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[4396]正しい歴史認識(「破局に向う日本」) 核心 07/5/4(金) 7:21
[4397]Re(1):正しい歴史認識(「破局に向う日本」) 熊猫 07/5/4(金) 13:00
[4398][投稿者削除]
[4400]戦陣訓 核心 07/5/4(金) 14:25
[4456]Re(2):正しい歴史認識(「破局に向う日本」) gallery 07/5/15(火) 14:54
[4457][投稿者削除]
[4461]Re(3):正しい歴史認識(「破局に向う日本」) どろっぷ 07/5/15(火) 18:06
[4465]Re(3):正しい歴史認識(「破局に向う日本」) 熊猫 07/5/18(金) 14:31
[6486]伯爵 亀井茲明が撮影した旅順虐殺の証拠写真と日記 ピッポ 09/5/28(木) 14:50

[4396]正しい歴史認識(「破局に向う...
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 核心 E-MAILWEB  - 07/5/4(金) 7:21 -

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   私がそれなりに正しい歴史認識を持てたのは、父が購入した「画報近代百年史」と言う本をよく読んでいたからだと思います。
1840年〜1950年の日本の近代を昭和25年ころの視点で捉えてます。

先日、以下の父の蔵書を読んでみました(昔は普通の家庭にあった一般的な本だと思います。)。

「支那事変郷土部隊写真史」(福島民報社、昭和13年6月発行)
「臣民の道」(朝日新聞社、昭和16年8月発行)
「勝たずして何の我等ぞ」(朝日新聞社、昭和19年3月発行)
「郷土部隊戦記1」(福島民友新聞社、昭和40年7月発行)

なぜ、南京攻略時は軍規が乱れていたのかと考え「陸軍 軍規 腐敗」で検索したところトロッキーの「破局に向う日本」に当りました。
1933年に書かれた小論文ですが、そのころの日本がとてもよく分析されています。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~Trotsky/35/jp-hakyoku.html

私が史実派と捏造派の論争に巻き込まれたくないのは、両者の妥協により南京事件の実態が不正確になることを怖れているからです。
私の考えでは、南京事件の中核は「軍が組織的に行なった武器放棄して大量投降した捕虜の虐殺」です。

では、なぜ大量に投降したのか、「郷土部隊戦記1」を読めば一目瞭然です。
敵の退路を断つ、これが重要な戦略だったからです。
補給路を絶ち、かつ退路を断つ、これに成功したから大量の捕虜が武器放棄して投降せざるを得なくなったのです。
その大量投降した捕虜を「処分=虐殺」した、これが南京事件の中核部分だと考えます。

この事実の隠蔽に戦史室などの国家機関が係っていることも問題です。

(以上のことをグースさんの掲示板に書き込んだら、大神さんから自分のHPに書き込んでくれ、と苦情を言われてしまいました。検索したところトロッキーの小論文に言及されたものが無かったものですから書き込みしました。)
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[4397]Re(1):正しい歴史認識(「破局...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/5/4(金) 13:00 -

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   核心さん
>なぜ、南京攻略時は軍規が乱れていたのかと考え「陸軍 軍規 腐敗」で検索したところトロッキーの「破局に向う日本」に当りました。

 日本の軍規が乱れて退廃していたのは、南京事件以前からです。
 古くは旅順虐殺事件や、平頂山事件にみられるように軍規とは無縁の軍隊であったと言えます。断片的な事例を提示すれば、残忍極まりない話もあれば美談も少なくはありません。
 日本人というより同じ部隊の仲間に対して、部下や新兵に対する陰湿な暴行や、被差別部落出身の兵隊への差別すらありました。道徳観の欠如した部隊が戦争をしていたのです。弱い者と見たらお構いなしの軍隊が、敵国の民を如何に扱うかは、兵士の証言や被害者の証言で充分でしょう。

 南京というのは中国の首都だった特別な地域であり、兵士の中に征服者あるいは支配者になったという傲慢な気持ちが働いたのではないでしょうか。
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[4398][投稿者削除]
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(09/5/29(金) 7:28)
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[4400]戦陣訓
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 核心 E-MAILWEB  - 07/5/4(金) 14:25 -

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   ▼熊猫さん:

> 日本の軍規が乱れて退廃していたのは、南京事件以前からです。

だから「戦陣訓」(昭和16年)が必要になったのですね。
私も「戦陣訓」に島崎藤村が係っていたなんて、ネットで初めて知りました。
319 hits

[4456]Re(2):正しい歴史認識(「破局...
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 gallery E-MAILWEB  - 07/5/15(火) 14:54 -

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   ▼熊猫さん:
> 日本の軍規が乱れて退廃していたのは、南京事件以前からです。
> 古くは旅順虐殺事件や、平頂山事件にみられるように軍規とは無縁の軍隊であったと言えます。断片的な事例を提示すれば、残忍極まりない話もあれば美談も少なくはありません。
> 日本人というより同じ部隊の仲間に対して、部下や新兵に対する陰湿な暴行や、被差別部落出身の兵隊への差別すらありました。道徳観の欠如した部隊が戦争をしていたのです。弱い者と見たらお構いなしの軍隊が、敵国の民を如何に扱うかは、兵士の証言や被害者の証言で充分でしょう。
>
> 南京というのは中国の首都だった特別な地域であり、兵士の中に征服者あるいは支配者になったという傲慢な気持ちが働いたのではないでしょうか。

少々遅まきながらですが。
日清・日露戦争までは、総じて捕虜への扱いは悪くはなかったんですよね。
軍内部での差別や暴力は存在しますし、平頂山事件という例外ありますが。
それが日中戦争でのその余りの変わりっぷりに、皆が驚いたわけで。
本当にこれが同一の軍隊かと。

