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  笠原氏の誤用写真と『現代史の争点』の混乱 渡辺 2004/02/13 00:40:56 
  アサヒグラフの写真について タラリ 2004/02/13 20:34:31 
   ├Re:アサヒグラフの写真について 渡辺 2004/02/14 01:39:32 
   │├第三庁の「拡大宣伝」 ゆう 2004/02/14 09:13:52  (修正2回)
   ││└拡大宣伝、金陵女子大学教授であった曾虚白 渡辺 2004/02/14 23:38:07 
   ││ ├「朋友」とは、アメリカ等の世界の国々のこ... 熊猫 2004/02/15 20:51:00 
   ││ └やはりそう思われますか ゆう 2004/02/16 22:01:00 
   │└不許可写真が軍事郵便はがきになった例 渡辺 2004/02/23 00:25:01  (修正1回)
   ├報道写真の現像−馬淵『報道戰線』より 渡辺 2004/03/18 18:44:12  (修正3回)
   └日本軍残虐写真の出所−佐藤振寿氏の見解 渡辺 2004/03/18 18:57:01 
    └これと同じような文章を確か笠原さんの文章... タラリ 2004/03/19 00:20:04 

  笠原氏の誤用写真と『現代史の争点』の混乱 渡辺 2004/02/13 00:40:56  ツリーへ

笠原氏の誤用写真と『現代史の争点』の混乱 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/02/13 00:40:56
笠原氏の誤用写真と秦氏『現代史の争点』の混乱
http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=25595&range=1
を「問答有用」板に投稿いたしましたので、ご利用ください。

  アサヒグラフの写真について タラリ 2004/02/13 20:34:31  ツリーへ

Re: 笠原氏の誤用写真と『現代史の争点』の混乱 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2004/02/13 20:34:31
アサヒグラフの写真について

渡辺さん、お見事な仕事です。写真を並べて見ると確かに笠原引用の『日寇暴行実録』
の写真は『アサヒグラフ』と『支那事変写真全輯−中』の掲載写真のいずれとも違い、
そのどちらよりも情報量を持っている部分があります。

と言うことは、『アサヒグラフ』のキャプションをあえて逆に作り替えたという、
「邪推」は完全に崩壊したということですね。『アサヒグラフ』が写真誌として
組写真の手法を他に先駆けて打ち出したわけで、現像された写真を元にしなければ
記事も書けなかったでしょう。上海支局などでは自前で写真の現像をしていたので
しょうか。もし、自前でしていたとしても、雇い入れた中国人写真技師などに
任せていたとすれば、そこから流れたということが考えられますね。

「笠原氏の誤用写真批判」をことある毎に持ち出す秦氏ですが、『アサヒグラフ』の
写真といって『支那事変写真全輯−中』を掲示しているということは、誰かのたれ込み
を元に笠原批判に飛びついた疑惑さえ出てきますね。

また、この他にも「捏造写真、ヤラセ写真」があると否定派の尻馬に乗っている秦氏
ですが、この先どのように論証してくれるのか、大いに興味があります。

   ├Re:アサヒグラフの写真について 渡辺 2004/02/14 01:39:32  ツリーへ

Re: アサヒグラフの写真について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/02/14 01:39:32
Re:アサヒグラフの写真について

レスありがとうございます。

 例の陸戦隊員の写真なども「原写真」は確認できませんでしたね。それぞれが、別の写真から印刷されていたわけです。こういう写真は、同じ物がたくさん出回っていたのでしょう。それから、英字の資料では、いいかげんなキャプションは付けられていないみたいです。

 『支那事変写真全輯−中』の写真は、実際には、もっと不鮮明なものですが、明度と輝度を調節した上で、シャープネスをしっかりかけています。石垣のざらざら感は元の写真にはありません。
 それから、『アサヒグラフ』『支那事変写真全輯−中』もかなり大きな写真です。1頁の横幅が25cmあまりです。

 『日寇暴行実録』のキャプションの件はどうでしょうかね。実物があったとしても、写真と解説が離れているので、ちょっと見ると どれがどの写真の説明かわからないくらいですけど。わざわざ、細工して使うような写真じゃないです。

