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下関の光景 -「入城式」後の捕虜殺害 ゆう 2004/11/23 09:36:12 (修正1回)
├「通州事件」と「済南事件」 ゆう 2004/11/23 16:20:14 (修正1回)
│└済南事件追記 ゆう 2004/12/11 07:18:58 (修正1回)
├『浅羽町史/資料編三/近現代』p.456 渡辺 2004/11/26 18:48:14 (修正3回)
│├「松井大将は泣いた」の件補足 渡辺 2004/11/30 12:37:59
│└松井大将はいつ泣いたのか? ゆう 2004/12/01 19:04:44 (修正1回)
│ └ゆうさん。お久しぶりです。 eichelberger_1999 2004/12/02 19:41:52
│ └こちらこそ、お久しぶりです。 ゆう 2004/12/04 06:17:00 (修正1回)
│ └ゆうさん名義のメッセージに返信するのは、... eichelberger_1999 2004/12/05 20:09:39
│ └了解です ゆう 2004/12/11 06:44:13
├はじめまして。 higeta 2004/11/27 21:43:32
│└アドバイス、ありがとうございます ゆう 2004/11/28 11:31:14 (修正1回)
└赤尾純蔵氏の記述の変遷 ゆう 2004/12/04 06:26:21
下関の光景 -「入城式」後の捕虜殺害 ゆう 2004/11/23 09:36:12 (修正1回) ツリーへ
下関の光景 -「入城式」後の捕虜殺害 |
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/11/23 09:36:12 ** この記事は1回修正されてます |
新コンテンツです。
http://www.geocities.jp/yu77799/shaakan.html
以前、奥宮証言をめぐり、この時期(十二月末)に下関で捕虜の大量殺害が行われたという記録はない、という議論を、読んだことがあります。
これがどうも引っ掛かっておりましたので、「南京戦」が終息した12月17日入城式以降について、「下関」における「捕虜殺害」の目撃証言を集めてみました。奥宮氏の他に、赤尾純蔵氏、吉田庚氏、井出純二氏というラインアップになっています。
なおこのうち、赤尾氏の「血と泥の中」は、K-Kさんからご提供いただいたものです。この場を借りて、お礼申上げます。
「盧溝橋事件」の方は、地道に「資料集め」の段階です。私の当面の関心は、「銃声とおぼしきものが聞えたという小事件が、なぜ全面戦争まで発展してしまったのか」ということで、これに沿った資料集めを試みているところです。
とりあえず「東京朝日新聞」昭和13年6月〜7月の、「盧溝橋事件一周年回顧座談会」のうちBからIにつき、書き写してみました。「生資料」ですので、関心のない方には面白くも何ともないでしょうが、一応、初回のBだけ、アドレスを紹介しておきます。
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/zadankai3.html
新聞紙大をA4版に縮小した「縮刷版」の、それまた歪んだコピー(分厚いので、うまくコピーができない)ですので、判読不能箇所が多々あります。読みにくいのは、ご容赦ください。
全10回(うち私の紹介分は8回分)のうちよく紹介されるのは、上のアドレスのB「断・午前四時ニ十分
我が堪忍自重も空し」です。
日本側の当事者たちの座談会なので、当然日本に有利な発言しかしていないはずなのですが、今の目で見ると、「身勝手」としか言いようのない発言が、多々見られます。
最初は「兵行方不明」が「厳重交渉」の要因だったのに、兵が見つかったら振り上げた拳の行き所がなくなって、今度は「不法射撃」を理由にしてしまう。「何とかして証拠を握らう、それでなければ断然盧溝橋攻撃をして一つ引つぱたいて置いて交渉しよう」って、証拠もないのに攻撃するんかい。そして、中国側から「パラパラと」射たれたら、たちまち全面攻撃を仕掛けてしまう。どこが「堪忍自重」だい。Etc.etc・・・・
まだまだ「資料集め」の途上ですので断定的なことを言うつもりはありませんが、これを読む限りでは、少なくとも「最初の衝突」に関する限り、「一やられたら十やりかえせ」という「軍人精神」が「拡大」の一要因となったと考えてもいいのかもしれません。同時に、部隊長自らが必死に射撃を止めて回らなければならないという中国軍の無統制ぶりも、一要因なのかもしれませんが。
まだまだ道のりは遠いのですが、いずれは「盧溝橋事件 「事件」から「事変」へ」のコンテンツに取り組んでみる予定です。
ついでに、個人的に面白く感じたのが、「G果然・共産党暗躍
日支両軍衝突を策す」です。
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/zadankai8.html
語っているのが、「共産党員の清華大学生が爆竹を鳴らして事件拡大を試みた」という証言をしている寺平大尉。「ところがそれを明瞭に共産軍の策動であるといふ断定をつけ得たのが七月の二十七日です」ときたら、当然「清華大学生事件」の話が出てくるかと思いきや、出てきたのは、共産党が徹底的にやれというビラを撒いた、ということだけ。
怪しげな「共産党陰謀説」の中では、「清華大学生事件」が一番「根拠」らしきものだっただけに、これはちょっと意外でした。当事者の寺平大尉が、まさかこの時に「事件」を知らなかったとも思えないのですが・・・。
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/inbou1.html 「盧溝橋事件 中国共産党陰謀説」
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├「通州事件」と「済南事件」 ゆう 2004/11/23 16:20:14 (修正1回) ツリーへ
Re: 下関の光景 -「入城式」後の捕虜殺害
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/11/23 16:20:14 ** この記事は1回修正されてます |
「通州事件」と「済南事件」
