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鉄砲担いで幾山河 ゆう 2005/03/06 09:04:00
├御投稿文を、拝見させて頂きました。最後に 長崎人 2005/03/06 20:53:37
│└日本軍のカニバリズムは、さほど驚くことで... 熊猫 2005/03/06 23:25:09
│ └とほほさん、皆さんはじめまして。皆さんの... 滑る杖 2005/03/14 16:44:06
│ └私たちの世代。 とほほ 2005/03/15 15:50:55
├「戦地憲兵」「歩一〇四物語」 ゆう 2005/03/12 08:30:56
└犬を食べる事の何が悪いのですか? 皇帝 2005/03/13 18:13:33
└全部読んでね(^^; ゆう 2005/03/13 18:39:13
└すいませんね 皇帝 2005/03/13 18:49:25
鉄砲担いで幾山河 ゆう 2005/03/06 09:04:00 ツリーへ
鉄砲担いで幾山河 |
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ゆう <pmyqfxtjon>
2005/03/06 09:04:00 |
著者の草川鐘雄氏は、第三師団第六連隊第一大隊第三中隊所属。上海戦当時は歩兵伍長、終戦時は准尉でした。この手記は戦場の想い出を淡々と綴ったもので、元中隊長が序文を寄せています。
その中に、ふたつばかり、興味を引かれるエピソードがありましたので、紹介します。いずれも「上海戦」での出来事です。
まずは、「捕虜殺害」です。
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そんな或る日、第一分隊長の武田伍長が衛兵勤務の時私は衛兵を下番して眠り込んでいるを「草川オイ草川」と起される、なんだと問うと彼が「捕虜が1人いるが目障りだから首を切れ」と言うので「お前が切れ、刀は此処だ」と言うに
「いやお前でなければいかん」「そうかよーし」と刀を持って衛兵所に出向きました。
捕虜を引張り出し、衛兵所から少し離れた処の戦車壕の穴の傍に座らせて「エイーッ」と掛声とともに
我乍ら見事に切り、戦車壕の内に死体を落としました。黒山の様に取り囲んだ見物の仲間達に「上手いもんだ」と賞められて好い気持ちの後が大変でした。
旅団から大切な捕虜を預かり事の重大さを知らず、無断で首を切ったと大変なお叱りだとか、塚本准尉さんも上部(中隊長代理)に呼び出された由、聞いて申し訳のない事したと思ったが、武田伍長が草川が勝手に捕虜を引張り出して切ったと言ったと聞いて、馬鹿にしやがると腹も立ちましたが「気をつけろ!」で済んだのでよかったが、とにあれ切ったのは私ですから責任は矢張り私でしょう。
以来は例え切っても許可を得て切った事でした。この時が3人目で後に2人切り計5人切りました。
失敗は一度だけでした。その時は私に向けた顔のなんと凄い目付が時に折に浮んでくるのも私の業のなせる処と般若心経を唱えています。これの事で或る日般若心経を唱えても相手は支那人日本語では霊を静めるのではなく迷うのでは?と、生き残った方のこちらの身勝手さを思った事でした。
(P142〜P143)
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伍長から「首を切れ」と言われたら何の抵抗もなく簡単に切ってしまう。そして、「切った」ことを自慢話として語っています。「旅団から預かった」捕虜を勝手に切ってお咎めがあったようですが、それも「気をつけろ!」の一言でお終い。あとの4人は、上部(中隊長代理?)の許可を得れば、簡単に切ることができたようです。
救いは、「失敗」の時に捕虜から睨まれた目付を思い出して「般若心経」を唱えていることです。いずれにしても、上海戦当時、「捕虜殺害」が日常的に行われていたことを伺わせるエピソードです。
次は、「未だ息をしている支那兵」の頭に穴を開け、脳味噌を取り出し、焼いて食ってしまった、という凄まじい話です。
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此処での思い出に残る物があります。K伍長(原文実名)が「オイ喰わんか」と無造作に呉れた生肉、何んの疑いもなく、オイ肉だ肉だと大喜びで、肉飯にしたり、煮物にしたりして、扨て食事です。
