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  杉山平助について 靴屋 2004/03/24 18:22:11  (修正1回)
  杉山平助には『揚子江艦隊従軍記』(193... タラリ 2004/03/24 22:38:00 
  杉山平助「支那と支那人と日本」 ゆう 2004/03/27 19:47:04  (修正3回)
  「南京」杉山平助(『改造』昭和13年3月... K−K 2004/04/01 01:39:30 
   └よくぞまあ、「改造」を ゆう 2004/04/01 21:58:03 

  杉山平助について 靴屋 2004/03/24 18:22:11  (修正1回) ツリーへ

杉山平助について 返事を書く ノートメニュー
靴屋 <uypqsyhqon> 2004/03/24 18:22:11 ** この記事は1回修正されてます
ええっと、例えばゆうさんのページには「文化人と「南京事件」」に石川達三や大宅壮一といった比較的知られていると思われる名前が上がっていますが、田中正明が例の文章の中でも述べている杉山平助については、『日中戦争史資料8』の付録にあるというのは実はあまり知られていないのでしょうか? 正直ネット上議論などでこの名前が挙がっているのを見たことがありません。付録はあんまり読まれてないのかな?

一応というか、手持ち資料がある方は御覧になれば済む話なのでしょうけども、参考のためにここに引用します。

南京事件と日本の新聞報道
菊地昌典
(ソビェト史、東大助教授)
『小雨のそぼ降る目に、支那人の死骸がツクダニのやう
に折り重なつた南京の城壁のほとりを、ひとり静かに歩
いて行つた時、「夢かや、うつつかや」といふ古い物語
にあるやうな文句が、そのまま私の胸によみがへつてき
たことも思ひ出された。これは夢であらうか、うつつで
あらうか。もし一九三七年の初頭に、何人かが、今年の
年末に、日本軍は南京に入城してゐるであらうと予言し
たら、世界中の何人も、彼を荒唐無稽の浮説をなすもの
として一笑に附したことであらう。しかし到底起り得べ
からざることと思はれることが、現実には、実に易々と
簡単に生じ得るのである。孫文の理想も、蒋介石の覇業
も今いづこ。南京城内外、鬼哭啾啾たるの恨みを、私は
耳に聞いたのだ。この老廃しつつある民族を、血清の注
射によつて蘇らせようとした新生活運動の本拠たる励志
杜の建物の、破屋のごとく投げ捨てられてゐるのを私は
見たのである』
 作家、杉山平助は、「信じ得ぬ平和」と題した従軍記録
を発表し、「南京で見て来たさまざまの光景はあまりにも
痛く私の脳裡に焼きつけられてゐた。私の感情はむしろ沈
欝であつた」と述べ、うららかな陽光をあびた芝生、フリ
ージャの匂うわが家、静かにピアノの音が聞こえてくるこ
の日本が現実のものとは思われない、「私は、もうこの平
和を信ずることはできない。南京の印象は、あまりに強烈
だ。私の心はレストレスである。不安である」と書いてい
る(「東京朝日」昭和十三年一月十八〜十九日)。杉山は、
具体的に南京の惨状を語ってはいない。否、当時として
は、それは語るわけにはいかなかったことである。だが、
上海から南京に至る中国の破壊のひどさ、そして中国民衆
の惨禍は、杉山の心に、「ひとたび戦争を始めた以上は、
絶対に負けてはならない」「我々は今こそ鬼の如く、徹底
的に戦つて、徹底的に勝つより外にはない。そして勝つた
めには、且その戦果を確保するためには、如何なる手段と
いへど辞すべきではないのである。この期に至って、中途
半端な温情主義や人道主義などは、百害あつて一利がな
い」とまで言いきっている。杉山は、みずから、「事変」
の当初は、片隅からではあるが、執拗に不拡大主議を主張
してきた一人であったと告白している。その杉山すらが、
南京の惨状に衝撃をうけ、「鬼の如く、徹底的に戦つて、
徹底的に勝つ」ことを固く心に決心させたのであった。
〔洞富雄編,『日中戦争史資料8 南京事件1』,河出書房新社,1973,付録pp1-2〕

原資料は東京朝日新聞(昭和十三年一月十八〜十九日)のようですが、私自身は未だ確認してません。

  杉山平助には『揚子江艦隊従軍記』(193... タラリ 2004/03/24 22:38:00  ツリーへ

Re: 杉山平助について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2004/03/24 22:38:00
杉山平助には『揚子江艦隊従軍記』(1938)という著書があります。私もまだ読んでいないのですが、彼の心境の変化について書かれているかも知れません。

  杉山平助「支那と支那人と日本」 ゆう 2004/03/27 19:47:04  (修正3回) ツリーへ

Re: 杉山平助について 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2004/03/27 19:47:04 ** この記事は3回修正されてます
杉山平助「支那と支那人と日本」

このところ多忙につきネットの方は「お休み」していますが、興味深い情報をいただきましたので、少しだけ登場します。

さて、杉山平助氏には、昭和13年5月13日発行の、「支那と支那人と日本」という著作があります。


**************************************

私の上海滞在の期間は短かつたけれど、その間に、国際情勢の油断すべからざることは直感した。そして、我々の生活は、根本から建て直さなければならない、といふ決意をもつて、私は日本へ帰つてきたのである。

帰つてみれば、郊外の私の家の、庭の枯れた芝生には、うららかに陽が照つてゐる。フリージヤは静かに匂つてゐる。ピアノの音も、どこからか聞こえて来る。何といふ平和さであらう!

