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  中山重夫氏の証言記録を探しています 岡田 2005/02/10 03:22:14 
  ご存知だとは思いますが ゆう 2005/02/19 17:33:45 
   └中山氏ニセ証人とは言えませぬ 岡田 2005/02/22 02:05:05  (修正2回)

  中山重夫氏の証言記録を探しています 岡田 2005/02/10 03:22:14  ツリーへ

中山重夫氏の証言記録を探しています 返事を書く ノートメニュー
岡田 <gyrkbjgbsq> 2005/02/10 03:22:14
 唐突に失礼します。

 中山重夫氏の証言/講演の詳細な内容に興味があります。
 内容の詳細について調べてみたいと思ったのですが、詳しい内容が記述されているものが見当たりませんでした。

 中山重夫氏の講演内容の記録もしくは証言内容の詳細な記録が載っている、本の題名もしくはWebのURLをご存知の方がおられた

ら、教えていただけないでしょうか?

 よろしくお願いいたします。

  ご存知だとは思いますが ゆう 2005/02/19 17:33:45  ツリーへ

Re: 中山重夫氏の証言記録を探しています 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2005/02/19 17:33:45
ご存知だとは思いますが

「朝日新聞」に掲載された記事の全文を紹介します。これをきっかけに、もっと詳しい情報が出てくるといいのですが・・・。



1984年6月23日夕刊 第14面

(見出し)
南京大虐殺目撃の中山老 
「語り部」 記録映画に
中国での講演など収録
  (四段、顔丸写真付き)

(リード)
一兵士として目撃した南京大虐殺を語り続けている東京都江戸川区平井の中村重夫さん(七二)の記録映画が近く完成する。この五月、中国の黒竜江大学で講演した模様を中心に、日本での活動などを三十分、16ミリカラー作品にまとめた。戦争の実相を証言する全国反戦行脚を始めてすでに百五十カ所。「死ぬまで語り続ける」という”戦争の語り部”にふさわしく、題名は「中山老の証言」と決まった。

(記事)
 昭和十二年十二月、南京が陥落した時、中山さんは陸軍戦車隊の上等兵として、その状況をつぶさに見た。「私は整備兵だった。戦車を修理しながら進む道すがら、累々と重なる死体の中にとても戦闘員になれそうにない女性や老人が多く交じっているのを見て不思議に思った」

 忘れられないのは南京入城の二日前。郊外の雨花台で見た光景。白旗を掲げて来る中国人を壕(ごう)の上に座らせては、日本兵が次々と銃剣で刺し殺していく。一突きでは死に切れず苦しんでいる人を軍靴で壕にけ落としては土をかける。年寄りであろうが、子どもであろうが見境なしの殺りくが続いた。

 「四時間余りも凝視していたでしょうか。それまでは国のため、天皇のためには仕方がないと考えていたのが、その日から「はああ戦争はいやだ、と思うようになった」

 戦後、一貫してこの体験を語り続けてきた。五十七年夏には静岡市の中学教諭森正孝さん製作の8ミリ映画「侵略」と出合った。南京大虐殺や三光作戦を扱ったこの作品に「私が言葉で語ってきたことを映像で証明してくれた」と感動。自費で買い求め、各地で上映会を開きながら戦争の悲惨さを訴える反戦行脚を始めた。都内はもちろん、大阪、名古屋、福岡、広島、宮崎と各地に足をのばし、この二年間で語りかけた人は十三万人にのぼる。

 「今さら日本人の恥をさらすな」「戦争で殺すことがなぜ悪い」といういやがらせや脅迫じみた電話も、日に二十本近くかかってきた。自宅に「殺してやる」と乗り込んできた男もいた、という。それにも屈せず続けている。

 ”戦争の語り部”としての活動が、中国の光明日報に紹介された。今年三月には中国のテレビ局、黒竜江省電視台訪日団が中山さん宅を訪問。これが縁となって五月十一日から二十四日まで二週間の訪中が実現した。

 映画「中山老の証言」は、十九日黒竜江大学の日本語専攻学生約百二十人に対する講演を中心に、ハルピン周辺の石井七三一部隊や東北歴史記念館を訪れる中山さんを紹介。日本での活動をスチール写真で挿入していく。製作の日中映像企画によると、現在編集の仕上げ段階で、六月中には完成させたい、としている。

