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[6327]【資料】パレスチナ・ジェノサイドを考えるために とほほ 09/2/13(金) 3:54
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引用なし
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   前田朗氏のAMLへの投稿を転載します。
Subject: [AML 24239] パレスチナ・ジェノサイドを考えるために(1)

前田 朗です。

2月12日

ジェノサイドや人道に対する罪とは、<比較不能な悲劇>です。

しかし、言語を用いて他者に「比較不能な悲劇」を伝えようとする場合、しばしば「比較」せざるを得ません。注意しなければならないのは、その際に「相対化」や「矮小化」が入り込んでくることです。「歴史修正主義」とは、「比較」を手がかりとして「相対化」や「矮小化」を試みる思考様式です。そもそも言葉の定義をせずに、勇ましい「論争」をしても、まず意味がないのは、改めて言うまでもありません。そして、言葉の定義という試み自体が、もともと「比較」や「差異」によって可能となるのです。このことを自覚しておく必要があります。

1)2つのホロコースト

「ホロコースト」は、それ自体、「論争」のある概念です。ドイツの歴史家論争など「歴史修正主義」にかかわる場合もそうですが、それ以外の場合にも、やはり問題になります。ダーバンの人種差別撤廃世界会議でも大激論になりました。
いろんな論点がありましたが、つまるところ、次の2つの主張の対立です。

A 「ホロコーストとは大文字単数のHolocaustだけを意味する」(つまり、ホロコーストの被害者はナチス・ドイツによるユダヤ人被害だけをさす)

B 「ホロコーストは複数形である」(世界各地にさまざまな虐殺被害があった)

ですから、イスラエルがパレスチナ人民に行ってきた野蛮行為を「ホロコースト」と呼ぶかどうかは、それぞれの言葉の定義による上、そこには激しいイデオロギー対立が孕まれているのです。

2)ジェノサイドについて

ジェノサイドの場合はいささか事情が違います。ジェノサイドという言葉をつくったラファエル・レムキンの定義と、1948年のジェノサイド条約の定義があります。1997年の国際刑事裁判所規程の定義はジェノサイド条約の定義と同じです。この段階で、国際法上の一般的定義は確立したといえます。1998年のルワンダ国際刑事法廷判決(特にアカイェス事件、ムセマ事件など)で、国際判例上も、ジェノサイドの定義はより明確になりつつあります。

(国際法とは異なるジェノサイドの定義をすることも自由です。ただし、それは国際社会に通用しません。自分の定義がよりすぐれていることを証明しない限りお話にならないのです。)

強制収容所がなければジェノサイドではないというのは、まったく非常識な見解です。レムキンはアルメニア・ジェノサイドを念頭においてこの言葉を作りました。アルメニアに強制収容所などありませんでした。ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下はジェノサイドにあたる(と私は考えるし、多くの人が考えている)のですが、強制収容所など無関係です。ルワンダのツチ・ジェノサイドも、スーダン・ダルフール・ジェノサイドも強制収容所の問題ではありません。

ジェノサイド条約第2条はジェノサイドを次のように定義しています

国民、民族、種族または宗教集団の全部または一部を破壊する意図をもって、次に掲げる行為を行なうこと

a 集団の構成員を殺害すること

b 集団の構成員に対して、重大な身体的または精神的な害悪を加えること

c 集団の全部または一部についてその身体の破壊をもたらすことを意図した集団生活の条件をことさらに押し付けること

d 集団内の出生を妨げることを意図した措置を課すこと

e 集団の子どもを他の集団に強制的に移転すること

(国際刑事裁判所規程の日本政府の訳文とは訳が異なりますが、意味は同じです。日本政府はジェノサイドを「集団殺害犯罪」としています。見事な誤訳)。

ジェノサイドの定義を見れば、強制収容所を利用したジェノサイドもありうるが、それ以外にさまざまのジェノサイドがあることがわかります。

ジェノサイド概念に関心のある方は下記を参照願います。と、無理やり、自己アピール(笑)。

前田朗『戦争犯罪論』(青木書店、2000年)

前田朗『ジェノサイド論』(青木書店、2002年)

と言っても、本を読め、というだけでは不親切なので、別途、ジェノサイドについての最近の私の文章をご紹介します。
Subject: [AML 24242] パレスチナ・ジェノサイドを考えるために(2)−1

前田 朗です。

2月12日

「パレスチナ・ジェノサイドを考える(2)」を投稿しましたが、長すぎてはねられてしまいましたので、3回に分けて再送します。

ただ、元の投稿が戻ってこないため、頭書を書き直さなくてはなりません。ぼけっとしていて、オマケに途中で違う作業をしていたために、前に書いた事をよく覚えてなくて、繰り返すことができません。