 新聞社の写真は、絵葉書などにして発売したものもありますし、個人的に焼き増しされたものあるようです。この件は、調べる必要がありますけど。「元写真」は絵葉書だったりして(^^)

>上海支局などでは自前で写真の現像をしていたのでしょうか。

 南京陥落のときには、現像せずに空輸した場合もあったらしいですが、そう言われてみると、現像してからでないと写真に説明が付けられませんよね。だから基本的には中国内で現像したということになるでしょうね。
 なお、電送写真という技術が既にあり、実際に中国から新聞の写真が送られています。(東京朝日新聞では「電話送」と写真に説明がある)

>「笠原氏の誤用写真批判」をことある毎に持ち出す秦氏ですが、『アサヒグラフ』の写真といって『支那事変写真全輯−中』を掲示しているということは、誰かのたれ込みを元に笠原批判に飛びついた疑惑さえ出てきますね。

う〜ん、どうでしょうか。(長嶋さん風)
少なくとも、両者は全く同じ写真との予断があったのでしょう。

 一番、興味を持ったのは『日寇暴行実録』(1938年)の作者が「国民政府軍事委員会政治部」と明記されていることです。これは、あの郭沫若が「三庁」の責任者に祭り上げられた機関ですね。郭沫若『抗日戦回想録』(中公文庫)に『敵寇暴行実録』を出版したという個所があります。(p.87)同じ年に、一字違いの題名の本を出版するとは考えにくいので、これは『日寇暴行実録』だと推測されます。
 ということは、国民政府軍事委員会政治部が出版した本には、誰が出版したのか明示されていたわけです。
 中国語訳・ティンパーリー『外人目睹中之日軍暴行』(漢口国民出版社)を出版したのは、国際宣伝処でも軍事委員会政治部でもないというのが、私の見解ですが、それを裏付けているように思います。

(1) まず、海外宣伝を目的とした国際宣伝処が、中国誤訳を出版するとは考えにくい。(その他、序文を郭沫若が書いており、「人民」「帝国主義」などの左翼的とされた用語が含まれているので、国民党直系の機関の出版物とは思えない。)

(2) 国民政府軍事委員会政治部の作なら、『日寇暴行実録』と同じように政治部の出版であることが明示さていると考えるべきである。

ということになります。

残念ながら、『日寇暴行実録』の実物を見ていませんので、なんとか見てみたいものです。他の写真にどんなものがあるか、というのも興味深いところです。

   │├第三庁の「拡大宣伝」 ゆう 2004/02/14 09:13:52  (修正2回) ツリーへ

Re: Re:アサヒグラフの写真について 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2004/02/14 09:13:52 ** この記事は2回修正されてます
第三庁の「拡大宣伝」

話題が逸れますが、「抗日戦回顧録」の話になりましたので、ちょっと「質問」です。

東中野修道氏の『南京「虐殺−第二次国共合作下の戦争プロパガンダ』(『南京「虐殺」研究の最前線 平成十五年度版』)で、この本のことが取り上げられています。以下、「トリック」を味わっていただくために、関連部分、全文引用。


******************************

このように、『戦争とは何か』を貴重な南京「虐殺」の証拠とみなす論拠は崩壊し始めていたが、それをプロパガンダと言い切るにはまだまだ決定的な確証に欠けていた。

 今日のように中国大陸は統一されていなかった。十八世紀末いらい内乱が一世紀半も続き、あちこちに軍閥が割拠し、内乱の状態であった。一九三〇年代に最も勢力を伸ばしていたのは蒋介石の率いる国民党であった。毛沢東の率いる共産党は国民党の軍事的攻撃を受け、息も絶え絶えに辺境の延安に逃げ込み、現状維持がやっとの有り様であった。