(末尾の問い合わせ先は省略します)




旧松尾さんのサイト(今は誰のサイト?)の記事では、「今さら日本人の恥をさらすな」の段落が「中略」されていますね。

さて、中山老、右派の言うように「ニセ証人」なのか。「場所」を勘違いしただけ、という可能性もありますので、何ともいえないところである気はしますが・・・。

   └中山氏ニセ証人とは言えませぬ 岡田 2005/02/22 02:05:05  (修正2回) ツリーへ

Re: ご存知だとは思いますが 返事を書く ノートメニュー
岡田 <gyrkbjgbsq> 2005/02/22 02:05:05 ** この記事は2回修正されてます
中山氏 ニセ証人とは 言えませぬ

ゆうさん>
> ご存知だとは思いますが
> 「朝日新聞」に掲載された記事の全文を紹介します。これをきっかけに、
>もっと詳しい情報が出てくるといいのですが・・・。

 情報提供ありがとうございます。>ゆうさん

 なるほど、松尾さんのサイトでは、中山氏が否定派によって脅迫されていた部分がこっそり削られていたのですね。
 すいません、気がついていませんでした。

> さて、中山老、右派の言うように「ニセ証人」なのか。「場所」を勘違いしただけ、
>という可能性もありますので、何ともいえないところである気はしますが・・・。

 岡田が調べた限りでは、「中山氏がニセ証人」という主張は、ほとんど評価に
値しないほど信頼性に欠けるようです。

−−−

 岡田が確認した限りでは、「中山氏はニセ証人」という主張の根拠は以下の2点です。

 A)中山氏は岩仲戦車隊に所属していた。
  岩仲戦車隊は雨花台に突入していない。
  雨花台に突入したのは軽装甲車だ。

 B)雨花台の戦闘は激しく、大量降伏や殺害場面などできない。

−−−

 まず、B)について説明します。

 中山氏が段列兵であったことを考えれば、B)は成立していないことはすぐに分かります。
 段列兵は戦線より後方にいます。前線で激しい戦闘をしていても、段列兵はそれほど忙しくありません。

 「無抵抗の相手を殺す余裕もない」とは、とてもいえないでしょう。

 また、部隊が前進している場合、段列兵のいる後方は日本軍の支配地域であり、
中国兵がいるとしたら、敗残兵/傷病兵の類だけでしょう。
 白旗を掲げて降伏する人がいるのもごく自然なことです。

−−−

 次に、A)について説明します。

 岡田が調べた限りでは、「中山氏は岩仲戦車隊に所属していた」という説の根拠は、
Kという匿名の人物が中山氏と話をして、その内容を田中正明氏が聞いて、
聞いた結果を田中正明氏が編集したたものです。

 いわば又聞きの又聞きであり、伝言ゲームのようなものです。

 伝言ゲームの最初の人は匿名であり、匿名の人物の話の内容について第三者が
確認することは出来ません。
 伝言ゲームの2人目は、資料改竄を行ったことがある田中正明氏であり、
信頼性がまったくありません。
 田中正明氏は話を聞いた結果を自分で編集しています。
 資料改竄者のまとめた内容については、信頼性などありません。


 「中山氏は岩仲戦車隊に所属していた」という説は、【匿名の人物】と【資料改竄者】
による【又聞きの又聞き=伝言ゲーム】の結果を、【資料改竄者】が【編集】したもの
であり、第三者による検証を受けない限り、信頼性などありません。
 そして、【匿名】の人物の発言を第三者が検証することは無理でしょう。

 つまり、A)の根拠には、信頼性が皆無です。


 また、仮に「中山氏は岩仲戦車隊に所属していた」が成立したとしても、
「雨花台に突入していない」とは言えないようです。

 調べてみて分かったのですが、「岩仲戦車隊に所属」と「雨花台に突入」は両立するようです。

 「岩仲戦車隊」と「雨花台に突入」は両立する可能性としては、以下の2つの場合がありえます。

 A-1)岩仲戦車隊の兵の一部が、本隊とは別に雨花台攻撃に参加した可能性。
 A-2)雨花台攻撃に参加した兵の一部が、その後岩仲戦車隊に配属された可能性。


 まずA-1)について検証してみます。

 雨花台を攻撃した機械化部隊について調べたところ、「【かり集めた軽装甲車】や、
華北から援軍の独立軽装甲中隊等の混成部隊」だったようです。
 岩仲戦車隊に軽装甲車が配属されていたとすれば、雨花台攻撃の際には【かり集め】られ
雨花台攻撃に参加していたことになります。

 では、岩仲戦車隊に軽装甲車が配備されていたのでしょうか?

