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  南京事件の資料の“証拠能力”について 指環 2004/12/18 00:46:44  (修正2回)
  この度、メールアドレスを変更しました。 指環 2004/12/18 01:35:53 
  『真説・南京攻防戦』前川三郎(近代文藝社... 熊猫 2004/12/21 01:14:10 

  南京事件の資料の“証拠能力”について 指環 2004/12/18 00:46:44  (修正2回) ツリーへ

南京事件の資料の“証拠能力”について 返事を書く ノートメニュー
指環 <uycczmnpew> 2004/12/18 00:46:44 ** この記事は2回修正されてます
1.はじめに

 南京大虐殺は多くの資料によって事実であることが証明されている。ところが、何が何でも歴史を捏造したい否定派は、虐殺を裏付ける歴史資料を否定しようと、次から次へと場当たり的な屁理屈を思いつき、しょーもない論理を展開していることはご承知のとおりである。
 その否定派の屁理屈の一つとして、刑事訴訟における証拠規制を持ち出す手法がある。南京大虐殺の歴史資料は、刑事訴訟の証拠法上は証拠能力が否定されるものばかりで、有罪認定できない、というのである。この板でも「裁判の対象としての南京大虐殺」などと言い出した人がそのような主張を展開していた。
 既に同様の指摘がなされているように、刑事訴訟は歴史学と同じでない。確かに、刑事訴訟でも事案の真相の解明が追求されるし、そこでの証明とは自然科学上の論理的証明ではなく歴史的証明であると言われている。当事者の私的利益が問題となる民事訴訟では形式的真実主義が妥当し、当事者の認諾があれば、その事実を真実とみなすが、刑事訴訟では実体的真実主義が妥当する。ここまでは歴史学と共通するであろう。
 しかし、刑事訴訟では無辜の不処罰主義の要請があるため、発見された「真実」と並んで、真実発見の「方法」が重視される。即ち、実体的真実主義には積極的なものと消極的なものとがあり、刑事訴訟のそれは消極的実体的真実主義であるとも言われる。
 例えば、訴因制度の下で公判における審判の対象は検察官の設定した訴因に限定される。それ以外の事実を解明することは原則として禁止されている。また、証拠法上、自白および伝聞証拠には証拠能力が要求され、違法収集証拠は排除される。
 このような制約があるため、刑事訴訟では歴史的事実が全体として解明されるわけではないのである。この点は歴史学と大きく異なる。
 そもそも、刑事訴訟の目的は、@事案の真相の解明、および、A刑罰法令の適正な実現、とされている(刑事訴訟法1条)。二つの目的が競合しているのである。この点からして、刑事訴訟は歴史学と大きく異なるのである。
 これらのことは、たいていの刑事訴訟法の教科書の「基礎理論」の部分に書かれていることである。歴史論争に刑事裁判のたとえを持ち出す否定派は、刑事訴訟法の基本についても不勉強ぶりを露呈してしまっているのである。

 それだけではない。否定派の持ち出す刑事裁判のたとえは、実際の刑事訴訟の証拠法に照らしても間違っていることが多い。

 「刑事裁判では、証言だけでは被告人を有罪にできない。証言には裏づけが必要である。」「刑事裁判では、物証がなければ被告人を有罪にできない。」「刑事裁判では、伝聞証拠は全て証拠能力を否定される。」

 上記は、ネット上などで否定派がよく唱える言説である。だが、全部、ウソである。上記のようなことを大学の学部の試験で刑事訴訟法の答案に書いたりしたり、間違いなく単位を落とす。
 刑事訴訟では、自白だけで被告人を有罪とすることは禁止されている。だが、証言にはそのような規制が存在しない。ただ一つの目撃証言を唯一の証拠として被告人を有罪にしても、ちっとも構わないとされている。
 裏づけが必要とされているのは、証言ではなく自白である。だが、自白の裏づけに必要なのは物的証拠に限られるわけではない。証言で自白を裏づけることも可能である。
 伝聞証拠は禁止が原則だが、「伝聞禁止の原則」は緩やかな原則であり、例外が許容されている。伝聞法則は伝聞例外の法則である、と言われるくらい、伝聞例外は多岐にわたって認められている。
 この板にも「証言のみで殺人を認定するのが可能なケースはまずありえない」と言う人が一ヶ月前に来ていたようだが、そのような刑事訴訟制度を採る国が地球上のどこに存在するのか教えてもらいたい。(それにしても、凄いことを言う「大学時代の恩師」がいるものだ。)
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/9/bizqrf/tcmqrf.html#tcmqrf