中村粲氏「大東亜戦争への道」へのコンパクトな批判として、秦郁彦氏の「中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を」という小論があります(『諸君!』1989年11月号に掲載)。この小論より、「済南事件」「通州事件」についての記述を紹介します。 掲示板でも、この両事件は、よく取上げられます。ただし、自分ではほとんど「原典確認」を行わず、ネット情報のみを鵜呑みにする人が、ただ中国の悪口を言いたいがために取上げる例がほとんどではありますが。
そういう方に対するアンチテーゼをほとんど見かけませんので、秦氏の冷静な記述を、以下、紹介しておきましょう。
******************************
このあとも、中村氏は前記の狙いに沿って中国人の蛮行を、「針小棒大」に列挙してゆく努力を惜しまない。ついでだから、二、三の事例を検討してみることにしよう。
第一の例は、時期はぐっと下るが、昭和二年の南京日本領事館と居留民に対する北伐軍の暴行である。中村氏は中国兵が「蛮行の限りをつくした」(九月号)と記すが、『日本外 交史辞典』によると、死者は一人も出ていない。都合の悪いときは数を出さず、形容詞で すませておく手法であろうか。この程度の事件をコミンテルンの煽動と大げさに決めつけ ているが、中村氏の「煽動」でなければ幸い。
つづいて登場する済南事件(昭和三年五月)についても、北伐軍により「各所で多数の男女日本人居留民が暴兵の手で惨殺されて行った。『昭和三年支那事変出兵史』(参謀本部 編)によれば、虐殺の状況は、猟奇的なまでに酸鼻を極めた」と書いているが、ここでも 惨殺された居留民の数が出てこない。
引用された参本の出兵史のミスではない。ニ七六ページには惨殺十二人(男十、女二) とあり、二千人の居留民は事前に避難したが、殺された連中は「特種営業者にして最初より避難を欲せず・・・計画的暴行にあらぎることは明らか」と注記してある。
当時、在北京公使館の警備に当っていた岡田芳政少尉(のち大佐)の回想談によると、「殺された居留民は朝鮮人の麻薬密輸者で、日頃から悪行を重ねていたので、現地人に報復されたと聞いている」とのことである。
そもそも、日中両軍の衝突自体が、済南駐在武官だった酒井隆少佐の陰謀説もあり、酒井は「惨殺」が起きると、中央へ誇大な数字を報告、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽った。事件の処理交渉で日本側が損害賠償を要求しながら、最終的には断念したのも、阿片密売人という弱味を知られていたからだった。
この時期以後の日中関係史を見るとき注意しなければならないのは、日本側が中国の挑発行為と発表したもので、実は日本の謀略だったという事件が少なくないことであろう。張作霖の爆殺(真犯人は河本大作大佐)、柳粂湖の爆破(石原莞爾中佐ら)、第一次上海事変(田中隆吉少佐)、山海関事件(落合甚九郎少佐)、福州事件(浅井敏夫大尉)などが代表的なものだが、不良中国人を買収してやらせた謀略のなかには、今も秘密がばれないでいるものがあるにちがいない。
この種の残虐事件で、今もよく引き合いに出されるのが、盧溝橋事件から三週間後に北京近郊の通州で起きた邦人虐殺事件である。 死者百二十数人と数も多く、その惨状を見聞きして敵愾心を高めた京都第十六師団の兵士が、華中に転戦して南京で報復したという説すらある。当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の責任は問えなかった(戦後、漢奸として処刑)。
ところが、今でも南京虐殺が話題になると通州事件を持ち出Lて相殺しようとする人が少なくない。中村氏はさすがにパスしたが、本誌十月号の「まいおぴにおん」欄で、田久保忠衛氏が「冀東政府の所在地だった通州などで日本人が受けた惨劇はどう考えたらいいのか」と相殺論を展開している。おそらく中国人が日本人を集団虐殺した唯一に近い「例証」として、今後も長く通州事件は語りつがれるのではあるまいか。
アジアでもっとも温和な仏教徒との定評があったカンボジアでポル・ポトの大虐殺が起きたように、残虐性と民族性を結びつける議論は成り立たぬし、不毛だと筆者は考える。そうだとすると、○○人も日本人を惨殺した、というたぐいの情報集めに血まなこになる必要もない、というものである。
****************************
上記記述のうち「通州事件」に関する部分については、私のページの「通州事件への視点」に追加しておきました。
http://www.geocities.jp/yu77799/tuushuu/tuushuu1.html
「済南事件」も、佐々木到一手記なぞにも記述が登場しますので、そのうちデータを集めてコンテンツ化できればいいな、と思っています。
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│└済南事件追記 ゆう 2004/12/11 07:18:58 (修正1回) ツリーへ
Re: 「通州事件」と「済南事件」
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/12/11 07:18:58 ** この記事は1回修正されてます |
済南事件 追記
「済南事件」についてグーグルで検索すると、まずヒットするのがこのページです。
http://sinobu10.hp.infoseek.co.jp/sainannjikenn1.html
>済南事件に於て、支那兵が我が居留民に加へた暴虐凌辱は言語に絶する悪鬼の所行であった。事件直後に惨死体を実見した南京駐在武官・佐々木到一中佐は其の手記に次の如く記した。
>「予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の 極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或いは滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。或る者は焼 かれて半ば骸骨となってゐた。焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわかったやうな始末である。我が軍の激昂は其の極に達した」 (『ある軍人の自伝』)