以下に紹介するのは、雑誌『統一評論』掲載の私の文章です。掲載時に紙幅の都合で削除された部分も含めて投稿します。

前田朗「コリアン・ジェノサイドを考える」『統一評論』517号(2008年11月)

ジェノサイドとは何かの基礎知識です。

イスラエルがパレスチナ人民に対して行ってきた歴史的野蛮行為を法的にどのように評価するかに際して、参考になるはずです。もっとも、下記では侵略の罪、人道に対する罪、戦争犯罪については言及していません。

* *******************************

コリアン・ジェノサイドとは何か

前田 朗

 私の報告では、少し視点を変えて、関東大震災時朝鮮人虐殺を国際基準で見ていこうという話をします。国際法に照らして考えてみます。キーワードはジェノサイドです。

 第一に、議論の手がかりとして石原慎太郎東京都知事の「三国人」発言を取り上げます。第二に、ジェノサイドを考えるために、最初のジェノサイドであるアルメニア・ジェノサイドについて見ます。第三に、ジェノサイドとは何かという法律の定義を確認します。第四に、「関東大震災朝鮮人虐殺はジェノサイドである」「ジェノサイドを教唆したのは日本政府である」ことを確認します。コリアン・ジェノサイドを世界史の中に位置づけてみましょう。

石原都知事の差別発言

 第一に、石原都知事の差別発言です。いま「差別発言」と言いましたが、ここでは単なる「差別発言」ではなく「人種差別の煽動」であることに関心を向けていきたいと思います。それが「ジェノサイドの教唆」ともつながりを持つからです。

 石原都知事発言とは、二〇〇〇年四月九日、陸上自衛隊の記念式典において
「今日の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。もはや東京の犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況で、すごく大きな災害が起きた時には大きな騒擾事件すらですね、想定される、そういう状況であります」と挨拶したものです。

 この発言は、単なる差別発言ではなく、いくつもの嘘をまぎれこませた悪質な差別の煽動です。
1.「三国人」という言葉自体が、戦後日本で在日朝鮮人・中国人に対して差別的に用いられた言葉です。
2.「三国人」とされた人々のほとんどは、日本で生まれ育っていますから「不法入国」などしません。できません。
3.「三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」という事実がありません。外国人も日本人もさまざまな犯罪をしている事実はあります。しかし、凶悪犯罪は減少してきたのが事実です。それでも残念ながら凶悪犯罪が起きますが、その大半は日本人によるものです。
4.災害時に自然に騒擾事件が起きたことはありません。起きたのは関東大震災朝鮮人虐殺のように日本政府が仕組んだ騒擾事件です。最初から最後まで嘘で固めた石原発言です。虚偽に基づく差別と差別煽動の発言を、陸上自衛隊の前で行ったのです。意味するところは明白です。

 二〇〇一年三月、ジュネーヴ(スイス)のパレ・ウィルソン(人権高等弁務官事務所)で開催された人種差別撤廃委員会における日本政府報告書の審査の結果、人種差別撤廃委員会は日本政府に対して次のような勧告を出しました。

 「委員会は、高位の公務員が行った差別的な発言と、特に、条約第四条(c)
違反の結果として、当局が取るべき行政上または法律上の措置をとっていないこと、またそうした行為は人種差別を助長、煽動する意図があった場合にのみ処罰されるという解釈に、懸念をもって注目する。締約国が、こうした事件の再発を防ぐための適切な措置をとり、特に、公務員、法執行官および行政官に対し、条約第七条に従って、人種差別につながる偏見と闘う目的で適切な訓練を行うよう求める。」

1.人種差別撤廃委員会は、石原都知事発言が差別的な発言であり、人種差別撤廃条約第四条(c)に違反すると認定しています。ここには石原都知事の名前は出ていませんが、「高位の公務員」とは石原都知事のことです。
2.人種差別撤廃委員会は、石原都知事発言に対して、当局が「政治上または法律上の措置」をとるべきだとしています。
3.日本政府は「石原都知事には差別を助長、煽動する意図がなかった」と言う弁解をしましたが、人種差別撤廃委員会は、そうした解釈に懸念を表明しています。「差別を煽動する意図がないとさえ言えば、どんな差別発言もやりたい放題」という日本政府の解釈は世界に通用しません。差別を煽動した事実が問題なのです。
4.人種差別撤廃委員会は、差別再発防止のための訓練を行うように求めています。しかし、日本政府は右のような解釈を公然と主張していますから、まともな訓練をしていません。それどころか、差別を煽動する差別発言を公然と擁護していますから、日本社会では差別発言が続発しました。