 刑事裁判のたとえを持ち出すのだったら、刑事訴訟の証拠法の基本くらい少しは勉強して欲しいものである。

 前述のように、歴史学と刑事訴訟では目的も事実認定の方法も全く異なる。歴史事実の解明に刑事裁判のたとえを持ち出すのはナンセンスきわまりない。にもかかわらず、否定派が刑事裁判のたとえを持ち出すのは、歴史修正主義の手法として刑事訴訟の証拠規制を利用しているだけである(しかも間違って)。刑事訴訟の証拠規制を持ち出すことで、南京大虐殺があったとする証拠は、刑事裁判には耐えられない、あやふやなものばかりなのだ、と言いたいのであろう。
 このような否定派の馬鹿な言説は、基本的には相手にすべきものではない。歴史資料の検証に刑事訴訟の証拠規制を持ち込む必要などない。参考にする必要すらない。史実の解明は、史料批判などの歴史学の方法論に従って行っていけば良いのである。
 ただ、それでも否定派のアホ言説に影響されて、「南京事件の資料は、刑事裁判では証拠とならないものばかりなのか」と思ってしまう人もいるかも知れない。
 そこで、南京事件の資料は、刑事訴訟の証拠法上はどのように扱われるのか、刑事訴訟の事実認定の手法に従った場合、南京大虐殺の事実認定は可能なのかどうかを考察してみようと思う。

 何度も言うが、歴史事実の解明に刑事訴訟の事実認定の手法を持ち込むのはナンセンス以外の何物でもない。従って、このような考察は本来的には必要のないものである。ただ、否定派のアホ言説が蔓延っている現状に対しては、何かの意味があるかも知れない。
 まぁ、殆ど私の暇つぶしなので、興味のない方は、以下は読まないでいただいて結構である。

2.証拠法総論

 一応、日本の現行刑事訴訟法に従うことにする。そして、話の便宜上、南京攻略戦参加の日本軍将兵が、南京占領時における殺人、強姦、窃盗、放火等の訴因で起訴されたと仮定する。
 その上で先ず、刑事訴訟の証拠法の基本原理をできるだけ簡潔に説明しておこう。

(1)証拠裁判主義

*刑事訴訟法317条 事実の認定は、証拠による。

 上記の規定が証拠裁判主義の原則であるが、これは、犯罪事実を中核とする一定の事実については証拠能力のある証拠によって適式な証拠調べを経た証明による認定でなければならない、との意味だとされている。
 ここでは、証拠能力の概念が重要となる。証拠能力とは証拠となりうる資格のことであるが、証拠裁判主義の下では、証拠の価値(証明力)とともに証拠の証拠能力が問題となるのである。

(2)「厳格な証明」と「自由な証明」

 証拠能力のある証拠によりかつ適式な証拠調べを経た証明を「厳格な証明」と呼び、何らかの証拠により何らかの手続によった証明を「自由な証明」と呼ぶ。
 被告人の罪責を基礎づける実体法的事実(犯罪事実と違法性阻却事由・責任阻却事由の不存在の事実)は、厳格な証明の対象となる。
 これに対し、量刑事情や訴訟法的事実(訴訟条件たる事実、訴訟行為の要件事実、証拠能力・証明力を証明する事実など)は、一般的には、自由な証明で足りる、とされている。

(3)自由心証主義

*刑事訴訟法318条 証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。

 一定の証拠があれば自動的に事実認定がなされる、とするのは、法定証拠主義の考え方であるが、近代刑事訴訟は、法定証拠主義を排して、自由心証主義を採用している。
 なお、後述の自白の補強法則は、自由心証主義の例外である。

(4)挙証責任

 客観的挙証責任と主観的挙証責任とに分かれる。
 客観的挙証責任とは、事実が真偽不明の場合、不利益を受ける当事者の地位のことをいい、刑事訴訟では検察官が負担するのが原則である。
 主観的挙証責任とは、当事者の立証の負担、あるいは争点形成の責任のことをいう。主観的挙証責任は、訴訟の進展にともなって一方当事者から他方当事者へ随時転換する。

(5)「証拠能力のある証拠」とは?