>上の佐々木中佐手記は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する下の外務省公電が此れを立証してゐる。
トップページがどうなっているのかわからない不思議なページなのですが、ともかくも、この記述を実際の佐々木手記と比較すると、この氏名不詳氏が重要な部分をトリミングしていることに気がつきます。
「佐々木手記」は、上の文章に、こう続いています。
>わが軍の激昂はその極に達した。これではもはや容赦はならないのである。もっとも、右の遭難者は、わが方から言えば引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かったのである。 (「ある軍人の自伝」増補版 P182)
必ずしも「支那兵」の仕業である、とは断言していないのですね。佐々木氏がどうしてそのように認識したのか、根拠は不明ですが、この記述は、前に紹介した秦郁彦氏の記述とも一致します。
>当時、在北京公使館の警備に当っていた岡田芳政少尉(のち大佐)の回想談によると、「殺された居留民は朝鮮人の麻薬密輸者で、日頃から悪行を重ねていたので、現地人に報復されたと聞いている」とのことである。 (『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』より=『諸君!』1989年11月号所収)
さらにこのページでは、昭和三年発行の小川雄三「済南事件を中心として」から、死体の検視結果を延々と引用します。この本もチェックしてみたのですが、確かに「支那兵」が犯人だと書いてはあるのですが、その根拠がはっきりしない。「死体発見の状況」は、こんな感じです。
*****************************
決死救助隊の勇敢なる活動によつて、普利門方面の危険区域に、死を待つばかりの状態であった邦人二十六名は、辛くも救出するを得たが、同じく危険区域と見らるる舘駅街、鉄道北等の消息は、頓んと分らない、
各避難所を調へて見ると、三日朝まで顔を見せた連中で、行方不明のものも段々ある事が分つて来た、呪はしい噂は次ぎから次へ風の如く伝はつて来た、四日も引続き強行捜索ば行はれたが、殆んど何の手掛りもない、
五日になると捜索隊は、津浦線ガードの東北の畑地に、新らしく盛られた土饅頭の、何となく恠しげなのを発見した、早速掘り返して見ると、果せる哉、鮮血生々しい邦人の虐殺死体が現はれた、宮本直八、藤井小次郎、高熊うめ三名の死体である、
高熊うめ女は裸体にせられ、咽喉を突き刺され、全身黒焦げの二た目と見られぬ死にざまである、藤井と宮本の両人も、腹部其他を滅多斬りに斬りさいなまれ、膾の様な残酷な死を遂げて居る、
少し隔てた膠済線亜細亜タンク附近の畑地からは、多比良真市、井上国太郎、東條弥太郎、同妻キヌ、中里十太郎、山下孫右衛門等六名の死体が発見されたが、東條キヌ女の如きは、裸体の上両耳を斬り殺がれ、陰部には九寸余りの木片を突き刺してある、多比良真市は頭部と腹部に幾個所かの刀傷を負ひ、其他の四名も顔面から腹部にかけての重軽傷から、腕脚其他満足な部分のない程、無数な刀剣又は打撲傷を受けて居る、
何れも三日午後から四日午前までに演ぜられた兇行らしく見受けられる、死体は済南医院に運び、我軍隊、警察側と支那側の立会の上検死を遂げたが、済南医院の検視の結果は左の如くである。
(小川雄三氏「済南事件を中心として」P85〜P86)
*これ以下に、氏名不詳氏のページの「検視結果」の記述が続きます。
******************************
死体は、事件の二日後に発見されています。小川氏は、犯人は当然中国兵だろう、と思い込んでいるわけですが、先の佐々木手記、岡田証言を見ると、実際には現地の軍部は、「現地人」なり「土民」なりが犯人である可能性がある、と推定していたようです。以上の死体発見状況からは、佐々木、岡田の「推定」をくつがえすだけの材料は見当たりません。
種明かしをしますと、この氏名不詳氏、このあたりは自分で原典に当たったわけではなく、中村黎氏「大東亜戦争への道」を丸写しにしたようです。
私だったら、「孫引き」をする場合はその旨を断りますし、入手可能な文献でしたら可能な限りそちらもチェックしますけれどね。「ある軍人の自伝」なぞ、古本屋で500円で買える代物ですし。こんないい加減なページづくりができると、楽でいいな(^^)
まあ、この「事件」については、これ以上の情報を入手するのは困難であるようですし(「中帰連」9号で「済南事件」を特集していたので入手してみたところ、こちらは、「日本軍の中国軍民に対する殺害」でした)、このページのいい加減さを中和する意味で、そのうちコンテンツを作っておくことにしましょうか。
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├『浅羽町史/資料編三/近現代』p.456 渡辺 2004/11/26 18:48:14 (修正3回) ツリーへ
│├「松井大将は泣いた」の件補足 渡辺 2004/11/30 12:37:59 ツリーへ
Re: 『浅羽町史/資料編三/近現代』p.456
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渡辺 <oogeblxyju>
2004/11/30 12:37:59 |
「松井大将は泣いた」の件補足
秦郁彦『南京事件』p.224以下に引用されている資料の他に、東京裁判で本人がこのように証言しています。 --- それはその前日、十七日に私が参謀長から憲兵隊の報告といつて暴行事件を聴きましたから、それに対して直接私が各部隊に訓示を与える目的で招集したのであります。[『日中戦争史資料8』p.286] ---
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│└松井大将はいつ泣いたのか? ゆう 2004/12/01 19:04:44 (修正1回) ツリーへ
Re: 『浅羽町史/資料編三/近現代』p.456
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/12/01 19:04:44 ** この記事は1回修正されてます |
松井大将はいつ泣いたのか?