しかし国民党と共産党は一九三六年十二月の西安事件いらい再び握手し、一九三七年九月、第二次国共合作の時代に入る。とはいえ、国民党はアメリカとドイツの支援を受けて強力な軍事力を擁していたので、主導権は専ら国民党にあった。一九三七年七月、日中戦争が勃発したとき、実際に日本軍と戦ったのは国民党軍であった。戦後、国民党の何応欽将軍は、四万回の戦闘のうち共産党軍が主動的に戦ったのは「二回」であったと不満をもらしている。しかし宣伝戦においては、国民党は共産党とともに協力な宣伝戦を展開したのである。どちらが中心的な担い手であったのか。この点では国民党と共産党の資料は一致していない。

たとえば戦後まもなく『抗日戦回想録』を書いた共産党の郭沫若によれば、参謀総長の陳誠を部長とし、漢口駐屯八路軍代表の周恩来を副部長とする政治部のもとに、軍中の党務を掌握する第一庁と、民衆組織をつかさどる第二庁、宣伝を担当する第三庁が設置された。軍隊宣伝、国際宣伝、対敵宣伝を任務とする第三庁は郭沫若を庁長として、一九三八年四月一日に発足した。

郭沫若は「宣伝は作戦に優先し、政治は軍事に優先する」というスローガンを見て、「大いに気をよくした」と回想し、自らを宣伝戦の主たる担い手として描いている。

しかし「抗日文化人集団」でもあった第三庁の仕事は事実の宣伝と言うより、事実の「誇大」宣伝、すなわち「拡大宣伝」であった。
その最大の成果は『敵寇暴行実録』(一九三八年)の出版であった。郭沫若はその出版が「材料の収集から編集、印刷、保管から発行まで、すべて三庁の人々によってなされた」と自慢しているが、『敵寇暴行実録』はその存在が確認されていない。これは『日寇暴行実録』のことであろう。これならば存在している。

一方、国民党の資料は、郭沫若の『抗日戦回想録』とほぼ同じ組織、同じ宣伝内容を記すが、その主たる担い手としては董顕光と曾虚白の名をあげている。一九三七年十一月、国民党中央宣伝部が発足し、そのもとに対外的な宣伝工作を担当する国際宣伝処が組織された。曾虚白の「自伝」によれば、対外宣伝は中央宣伝部副部長の董顕光が采配を取り、南京の金陵女史大学教授であった曾虚白が国際宣伝処処長に就任する。

以上のごとく、国民党側と共産党側の資料は必ずしも一致せず、共産党が独自に宣伝戦を展開していたかのようにみえる。が、郭沫若が国民党政治部第三庁庁長であったことに全ては言い尽くされており、共産党系の人士は国民党の組織の中に包含されていた。国民党中央宣伝部が国民党政治部第三庁と「密接に連携」して、戦争プロパガンダを推進していたのである。そのため郭沫若は国際宣伝処処長の曾虚白と「年中顔を合わせていた」と回想している。

南京陥落後は国際宣伝処が第三庁と「共催」して毎週月曜日に外国人特派員を漢口の国際宣伝処に招待していた。

宣伝は作戦に優先した。その誇大宣伝、すなわち拡大宣伝のなかで、大成功を収めたのがティンパーリ編『戦争とは何か』の出版であった。日中戦争一周年の一九三八年七月に出版されたこの本が、この後半世紀以上も宣伝本と見破られなかったことを考えれば、如何に宣伝が巧妙で、大成功であったかが分る。しかし今やそれが「宣伝本」と判明した。
(P261〜P264)

******************************


郭沫若「抗日戦回顧録」の話が、ティンパーリ「戦争とは何か」の記述にサンドイッチされています。

私は、初読の時、東中野氏は「郭沫若の「第三庁」がティンパーリ『戦争とは何か』の編集に携わっていた」と主張しているのだろう、と完全に錯覚しました。「日冠暴行実録」というのが、『戦争とは何か』の別名だったかな、という恥ずかしい錯覚まで(^^;

よく読むと、東中野氏は、「第三庁」と『戦争とは何か』が関係ある、とは一言も書いていない。意地の悪い、トリックめいた書き方です。



*余談ですが、鈴木明氏もそのような勘違いをしてますので、私はその影響を受けていたのかもしれません。

「郭沫若の第三庁での仕事は、よく注意して読まないと見逃してしまうが、『対侵略軍暴行実録』という本の編集・発行について、くわしい記述がある。何故か、この本の作者、内容などについては一切ふれていないが、これがティンパーレー作のものであることは前後の関係から見て間違いない」(鈴木明「新・南京大虐殺のまぼろし」P287)