 証拠能力のある証拠とは、@自然的関連性があり、A法律的関連性があり、かつ、B証拠禁止に触れない証拠のことである。
 @自然的関連性は、論理的関連性とも呼ばれるが、例えば、「子どもの頃、盗癖があった」とか「親が犯罪者である」とか「顔つきが悪い」などは、自然的関連性がないので、立証が許されないとされている。
 A法律的関連性とは、たとえ自然的関連性があっても、その証明力の評価を誤らせるような事情がある場合、証拠能力が否定されるとするものである。任意性のない自白、反対尋問を経ない供述証拠などである。
 B証拠禁止とは、関連性のある証拠でも手続の適正や一定の優越的利益を守るため、その利用を禁止する原則のことである。典型的なのは、違法収集証拠の排除法則である。

3.自白法則

(1)自白の定義

 自白とは、自己の犯罪の全部またはその重要部分を認める供述をいう。一般私人に対してなされたものも、日記の中での記載も、自己の犯罪事実を認めるものは自白にあたる。旧軍人の証言、回想、陣中日記の記載の不法殺害等の部分は自白ということになる。
 殺害の事実は認めるが正当行為であったことを主張するものも通説は自白にあたるとしている。例えば、向井遺書の「公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません」の記載も自白である。
 
(2)自白の証拠能力

 自白については、第一に、違法な手続で得られた自白の証拠能力が否定される(多数説)。自白法則とは狭義ではこの規制のみを指す。

*憲法38条2項 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
*刑事訴訟法319条1項 強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁された後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができない。

 南京事件の資料とされるもので、この点での証拠能力が問題となるものは殆どないであろう。問題となるのは、証明力の制限についてである。

(3)自白の証明力

 自白に証拠能力があれば、その証明力が評価されることになる。しかし、自白だけで犯罪事実を認定することは許されない。自白には、これを補強する証拠が必要とされる(自白の補強法則)。前述の自由心証主義の例外である。
 被疑者の自白があると、警察などの捜査機関は、自白の裏付けとなる死体や凶器の発見に血眼となるが、それは自白がそれ単独では証明力がなく、補強証拠が必要とされるからである。

*憲法38条3項 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
*刑事訴訟法319条2項 被告人は、公判廷における自白であると否とを問わず、その自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。

 この自白の補強法則の実質的根拠は、@自白は一般に信用されやすいため、自白を過大視することで誤判が生じるのを防ぐ必要がある(自白偏重の防止)、A自白だけで有罪とできるとなると捜査機関は自白を得るために人権侵害に走る恐れがあり、その弊害を防ぐ必要がある(自白強要の防止)、などとされる。
(この「自白強要の防止」などは、全くの司法政策上の理由に過ぎないので、歴史事実の解明に刑事訴訟の証拠規制を持ち込むことが如何にナンセンスであるかが、これだけでも分かる。だが、本稿は、あくまで刑事訴訟の事実認定の手法に従って南京大虐殺の事実認定は可能かどうかの考察なので、ナンセンスを承知で話を進めることにする。)

 さて、自白の補強法則では、犯罪事実のいかなる範囲に補強証拠が必要かが問題となる。この点をめぐって、実質説と罪体説の対立がある。
 実質説は、自白の補強証拠は自白にかかる事実の真実性を担保するに足りるものであれば良いとする。判例の立場である。
 
*「被告人の自白と盗難届だけで贓物運搬の犯罪事実を認定しても、刑事訴訟法319条2項に違反しない」(判決要旨)(最判昭和26・1・26刑集5-1-101)

 これに対し、学説では、罪体につき補強を要するとする罪体説が通説となっている。
 この罪体は、@特定の被害の発生(例えば、人の死)、Aその被害が犯罪行為に起因すること(例えば、その死が他殺であること)、Bその犯罪行為者が被告人であること(例えば、それが被告人による殺人であること)、の三つの事実から成るが、通説は@とAについて補強証拠が必要であり、Bについては補強は不要だとしている。(結局、結論は判例とさほど変わらないことになる。)

 従って、通説によれば、旧軍人の証言、回想、陣中日記の記載の不法殺害の部分は、@中国軍民の死亡、Aそれが自然死ではなく他殺であることが埋葬記録等によって補強されれば証明力を認められることになる。それが日本軍将兵によるものかどうかは補強を要しない。自白だけで足りることになる。