「浅羽町史」については、私のページにぴったりした資料でしたので、早速使わせていただきました。ありがとうございました。
http://www.geocities.jp/yu77799/shaakan.html
さて、松井大将の「涙の訓示」です。実は、秦郁彦氏の雑誌論文「松井大将は泣いたか?」や、このあたりの田中正明氏との論戦を確認してから返信しようと思ったのですが、いくら探しても見つからない。資料の整理が悪いようです(^^;
この問題については、とりあえずは、「南京戦史」P403以下の「二月七日松井大将の上海派遣軍慰霊祭における訓示」が有名でしょうね。松本重治氏の「上海時代」の記述は、「十二月十七日」と「二月七日」がごっちゃになっており、「涙の訓示」は実は二月七日のことだった、とするものです。
松本氏自身が書いた記事が、その根拠とされます。
(南京 二月七日 = 同盟) 「戦死した日本軍将兵追悼式後の厳粛な雰囲気の中で中支那派遣軍総司令官松井石根大将は、本日、部下指揮官に対し、「帝国陸軍の威信を高めるために」各自の指揮下部隊における軍紀を引き締めるよう訓示した」(「南京戦史」P411)
さて、秦氏が「南京事件」で根拠とするのは、「上海時代」の記述と、「福田篤泰証言」です。後者については、私のページでも取上げていますね。
「入城後、松井軍司令官は、師団長を集めて「皇軍の赫々たる戦果はこの事件で水泡に帰した。陛下にご迷惑をかけて申し訳ない」と、泣いて訓示したと御厨(正幸)参謀から聞いた。この話を東京裁判で話したら、記録してくれなかったのが強く印象に残っている。」
http://www.geocities.jp/yu77799/hukuda1.html
これだけでは、「2月7日」とも「12月17日」とも、判断できません。つまり、ここまでのところでは、「上海時代」「福田証言」とも「12月17日説」の決定的な材料とはできないのではないか、というのが私の判断です。してみると、先程の「同盟」記事が光ってきて、「2月7日」説の方が優勢ではないか。
さらに、「極東軍事裁判」でのやりとりは、こうなっています。
○ノーラン検察官 さて十二月十七日の入城式の後、あなたはその部下の将校を集めました。あなたがこの集合を命じた将校というのはだれでありましたか、どういう種類の将校でありましたか。
○松井証人 それは十七日ではありません。十八日です。十八日に当時南京におった日本の全軍を集めて慰霊祭をやりました。その慰霊祭に集まった各軍、各師団の将校をなるべく多く集める意味で集合を命じましたから、大体、連隊長以上の各隊長は皆集まって来たと思います。
○ノーラン検察官 どうしてこれらの将校を集合せしめたのですか。
○それはその前日、十七日に私が参謀長から憲兵隊の報告といって暴行事件を聴きましたから、それに対して私が各部隊長に訓示を与える目的で召集したのであります。
(「日中戦争史資料 8」P286)
「入城式」そのものではなく、「入城式の後」、「十八日」に、「各部隊長に訓示を与え」た、ということであるようです。余談ですが、松井大将が「暴行事件」を認識したのは、「憲兵隊の報告」からですね。時々、「外国人の報告」が、日本側が「南京事件」を認識する契機になったかのような書き込みをする方を見かけますが、これが間違いであることがわかります。
以上のデータから、私は、「2月7日説」の方が優勢である、と判断しました。とはいうものの、私も、松本重治氏自身が「12月17日説」の勘違いを認めている、と誤解しておりましたので、文章は、以下の通り改めました。
>この「松井大将の涙の訓示」は、実際には2月7日のことだった、との議論もあります。
以上、ご教授ありがとうございました。
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│ └ゆうさん。お久しぶりです。 eichelberger_1999 2004/12/02 19:41:52 ツリーへ
Re: 松井大将はいつ泣いたのか?