それはともかく、私が気になったのは、「拡大宣伝」の意味です。東中野氏は、『事実の「誇大」宣伝、すなわち「拡大宣伝」であった』と、何の疑いもなく、これを「誇大宣伝」の意味にとっています。しかし、この本の各所で郭沫若氏が「拡大宣伝」の語を使っている部分を見ると、どうもそうは見えない。


>三庁開幕の日の夕方、私は陳誠に来て「訓話」をしてもらったが、そのあとで彼は私にこういった。「どうだろう、早いところ拡大宣伝をやって政治部復活の意義を宣伝しては?」(P67)

>そこで私たちは四月五日」(この日付はよく覚えていないが、あるいは一日、二日早かったかもしれない)から向う一週間、拡大宣伝をやることにして、準備をはじめた。
>一週間の宣伝は、歌詠デー、演劇デー、映画デー、漫画デーといったように、毎日一つテーマになる番組をつくった。そして中ほどの一晩、提灯行列をやり、昼間一同大行進をやることにした。また、ほかにもいろいろ宣伝物を準備したり、新聞に毎日特集号を出させたり、講演会を開いたり、中、英、日各国語によるラジオ放送をするといったぐあいに、かなり大がかりなもので、一同かなりはりきって働いた。(P68)


「拡大宣伝」週間の内容は、「歌詠デー、演劇デー、映画デー、漫画デー」とのことです。「拡大宣伝」を「誇大宣伝」と「翻訳」して読むと、どうも意味が通らない。


>今日からみると、このニュースは噴飯ものだ。事実のところ、敵は台児荘一帯から戦略撤退をし、全面的進攻に備えたのだ。それをわが方の「軍師」たちが誇大にしたので、それこそまさに「拡大宣伝」だ。これはもともと「軍師」たちの慣用語だが、それにしても当時は一般人を勝利の陶酔にまきこんでしまった。(P70)

>われわれは、歌詠の力で、われわれの宣伝を拡大しなければなりません。(P72)


このような書き方を見ていくと、「拡大宣伝」をストレートに「誇大宣伝」の意味にとるのは、ちょっと無理があるようにも思えるのですが。中国語の表現に詳しい方、いかがでしょうか?



なお東中野氏は、「その最大の成果は『敵寇暴行実録』(一九三八年)の出版であった」と、郭沫若が言ってもいない「最大の成果」という語を使うことによって、「第三庁」の最大の仕事が「デマ宣伝活動」であるかのような錯覚を誘っていますが、郭沫若氏自身は、「第三庁」の活動をこのように評価しています。


>問題はどうしたら文化の触角を前線へ、戦区へと伸ばせるかにあったのだ。この点で、三庁の存立はたしかにある程度の意義があった。当時多数の勇敢な新聞記者が前線に出向いたが、それは三庁が通行証を出したものだ。このことは友人たちの記憶にも残っていると思う。

>また、三庁自体としても、前線、傷病兵、抗日家族などを慰問したり、精神的食料を前線に送ったり、付属団体を各地に巡回させたり、いろいろな仕事を強化した。―付属団体についていえば、われわれは、武漢撤退前に、九つの抗敵演劇隊、四つの抗敵宣伝隊をくり出し、四つの映写隊を訓練し、児童劇団もたえず後方に移動させていた。

>かりに批判的な眼で三庁の活動を見て、それが抗戦期間中多少でも役立ったと認めるとすれば、それは武漢三鎮における華々しいわりに内容のない、幾度かの拡大宣伝ではなくて、実際のところ、こうした文化の触覚が各戦区に与えた慰問、激励、啓蒙であったのだ」(P116)



