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DELETED ゆう 2004/05/08 16:52:21 (削除)
├ 何人斬ったか?日本刀武勇伝集 ゆう 2004/05/08 16:53:43 (修正1回)
│├ 未だに山本七平を根拠に語るというのも、な... K−K 2004/05/08 20:46:29
││└ あっ、それ ゆう 2004/05/08 20:55:09
││ └ Re:成瀬氏といえば 渡辺 2004/05/09 12:42:05 (修正2回)
││ └ 『文芸春秋』は別の連載かもしれません。19... K−K 2004/05/09 23:08:35
│├ 新資料「百人斬り競争」野田氏の手紙 渡辺 2004/05/09 01:00:24
││├ 六車政次郎氏? ゆう 2004/05/09 09:21:14
│││└ Re:六車政次郎 渡辺 2004/05/11 23:52:48 (修正1回)
│││ └ RE:野田氏の手紙 ja2047 2004/05/15 15:39:17
│││ └ Re^2:野田氏の手紙9聯隊の行動 渡辺 2004/05/16 02:00:01 (修正2回)
││└ 質問:向井・野田両氏の関係について 渡辺 2004/06/02 17:40:02
│├ 平成の日本刀ですが...... 熊猫 2004/05/09 03:15:38
││└ こちらでは恐らくはじめまして。 ウサギの眼 2004/05/09 22:18:20
│└ ◇掲示板を覗くと、意外なことに、未だに「... 五番街 2004/05/12 10:14:15
│ └ 五番街さん、こんにちは! QBC 2004/05/19 14:56:40
│ └ QBCさん、はじめまして。 五番街 2004/05/20 08:50:29
│ └ こんにちは! QBC 2004/05/22 17:07:26
│ ├ しかし、それと『百人斬り』は別の話では?... K−K 2004/05/23 20:13:31
│ │└ K-Kさん!こんにちは! QBC 2004/05/23 22:23:31
│ │ └ 南京大虐殺事件の共同正犯とは、初めて聞き... K−K 2004/05/24 00:14:48 (修正1回)
│ │ └ こんばんは! QBC 2004/05/30 19:02:40
│ │ └ しかし、部隊に属してても、この2人が実際... K−K 2004/05/30 21:41:45
│ └ 南京法廷は新聞の報道通りの「白兵戦での百... タラリ 2004/05/23 22:40:07
│ └ こんばんわ! QBC 2004/05/30 18:53:22
│ └ >審問して明らかになったという事ですか? タラリ 2004/06/03 21:56:07
└ 百人斬りの質問 QBC 2004/05/18 20:55:36
└ 回答:百人斬りの質問 タラリ 2004/05/19 14:30:53
DELETED ゆう 2004/05/08 16:52:21 (削除) ツリーへ
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/05/08 16:52:21 ** この記事は削除されました
├ 何人斬ったか?日本刀武勇伝集 ゆう 2004/05/08 16:53:43 (修正1回) ツリーへ
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/05/08 16:53:43 ** この記事は1回修正されてます
何人斬ったか? 日本刀武勇伝集 掲示板を覗くと、意外なことに、未だに「日本刀三人限界説」を信じている方々がいらっしゃるようです。 参考までに、当時、「日本刀の性能」がどのように見られていたか、を示す資料を、二、三あげておきましょう。 まずは、「武勇伝」をいくつか。成瀬関次氏の紹介する「47人斬り」はhttp://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/expqrf/xwmqrf.html#xwmqrf で紹介しましたので、省略します。 まずは、「50人斬り」。 ************************* 支那事変 忠烈偉勲録第二輯」より (昭和十三年発行) 豪瞻敵五十を薙倒す 陸軍歩兵曹長 I・Y (原文は実名) (略) 今日も亦戦ひぬいたが日は暮れて行つた。相変らず雨は止まない。畜生!!何んとかしてやり度いと・・・歯がみして居るのである。○○部隊(原文通り)は払暁を期して遮二無二に敵陣を奪取しやうと云ふことになつた。そのとき○○隊のI曹長は深く決する処があつて、軽装して家伝の名刀一振を命として唯一人のM上等兵(原文は実名)を率ひて夜が未だ明け放れない前に敵陣へと肉迫した。 往年日露の役に蘇麻堡(そまほ)の敵襲が決行せられた時に少壮の士官達は極寒零下十度の冬空に襦袢一枚に抜身の日本刀を堤(ひっさ)げて突進したことを思ひ出すのである。 曹長は身長六尺に近い大男で、その上剣道の達人であるから十分の自信を以て居るばかりでなく、燃へるやうな攻撃精神を以て殉忠奉公の時は今であるとばかりに勇躍敵陣に踊り込んだ、そして大声に敵兵を叱咤しつつ薄闇塹壕内に切り込んだのであるから、敵は全く失心するばかりに驚いた。この隙を見て当るを得手と縦横に薙ぎ倒した。何しろ狭い塹壕の内で次から次へと切つて行く、まるで面白い程である、かうした間に夜は明け放れたので、M上等兵と協力して滅多切に斬つた。 敵はこの勢におぢて逃げまどうありさまは実に哀れな位であつた。曹長の切り倒した敵兵は五十人以上はあつた。この時味方は全線進撃を開始したので、曹長は敵の迫撃砲と小銃を鹵獲して悠々○○本部に合した。然しこの獅子奮闘の働きにも負傷一つせなかつたことは実に天佑と云はねばならぬ。 戦ひが済んで愛刀を調べてみたら、さすがに名刀ではあるが、刃が大部コワれて居た。 (P165〜P166) ************************* 次は、「23人斬り」。 ************************* 「東京日日新聞」昭和十三年一月十日 単身・敵中で阿修羅王 廿余名を銃剣の槍玉 杭州戦線の大殲滅戦 【杭州にて六日早川特派員発】小堺、片岡両部隊の富陽における■■廿五日の大殲滅戦は杭州戦線において嘗て見ない目ざましいもので、敵の戦闘司令所はわが松木部隊の砲撃で吹ツ飛ばされ敵の損害は二千名に上り