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eichelberger_1999
<nbpkpodlzx> 2004/12/02 19:41:52 |
ゆうさん。お久しぶりです。
この松井大将の「涙の訓示」に関してですが、問題を「泣いたのはいつか」ではなくて、「軍紀・風紀の維持に関する訓示を部下にしたのはいつか」に変更してみると簡単に解決しそうです。
その答えは、12月18日と2月7日のいずれでも正解です。松井大将は、南京戦での日本軍の軍紀の弛緩について2回訓示していますから。そのことは、松井大将の陣中日誌に記されています。
十二月十八日(注:入場式翌日の故宮飛行場での中支那方面軍忠霊祭の日です)
此朝各軍師団参謀長会シ (略)予ハ特ニ一同ニ対シ 一、軍紀 風紀ノ振粛 二、支那人軽侮思想ノ排除 三、国際関係ノ要領ニ付 訓示ヲ与ヘタリ 午後一時宿舎ヲ発シ城内飛行場ニ準備セル忠霊祭ニ参列シ 祭典前参集セル両軍司令官、師団長ニ訓示ヲ与ヘ 終テ祭典ニ列ス
二月七日(この日は上海派遣軍の慰霊祭です)
午後慰霊祭ニ参列ス 予ハ去年南京入城翌日最初ノ慰霊祭ヲ自ラ祭主トシテ営ミ 今日亦五十日祭トモ云フヘキ此祭事ニ遭フモノナレト 曩ノモノハ戦勝ノ誇ト気分ニテ寧ロ忠霊ニ対シ悲哀ノ情少カリシモ 今日ハ只々悲哀其物ニ捉ハレ責任感ノ太ク胸中ニ迫ルヲ覚エタリ 蓋シ南京占領後ノ軍ノ不始末ト其後地方自治 政権工作等ノ進捗セサルモノナリ 仍テ式後参集各隊長ヲ集メ予ノ此所感ヲ披露シテ一般ノ戒飭ヲ促セリ (『南京事件資料集II』p.143、169)
渡辺さんやゆうさんが紹介されている東京裁判での松井大将の供述から、十二月十八日の「軍紀風紀振粛の訓示」が南京事件に対するものであったことはまずまちがいないと思われます。この日松井が軍紀に関する訓示をしたことは、飯沼守上海派遣軍参謀長や上村利通同参謀副長の日記からも裏付けられます。
しかし上の日記の記述からわかるように、二月七日の慰霊祭においても、松井は南京事件を意識して、軍紀についての訓示をおこなっています。松井が南京事件を念頭において、訓示を行なったことは、飯沼参謀長の日記に、以下のような記述があることから確実です。
派遣軍慰霊祭、終テ松井軍司令官ヨリ隊長全部ニ対シ次ノ要旨ノ訓示アリ 南京入城ノ時ハ誇ラシ気持ニテ其翌日ノ慰霊祭亦其気分ナリシモ本日ハ悲シミノ気持ノミナリ 其レハ此ノ五十日間ニ幾多ノ忌ハシキ事件ヲ起シ、戦没将士ノ樹テタル功ヲ半減スルニ至リタレハナイ、何ヲ以テ此英霊ニ見ヘンヤト言フニアリ (同上p.169)
「此ノ五十日間ニ幾多ノ忌ハシキ事件」なる言葉がそのことを示しています。
十二月と二月の訓示のちがいは、以下の点にあります。
1.十二月の訓示は慰霊祭の前に行なわれた。その訓示を受けたのは、軍参謀長、師団参謀長、軍司令官、師団長であり、ごくわずかの人数(せいぜい20人ほど)であった。松井は、この南京戦で不軍紀行為が多発しているとの認識はすでに有していたが、それを「忌マワシキ事件」とまでは感じていなかった。
2.二月の訓示は慰霊祭の後に行なわれた。その訓示を受けたのは参集した上海派遣軍の隊長全部であるので、十二月の時よりもより多くの人数を前にしておこなわれた。この時松井ははっきりと「此ノ五十日間ニ幾多ノ忌ハシキ事件」が起こったとの認識を有していた。
そうすると、松本重治が聞いた松井の訓示は、慰霊祭が終わったあとに行なわれたと記されていますので、『上海時代』の記述にもかかわらず、二月七日のことであった可能性が高いと思われます。また、松井の日記の記述「今日ハ只々悲哀其物ニ捉ハレ責任感ノ太ク胸中ニ迫ルヲ覚エタリ」からして、この時松井大将が「泣いた」ことも十分ありうることです。
それでは、十二月十八日には「泣かなかった」のでしょうか。花山信勝が書き残した松井の回想では、こうなっています。 「慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も軍司令官だったが、折角、皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまったと。ところが、このあとでみなが笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは『当り前ですよ』とさえ言った。」(秦『南京事件』p.46)
慰霊祭の直後とあるので、二月七日のこととも思えますが、しかし、二月七日の慰霊祭には柳川第十軍司令官は出席していませんし、ここで「ある師団長」とは、中島第16師団長をさすとされていますが、中島も二月七日の慰霊祭には出席していません。彼はすでに華北に転出を命じられていて、一月末には北京にいます。 上の松井の回想の引用のすぐ前で、彼は「その当時(日露戦争当時)の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね」と言ったあとで、「慰霊祭の直後、私は皆を集めて」と続きますので、この「皆」は「軍司令官、師団長」をさすと解せます。そうすると、この松井の回想は、二月七日のことであるよりも、十二月十八日のことだと考えるほうがよさそうに思えます。
以上から、松井大将が「泣いて怒った」のは、十二月十八日と二月七日の二回であったと解釈するのが正解ではないでしょうか。
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│ └こちらこそ、お久しぶりです。 ゆう 2004/12/04 06:17:00 (修正1回) ツリーへ
Re: ゆうさん。お久しぶりです。
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/12/04 06:17:00 ** この記事は1回修正されてます |
