筆者S・M氏(当然ながら本は実名で書いていますが、ここではイニシャルにします)は、昭和12年8月応召、「野砲兵第二十二連隊」に入隊、北、中支を転戦しました。昭和16年4月には金鵄勲章を受けています。戦後は、会社を経営、「大阪○○団地協同組合」(○○は一応マスクしておきます)の理事長を務めるなど、結構「名士」であったようです。
筆者は、「あとがき」で、「この拙著「還ってきた軍事郵便」は、素人の私がたどたどしく綴った拙文であるけれど、徹頭徹尾真実の羅列であり、一言一句のフィクションも含まれていない」と言い切っています。筆者の社会的地位、この「あとがき」の書きぶり、また、他の資料との整合性から見て、以下の記述の信頼性は高いものと言えるでしょう。
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部隊は常熟、無錫、常州、丹陽と、逃げ足の速い敵を追って進撃するのであるが、途中無錫の街で見るべからざる情景を、この眼で見てしまった。何処の部隊か定かではないが、一兵士が一才にも満たない赤子を両手で高くさし揚げて、どうするのかと思ったらかたわらのクリークへ、こともあろうに投げこんでワイワイ騒いでいるのである。
如何に戦争とはいえ、いかに戦死した戦友の復讐とはいえ、これが果して人聞のすることだろうか。私は怒りにうちふるえてとても正視し得なかった。敵兵ならまだしも、戦争に何のかかわりもない無心の幼児ではないか。日本軍の兵士のなかには、こんな非道な、鬼のような奴がいた。
部隊は街を出はずれた処で夜営をしたが、あの惨虐極まる情景が頭にこびりついて寝付かれなかった。いま、よく新聞なんかに掲載されている中国旅行ツアーの募集広告を見て、そこに「無錫」という活字が目につくと、すぐこのことを思い出してしまうのである。
無錫から常州へ、そして丹陽へと日本軍は怒涛の如き快進撃をつづけたのであるが、その快進撃の裏には、まだまだ残虐非道の蛮行がその跡を断たなかった。
常熟から無錫、常州、丹陽と進撃して行くその街々には敗残兵の遺棄死体に混って、現住民男女の死体が散乱していた。その死体のなかの女性たちは下半身を裸にされて、こともあろうか、その局部に棒ぎれや竹筒が突込んであるのを私は馬上から、この眼で数回も見た。全く目を覆いたくなるような、非人道的な惨状である。
いくら戦争だからといっても、いくら戦死した戦友の弔い合戦だからといっても、これは許されない。言語道断の蛮行であり、鬼畜にも劣る残虐行為である。 (『還ってきた軍事郵便』P53〜P54」)
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*諸事情があり、HPの更新が少し止まっていますが、既に書き上げたページもあり、なるべく早く更新を再開します。・・・実は、パソコンを買い換え、「ホームページビルダー」をインストールしたのですが、「フロントページ」で作成しているページの編集方法がさっぱりわからない、というだけの話なのですが(^^;
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