非常な戦果を収めたが、殊にこの戦闘における歩兵部隊の活躍も物すごく組んづほぐれづの大白兵戦が展開されたのも特筆すべく、中でも広瀬部隊T上等兵(原文実名)は廿五日午後一時半頃高地でラッパを吹いて血路を開かんと逆襲に転じて来た四十余名の敵中に阿修羅のごとく殴り込み突いて突いて突きまくり廿名を銃剣で突き倒した、この時敵の拳銃弾はT上等兵の左足を貫通したがこれにひるむことなくさらに三名を突き殺したのでこの鬼神のごとき働きにさすがの敵も潰走した。 (2面右上、5段見出し) ************************* まあ、こんな「武勇伝」を全部が全部「事実」とするわけにはいかないでしょうが、成瀬関次氏などはこんな肯定的な評価をしているようです。 ************************* 成瀬関次「戦ふ日本刀」より (昭和十五年発行)
今度の事変中、一戦ごとに一人で十人二十人といふ敵を斬つた事が新聞にも現はれ、従軍後は、各部隊でさうした功名談もよく聞き、部隊長又は隊長からも、
部下のかうした武功談を度々耳にした。実際誇張や法螺でない事は、血刀を修理して見ただけでも、それが頷けた。自分は、兵隊の撮影した
写真で、斬撃された敵屍の折重なつてゐる所を見た事があり、五月初旬、蘭陵鎮へ行軍途上、左荘といふ部落の近くで、刀傷で倒れてゐる敵の死体幾つかを見た事があつた。 (P25) ************************* さて、守山特派員の記事を発見しましたので、これも合わせて。 ************************* 「東京日日新聞」昭和十三年一月二十一日 日本刀病院で 大和魂修理 これが勇気の泉だ 【南京にて守山特派員十九日発】南京の目抜の通り中山路に「日本刀修理、大日本刀匠協会現地奉仕団」といふ看板が上つてからもう三日になる、何時見ても大変な盛況で凄い奴を携げて将校や兵隊さんが日夜入替はり立替はり来てゐる、剣や銃の修理所はあつても白兵戦に最も必要な日本刀の修理機関は軍の方にも備はつて居ない、肉弾相打つ白兵戦が多かつた上海から南京までの戦線では日本刀の傷み方も甚だしい、だから斯うした修理団の無料奉仕は非常に感謝され門前市をなす大繁盛を来すのも無理はない、 十九日国貨銀行の五階、仕事場を覗いて見た、団長栗原彦三郎氏、名誉顧問の伊集院兼知子爵を始め日本の刀剣界に堂々たる名を得る一流のお師匠ばかり十九名が日本刀の林の中に埋つては研(とぎ)や柄巻に余念がない、日本刀の病院、大和魂の修理工場である、上海で松井大将、長谷川中将の軍刀を研いだ一流の研師宮形光■氏等は語る 実践において最近の鎔鉄で作つた所謂昭和刀が如何に惨めな結果になるかが今度こそはつきり判りました、矢つ張り古い名刀は何人斬つても刃が微かにこぼれる程度で立派なものです この現地奉仕を機会に日本刀の機能を研究している栗原団長は 我々の別働隊は杭州にも派遣されこれまで北支から上海南京の各戦線を通じ既に一万七千口の日本刀を修理しました、併しこの度の事情で三万口の修理を目標にして居るのですからこれからです、日本刀の機能についていろいろ面白い結果を得ました いざ白兵戦といふ時に平素勇敢な人でもその持つて居る刀の柄が緩んで居たり刃がこぼれて居たりすると不思議に勇気が鈍り躊躇する傾がある、その反対に素晴らしい完全な刀を持つて居る人は日頃温順なしい人でもいざといふ時に非常な勇気が出る、躊躇せずに突撃が出来る、将校達は皆さういつて居られる、日本刀こそ勇気の泉です、それから支那兵は日本刀を最も恐れて居るらしく日本刀を振■して飛込むと催眠術にかかつたやうに無抵抗状態になつてしまふらしいですね と語つた ************************* つまり、「昭和刀」は駄目かもしれないが、「古い名刀は何人斬つても刃が微かにこぼれる程度で立派なもの」だということのようですね。 以上、当時の人々は、「日本刀は3人斬ったらもう使えない」とは考えていなかった、と見て差し支えないと思います。 この項を書くにあたって、山本七平の「私の中の日本軍」を読み返してみたのですが、「昭和刀」も「名刀」も一緒だわ、読者を納得させるだけの根拠は何もないわ、いや、ひどいものでした。
│├ 未だに山本七平を根拠に語るというのも、な... K−K 2004/05/08 20:46:29 ツリーへ
Re: 何人斬ったか?日本刀武勇伝集
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K−K <ecoepxmujl>
2004/05/08 20:46:29
未だに山本七平を根拠に語るというのも、なんだかつまらない話です。結局、否定派の方はあまり研究が進んでいないのでしょう。この点、ゆうさんの努力には、まったく頭が下がるところです。 ところで、成瀬氏といえば、確か、当時(昭和14年以降だったか?)の文芸春秋に連載をもっていたような気がします(うろ覚えですが)。 もしかしたら、もうお気づきでしたか?時間ができたら、ちゃんと確認しようと思っています。
││└ あっ、それ ゆう 2004/05/08 20:55:09 ツリーへ
││ └ Re:成瀬氏といえば 渡辺 2004/05/09 12:42:05 (修正2回) ツリーへ
Re: あっ、それ
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/05/09 12:42:05 ** この記事は2回修正されてます