*「日冠暴行実録」について、笠原氏は、1984年の「スタンフォード大学・フーバー研究所」訪問時の話として、

>第三(の成果)は、流布されている南京大虐殺写真の原本にあたる『日冠暴行実録』(国民政府軍事委員会政治部、1938.7)の現物を手にとって見、八木豊明さんに複写写真を撮ってもらったことである。これによって、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』の「ニセ物写真」説を否定することができた。(「近きに在りて」第20号 1991.11)

と記述しています。今どこで手に入るのかわかりませんが、この時点では日本で現物を手にした人は誰もいなかったようです。

   ││└拡大宣伝、金陵女子大学教授であった曾虚白 渡辺 2004/02/14 23:38:07  ツリーへ

Re: 第三庁の「拡大宣伝」 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/02/14 23:38:07
拡大宣伝、金陵女子大学教授であった曾虚白

 ん、まず、曾虚白って金陵女子大学教授?
 で、未読の部分を見ると、なるほど、金陵女史文理学院で、(民国)19?〜20年(1930?−31年)の、多分1年間くらいやってるようですね。その後、1年間「庸報」で臨時(客串式)の記者をして、(民国)21年〜26年(1937年)まで6年間「大晩報」を経営してたとなってますね。経歴紹介として、わずかな期間だけだった「金陵女子大学教授」は不適切じゃないかな。

>「抗日戦回顧録」の話になりましたので、ちょっと「質問」です。

 って、自分で全部答えてますよ(^^;

>このような書き方を見ていくと、「拡大宣伝」をストレートに「誇大宣伝」の意味にとるのは、ちょっと無理があるようにも思えるのですが。

 「拡大宣伝」と「誇大宣伝」はずいぶん違うようですね(^^)
 字義としては、日本語の「拡大」と変わらないんじゃないでしょうか。
 引用されたように、『抗日戦回想録』では「拡大宣伝をして政治部復活の異議を宣伝しては?」(p.67)ということで、「向う一週間、拡大宣伝をやることにして、準備を始めた」(p.68)とあります。
 活動の拡大のための宣伝ということじゃないかな。「陳誠は、三庁に拡大宣伝週をやらせたが、そのねらいは、新しくできた政治部のために景気を添えるためだった。」(p.74)とありますからね。いずれにしても、一週間のことです。

>私は、初読の時、東中野氏は「郭沫若の「第三庁」がティンパーリ『戦争とは何か』の編集に携わっていた」と主張しているのだろう、と完全に錯覚しました。

 文脈からして東中野氏も鈴木明氏と類似のことを言いたいみたいだね。
 しかし、『戦争とは何か』を「宣伝」にからませようとすると、証拠がないばかりか、担当者は「国際宣処」なのか「三庁」なのか、どちらにしても収まりが悪いということに東中野氏も気が付いているので、はっきり言えないのでしょう。
 せいぜい、英語版刊行に関連して国際宣伝処がお金を出したかどうか、ということろが議論にできる程度だと思います。

 ちなみに、曽虚白は、国際宣処の草創期について、このように書いています。([言荒]騙人は、ウソで人を騙すという意味です。以真動人,以誠格人は、真を以って人を動かし、誠を以って人に取り組む、ってことじゃないかな。曽先生の文章は難しい。)
---
追憶当時我強調,国際宣伝要発生実効第一個原則,絶対不能説[言荒]騙人,也不能誇大掩飾,要実事実説,以真動人,以誠格人,才能使人家心悦誠服做我們的朋友来幇助我們。[『曽虚白自傳(上集)』p.175]
---

   ││ ├「朋友」とは、アメリカ等の世界の国々のこ... 熊猫 2004/02/15 20:51:00  ツリーへ

Re: 拡大宣伝、金陵女子大学教授であった曾虚白 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <xhcvsuquwp> 2004/02/15 20:51:00
「朋友」とは、アメリカ等の世界の国々のことだと思います。
アバウトですが、「我々が誠実なる態度で臨めば世界は我々の味方になってくれる」という趣旨ではないでしょうか。

   ││ └やはりそう思われますか ゆう 2004/02/16 22:01:00  ツリーへ

Re: 拡大宣伝、金陵女子大学教授であった曾虚白 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2004/02/16 22:01:00
やはりそう思われますか