こちらこそ、お久しぶりです。 BBSでお会いしているような気もしますが(^^)
ヤフーでは、トンデモさんを相手に遊んでいらっしゃるようで・・・。
eichelbergerさんの小気味のいいレスを、楽しみに拝見しております。
さて、「松井大将」の件ですが、詳しく調べていただき、ありがとうございました。 結論としては、こうなりそうですね。
1.松井大将は、俗説のように、「12月17日慰霊祭」で「泣いた」わけでは、どうやらないらしい。
2.松井大将が「涙の訓示」を行ったのは、「12月18日」と「2月7日」の2回。
さて、私のページに引用した井出氏の記述は、こうでした。 http://www.geocities.jp/yu77799/shaakan.html
>中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。
こちらは、やはり「俗説」に従って、「慰霊祭」で訓示を受けた、ということになっています。この部分に関する限りでは、やはり「間違い」の可能性が高い、と考えてよさそうです。
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│ └ゆうさん名義のメッセージに返信するのは、... eichelberger_1999 2004/12/05 20:09:39 ツリーへ
Re: こちらこそ、お久しぶりです。
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eichelberger_1999
<nbpkpodlzx> 2004/12/05 20:09:39 |
ゆうさん名義のメッセージに返信するのは、しばらくぶりでしたので、あのように書きました。ところで「結論」についてですが、
>1.松井大将は、俗説のように、「12月17日慰霊祭」で「泣いた」わけでは、どうやらないらしい。
正確には、慰霊祭(=忠霊祭)が行なわれたのは、12月18日なので、「12月17日慰霊祭」という表現がそもそもまちがいである、となりましょうか。
>2.松井大将が「涙の訓示」を行ったのは、「12月18日」と「2月7日」の2回。
同じような「軍紀振粛の訓示」が2度くりかえして行なわれたたために、話がややこしくなったようです。 両者を混同しているのは、松本重治だけではありません。松井大将その人の回想や証言にも混同がみられます。もっとも、これはあくまでも松井大将の日記が正しく事実を伝えているとの前提のもとでの考察ですが。
ゆうさんが紹介された松井大将の東京裁判での供述にはこうあります。
>○松井証人 それは十七日ではありません。十八日です。十八日に当時南京におった日本の全軍を集めて慰霊祭をやりました。その慰霊祭に集まった各軍、各師団の将校をなるべく多く集める意味で集合を命じましたから、大体、連隊長以上の各隊長は皆集まって来たと思います。
日記では18日の訓示は、軍司令官、師団長、軍参謀長、師団参謀長を相手に行なったとあり、「連隊長以上の各隊長」を集めてのものではありません。
此朝*各軍師団参謀長*会シ (略)予ハ特ニ一同ニ対シ 一、軍紀 風紀ノ振粛 二、支那人軽侮思想ノ排除 三、国際関係ノ要領ニ付 訓示ヲ与ヘタリ 午後一時宿舎ヲ発シ城内飛行場ニ準備セル忠霊祭ニ参列シ 祭典前参集セル*両軍司令官、師団長ニ訓示ヲ与ヘ* 終テ祭典ニ列ス
「連隊長以上の各隊長」に訓示したのは、2月7日の方であったと思われます。
仍テ式後*参集各隊長ヲ集メ*予ノ此所感ヲ披露シテ一般ノ戒飭ヲ促セリ
証言では、はっきり18日と述べていますので、日付の記憶にまちがいはないと思われますが、しかし、訓示を与えた相手については2月7日の記憶と混同があるようです。
そうすると、以下の証言も12月のことではなくて、2月のことではないかとの疑いが生じますが、しかし「参謀長から憲兵隊の報告といって暴行事件を聴きました」は12月のことと考えてまちがいないと思われます。
>○それはその前日、十七日に私が参謀長から憲兵隊の報告といって暴行事件を聴きましたから、それに対して私が各部隊長に訓示を与える目的で召集したのであります。
というのは、南京での非行については、すでに12月中に松井大将の耳に入っていたわけですから、2月7日の慰霊祭の時には、そのことをよく承知していたはずで、あらためて「参謀長から憲兵隊の報告といって暴行事件を聴」いて、訓示をしなければいけないと思う必要などないからです。
日記の12月20、26、29日に非行事件の記事がありますし、1月6、7日には「軍紀振粛」のことにつき記事があり、7日には阿南陸軍省人事局長に会って、その報告を聴いています。 さらに、1月24日には華北に転進する中島第16師団長と会ったときの模様を記し「其云フ所言動例ニ依リ面白カラス殊ニ奪掠等ノコトニ関シ甚タ平気ノ言アルハ遺憾トスル所」と不快感をあらわにしています。 日記には出てきませんが、1月4日には参謀総長からの「軍紀風紀に関する」要望が出されています。 さらに2月7日の慰霊祭前日にも、朝香宮上海軍司令官と「軍紀風紀問題」について話し合い、朝香宮が中島師団長の言動がよろしくないことが原因であると述べたことに対して、「全ク従来予ノ観察ト同様ナリ」と感想を記していますから、この時点で松井大将は「南京占領後ノ軍ノ不始末」についてはよく承知していたわけです。
前日に「参謀長から憲兵隊の報告といって暴行事件を聴」いて、はじめて訓示をしなければいけないと考えたとの証言が事実に即しているのであれば、それは12月18日であったと考えなければ、つじつまがあいません。
このように、松井大将自身が12月のことと、2月のことを混同しているのですから、同様の混同が他にも見られとしても、不思議ではないでしょう。ところで、
>>中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。