しかし、私は、もうこの平和さを信ずることは出来ない。南京の印象は、あまりに強烈だ。私の心はレストレスである。不安である。

私は、この不安を人々の心につたへ、彼等の決意を呼び醒まさなければならない。戦争が好ましいか好ましからざるかは別の問題だ。ひとたび戦争をはじめた以上は、絶対に負けてはならない。そしてそれは、指の一本も動かすことなくして、出来ることではないことが、私にはハツキリと分つたのだ。(P6)

**************************************


このあたりが、菊地氏の引用した部分とダブるようです。この文章を見る限りでは、杉山氏は、南京において、「敗戦国としての悲劇」を目撃し、戦争には「絶対に負けてはならない」と認識しているように見えます。一体氏は、南京で何を見たのでしょうか。

氏は、12月27日に上海を出発し、同日夕刻南京に到着、そのまま31日まで滞在していたようです。後にその記録が出てきますが、肝心なところは・・・


**************************************

五時、朝日新聞社の南京支局へ到着。

同人十数人、水道も出なければ電燈もつかない中に、えらい混雑である。編集局のソファーにいち早く、私は眼をつけて、そこを自分の寝床として占拠してしまつた。

南京はまる一日見物しただけで、出来るだけ早く、私は上海に引き返すつもりであつた。しかし揚子江を下航する船に故障が生じたりして、南京を出発したのは、三十一日の朝になつてしまつた。

その間の見聞を、詳細に記述することは、私には、現在は出来ないことなのである。ただ私は、私の感想を書いて、そのブランクをうづめる。(P356〜P357)

**************************************


「詳細に記述すること」は「出来ない」のだそうです。その後にも、具体的な話は出てきません。しかし、次の文章が、杉山氏の見たことを暗示しているのかもしれません。


**************************************

夜になると、若い従軍記者が、ランプのまはりで、いつか議論に熱中していゐる。

テーブルの上に鳩が歩いてまわつてゐる。

外は暗闇だ。そして、避難民がまはりにいつぱい住んでゐるのである。死骸はまだ、いたるところに転がつてゐる。

戦争と、人道について議論がはづんだ。

戦争がはじまつた以上、勝利のためには、そしてその戦果を確保するためには、何をやつたつて構はん、この場合一切の道徳律は無力であり、無能であると、私は論じた。今度の戦争では、戦闘員と非戦闘員の区別などは、厳密な意味ではあり得ないのである。てつとり早い殲滅は一種の慈悲ですらあり得やう。(P364〜P365)

**************************************


微妙な表現で、確実なところは言えません。とりあえず「解釈」は、読む方にお任せしましょう。



*私は「南京大残虐事件資料集」の方を買いましたので、この「附録」は知りませんでした。「揚子江艦隊従軍記」は、タッチの差で入手しそこないましたので、「東京朝日新聞」、または「従軍記」をお持ちの方、情報を提供いただけますと嬉しく思います。

**杉山氏は、この本で、カルチャーが違いすぎるので、日本人は「支那人」と結婚すべきではない、という持論を延々と展開しています。読み方によっては「人種差別」ですが、このあたり、当時の考え方がわかって、実に面白い。要するに、「支那人」の女性には日本の女性のような奥ゆかしさがなく、男性に気はつかわないわ、わがままだわ、結婚したら絶対不幸になるぞ、ということであるようです。杉山氏が現代の日本女性を見たら、何と言うか・・・。

  「南京」杉山平助(『改造』昭和13年3月... K−K 2004/04/01 01:39:30  ツリーへ

Re: 杉山平助について 返事を書く ノートメニュー
K−K <ecoepxmujl> 2004/04/01 01:39:30 kaizou13_3.lzh
「南京」杉山平助(『改造』昭和13年3月号)

 杉山平助という人の名前が、ずっと気になっていたのですが、ようやく思い出しました。『改造』に手記を載せており、以前、その部分をコピーしていたのですが、すっかり忘れていました。

 コピーの画像をファイルとして添付しておきますので、ダウンロードしてご覧ください。

 それほど重要な内容ではありませんが…。

   └よくぞまあ、「改造」を ゆう 2004/04/01 21:58:03  ツリーへ

Re: 「南京」杉山平助(『改造』昭和13年3月... 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2004/04/01 21:58:03
よくぞまあ、「改造」を

昭和13年2、3月号あたりには、「南京」関連記事があるかもしれないと思い、私も時間があったらチェックしてみようと思っていたのですけれどね。

ちなみに、「支那と支那人と日本」は、昭和12年11月から13年5月にかけて、杉山氏が各メディアに発表した文章をまとめたものです。これを見ると、「改造」には、昭和12年11月から、5か月連続して、寄稿していますね。もちろん、問題の「東京朝日」に寄せた文章も掲載されています。


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