誰かが「この肉変だぞ!」 そう言えば、そうだ変だ、文句は言っても肉は肉、美味しく食べてからK伍長
に聞くと平然と「アーあれか、赤犬だよ」 何の不思議もない顔で言った。
「なにー赤犬だと・・・・」 あきれ顔の私に、純粋の赤犬は身体には迚(とて)も好いんだが、半年位は薬は何をのんでも効かんからなー」とおっしゃる。
これが第一で、第二は未だ息をしている支那兵の頭を十字鍬で叩いて穴をあけ、脳漿(彼は脳味噌という)を取り出し、手つかみで大丼にみんな一杯入れ、もう一つの丼で蓋をして、それに泥を丼に塗りつけ、まん丸みたいにすると、既に
穴をあけ火を入れた上に 乗せる。その上にもたきぎをのせ、どんどん燃やす。
やがて泥のかたまりが真赤に 焼けてきた。更に
一と時火を燃やして「もう好かろう」と火を払い、スコップですくうと泥を落とし蓋を取り去ると中味は真黒になっていた。
黒焼きの脳味噌、ナイフで突いてひとつまみ口の中に入れ、目を宙に味見するK、皆んなあきれて嘆息ついて、何んと変った事をする偉いお方が御座るものかと、つくつく感心したものです。
この彼の事に
関しては色々と後述しますが、本当に
私達の考え思う人とは別な社会の人の様です。 (P117)
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どうやらK伍長は、「梅毒の薬」として脳を食べたようです。氏は「戦場でのちょっと面白い話」程度の感覚で語っていますが、嫌悪感なしには読めない記述です。
ちなみに「中国兵の脳を食った話」は、これとは全く別のものですが、井上源吉氏の『戦地憲兵』、あるいは歩兵第104連隊の『歩一〇四物語』にも登場します(いずれも上海戦での話です)。一部異常者の仕業とはいえ、「脳を食う」というとんでもない行為が、ある程度日本軍の中で行われていたことをうかがわせます。
*自宅PCはまだ治りませんので、今は、別の場所のPCから投稿しています。
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├御投稿文を、拝見させて頂きました。最後に 長崎人 2005/03/06 20:53:37 ツリーへ
Re: 鉄砲担いで幾山河
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長崎人 <rmikwprgcg>
2005/03/06 20:53:37 |
御投稿文を、拝見させて頂きました。最後に
>一部異常者の仕業とはいえ、「脳を食う」というとんでもない行為が、ある程度日本軍の中で行われていたことをうかがわせます。
と御座いましたが、これは些か、話を簡単にまとめ過ぎではないか、と思います。もし、この話が創作ではなく事実だったとしますと、大変遺憾で言葉もありませんが、「ある程度日本軍の中で行われていた」とは、あんまりではないでしょうか。 |
│└日本軍のカニバリズムは、さほど驚くことで... 熊猫 2005/03/06 23:25:09 ツリーへ
Re: 御投稿文を、拝見させて頂きました。最後に
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熊猫 <xhcvsuquwp>
2005/03/06 23:25:09 |
日本軍のカニバリズムは、さほど驚くことではありません。 長崎人さんの、気分が悪くなるようなネタを提示しましょうか?
私の子供の頃は周囲に戦争経験者が多かったもんで、元日本兵のカニバリズムなんて、嫌と言うほど聞かされましたよ。勿論、この経験談を話した人達も、何も記録は残していませんし私も内容に触れる気もしません。
他にも事例がありますので、「ある程度」でよろしいんじゃないでしょうか?記述されたことがどの程度、事実なのかは解りませんが複数の記述が残っていますので、それなりにあった程度の認識でよいのではないでしょうか。 |
│ └とほほさん、皆さんはじめまして。皆さんの... 滑る杖 2005/03/14 16:44:06 ツリーへ
Re: 日本軍のカニバリズムは、さほど驚くことで...