 なお、戦闘行為による殺人であれば違法性が阻却されるが、判例・通説ともに、違法性阻却事由の不存在の事実については補強不要としている。

*「一般にも、補強証拠の範囲は、必ずしも自白にかかる犯罪事実の全部にわたってもれなくこれを裏付けるものでなくとも、自白にかかる事実の真実性を保障し得るものであれば足りるとされているのであって、本件のように犯罪の成立阻却事由にすぎない事実の存否について補強証拠を必要とすると解することのできないことは明らかである」(東京高判昭和56・6・29判時1020-136)

 従って、中国軍民の死亡が戦闘行為によるものか、戦闘終了後の不法殺害かが補強不能でも、旧軍人の証言、回想、陣中日記の記載の不法殺害の部分は証明力が認められることになる。

 自白の補強法則では、さらに、補強証拠の証拠能力が問題となる。補強証拠にも証拠能力が要求されるのである。また、被告人の自白を被告人の供述で補強することはできない。
 だが、被害者の中国人の証言・記録、外国人の証言・記録、被害調査(スマイス編「南京地区の戦争被害」等)などは、補強証拠になりうる。
 なお、判例は、捜査を意識しないで作成された被告人の日記帳、備忘録、メモ等が自白の補強証拠になりうるとしている(最決昭和32・11・2刑集11-12-3047)。これらの場合には、自白で自白を補強することが例外として認められるとされているのである。
 この判例に従えば、旧軍人の戦後の証言・回想を、本人の陣中日記の記載で補強することが可能となる。

(4)「共犯者の自白」

 他人と共同して犯罪を実行したとの共犯者の供述は、共犯者自身に対して証拠に用いる場合は自白の補強法則が適用されるが、その供述を他人に対する証拠として用いる場合はどうなるであろうか?
 旧軍人の証言、回想、陣中日記には、本人単独の不法殺害だけでなく、他の将兵と共同して不法殺害を実行した、組織的虐殺が記録されている。また、例えば、向井遺書は向井本人については自白だが、野田に対しては自白ではなく証言とならないであろうか?
 これが、いわゆる「共犯者の自白」の問題である。共犯者の自白にも本人の自白と同様に補強証拠を必要とするか、自白ではなく証言だとして補強証拠は不要とするか、たいへん議論の多い問題である。

 補強証拠必要説と不要説の対立があるが、判例は不要説を採っている。即ち、共犯者の自白だけで被告人を有罪とすることができるのである。

*「けだし共同審理を受けていない単なる共犯者は勿論、共同審理を受けている共犯者(共同被告人)であっても、被告人本人との関係においては、被告人以外の者であって、被害者その他の純然たる証人とその本質を異にするものではないからである。されば、かかる共犯者又は共同被告人の犯罪事実に関する供述は、憲法38条2項のごとき証拠能力を有しないものでない限り、自由心証に委かさるべき独立、完全な証明力を有するものといわざるを得ない。」(最大判昭和33・5・28刑集12-8-1718<練馬事件>)

4.伝聞法則

(1)伝聞禁止の原則

 伝聞証拠とは、裁判所の面前での反対尋問を経ない供述証拠をいう。伝聞法則とは、かかる伝聞証拠の証拠能力を否定する原則のことである。
 例えば、「被告人が殺すのを目撃した」とのXの供述書あるいは供述録取書が公判に提出されても、書面に対しては反対尋問ができない。また、Yが公判で「友人のXが『被告人が殺すのを目撃した』と言っていました」と証言した場合も同じである。どちらも、原供述者であるXに対する反対尋問が必要なのである。

*憲法37条2項 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
*刑事訴訟法320条1項 第321条乃至第328条に規定する場合を除いては、公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることはできない。

(2)伝聞禁止の根拠

 供述証拠は、ある事実を「知覚」し、それを「記憶」し、それを「叙述」するという過程を経て証拠化されたものである。しかし、知覚の過程、記憶の過程、叙述の過程のそれぞれには誤りが介入しうる(見間違い、記憶違い、言い間違い)。このため、このような供述証拠の各過程の誤りをチェックする反対尋問が必要とされる。また、憲法37条2項は被告人の証人審問権(反対尋問権)を保障している。
 そこで、このような反対尋問権を行使しえない供述証拠には証拠能力を認めることができないのである。

(3)伝聞例外

 しかしながら、伝聞禁止の原則には例外が多岐にわたって認められている。伝聞法則は伝聞例外の法則である、と言われるくらいである。伝聞禁止の原則を定めた刑事訴訟法320条1項には「第321条乃至第328条に規定する場合を除いては」とあるし、憲法37条2項は例外を許さない趣旨ではないと判例および通説は解している。伝聞禁止の原則は、やわらかい原則なのである。
 そして、伝聞例外は、反対尋問に代わる「信用性の状況的保障」があり、かつ、これを証拠とする「必要性」が高い場合に認められる。伝聞例外にあたるか否かは、この「信用性の状況的保障」と「必要性」のかねあいで決まる。
 それでは、南京事件の数々の資料が伝聞例外にあたるかどうかを具体的に見てみよう。