Re:成瀬氏といえば K−Kさん:> >>ところで、成瀬氏といえば、確か、当時(昭和14年以降だったか?)の文芸春秋に連載をもっていたような気がします ゆうさん:> >このネタ、渡辺さんに振りますね。 >どうぞ、よろしく(^^) 急に、こちらに振らないでね(^^; 月刊誌の『刀と劍道』雄山閣、1937年11月〜1938年4月号に掲載された「従軍記 血刀修理行」(一)〜(四)のことですね。 下記に記事の一部を掲載したことがあります。http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/7/expqrf/lxuqrf.html 『文芸春秋』は別の連載かもしれません。1937〜8年の『文芸春秋』と『改造』は、じっくり調べてみたいと思います。『日の出』は、探しているのですが、なかなか見つかりません。 成瀬關次氏は、いくつか本を書いているのですが、その中に下記のような単行本があります。ときおり売りに出されるのですが、高くて入手できません。数年前に検索サイトでチェックしたところ、成瀬氏は居合の権威ということで、ご健在のようでした。 ----- 『實戰刀譚』(実業之日本社、S16) (目次) 序(本庄繁) 著者の言葉 日本刀の切れ味 戦線日本刀の一瞥 実戦刀譚 大八と大吉 兵器日本刀 物斬四題 奇怪萬字剣 陣中わざもの帳 「戦時眼」で見た正宗 偽刀談義 実戦武術を語る 徐州戦刀銘記録 選刀問答集 軍刀修理実施中に於ける観察考究の概略 日本刀各部の称呼概略
││ └ 『文芸春秋』は別の連載かもしれません。19... K−K 2004/05/09 23:08:35 ツリーへ
Re: Re:成瀬氏といえば
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K−K <ecoepxmujl>
2004/05/09 23:08:35
> 『文芸春秋』は別の連載かもしれません。1937〜8年の『文芸春 >秋』と『改造』は、じっくり調べてみたいと思います。『日の出』 >は、探しているのですが、なかなか見つかりません。 今日、文芸春秋の方を確認してみたのですが、連載というのは間違いでした。ただし、昭和14年の1年間だけでも6本の文章を載せています。他の年を調べていませんので、もう少し調べれば、他にも何か出てきそうですね。 > 成瀬關次氏は、いくつか本を書いているのですが、その中に下記 >のような単行本があります。ときおり売りに出されるのですが、高 >くて入手できません。数年前に検索サイトでチェックしたところ、 >成瀬氏は居合の権威ということで、ご健在のようでした。 まだご健在とはすごいですね。 『文芸春秋』昭和14年二月号の「寄稿家紹介」というところに、成瀬氏について次のような紹介文が書かれています。 ---- 引用 ---- 成瀬関次(第一線の日本刀) 五十二歳。三重県人。出身、東京外国語学校露語専修科。専攻、ウラルアルタイ語族の歴史、文化、再結成の方策。第四次元の哲学的導出。略歴、小学校訓導、新聞記者、印刷会社社長。目下、東京市委託言泉学園嘱託教師。著作、色線か死線か。第四延長の世界。マルクスの一角を崩す。氏族存廃論其の他。北支派遣●●部隊兵器部軍属として昨年二月より十月迄第一線に従軍し、軍刀修理研究。趣味、古武器類、古武術手裏剣術の復興に十数年の精進をなしつゝあり。現住所、○○○○○○○2−712、電話○○○○3105。 (●は原文のママ、○はK−Kが伏せました) ---- 終わり ---- これを見る限り、相当、多芸多才な人のようですね(笑)。
│├ 新資料「百人斬り競争」野田氏の手紙 渡辺 2004/05/09 01:00:24 ツリーへ
││├ 六車政次郎氏? ゆう 2004/05/09 09:21:14 ツリーへ
Re: 新資料「百人斬り競争」野田氏の手紙
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/05/09 09:21:14
六車政次郎氏? 記事によれば、野田氏は、 「戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました」と手紙に書いていたようです。「歌」の全文も、掲載されています。一部を紹介すると・・・。 「長刀三尺鞘をはらへば さつと飛び散る血の吹雪」 「ついた血□を戎衣でふけば きづも残らぬ腕の冴え」 ・・・う〜ん、なるほど。 「六車部隊長の歌」が事実だとすれば、「百人斬り」は部隊では有名な話だった、ということになりますね。少なくとも、部隊の誰もがありえないこととして否定している、という「否定説」の大きな根拠が崩れます。 ネットでは、この記事の内容も知らずに「たいしたものではない」と過小評価する発言が多いようですので、ぜひ、GAOUさんのサイトあたりに全文をアップしていただきたいものです。 ところで、この「六車部隊長」って、「証言による『南京戦史』(8)」に登場する、「歩兵第九連隊第一大隊副官」の「六車政次郎」氏のことでしょうか? 六車氏は、野田氏ではなく、向井氏の方の連隊の所属ですが。ちょっと珍しい姓ですので、その可能性は高いと思います。 ついでですが、手元の資料をパラパラ見ていたら、「日の出」昭和十三年二月号にも、こんな記事がありました。「日本刀武勇伝集」に追加します。 ****************************** 南京攻略戦の花! 報国百人斬り競争 柳川武彦
浅間部隊のK少尉は、月浦鎮附近呉家宅の白兵戦で、敵兵二十人を斬り倒した。和知部隊でその人ありと知られた剣豪H少尉は、二十七人を斬り捲つた。人梯子を組んで
陽高一番乗りをしたM大尉は、左手に軍刀を揮(ふる)つて、群がる二十数人の敵を薙倒し、突き倒し、兵士の中にも敵兵四十人を芋刺しにした猛者があつた。(以上、原文ではすべて実名) かういふ日本刀の奮戦談は、今度の事変で各新聞紙上を次ぎ次ぎと飾つてゐるが、なんといつても痛快無類なのは片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田巌両少尉の「報国百人斬り競争」だ。 (以下略) ******************************
│││└ Re:六車政次郎 渡辺 2004/05/11 23:52:48 (修正1回) ツリーへ
Re: 六車政次郎氏?