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滑る杖 <lhoptyttbn>
2005/03/14 16:44:06 |
とほほさん、皆さんはじめまして。皆さんの御説、資料リンク等、いつも興味深く拝見させていただいております。 もちろん、「戦争を知らない子供たち」の一人である私にとっては、管理人さんたちと真っ向から対立するご意見もまた大変貴重なものです。 現象論としてね(^.^)
さて最近大塚英志氏の刊行物を再読しているのですが、その独特の(しかし私にはシンプル且つ本道と感じられる)平和と民主主義への考え方に接して思われるのは、
>
私の子供の頃は周囲に戦争経験者が多かったもんで、 元日本兵のカニバリズムなんて、嫌と言うほど聞かされ >
ましたよ。勿論、この経験談を話した人達も、何も記録は残していませんし私も内容に触れる気もしません。
という熊猫さんの言葉にあらわれるような「歴史の証人たち」が日々いなくなっていくことです。先人の、生活者として戦争を伝える言葉が次々と失われていっている、その恐怖を感じます。 まあ、恐怖などと言っても所詮はバーチャルなんですが。でも、例えば皆さんの実証的な議論のそこかしこにも、この問題をひしひしと感じます。 また、重い体をおして精力的に「戦争」を伝えて歩く年配の方々が、政治的文脈での批判の中で「共産主義礼賛の世相(戦後民主主義の風潮)の中で洗脳をうけたのだ」などと揶揄されたりするのには、様々な意味で落胆を覚えます。
思えば私も十代二十代の頃には、こういった語り部たちの言葉に真正面から向きあう事をしませんでした。いや、あろうことか「お涙頂戴」としか捕らえない傾向すらありました。若い人間の不見識無理解をただ愚かと断ずることは害でしかありませんが、しかしそれをもって言い訳とするつもりはありません。かつての自分の愚しさは
まだ思い出すにはちょっと辛い、恥ずかしい記憶です(-_-;)
すいません。コメントとしては少々的外れで、だらだらと長くなってしまいました。 言いたかったのはこうです。「語り部の不在を期待する傾向・言動」又は「語り部の不在を突く言説」が、戦前戦時を擁護する層の中に
あった/ある
のではないかということ。それは例えば大塚氏の論文に限らず、もっと実証的な研究の場においても問題とされるべきことなのでしょう。 ・・・いや、ひょっとしたら当然の危機として既に認識されているのかも知れません。 でも、私と同年代の人間が「これが実証的な歴史認識だ」「国益第一だよ」などと、戦争・戦後を容易に相対化する言説に踊らされるのを見るにつけ、大きな疲労感とともに
父母祖父母の世代への甘え(『お願い、タスケテヨ〜』)が頭をもたげてくるのです。 |
│ └私たちの世代。 とほほ 2005/03/15 15:50:55 ツリーへ
Re: とほほさん、皆さんはじめまして。皆さんの...
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とほほ <csqrkrwfrq>
2005/03/15 15:50:55 |
私たちの世代。
私もまだまだ若い戦争を知らない子供の一人です(^^ゞ 正直、私たちの10代20代って戦後世代の中で一番何もやっていない世代なんじゃないですかね(^^;←自分のことを棚にあげるな、頑張っている人も一杯いるのだ。
なんとなく生まれた時から民主主義で自由と言う雰囲気にどっぷりとつかって生きていて、それが当たり前なんだ、これからもっともっと自由に世の中は自然と変わっていくんだ、という風になんお根拠もなく受け止めていた、戦争にも興味がない米ソ対立核の恐怖などと言われてもSFの絵物語にしか聞こえない。
それでも我々の年代までは戦争の生の声を聞いていた、うざったくて戦争に行った人間が偉くて、俺らは虫けらかよ、とか反抗しながら聞いていた(笑)
私もそうなんですよ
滑る杖さん。あることがきっかけでたまたま南京事件や戦争犯罪を調べてみよう、と思ったのがきっかけなんです。調べるたって、こっちは普通のおじさんですから本屋でそう言う本を見つけてきて読むくらいのことですが、それでも私はね、怒りを感じたのですよ、戦争に対する怒り戦争犯罪に対する怒りをね、それをくだらない屁理屈で否定しようとする連中の姑息な論法には全戦争犠牲者の全部の魂を代表して彼らを駆逐せねばならないというほどのね、、、。
なんで、それまで感じなかったのでしょうね、そう言う怒りを、私は知らなかった、無知だった、そう言うことですよ。 |
├「戦地憲兵」「歩一〇四物語」 ゆう 2005/03/12 08:30:56 ツリーへ
Re: 鉄砲担いで幾山河
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ゆう <pmyqfxtjon>
2005/03/12 08:30:56 |
「戦地憲兵」「歩一〇四物語」
まず、井上源吉氏の「戦地憲兵」。1937年11月頃、北京の捕虜収容所での話です。
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こうして収容所が開設されて一週間ばかりたつと、内地から補充された予備役のおっさんたちが六名ほど門頭溝の中隊から到着し、私たちの小隊へ補充されてきた。