(ア)321条1項3号書面

*刑事訴訟法321条1項3号 前2号に掲げる書面以外の書面については、供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明又は国外にいるため公判準備又は公判期日において供述することができず、且つ、その供述が犯罪事実の存否の証明に欠くことができないものであるとき。但し、その供述が特に信用すべき状況の下にされたものであるときに限る。

 上記が現行法で最も厳格な例外要件を定めた規定である。(「前2号に掲げる書面」とは裁判官面前調書と検察官面前調書のことである。)
 ここでの要件は、@供述不能、A不可欠性、B特に信用できる状況(特信性)、である。@Aが「必要性」要件で、Bが「信用性の状況的保障」要件というわけだ。
 伝聞例外は、この刑事訴訟法321条1項3号を基本型として、事情によってその例外要件を順次緩和していくという形をとる。

 さて、刑事訴訟法321条1項3号の「その供述が特に信用すべき状況の下にされたものであるとき」(「絶対的特信状況」と呼ばれる。)とは、具体的にどのような場合であろうか?
 この点、英米の判例法では、事件直後の衝撃的供述、臨終の陳述、財産上の利益に反する供述などとされている。
 これによれば、事件直後の被害証言、日本軍将兵が現場で書いた陣中日記、ラーベ日記、ヴォートリン女史の日記、ベイツやウィルソンなどが書き残した記録、在南京ドイツ大使館から本国へ送られた報告、さらに、ダーディンやスティールの報道記事などは、事件直後の衝撃的供述として、絶対的特信状況が認められるであろう。スマイスの調査なども事件直後にあたると思われる。
 従って、これらの資料は、321条1項3号書面として伝聞例外にあたり、証拠能力が肯定される。

(イ)裁判官面前調書

*刑事訴訟法321条1項1号 裁判官の面前(第157条の4第1項に規定する方法による場合を含む。)における供述を録取した書面については、その供述者が死亡、精神若しくは身体の故障、所在不明若しくは国外にいるため公判準備若しくは公判期日において供述することができないとき、又は供述者が公判準備若しくは公判期日において前の供述と異つた供述をしたとき。

 東京裁判での、ウィルソン、ベイツ、マギー、許伝音らの陳述、中国人被害者たちの証言などは、裁判官面前調書として、(他事件でも)証拠能力が肯定される。

(ウ)被告人の供述書・供述録取書

*刑事訴訟法322条1項 被告人が作成した供述書又は被告人の供述を録取した書面で被告人の署名若しくは押印のあるものは、その供述が被告人に不利益な事実の承認を内容とするものであるとき、又は特に信用すべき状況の下にされたものであるときに限り、これを証拠とすることができる。但し、被告人に不利益な事実の承認を内容とする書面は、その承認が自白でない場合においても、第319条の規定に準じ、任意にされたものでない疑があると認めるときは、これを証拠とすることができない。

 被告人の供述書・供述録取書については、原供述者は被告人自身なので、自分自身に反対尋問することは無意味だから、不利益な事実の承認の場合、伝聞例外とされる。(なお、利益な事実の承認の場合は、検察官による反対尋問を考慮しなければならないので、伝聞例外とはならない。)
 被告人の日記、手紙、備忘録、メモなど、あるいは被告人の供述を録取した司法警察員面前調書(いわゆる員面調書)などは、上記の規定により、任意性を要件として証拠能力を認められる。但し、その内容が自白にあたる場合は、前述の自白の補強法則による証明力の制限がある。
 勿論、自白にあたらない、単なる不利益な事実の承認の場合は、証明力の制限がない(例えば、中島今朝吾日記の「だいたい捕虜はせぬ方針なれば」の記載など)。

(エ)特信文書

*刑事訴訟法323条 前3条に掲げる書面以外の書面は、次に掲げるものに限り、これを証拠とすることができる。
 @ 戸籍謄本、公正証書謄本その他公務員(外国の公務員を含む。)がその職務上証明することができる事実についてその公務員の作成した書面
 A 商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程において作成された書面
 B 前2号に掲げるものの外特に信用すべき状況の下に作成された書面