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/05/11 23:52:48 ** この記事は1回修正されてます
Re:六車政次郎 ゆうさん:> >六車氏は、野田氏ではなく、向井氏の方の連隊の所属ですが。 どちらも片桐部隊(9i)ですが... 「問答有用」板に下記とほぼ同じ投稿をいたしました。(No.27727) ---- 新資料「百人斬り競争」野田氏の手紙:
その意味 『週刊金曜日』
2004年4月23日号(N.505)に掲載された『大阪毎日 鹿児島沖縄版』昭和十三年一月廿五日付記事は、執拗に繰り返されてきた記者による「創作」「虚構」説を根底から覆すものです。 本多勝一氏らを被告とした裁判では、原告側弁護士が、記事はすべて虚構と主張し、被告側に立証を丸投げしました。しかし、記事自体は野田・向井両少尉の発言が報道されたという通常考えられる結論に、今回新たな野田氏自身の手紙という証拠が加わったわけです。 もともと、このように年月を経た事実は、歴史探求の自由が優位に立つ(城山三郎『落日燃ゆ』裁判[1])という判例があり、原告請求の棄却は確実と思われるのですが、今回の記事が発見されたことにより、「虚構」を主張し続けることは益々困難になりました。原告代理人の杜撰な歴史認識が裏目にでたようです。 今回発見の記事からは「百人斬り」が、誰を対象にどう行なわれたか知ることはできませんが、その実態はどうであったかという議論が、名誉毀損を理由に妨げられるようでは近代史を論ずることなどできなくなってしまいます。 さて、今回、星徹氏によって明らかにされた記事で、私が注目したのは次の3点です。 1)野田氏は手紙の中で、「南京入城まで百五斬つたです」と述べている。 「百人斬り」記事に関わった、浅海、鈴木、佐藤記者が、本人から聞いたものを記事にしたとの証言をしており、野田・向井両少尉の発言が記事になったと考えるのが普通である。 一方、これを、浅海記者らの「創作記事」「虚構」などと山本七平氏が論じ、今回の裁判でも、原告側弁護士・稲田朋美氏は「戦場に派遣された新聞記者が捏造したものです」[2]などとしている。しかし、「南京入城まで百五斬つた」と野田氏自身が手紙に書いていた。 2)「千人斬りをやらうと相手の向井部隊長と約束した」 野田氏の手紙は「百人斬り競争」に向井氏が参加していたことを前提にしている。 3)百人斬競争の歌の作者は「戦友の六車部隊長」である。 阿羅健一氏によれば、「野田少尉の名誉を回復する田代町民の会」で「<当時>みんなで百人斬り競争の歌を歌ったと口ずさむ人もいた」[3]とあり、「百人斬り競争の歌」の存在が知られていた。今回、その歌と歌詞の作者が明らかになったわけである。 歌詞の作者は「戦友の六車部隊長」とあり、これは、野田氏とは同期(49期)の、第16師団歩兵第9聯隊(京都)第1大隊副官(少尉)・六車政次郎氏と考えられる。[4]従って、別の大隊でも「百人斬り競争」が知られていたことになる。 なお、六車政次郎氏は、『楷行』昭和59年11月号で証言しているが、「百人斬り」については、述べていない。[5](ゆうさん教示) 以下、『週刊金曜日』
4月23日号, p.32
の一部を引用いたします。関心のあるかたは、正確を期すために、同誌を購入いただくか、図書館でご覧ください。 ----- 『大阪毎日 鹿児島沖縄版』昭和十三年一月廿五日 二百五十三人を斬り 今度千人斬り發願 さすがの“波平”も無茶苦茶 野田部隊長から朗信 <一部省略> このほど豪快野田部隊長が友人の鹿児島縣枕崎町中村XX氏あて次のごとき書信を寄せたが、同部隊長が死を鴻毛の軽きにおき大元帥陛下万歳を奉唱して悠々血刃をふるふ壮絶な雄姿そのまゝの痛快さがあふれてをり、“猛勇野田”の面目躍如たるものがある−− <以下手紙本文> <一部省略> ...敵も頑強でなか/\逃げず
だから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出来たわけです、<途中省略>南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬りをやらうと相手の向井部隊長と約束したです、<途中省略>戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました 百人斬日本刀切味の歌(豪傑節) 一、今宵別れて故郷の月に、 冴えて輝くわが剣 二、軍刀枕に露営の夢に、 飢ゑて血に泣く声がする 三、嵐吹け/\江南の地に、 斬つて見せたや百人斬 <以下7番まで掲載されているが省略> まだ極楽や靖國神社にもゆけず、二百五十三人も斬つたからぼつぼつ地獄落ちでせう、<以下省略> [『週刊金曜日』
2004年4月23日号(N.505),