 先日、岩仲戦車隊の段列兵の日記がWebで公開されているのを見つけました。
SHO7さんの「父の軍隊日記」
http://homepage3.nifty.com/sho7/nkmain01.htm

 三十七年九月一日の所に「本隊の軽装甲車」についての記述がありました。
 三十七年十一月四日の所に「各中隊が車輌を受領した」「軽装甲が増えた」という内容が書かれていました。
 三十七年十一月三十日の所にも「他の小隊や軽装甲の活躍」について書かれています。

 以上の記述から、岩仲戦車隊に軽装甲車が配備されていたことが分かり、岩仲戦車隊の
軽装甲車がかり出されて雨花台攻撃に参加していたとしても、不思議は無いといえます。

# そもそも、各部隊から軽装甲車をかり集めているのに、岩仲戦車隊の軽装甲車だけは
#集めなかったとしたら、この方がよっぽど不自然です。


 次にA-2)について説明します。

 岡田が岩仲戦車隊について調べていた際「南京戦の5ヵ月後に戦車第一大隊に独立軽装甲一個中隊、
歩兵一個大隊、山砲兵一個小隊、工兵二分の一個小隊を配した岩仲支隊が作られた」という
記述を見つけました。 ※1 ※2
http://teioh13.hp.infoseek.co.jp/kikousentou.html

※1 連隊が大隊より大規模な部隊であることを考えれば、「連隊」と表現する場合の岩仲戦車隊は
   岩仲支隊の事を指していると思われます。

※2 「南京戦の数ヵ月後に岩仲戦車隊に独立軽装甲一個中隊が配属された」に
   矛盾しない記述が、上記「父の日記」の同日付のところにもあるようです。
   「五月十日・・・蒙城に於いて岩仲支隊・機械化部隊を編成、歩兵、山砲、工兵、
   軽装、戦車混成、岩仲義一大佐を指揮官として・・・」

 岡田が調べた範囲内では、当時南京周辺にいた独立軽装甲中隊というのは、
華北から援軍としてきて、雨花台攻撃に参加していた独立軽装甲中隊だけでした。

 したがって、岩仲戦車隊に雨花台攻撃に参加していた独立軽装甲中隊が、
一個中隊丸ごと配属された可能性が高いです。

 雨花台攻撃に参加した一個中隊が、その後岩仲戦車隊に中隊ごと配属されたとすれば
雨花台攻撃を語る岩仲戦車隊の兵士がいるのは、ごく自然なことです。


 A)についてのまとめ
 「中山氏は岩仲戦車隊に所属していたから、雨花台云々の証言は嘘」については、
根拠が、匿名氏と資料改竄者による、又聞きの又聞きを編集したものであり、
信頼性は皆無である。

 仮に、中山氏が岩仲戦車隊に所属していたことがあったとしても、「雨花台云々の証言は嘘」は導けない。

 雨花台攻略に岩仲戦車隊の軽装甲が参加していたり、雨花台攻略に参加していた中隊が
岩仲戦車隊に編入された可能性は高いので、岩仲戦車隊の兵士が雨花台に行ったとしても
別に不思議ではない。

−−−

 「中山氏はニセ証人」という主張は、主張の根拠A)B)が両方成立していないので、
「単なる言いがかり」でしかないようです。


 現在、岡田は、中山氏が岩仲戦車隊からかり出された軽装甲車隊の一員だったのか、
独立軽装甲中隊の一員だったのか確認したいと考えています。
 中山氏の詳しい証言を調べれば、どっちだったのか確認できるかもしれないと考えて、
中山氏の詳しい証言の資料を探しています。


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