熊猫さんの指摘や、軍人の質など様々な要因はあるとは思いますが、
日露戦争までとの大きな相違は、誰かに見られているという意識だと。
義和団や日清戦争は、欧米列強の視線を気にしつつの行動ですし、
日露戦争においても、各国の駐在武官による監視がありましたし。
そういうの意識しなくなり、かつ自分に責任がかからないと判れば、
どんな酷いことでも言えるし、どんな惨いことでもやれると>日本人。
むしろ周りがやってるからオレもやらねば。逆らうヤツは空気嫁。

ハッキリ言って、2ちゃんねらーとメンタリティ同じではないかと。
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[4457][投稿者削除]
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(09/5/29(金) 7:29)
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[4461]Re(3):正しい歴史認識(「破局...
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 どろっぷ  - 07/5/15(火) 18:06 -

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   山田朗先生は『外交資料 近代日本の膨張と侵略』の中で、諸外国に対して不平等条約の撤廃を求めている日本としては、自分が「文明国」の一員であることを示す意味から、国際条約に忠実に振る舞い、捕虜を丁寧に取り扱う必要があったと述べています。

不平等条約が改正されたのは1911年でした。
それまでの開戦の詔書(対清国、対ロシア、対ドイツ)には必ず「国際法にもとるな」という意味の文言があります。
しかし1918年のシベリア出兵宣言から以後は「国際法にもとるな」が消えます。
1938年のいわゆる「国民政府を対手とせず」声明の翌々日に出された補足声明となると、ひどいことが書いてあります。

「爾後国民政府を対手とせずといふのは同政府を否認するよりも強いものてある。」
「今回は国際法上の新例を開いて国民政府を否認すると共に之を抹殺せんとするのてある。」
「又国民政府を対手とせずといふ建前から宣戦布告もあり得ぬわけてある。」

大東亜戦争開戦の詔書にも、国際法についての言及はありません。

目的達成のためには「外見が大事」。
目的を達成してしまえば、外見はどうでもよい。
こういうことなら、そのけちくさい根性が不愉快です。
393 hits

[4465]Re(3):正しい歴史認識(「破局...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/5/18(金) 14:31 -

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   ▼galleryさん:
>少々遅まきながらですが。
>日清・日露戦争までは、総じて捕虜への扱いは悪くはなかったんですよね。
 私は日本兵の住民殺害や捕虜殺害の原点は、旅順にあるのではないかと思います。日本軍は日清戦争において捕虜や民間人の虐殺をしています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/旅順虐殺事件
『福岡日日新聞』
夜明けて敵の敗兵十三名を捕す、然れども下士哨にて悉く之を剣殺す、予も三人やりつけたり。・・・敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在らさるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし
 日中戦争からではなく、旅順での虐殺をはじめ日清戦争では既にその本領を発揮していました。

 galleryさんに限ったことではなく、『私の見た南京事件』奥宮正武(PHP研究所)でも、日中戦争以前の日本軍を誤解しています。
 ロシア人やドイツ人のような白人を相手にした場合と、同じアジア人を相手にする場合とでは対応は違っていたのではないでしょうか。
 軍隊はアイヌのような一部の日本人と中国人や朝鮮人は「土人」であるが、白人は「土人」という言い方はしなかったと思います。
 旅順虐殺事件の24連隊はその後も軍隊内部の差別事件(1926年)をおこしています。
http://www.c20.jp/1926/11fukuo.html
 肉弾三勇士が軍神になれなかったのは、二人が被差別部落出身者であったからではないでしょうかね。根強い差別意識が軍隊あるいは国民の中にあったのではないでしょうか。
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[6486]伯爵 亀井茲明が撮影した旅順...
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 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 14:50 -

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   ▼熊猫さん:
> 私は日本兵の住民殺害や捕虜殺害の原点は、旅順にあるのではないかと思います。日本軍は日清戦争において捕虜や民間人の虐殺をしています。
>http://ja.wikipedia.org/wiki/旅順虐殺事件
>
『福岡日日新聞』
>夜明けて敵の敗兵十三名を捕す、然れども下士哨にて悉く之を剣殺す、予も三人やりつけたり。・・・敗兵及負傷者毎戸二三人つつ在らさるなし、皆な刀を以て首を切り、或は銃剣を以て突き殺したり、予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るる河は血にあらざるなし
 日中戦争からではなく、旅順での虐殺をはじめ日清戦争では既にその本領を発揮していました。

熊猫さんが指摘した「旅順虐殺事件」を従軍写真家が捕らえていました。「旅順虐殺事件」は、城内掃討戦、市民の虐殺としては、南京事件のプロトタイプといえるかもしれません。

その従軍写真家とは、参議院議員亀井久興の曽祖父である伯爵亀井茲明(これあき)です。亀井茲明は大本営に願い出て特別許可を得、5人の従者2人の小者を従えて日清戦争に従軍し、銀乾板写真に日清戦争の経過を定着するとともに、克明な日記を記しています。日記はラーベの日記と同様に、収集した軍の文書や報道記事なども後から挿入し、克明な資料となっています。

しかし、18,000円という高価な大型本なので、あまり引用されてないようです。
http://www.amazon.co.jp/æ—\清戦争従軍写真帖â•ä¼¯çˆµäºäº•ã“れ明のæ—\記-äºäº•-これ明/dp/4760107843

たまたま、市立図書館にこれを見つけましたので、以下にごく一部を紹介します。
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