司令官などにかわって実務的な指揮、特に捕虜の扱いを決定していた幕僚
であると思われます。そして、かれらは第十六師団長中島を抑えることが出来なかった。しかし、かなりの格下である、山田支隊長レベルくらいにはビシッと自分たちの命令に
従わせなくてはならない。どのような事情であれ、違背や不実行に対しては雷を落としていいはずのにそれが感じられない。

ここには、事態の背景にうすうすと気づきながら、しかし、それがわかってしまうと
自分たちが虚仮にされる。そういうことをわかった上で、それに気づかない振りをして
自らの権威が落ちることを防ごうというそういう気持ちがあると察することができる。

つまり、不始末なことをした、と嘆いてみせることで自分たちの失態を自分自身に
対して隠蔽してしまう。この仮想は両角が「誠に申し訳ないことだが、多数の捕虜
に逃げられてしまった」という仮想と照応する。実は隠された形の下克上がここに
あると考えられる。

  小俣行男『戦場と記者』1967年,冬樹社との違... 渡辺 2004/03/24 14:07:56  (修正2回) ツリーへ

Re: 捕虜殺害の司令部命令について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/03/24 14:07:56 ** この記事は2回修正されてます
小俣行男『戦場と記者』1967年,冬樹社との違い

 小俣行男『侵掠』(1982年,徳間書店)と、その元になった、『戦場と記者』(1967年,冬樹社)の内容はほとんど同じに見えますが、ところどころ違いがあります。
 この違いは、主に説明を加えたために生じたもののようです。

 『侵掠』では、南京での捕虜の「始末」に関して、このような注釈が入っていました。
---
(この命令は事実だった。当時の山田旅団長のメモによると、「〔十二月〕十五日 捕虜の始末のことで本間少尉を師団に派遣せしところ『始末せよ』との命を受く」と書かれている。適当に処分ということは、始末に困れば殺してしまえ、ということで、これが最初から軍の方針だったのだ)
---

 そのため、『最初に入城した部隊が、「この捕虜をどうするのか」と軍司令部にきいたら、「適当に処分しろ」という話だった。』とういう部分が、あるいは、資料を見たために記憶と混同された可能性もあるのではないかと思いました。
 しかし、どうやら、これは新書版にしたとき、調べたことを注釈として加えたということのようです。(「山田メモ」が公開されたのは、『諸君!』昭和47年[1972年]12月号誌上)

 それから、処刑された捕虜の数が「数千人」から「数知れぬ」に変えられています。その後の南京事件の議論を見て、具体的な数に触れないようにしたのかも知れません。

 『戦場と記者』から、先に引用した『侵掠』に該当する部分を掲載いたします。

---
小俣行男『戦場と記者』1967年(3月30日、初版)、冬樹社、pp.14-15

- p.14 -
(途中省略)
 住民は一人残らず自分の住んでいた家を追い出され、城
内の一角に難民区をつくって収容されているという。捕虜
も全部で十万人くらいいるらしい。さいしょ入城した部隊
が、
「この捕虜をどうするのか」
- p.15 -
 と軍司令部にきいたら、
「適当に処分しろ」
 という話だった。
 そこで下関へ連れていって首を切った。下関は南京の城
外、揚子江岸にあった。日本兵は捕虜を一列にならべて首
を切った。さいしょの列の処刑が終ると、次の列を前進さ
せて、死体を楊子江に投げこませ、それから前と同じよう
に一列にならべて処刑した。こうして朝から晩まで、つぎ
つぎに首をはねたが、一日に二千人しか斬れなかった。
――彼らの話はまだつづく。
 二日目には手が疲れてきたので、機関銃をかつぎ出し
た。二台の重機をすえて十字砲火を浴びせた。河口に向っ
て一列に並ばせて、ドドドドッと、重機関銃の引き金を引
いた。捕虜たちは一せいに河に向って逃げだしたが、岸ま
でたどりついたものは一人もいなかったという。
 そこへ軍命令がきた。
「捕虜は殺してはならぬ。後方に送って使役に使う」
 そのときは、すでに数千人が処刑されたあとだった。揚
子江には中国兵の死体が一ぱい浮いていた。
 連絡員の話は耳を覆いたくなるような残虐な話ばかりだ
った。私たちは新聞社にいたので、戦場の話は一般の人よ
りも詳しく知っている筈だった。しかし東京には、こんな
むごたらしい話は伝わってこなかった。それどころか、東
京にいると、いつの間にかみんなが聖戦という言葉の魔術
にかかっていた。
---


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