p.32] ----- 引用者註: < >記号内は引用者による註。 「中村XX氏」は実名が書かれているが、引用者の判断で名前をXXに置き換えた。 縦書きの繰り返し記号は「/\」と表記した。例えば、「なか/\」は「なかなか」と読む。 [1]「落日燃ゆ」謝罪広告等請求事件控訴審、『判例時報』918号,
p.23、抜粋は『季刊 中帰連』27号,
p.16 [2]稲田朋美『「百人斬り」大虚報に頬かむりしてきた朝日・毎日の報道責任』『正論』平成15年7月号,
p.63 [3]阿羅健一「名誉回復のその日まで」『正論』平成15年12月号,
p.150 [4]昭和12年8月1日現在弟16師団編成表、楷行社『南京戦史資料集T』,
p.698 [5]畝本正巳編「証言による『南京戦史』(8)」『楷行』昭和59年11月号,
pp.7,8 ----- 参考: 第16師団歩兵第9聯隊(京都・片桐部隊) 第1大隊(青柳部隊)副官(少尉) 六車政次郎(49期) 第3大隊(冨山部隊)副官(少尉) 野田 毅 (49期) 第3大隊(冨山部隊)砲兵小隊長(少尉)向井敏明 (向井敏明氏は歩兵砲小隊長で間違いないようです。2004.5.16)
│││ └ RE:野田氏の手紙 ja2047 2004/05/15 15:39:17 ツリーへ
Re: Re:六車政次郎
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ja2047 <zguiletmbk>
2004/05/15 15:39:17
RE:野田氏の手紙 「南京入城まで百五斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて二百五十三人叩き斬つたです、」という手紙の記事が、1月25日の記事に載るということは、 入城後1ヶ月でいったい誰を斬ったのだ、ということになります。 16師団全体が一月二十日過ぎまで南京に留まっていると思ったのですが、 野田氏が別の戦線に回っていたということは、なかったですよね。
│││ └ Re^2:野田氏の手紙9聯隊の行動 渡辺 2004/05/16 02:00:01 (修正2回) ツリーへ
Re: RE:野田氏の手紙
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/05/16 02:00:01 ** この記事は2回修正されてます
Re^2:野田氏の手紙 9聯隊の行動 ja2047さん:> >入城後1ヶ月でいったい誰を斬ったのだ、ということになります。 >16師団全体が一月二十日過ぎまで南京に留まっていると思ったのですが、野田氏が別の戦線に回っていたということは、なかったですよね。
聯隊ごとに、時系列でその行動を調べる必要を感じていますが、これは大変な作業になりそうです。 とりあえず、9聯隊について、今すぐに分かる範囲で調べてみました。 第9聯隊第1大隊は城外に留まりましたが、第2、3大隊は20聯隊と共に13日未明に南京城内へ入ったとのことです。(そこで、12日の取材時と「南京入城」に時間差があまりなく、数字はそのままで「南京入城まで百五斬つた」ことになるようです。) 12月17日から月末までの行動は、手元の資料では分かりません。 第9聯隊は、12月末に湯水鎮へ移動し、そこに約1ヶ月いたと思われます。歌を作っている時間などを考えると、手紙は湯水鎮から出した可能性が高いですね。 恐らく掲載されなかった手紙の部分から「...野田部隊長は<自慢>の敗残兵掃討に二百五十三人を斬つた...」と、状況を「敗残兵掃討」と明示した記事が書けたのでしょう。「敗残兵掃討」といえば、南京城内外でのことですね。 --
1937年12月の9聯隊の行動
-- *「歩9」は9聯隊のこと。同じく16師団19旅団下にある20聯隊と同じ地区で行動をすることが多い。 *野田、向井氏は第3大隊、六車氏は第1大隊所属。 12/13
歩9・第2、第3大隊、歩20・第1、第2大隊、中山門近くの城壁の破壊地点から、南京入城。歩9は城内鉄道の東側、歩20は西側の掃討を担当。歩9第1大隊、紫金山南麓の掃討を担当。[『南京戦史』p.166] *「証言による『南京戦史』(8)」p.5
では、「歩兵第九聯隊は、師団命令により城内には進入せず、紫金山一帯の敗残兵の掃討に任じ、15日に入城して国民政府跡付近に宿営した。」とあるが、第1大隊についての記述と思われる。 12/13
午前10時頃、歩9・第1大隊、明孝陵を占領、遺族学校西方に終結。19旅団直轄となる。午後2時より紫金山連峯以南本道(湯水鎮−中山門道)以北の掃討。[『南京戦史』p.168] 12/14
未明より、城内外を南北に分けて掃討。歩9・第2、第3大隊は南部を担当。歩9・第2、第3大隊は13、14の両日ほとんど銃火を交えることなく掃討を終えた。[『南京戦史』p.166] 12/14?
