『陥京三月記』(占領下南京三か月の記録)に掲載されている
1938年2月17付「蒋公穀報告」は、スペアリングを通し、ラーベが帰国途上に上海に持ち出したものの元文と思われるので、その理由と意義について投稿いたします。
(1)「蒋公穀報告」について
この報告書は『南京事件資料集 2中国関係資料編』pp.102-106
に邦訳が掲載されています。 1938年8月付の序文によれば、『陥京三月記』は日記の体裁で書かれたものとあり、確かに日付に誤りがある部分がみられます。しかし、その詳細な内容からは、単に記憶に頼ったとは思えない部分があります。 その一つが、1938年2月17日の条にある報告書です。 報告中には、10日間の死者は6、7万の多数にのぼるという、注目すべき記述があります。
(2)報告書が南京から持ち出された経緯
『陥京三月記』の2月19日の条で、報告書をスパーリングに託したときのことをこう記述しています。 --- 十九日午後 子良は処長にしたがって先に行き、同居の友人許銀生が報告書を密かに携えて後から続き、順次スペルリング氏宅に赴いて氏に転送をたのんだ。三時過ぎ無事もどる。[p.106] ---
この頃に上海に向かった外国人はラーベで、2月23日にビー号で南京を発っています。(『南京の真実』p.262) 従って、ラーベが報告書を上海に持ち出したと考えられます。 この報告書は、その後、新聞に公開されました。1938年3月9日付『漢口大公報』では、このように紹介されています。 --- 【中央社通信】最近、ある難民が南京より二月十九日に秘密に出した手紙が上海から香港に転送されて、漢口のかれの友人に届いた。その手紙は、わが首都の陥落後、日本侵略者が南京でほしいままにおこなった焼殺・強姦・略奪の獣行、極悪非道、この世で最大の悲惨さを詳しく記している。(途中省略)以下に手紙の原文を掲載する。[p.50] ---
「手紙の原文」と『陥京三月記』の間には、若干の異同があるものの、「手紙の原文」が1938年2月17付「蒋公穀報告」であることは明らかです。 従って、『陥京三月記』(占領下南京三か月の記録)に掲載されている
1938年2月17付報告書は、当時の南京で事件がどう分析されていたかを示す貴重な資料ということができます。
--- 註:投稿中のページ数は、すべて『南京事件資料集 2中国関係資料編』(青木書店)のものを示す。
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