 上記の書面は、類型的に高度の信用性と必要性があるとして、無条件で証拠能力が認められる。
 日本軍の戦闘詳報、日誌などは、2号の「その他業務の通常の過程において作成された書面」にあたる。埋葬諸団体の埋葬記録も、これにあたるだろう。

(オ)再伝聞

 例えば、Xが「被告人が殺すのを目撃した」とYに伝え、Yの「『被告人が殺すのを目撃した』とXから聞いた」との供述書・供述録取書が公判に提出された場合は、XがYに伝え(第一伝聞過程)、Yの供述書・供述録取書が公判に提出された(第二伝聞過程)というように伝聞が二重になっている再伝聞である。
 この場合、公判に提出されたYの供述書・供述録取書の証拠能力は認められるであろうか?
 判例・通説は、各々の伝聞過程が伝聞例外にあたれば、証拠能力が認められるとしている。

*「共同被告人の検察官に対する供述調書中に被告人からの伝聞の供述が含まれている場合には、刑訴法321条1項2号、同324条により被告人に対する証拠とすることができ、憲法37条2項にも違反しない。」(最判昭和32・1・22刑集11-1-103)

 石射猪太郎日記などは、現地からの報告が刑訴法323条2号で伝聞例外になり、石射氏の日記の記載が事件直後の衝撃的供述として絶対的特信状況が認められるなら、刑訴法321条1項3号で証拠能力を肯定できるであろう。

 なお、全ての伝聞証拠は、被告人の同意があれば証拠とできる(刑事訴訟法326条1項)。(実際の刑事裁判では、この同意書面が多い。)
 その他、伝聞例外で最も問題になるのは検察官面前調書であるが、ここではあまり関係ないので省略する。
 証拠法では、違法収集証拠の排除法則も重要だが、これもあまり関係ないので省略する。

5.証明の程度

 前述の自由心証主義(刑事訴訟法318条)の下では、証拠価値(証拠の証明力)の判断に外的規制がない。しかし、恣意的判断も純粋な意味での自由裁量も裁判官に許されているわけではない。裁判官による証拠価値の判断は、論理則および経験則に従って、客観的に合理的であることを要する、と言われている。
 では、論理則・経験則に従った客観的に合理的な「証明」とはどのようなものであろうか? これが証明の程度の問題である。
 この点、判例は「高度の蓋然性」という基準を用いている。但し、「しかし、『蓋然性』は、反対事実の存在の可能性を否定するものではないのであるから、思考上の単なる蓋然性に安住するならば、思わぬ誤判におちいる危険のあることに戒心しなければならない。したがって、右にいう『高度の蓋然性』とは、反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性を志向したうえでの『犯罪の証明は十分』であるという確信的な判断に基づくものでなければならない」(最判昭和48・12・13判時725-104)としている。
 これに対し、学説は、「合理的疑いを超える」証明が必要であるとしている。

 南京大虐殺は、「高度の蓋然性」基準を用いるにしても、「合理的疑いを超える」基準を用いるにしても、圧倒的な証拠により、客観的に合理的な証明に達していると思うが如何であろうか?

  この度、メールアドレスを変更しました。 指環 2004/12/18 01:35:53  ツリーへ

Re: 南京事件の資料の“証拠能力”について 返事を書く ノートメニュー
指環 <uycczmnpew> 2004/12/18 01:35:53
 この度、メールアドレスを変更しました。
 そのため、確認キーを取得し直したので、「指環 <uycczmnpew>」となりましたが、以前の「指環 <jtydsgukon>」と同一人物です。
 なお、以前のメールアドレスは使えなくなっていますので、この掲示板のノートメニューを利用して、私にメールをくださる場合は、今後はこちらでお願いします。

  『真説・南京攻防戦』前川三郎(近代文藝社... 熊猫 2004/12/21 01:14:10  ツリーへ

Re: 南京事件の資料の“証拠能力”について 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <xhcvsuquwp> 2004/12/21 01:14:10
『真説・南京攻防戦』前川三郎(近代文藝社)より

ここはひとつ、我らが田中先生の有難いお言葉を頂戴しましょう。
---引用開始------
 推薦の詞
            評論家 田中正明
.......(略)。臨場者、目撃者の証言や記録こそは何としても、第一級史料≠ナある。(略).......
 平成五年四月二十九日
---引用終了------
否定派の皆さんには、田中先生のお言葉が通じないようで残念です。


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