「拡大宣伝」、やはり、「活動の拡大のための宣伝」、あるいは「組織拡大のための宣伝」ぐらいの意味にとっておく方がよさそうです。私の見方が特異ではないことがわかり、安心しました。


この東中野論文のひとつの軸として、「ベイツは国民党の顧問だった。スティールやダーディンは、そのベイツから受けとった「レポート」をもとに記事を書き、「大虐殺」なるものを世界に広めた」というストーリーがあります。

「ベイツの手紙」とスティール、ダーディンの記事を読み比べれば、そのトンデモは一目瞭然なのですが。時間を見て、ちょっとまとめてみようと考えています。


ちなみに、東中野氏の文章と、「ベイツレポート」。(コンテンツ準備中、現在「資料」のみ)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/bates2.html

スティールの記事。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/steele.html

ダーディンの記事。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/durdin.html


そもそも、「レポート」と「記事」とでは、分量が全く違います。ダーディンの記事なんぞ、スクロールするのも疲れそうですね。ダーディンやスティールは、自分自身の目撃と独自の取材から得た情報をもとに記事を書いているわけで、「ベイツ報告」はせいぜい「材料のひとつ」として利用しているに過ぎません。


しかし最近、掲示板で東中野先生の文章のコピペを見ることも、めっきり少なくなりました。否定派のみなさん、ちゃんとこの論稿を読んでいるのかなあ。どうも張り合いがない・・・(笑)。

   │└不許可写真が軍事郵便はがきになった例 渡辺 2004/02/23 00:25:01  (修正1回) ツリーへ

Re: Re:アサヒグラフの写真について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/02/23 00:25:01 ** この記事は1回修正されてます
不許可写真が軍事郵便はがきになった例

 日本の新聞記者の撮影した写真が、国内では不許可で使用されなかったのに、軍事郵便用の写真に使われたという、めずらしいものが下記に掲載されています。
http://www.arts.cuhk.edu.hk/NanjingMassacre/NMFOTO02.html
 新聞社の写真が本来の目的以外にどう使われたのか、調べてみる必要がありそうです。

   ├報道写真の現像−馬淵『報道戰線』より 渡辺 2004/03/18 18:44:12  (修正3回) ツリーへ

Re: アサヒグラフの写真について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/03/18 18:44:12 ** この記事は3回修正されてます
報道写真の現像−馬淵『報道戰線』より

タラリさん:>
>上海支局などでは自前で写真の現像をしていたので
>しょうか。もし、自前でしていたとしても、雇い入れた中国人写真技師などに
>任せていたとすれば、そこから流れたということが考えられますね。

 「支那事変」初期には、上海でフィルムが「処理」されたと、馬淵逸雄『報道戰線』改造社、昭和16年(1941)にありましたので、記事をこの投稿の末尾に引用いたします。

 あるオンライン・オークションでは朝日新聞記者の当時の報道写真が収められたアルバムが出品されていましたので、個人的に焼増ししたり、友人に分けた写真があったと思われます。また、図書館にはあまり置かれていないようですが、ニュース写真が販売されたりしていましたので、そういうものが出回っていたかもしれませんね。

---
馬淵逸雄『報道戰線』改造社、昭和16年(1941)

- p.155 -
 ニュース寫眞は最初生フィルムを上海で處理してゐたが、戰場が逐次南京、漢口等に進展する
と共に、それぞれ基地に於て現像燒付し、至急報のものは飛行機により生フィルムを内地へ空輸
した。これがためには軍に於ても可及的速かなる便宜を圖り、宜昌作戦に於ける山脇部隊の如き
は、新聞社のために特に飛行機を出して生フィルムの補給をしたほどである。
 職場は甚だ不便であって、殊に軍の進撃著しい時、又は戦闘激烈な時にあつては、従軍記者の
通信施設はこれに追随することが出來ない。かういふ際には軍の無線を一時貸して通信させた
り、自動車、トラックに便乗させて原稿の送達をさせ、又軍用飛行機によって寫眞、原稿の輸送
をしてやつてニュースの速達に努めた。南京占領、徐州曾戰、武漢占領等劃期的な大事件が起る
と、大新聞社は自ら飛行機を準備してニュースの速達を競争するのを常とした。
 事變前乃至事變當初は「同盟」「大毎」「大朝」が上海、南京に支局を置いて居た程度であつた
が、戦争の推移につれ杭州、蘇州、漢口等にも設置せられ、「報知」「新愛知」「福日」等もどし
どし支局を設置し、之等は大抵上海を中南支総局として中支那、南支那各支局特派員を総括せし
めた。
---
引用者註:「それぞれ」の原文は、繰り返し記号が使われ「それ/゛\」のように表記されている。