ところがこれは、中隊の方で手におえぬ者を選んで送ってきたかと思われるほど始末に負えぬ連中で、下士官たちを呼ぴすてにするばかりか、小隊長の命令さえ無視して、満足に勤務にもつかない。
二、三年兵は神様だがオレたちはその上のホトケ様だといって、毎日一人あたり二合ずつ支給される酒やピールはホトケ様へお供えしろ、と私たちに強要してまきあげ、朝から晩まで室内にとぐろを巻き賭博や飲酒にふけっている、いわゆる兵隊やくざであった。
おとなしい小隊長は、さわらぬ神にたたりなしとばかりに、こうした彼らを知りつつ放任していたが、そのうちに彼らは恐るべきことをやってのけた。
ある夜、二名の捕虜が逃亡をくわだてた。これをとらえた小隊では他の捕虜たちへの見せしめのため斬首して校庭のすみへ埋めた。これを見た彼らはさっそくこの首を掘りかえし、脳をとりだしてくってしまった。
たまたまそのとき用事のため彼らのたむろする部屋へはいった私にたいしても、「珍らしい肉が煮えているからひと口くっていけ」といってすすめたが、私は彼らと接触することをさけるため、隊務にことよせてこれをことわりはやばやと退散した。
このときはその肉が何であるか知らなかった私であったが、翌日になってそれが人間の脳ミソであることを知り、身の毛がよだつ思いがした。
彼らは外出すれば、飲み屋の女や淫売婦たちをおどして金をまきあげ、他隊の兵隊と帯剣を抜いて刃傷沙汰におよぶという、まったく街のごろつき顔まけの行為をつづけていたが、彼らの仲間は私たちの小隊だけではなく、門頭溝の中隊にもいた。(同書P58〜P59)
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井上源吉氏は、1937年3月応召、北支那駐屯軍歩兵第一連隊に入営。1938年5月東京陸軍憲兵学校を卒業後、中国各地を転任、終戦時陸軍憲兵曹長。憲兵としてのさまざまな体験談が語られており、興味深く読める一冊です。なお上は、憲兵になる以前の兵隊生活でのエピソードです。
次は、「歩一〇四物語」。上海戦の頃の記述です。
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戦後、いろいろの作家が戦争と犯罪について書いているが、私は別の角度から書いてみたい。一つは迷信に基く純朴な犯罪についてである。
Aの妹は肺病(結核と思うが)である。Aは両親がなく妹と二人だけであった。不治の病と宣告されていた。妹の病気には脳の黒焼がいいということを聞いていた。彼は敵兵の脳をひそかにとって、おぼろげな話をたよりに黒焼を作って凱旋の日を待った。
Bの母は中風で半身不随であった。それには人間のきもがよく効くという。彼はきもをガーゼにのばして陰干にした。彼はこれを後生大事に持っていた。
Cの愛児は今でいう脊髄カリエスであった。人骨を粉にしてのませると治るという話だ。彼は人骨集めに夢中になった。ある日、友達に発見された。
この三人はみんな戦死したという。これは私が病院で聞いた話である。これは、うちの連隊の兵士のことではない。
(P426〜P427)
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この本、「第十三師団歩兵第一〇四連隊」のいわば「公式戦史」なのですが、無味乾燥に戦闘の叙述を並べるにとどまらず、いろいろと面白い記事が掲載されています。これまた、読んで損のない一冊です。
さて、「鉄砲担いで幾山河」を含めた3冊のうち、「歩一〇四物語」は、病院での噂話であるに過ぎません。しかし、あとの2冊を読むと、この「噂話」は十分ありうることではないか、という気がしてきます。
「鉄砲担いで幾山河」では、筆者は、「脳を食った」伍長の話を、自分の直接の目撃談として語っています。しかも、自分も相手も実名です
「戦地憲兵」は、筆者がその現場を見かけ、くっていけ、と勧められた話。「それが捕虜の脳であることをどのようにして知ったのか」という細かい話は省略されていますが、井上氏自身が「それは脳だった」と認識していたことは事実です。
念のためですが、紹介した三冊は、別に「日本軍告発の書」ではありません。いずれも、よく見かける「戦場体験追憶物」です。「鉄砲担いで幾山河」にも、しっかりと当時の上官の推薦文が載っています。
以上は、たまたま、自分の手持ち資料の中で、私が気がついたものであるに過ぎません。本気で捜せば、この種の話はまだまだ見つかるかもしれません。
まあ私も、ある程度信頼できる資料の中にこんな話が出てくるとは、ちょっと意外でした。中国側資料には、我々の感覚ではちょっと信じがたい「猟奇的事件」がいろいろと出てきますが、ひょっとすると、そのうちの一部は、日本軍の異常者によるこの種の話が拡大されて伝わった、という可能性もあるのかもしれませんね。
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└犬を食べる事の何が悪いのですか? 皇帝 2005/03/13 18:13:33 ツリーへ
└全部読んでね(^^; ゆう 2005/03/13 18:39:13 ツリーへ
└すいませんね 皇帝 2005/03/13 18:49:25 ツリーへ