歩9・第2大隊は鉄道線路に沿う地区を、第3大隊は城壁に沿う地区(富貴山から鶏鳴寺付近一帯)を、それぞれ2回掃討したが、敗残兵はほとんど見かけなかった。[『南京戦史』p.167] 12/15
16師団、入場式に備え、各旅団に城外の掃討を命じた。夜、19旅団掃討を命令。歩9は紫金山南麓一帯、歩20は紫金山東南の平地部を担任。[『南京戦史』p.169] 12/16
歩9・第2、第3大隊を並列して紫金山南麓一帯掃討。[『南京戦史』p.169] 12/17頃
歩9・第1大隊、城内に移駐。[六車政次郎証言「証言による『南京戦史』(8)」p.7] 12/末(24日以降)
歩9は湯水鎮へ移動。 「12月の暮れ近く<移動して>湯水鎮の兵舎で正月を迎えました。[歩9歩兵砲隊衛生兵・竹内五郎証言「証言による『南京戦史』(8)」p.7] 「12月15日頃、市内が平穏になった頃入城しました。聯隊は約一週間城内に駐留したのみで、南京東方の温泉地に約一ヶ月駐留しました。」[<第1大隊>第3中隊・長谷川茂男証言「証言による『南京戦史』(8)」p.7] *引用中、<>内は引用者が補足した部分。
││└ 質問:向井・野田両氏の関係について 渡辺 2004/06/02 17:40:02 ツリーへ
Re: 新資料「百人斬り競争」野田氏の手紙
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/06/02 17:40:02
質問:向井・野田両氏の関係について いわゆる「百人斬り競争」の向井・野田両氏の関係について、ご存知のかたがいましたら、お教えください。 東京日日新聞には両氏の関係が記されていないのですが、「百人斬り競争」記事の英訳を掲載した
China Weekly Review の主宰者 J.B.Powell が、1945年に刊行した回想録"My Twenty-five years
in China" p.305
で、両氏は陸軍士官学校のクラスメイトだったと述べています。 しかし、手元の資料では、向井氏の経歴があまり詳しく書かれていません。ご存知のかたがいましたら、よろしくお願いいたします。
│├ 平成の日本刀ですが...... 熊猫 2004/05/09 03:15:38 ツリーへ
││└ こちらでは恐らくはじめまして。 ウサギの眼 2004/05/09 22:18:20 ツリーへ
│└ ◇掲示板を覗くと、意外なことに、未だに「... 五番街 2004/05/12 10:14:15 ツリーへ
Re: 何人斬ったか?日本刀武勇伝集
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五番街 <dgfztkmlns>
2004/05/12 10:14:15
◇掲示板を覗くと、意外なことに、未だに「日本刀三人限界説」を信じている方々がいらっしゃるようです。(ゆうさん) 日本刀で人を斬った場合、3人程度が限界という説は、返り血が刀身に付着し、それが血糊となり、やがては凝固するために切れ味が鈍ることが理由になっています。 ただし、この限界説は、「一回の戦闘において」および「刀身が返り血を浴びた場合」という条件がつきます。 そして、戦闘の後に、刀から返り血を洗い流すなどの手入れをすれば、元の切れ味が戻ってきます。したがって、1本の刀で、長期間をかけて多人数を斬ることは可能です。 さらに、いわゆる据えもの斬りの場合、返り血を浴びにくい態勢で相手の首を切り落とすのですから、一回の据えもの斬りで多人数を斬ることも可能です。 したがって、「日本刀三人限界説」は、「百人斬り」が不可能であることを証明するものではありません。「百人斬り」競争を否定するためにこの限界説を持ち出す場合には、「一回の戦闘で」および「刀身に返り血を浴びる」という条件を隠蔽しており、これはペテンです。 ちなみに、多数の敵を家の中で迎え撃つ場合、畳に抜き身の刀を何本も突き刺し、敵を3-4人斬るたびに、畳に刺した新しい刀を用いて戦ったという実例があります(ざんねんながら、これを読んだのは相当以前なので、詳細な内容は記憶にありませんし、出典を示すことはできませんが、幕末頃の実話です。) また、戦前の映画でも、同様に、奉行所からの捕り手と室内で戦うために、同様に数本の刀剣を畳に刺してから、迎え撃ったというシーンがありました。これは、上述の実話などにもとづくものでしょう。 だからといって、1本の刀で「百人斬り」競争を行うことが不可能であり、だから、この競争はでっち上げだということにはなりません。
│ └ 五番街さん、こんにちは! QBC 2004/05/19 14:56:40 ツリーへ
Re: ◇掲示板を覗くと、意外なことに、未だに「...
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QBC <udewebbjij>
2004/05/19 14:56:40
五番街さん、こんにちは! >さらに、いわゆる据えもの斬りの場合、返り血を浴びにくい態勢で >相手の首を切り落とすのですから、一回の据えもの斬りで多人数を >斬ることも可能です。 しかし、当時の百人斬りの新聞記事を読むと、敵との戦闘中に 銃弾が飛び交う中で、突撃したとなってます。 そのような激しい戦闘の中で、わざわざ斬りやすい姿勢を相手が した時に、斬りつける事は可能でしょうか? そのような余裕のある戦闘が100回以上あったのでしょうか?