>こちらは、やはり「俗説」に従って、「慰霊祭」で訓示を受けた、ということになっています。この部分に関する限りでは、やはり「間違い」の可能性が高い、と考えてよさそうです。
以上のことから、上の井出氏の記述はたしかに正確ではありませんが、「間違い」とまで言きれるかどうか、私には疑問に思われます。
井出氏は、慰霊祭は18日に行なわれたとはっきり書いているわけですし、「慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責した」を「慰霊祭の前の訓示の中で」と修正すれば、まちがいとは言えないと思います。そして、回想記事にそこまで厳密性を要求するのは、ちょっと酷な気がします。
ついでに言っておきますと、なぜ慰霊祭を2度もしたのかと言いますと、結局それは南京事件の不始末のために(もちろん表向きはそんなことは少しも言いませんが)、敵首都を攻略するという大戦果をあげた殊勲の部隊であるにもかかわらず、大本営が、中支那方面軍とその隷下の上海派遣軍、第10軍を解体すること決定したからです。軍が復員することになり、現地を引揚げることになったので、その前に南京戦で戦死した兵士の霊をもう一度慰めようとしたのです。
松井大将の心理としては、これだけの武勲を挙げながら、中支那方面軍司令官を解任されたのも、すべて「南京占領後ノ軍ノ不始末」が原因だったわけですので、帰任を前にして戦死者に語りかける際に、万感胸に迫るものがあったと思われます。 日記の「今日ハ只々悲哀其物ニ捉ハレ責任感ノ太ク胸中ニ迫ルヲ覚エタリ」という表現に、その気持ちがよく表れています。
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│ └了解です ゆう 2004/12/11 06:44:13 ツリーへ
Re: ゆうさん名義のメッセージに返信するのは、...
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/12/11 06:44:13 |
了解です
>ゆうさん名義のメッセージに返信するのは、しばらくぶりでしたので、
あはは、そうですね。前に返信をいただいたのは、私の「酔っ払いバージョン」の方でした。
>正確には、慰霊祭(=忠霊祭)が行なわれたのは、12月18日なので、
「慰霊祭」は、「12月18日」と「2月7日」の2回あった、ということですね。
>以上のことから、上の井出氏の記述はたしかに正確ではありませんが、「間違い」とまで言きれるかどうか、私には疑問に思われます。
確かに。井出氏の記述はこうでしたから、「間違い」とまでは言えません。了解しました。
>いわゆる”南京虐殺事件”は、十七日の入城式と翌十八日の慰霊祭を前に、治安の確立を焦った日本軍が、市民の間に逃げこんだ便衣兵を、大量に狩り立てて殺したのが主体ではないかと推測する。中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。
http://www.geocities.jp/yu77799/shaakan.html
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├はじめまして。 higeta 2004/11/27 21:43:32 ツリーへ
Re: 下関の光景 -「入城式」後の捕虜殺害
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higeta <wpnpjievql>
2004/11/27 21:43:32 |
はじめまして。 いつも、ウェブサイト拝見させてもらっています。
>新聞紙大をA4版に縮小した「縮刷版」の、それまた歪んだコピー(分厚いので、うまくコピーができない)ですので、判読不能箇所が多々あります。
朝日新聞には、検索・画像拡大などができる CD-ROM版があるので、 そちらで、判読不明箇所を補完できるかもしれませんね。 CD-ROM版でも、読みづらい箇所が、 どうにもならない時もありますが…。
盧溝橋事件のコンテンツ楽しみにしています。 |
│└アドバイス、ありがとうございます ゆう 2004/11/28 11:31:14 (修正1回) ツリーへ
Re: はじめまして。
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/11/28 11:31:14 ** この記事は1回修正されてます |
アドバイス、ありがとうございます
>朝日新聞には、検索・画像拡大などができる
CD-ROM版があるので、 そちらで、判読不明箇所を補完できるかもしれませんね。
私が使用したのは、ちょっと大きな図書館でしたらたいてい置いてある、朝日新聞の縮刷版です。コピーしたはいいが、あちこち完全に字が潰れており、5センチぐらいに近さに目を近づけても全く判読できない箇所が多々ありました。
仕方がないので、もう一度で図書館で縮刷版を見直すか、そのうち機会を見てもっと大きな図書館に行ってマイクロフィルムを見てこようかと思っておりました。
CD−ROM版を見ようと思ったら、どこかの大学図書館でも行かないとだめですかね。とても平日に休みをとれる環境にありませんので、見に行くのはちょっとしんどい。
しかし、大学院で近現代史を専攻していらっしゃる方に見ていただいているとは、怖い限りです。こちら、余暇を利用してちょこちょこと資料集めとページ作成を楽しんでいる、ど素人に過ぎませんので(^^;
「盧溝橋事件」については、どこから手をつけるか、まだまだこれからの段階です。「南京」の田中氏や東中野氏のような明らかなトンデモさんが存在するとそれをネタにできるのですが、例の「中国共産党陰謀説」を除けば、そこまでひどいトンデモさんはどうやら見当たらない。「議論の交通整理」というのが、精一杯のところでしょうか。