   └日本軍残虐写真の出所−佐藤振寿氏の見解 渡辺 2004/03/18 18:57:01  ツリーへ

Re: アサヒグラフの写真について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/03/18 18:57:01
日本軍残虐写真の出所−佐藤振寿氏の見解

タラリさん:>
>また、この他にも「捏造写真、ヤラセ写真」があると否定派の尻馬に乗っている秦氏
>ですが、この先どのように論証してくれるのか、大いに興味があります。

 日本軍の兵士が撮影した残虐写真について、当時カメラマンとして従軍していた佐藤振寿氏が、下記のような記事を書いていますので引用いたします。
 残虐写真の多くが、佐藤氏の言うような理由で出回ったのでしょう。これ以外にも、日本人の浪人が、上海で商品として残虐写真を販売していたという英文資料もありますので、後日ご紹介いたします。

---
『1億人の昭和史 10不許可写真史』毎日新聞、1977年
佐藤振寿「不許可となった写真たち」

- p.247 -
 ともかく戦時中の写真検閲は、できるだけ
不許可のハンを押す。国民に知らせない方が
よいという大方針が打ち立てられていたとし
か考えられない。それにもかかわらず、海外
では日本兵の残虐、暴行などの写真がゾロゾ
ロと発表されたのだから、驚きの一語につき
る。それらの写真は、あまり上手とはいえな
いアマチュアの写真のようだが、チャンと抜
け道があったのだ。
 たとえば上海の前線の場合である。多くの
将校や下士官が、カメラを持って戦場にい
た。ほんとうにドンパチの戦闘の時は、写真
を撮影する余裕はない。戦闘も小休止となっ
た時に、カメラを持ち出して撮影することに
なる。そんな時に、何を撮っていただろう
か。たわいのないスナップや記念撮影なら結
構。しかし、武勇伝まがいの首切りにレンズ
を向けたことがなかっただろうか。
 戦場にはカメラ店はないから、現像や焼付
けができない。そこで休暇をもらったり、出
張で町へ行く兵隊にこの未現像のフィルムを
託すことになる。カメラ店ではこれが中国人
の暗室マンによって、現像されたりする。と
ころが、彼らだって愛国心はある。現像済み
のネガの中に、ひどい仕打ちをする日本兵の
姿を見逃すはずはない。すると、こうしたネ
ガから一枚ずつ余分に焼付けをしておく、そ
してこれは現像しないで、黒い紙に包んで胸
のポケットに。
 一日の仕事を終わると、なに気なくその印
画紙を持ったまま、検門をパスして自宅へ帰
るわけだ。もしも検門でひっかかっても、黒
い紙の中には白い印画紙だけしか入っていな
いから問題はない。開いて見られれば印画紙
は感光してしまい、いくら現像しても日本兵
の影も形もまっ黒で見えないわけだ。こうし
て持ち出した印画紙は、安全な場所で現像す
れば、そこでちゃんと日本兵の写真ができる
ことになる。そして、海外でそれが反日の好
材料として発表されたのであった。
---

    └これと同じような文章を確か笠原さんの文章... タラリ 2004/03/19 00:20:04  ツリーへ

Re: 日本軍残虐写真の出所−佐藤振寿氏の見解 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2004/03/19 00:20:04
これと同じような文章を確か笠原さんの文章で読んだことがあり、何が原典なのだろうかと思っていましたが、佐藤振寿さんの文章だったのですね。
ありがとうございます。最近は別の趣味が復活して、掲示板活動はお休みしています。


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