│ └ QBCさん、はじめまして。 五番街 2004/05/20 08:50:29 ツリーへ
Re: 五番街さん、こんにちは!
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五番街 <dgfztkmlns>
2004/05/20 08:50:29
QBCさん、はじめまして。 ◇そのような激しい戦闘の中で、わざわざ斬りやすい姿勢を相手が した時に、斬りつける事は可能でしょうか? あのー、申しわけないのですが、どうもこのご質問は首をひねってしまいます。 南京途上戦などで、中国兵捕虜の据えもの斬りをしていたことは多くの証言がありますし、写真も残されています。 据えもの斬りとは「戦闘の中で、わざわざ斬りやすい姿勢を相手がした時に、斬りつける事」ではありません。 このような理解のしかたでは、私の投稿に疑問を抱かれるのも、あるいは当然かもしれませんね。 正直に申し上げて、据えもの斬りについて、ここでワザワザ説明する気にはなれませんので、ご自分でお調べください。そうすれば、ご自分の理解の仕方がきわめて独善的なものであり、こうした質問自体がトンチンカンなものであることに気づかれるでしょう。
│ └ こんにちは! QBC 2004/05/22 17:07:26 ツリーへ
Re: QBCさん、はじめまして。
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QBC <udewebbjij>
2004/05/22 17:07:26
こんにちは! しかし、それと『百人斬り』は別の話では? 向井氏と田中氏の2名が処刑された理由は、 あくまでもあの新聞記事では? 南京の資料館でも、あの新聞記事が展示されてるのでは。 また、『百人斬り』の出所も、あの新聞記事ではないですか。 つまり”据えもの斬り”なら可能だけど、 あの記事のような、敵弾が飛び交う中での戦闘では ”据えもの斬り”は不可能なので、あの『百人斬り』の記事は 信憑性がないと理解してもいいでしょうか?
│ ├ しかし、それと『百人斬り』は別の話では?... K−K 2004/05/23 20:13:31 ツリーへ
Re: こんにちは!
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K−K <ecoepxmujl>
2004/05/23 20:13:31
>しかし、それと『百人斬り』は別の話では? >向井氏と田中氏の2名が処刑された理由は、 >あくまでもあの新聞記事では? M、N両氏が死刑となったのは、「百人斬り」の他に、南京大虐殺事件の共同正犯もその理由の一つとなっています。 >つまり”据えもの斬り”なら可能だけど、 >あの記事のような、敵弾が飛び交う中での戦闘では >”据えもの斬り”は不可能なので、あの『百人斬り』の記事は >信憑性がないと理解してもいいでしょうか? 肯定論・否定論を見渡しても、戦闘中に百人を切り伏せたということを論じるものはないようですので、そういう意味では、記事は不正確なものと思われます。 もちろん、実際の人数も確認できることではありませんので、正確かどうかはわかりません。
│ │└ K-Kさん!こんにちは! QBC 2004/05/23 22:23:31 ツリーへ
Re: しかし、それと『百人斬り』は別の話では?...
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QBC <udewebbjij>
2004/05/23 22:23:31
K-Kさん!こんにちは! >>M、N両氏が死刑となったのは、「百人斬り」の他に、 >>南京大虐殺事件の共同正犯もその理由の一つとなっています。 南京大虐殺事件の共同正犯とは、初めて聞きました。 これは、M、N両氏が行ったという、何か証拠があるのでしょうか? 何故この2人だけが?遺書では2人は虐殺を認めてないみたいですが。 (南京大虐殺事件なので、当然平民を虐殺した事ですよね?)
│ │ └ 南京大虐殺事件の共同正犯とは、初めて聞き... K−K 2004/05/24 00:14:48 (修正1回) ツリーへ
Re: K-Kさん!こんにちは!
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K−K <ecoepxmujl>
2004/05/24 00:14:48 ** この記事は1回修正されてます
>南京大虐殺事件の共同正犯とは、初めて聞きました。 南京軍事法廷の判決書に書かれています。 >これは、M、N両氏が行ったという、何か証拠があるのでしょうか? >何故この2人だけが?遺書では2人は虐殺を認めてないみたいですが。 部隊に所属し作戦に従事したこと、そして谷寿夫の判決文が根拠のようです。 >(南京大虐殺事件なので、当然平民を虐殺した事ですよね?) 谷寿夫の判決文によれば、「捕虜および非戦闘員の虐殺」等々となっています。
│ │ └ こんばんは! QBC 2004/05/30 19:02:40 ツリーへ
Re: 南京大虐殺事件の共同正犯とは、初めて聞き...
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QBC <udewebbjij>
2004/05/30 19:02:40
こんばんは! >部隊に所属し作戦に従事したこと、 >そして谷寿夫の判決文が根拠のようです。 なるほど。 しかし、部隊に属してても、この2人が実際に100人斬りを 行った証拠自体は、存在しないのですね? あくまでも、『しただろう』との予測からで。 ところで、第三国の中立な場所での裁判でなく、 南京のど真ん中で、憎しみを持つ中国人主導の裁判では 客観的な判決をするのは不可能とは思いますが。どうでしょうか?
│ │ └ しかし、部隊に属してても、この2人が実際... K−K 2004/05/30 21:41:45 ツリーへ
Re: こんばんは!