この問題にあまり関心のない方にも楽しんでいただけるコンテンツをどうつくっていくか。まあ、楽しい悩みではあります。
*週末は資料のないところにおりますので、渡辺さんへの返信は、ちょっと遅れます。
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└赤尾純蔵氏の記述の変遷 ゆう 2004/12/04 06:26:21 ツリーへ
Re: 下関の光景 -「入城式」後の捕虜殺害
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ゆう <pmyqfxtjon>
2004/12/04 06:26:21 |
赤尾純蔵氏の記述の変遷
私のHPで、第九連隊所属の、赤尾純蔵氏「泥と血の中」(1959年)の記述を紹介しました。「下関の捕虜殺害」をリアルに伝える、貴重な記録です。 http://www.geocities.jp/yu77799/shaakan.html
さてこの度、同氏が1987年に書いた、「荼毘の烟り」という本を入手しました。この本に、同じ日の出来事がどのように記述されているかというと・・・。
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野戦病院で、軍医の手当をうけつつ数日過したのち、私は上海の兵站病院に後送されることになった。私ほか十数人の負傷者を乗せた小型バスは、中山門から南京城内に入り、中山東路という広い道をゆっくり走って、市内の中心部を通り、揚子江岸の波止場に向った。
この日、私が始めて見た南京の市内は、殆んど人影はなかった。建物もそのままで、大きく破壊されているようには見えなかった。市内は火の消えたように淋しかったが、きれいに清掃されていた。人間の屍体などは一つもなかった。約一時間ほどゆっくり走って、われわれの小型バスは南京の揚子江岸の波止場についた。
揚子江上には、数隻の日本軍艦と貨物船が数隻、またその他に赤十字のマークのついた病院船が、イカリを下していた。揚子江上につき出ている数個の桟橋付近には、普通の日本人にまじって、二〜三〇人の中国の人が、小舟を操って、日本の船からの貨物の陸揚げを手伝っていた。とても、つい先日熾烈な攻防戦があった南京の波止場とは思えない、和やかな風景であった。
正午すぎ、私は白衣姿で、病院船にのり、揚子江を下って上海に向った。船内ではからずも、私の陸士同期生の肱岡君に会った。彼も白衣姿であった。彼は三重県津の歩兵第三十三聯隊の中隊長として、紫金山で戦斗中、胸部を射ちぬかれて重傷を負い、私と同じように、上海に後送されるところであった。
(P212〜P213)
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前著に書いた「捕虜殺害」の風景が、見事にカットされています。それどころか、何と、「和やかな風景」などという表現まで飛び出してきます。
念のため、「泥と血の中」の、全く同じ場面での記述を、私のページから再掲します。
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揚子江の水は泥水かと思われるほど汚く、流れの真中に数隻の貨物船と病院船が停泊していた。
波止場にはいくつかの倉庫があったが、その倉庫から五つ六つの細い桟橋が河上につき出ていた。桟橋の上には、青い支那服をきた中国人が倉庫から出て、一歩々々ゆるやかなあしどりで河の方へ進んでゆく列が見られた。桟橋の先端では、三人の日本人が刀を振りあげて中国人の首を切っていたのである。
その日本人は軍服を着ていなかったので、武田の眼には軍属のように見えた。首を切られる中国人は、或者は既に観念したものか、橋板の上に行儀正しくひざまずき、首を伸ばして、切りおろされるのを待っていた。切りおろされると、首は泥水の河中にどぶんという音を立てて落ち込み、そのまま俯せた胴体は、河に足で蹴とばされた。
殺されることがわかったため、橋の先端で死を免れようと必死にもがいている中国人の姿もあった。しかし、虐殺者はこれを引き据え、一人が押え、他の一人が首を切った。
おとなしく首を切られるふりをして桟橋の先端に近づくや、水泳の心得があるとみえて、やにわに河にとび込んだ中国人があった。しかし、虐殺者は拳銃をかまえると、河にもぐる人間を執拗に狙撃した。
こうして鮮血は泥水を赤く染め、人間の首、人間の胴がふわりふわりと河面に浮び、河中で狙撃された人間は苦しそうにもがきながら河底に沈んでいった。
河上に停泊している病院船のデッキから、七、八名の看護婦がこの有様を眺めていた。数珠つなぎに並んで桟橋の端にくる中国人が、虐殺者によって首を落されるごとに、彼女たちは「キャッ!」という悲鳴を上げて顔を伏せた。鬼畜と化した虐殺者は、女性の悲鳴を耳にするごとにいっそう勢づいて暴虐をつづけたのだ。
白衣姿の武田は、傷の痛みをこらえてこれを眺めながら、やがて病院船に乗り移り、凄惨な南京をあとにして、揚子江を上海に向って下っていった。
(P59〜P60)
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「和やか」には程遠い光景です。
1959年と1987年。「南京虐殺論争」が華やかになってきたので、赤尾氏のような「純軍人」の方は、「虐殺論」に組みするような記述を行いにくくなったのではないか、と私は想像するのですが・・・。
逆に言えば、「虐殺の光景の記述がない」ことをもって「この人は虐殺を見なかった」と決め付けることがいかに危険であるか、という証でもあるように思います。まあ、誰のことだとは言いませんが・・・(^^)
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