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K−K <ecoepxmujl>
2004/05/30 21:41:45
>しかし、部隊に属してても、この2人が実際に100人斬りを >行った証拠自体は、存在しないのですね? >あくまでも、『しただろう』との予測からで。 百人斬りの証拠は新聞記事であり、南京大虐殺の共同正犯の証拠は谷寿夫判決のようです。 >ところで、第三国の中立な場所での裁判でなく、 >南京のど真ん中で、憎しみを持つ中国人主導の裁判では >客観的な判決をするのは不可能とは思いますが。どうでしょうか? 軍律法廷とは、中立的な場所で開くものではありません。 日本軍もこの国際法上の慣行に従って、戦時犯罪を処罰してきました(もちろん、慣行に従わずに違法に殺害した事例も多いようですが…)。 一般的な慣行に比べれば、弁護人が付いたり、審理に時間をかけたりするだけでも、客観的だったと考えられます。もちろん、通常の刑事訴訟から比べれば、客観性は低いものと考えられます
│ └ 南京法廷は新聞の報道通りの「白兵戦での百... タラリ 2004/05/23 22:40:07 ツリーへ
Re: こんにちは!
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タラリ <vgezpxzsqe>
2004/05/23 22:40:07
南京法廷は新聞の報道通りの「白兵戦での百人斬り」を認めた ものではありません。 >向井氏と田中氏の2名が処刑された理由は、 >あくまでもあの新聞記事では? >南京の資料館でも、あの新聞記事が展示されてるのでは。 >また、『百人斬り』の出所も、あの新聞記事ではないですか。 新聞記事をもとに元少尉らに尋問をして「難民・俘虜」を日本刀で斬殺 したという判断をしています。 つまり、元少尉らが「据え物百人斬り競争」をあたかも「白兵戦での 百人斬り競争」であるかのように話した記事が載り、法廷はこれを 「据え物百人斬り競争」であったことを見抜いたわけです。 >つまり”据えもの斬り”なら可能だけど、 >あの記事のような、敵弾が飛び交う中での戦闘では >”据えもの斬り”は不可能なので、あの『百人斬り』の記事は >信憑性がないと理解してもいいでしょうか? 記事の中に「敵弾が飛び交う中で戦闘した」という記事はありません。 敵弾が飛び交う中のインタビュー記事ならありますが。
│ └ こんばんわ! QBC 2004/05/30 18:53:22 ツリーへ
Re: 南京法廷は新聞の報道通りの「白兵戦での百...
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QBC <udewebbjij>
2004/05/30 18:53:22
こんばんわ! 審問して明らかになったという事ですか? 「据え物百人斬り競争」は、自白ですか? しかし、遺書では否定してるみたいですが。 一人も殺してないと・・・。 その当時の南京の法廷は、中立であり、裁判として信用出来るものですか? それとも、一方的に日本兵を裁いた可能性はないですか?
│ └ >審問して明らかになったという事ですか? タラリ 2004/06/03 21:56:07 ツリーへ
Re: こんばんわ!
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タラリ <vgezpxzsqe>
2004/06/03 21:56:07
>審問して明らかになったという事ですか? 元裁判官はそう証言しています。証拠のないものは 罰しなかったと言っていました。 >「据え物百人斬り競争」は、自白ですか? 審問の結果によって裁判官がそう判断したわけですが、自白があったか どうかは明らかにされていません。 >しかし、遺書では否定してるみたいですが。 >一人も殺してないと・・・。 一人も殺していない、中国人を見たこともない、と言ったはずの少尉は 遺書に「戦闘行為である」と書いていました。 当時、敗残兵、投降兵を殺害することも「戦闘行為」と呼ばれていました。 >その当時の南京の法廷は、中立であり、裁判として信用出来るものですか? >それとも、一方的に日本兵を裁いた可能性はないですか? 裁判の過程は明らかにされていませんが、弁護士が付き、立派な弁護活動を していましたので、公正さは確保されていた、と考えられます。 裁判の過程とは別に、元記者、元カメラマン、少尉らの発言、手紙が 戦後明らかにされ、「据え物百人斬り競争」であったことが証明さ
└ 百人斬りの質問 QBC 2004/05/18 20:55:36 ツリーへ
Re: DELETED
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QBC <udewebbjij>
2004/05/18 20:55:36
百人斬りの質問 やはり、1人斬っても血が飛び散って軍服も血だらけになる? 毎日毎日斬ってたら、日本軍の兵士(特にこの2人)はみんな 血だらけの軍服を着てたのでしょうか? それとも、大量の着替えがあった?
└ 回答:百人斬りの質問 タラリ 2004/05/19 14:30:53 ツリーへ
Re: 百人斬りの質問
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タラリ <vgezpxzsqe>
2004/05/19 14:30:53
回答:百人斬りの質問 >やはり、1人斬っても血が飛び散って軍服も血だらけになる? >毎日毎日斬ってたら、日本軍の兵士(特にこの2人)はみんな >血だらけの軍服を着てたのでしょうか? >それとも、大量の着替えがあった? いいところに目を付けられましたね。 私どもは「百人斬り」はあったか、なかったというような議論をしているのですが、 血だらけになるのか、ならないのか、という質問には盲点をつかれた思いです。 大量の着替えがあったか、というかなりマニアックな疑問はだれも調べたひとがない ようなので、これも自分でお調べになると面白いと思います。