 以上をまとめます。
1.石原都知事発言は人種差別発言です。本人は、辞書の意味がどうのこうのとか、他にもこの言葉を使った人がいるとか言い訳をしていましたが、石原都知事がこの言葉を使ったのは明白に差別的文脈でした。
2.単なる人種差別発言にとどまりません。人種差別撤廃条約にいう「人種差別の煽動」です。日本政府は「差別を煽動する意図がなかったから、煽動ではない」と言い訳しましたが、およそ説得力がありません。人種差別撤廃委員会でも、日本政府の主張は完全に否定されました。
3.歴史的なジェノサイドとの関連抜きに語ることはできません。単なる「人種差別の煽動」ではなく、自衛隊の前で、地震などの際に自衛隊の出動を、と呼びかけたのですから、「ジェノサイドの教唆」の一歩手前と言うべきなのです。関東大震災朝鮮人虐殺の歴史を持ちながら、あえてこのような発言をしたのですから極めて悪質です。

ジェノサイドとは

それではジェノサイドとは何でしょうか。いまジェノサイドについて語ることにどのような意味があるのでしょうか。

 一九四八年一二月九日に第三回国連総会で採択されたジェノサイド条約(一九五一年発効、批准国は一三四カ国、日本は未批准)は、その前文で「ジェノサイドが、国連の精神および目的に反し、かつ、文明世界から強く非難された国際法上の犯罪であるとする、一九四六年一二月一一日の国連総会決議九六(I)を考慮し、歴史上あらゆる時期においてジェノサイドが人類に多大な損失をもたらしたことを認め、この忌まわしい苦悩から人類を解放するためには国際協力が必要である」としています。

 ジェノサイド条約第一条は「締約国は、ジェノサイドが、平時に行なわれるか戦時に行なわれるかを問わず、国際法上の犯罪であることを確認し、かつ、これを防止し処罰することを約束する」としています。条約第二条はジェノサイドの定義を示し、同第三条は処罰すべき行為について明示しています。条約第四条は、犯罪者の地位は問わないとし、「憲法上の責任ある統治者であるか、公務員であるか、または私人であるか」を問わず、いかなる者によるジェノサイドも処罰すべきだとしています。

 それでは関東大震災朝鮮人虐殺をジェノサイド概念に照らして位置づけ直すことにしましょう。従来、関東大震災を語る人はジェノサイドについて語りません。ジェノサイドを語る人は関東大震災を語りません。

アルメニア・ジェノサイド

 ジェノサイドの典型例は、誰もが知るように、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺です。ただ、ジェノサイドという言葉を作ったときに、念頭にあった最初のジェノサイドは、一九一五年のアルメニア・ジェノサイドです。ジェノサイドという言葉は、後に説明するように、ラファエル・レムキンが一九四四年につくりましたが、念頭にあったのはアルメニア・ジェノサイドです。ジェノサイドという言葉ができるよりも前の出来事ですが、アルメニア・ジェノサイドと呼ばれています。

 二〇〇二年の映画『アララトの聖母』を思いおこしてみましょう。画家アーシル・ゴーキーの絵画をモチーフに、アルメニア人虐殺の悲劇と現代の親子の物語を交錯させて描いたドラマです。監督・製作・脚本は『フェリシアの旅』のアトム・エゴヤンです。シャンソンのベテラン歌手、「ピアニストを撃て」のシャルル・アズナブールも重要な役で出演していました。アズナブールもアルメニア系フランス人です。

 映画作家のエドワード・サロヤン(アズナブール)は、アルメニア人にとって聖なる山アララトの麓で起きたアルメニア人虐殺を映画にするため、カナダのトロントに撮影にやってきます。カナダには亡命してきたアルメニア人のコミュニティがあります。サロヤンは、虐殺で母を亡くした画家アーシル・ゴーキーに注目し、少年時代の彼を映画に登場させようと考え、ゴーキー研究家・美術史家アニに撮影の顧問を依頼します。アニには二回の結婚歴があり、最初の夫との息子ラフィは、死んだ父親がテロリストなのか英雄なのかと悩んでいました。二度目の夫の娘シリアは、ラフィの恋人ですが、自分の父親の事故死の原因がアニにあると考え、激しく憎んでいました。そしてサロヤンの映画がクランク・インします。撮影現場で雑用係として働いていたラフィは、映画の内容に触発され、父の真実を知るためにアララトへと旅立ちます。帰国したラフィは、空港の税関で取り調べを受けます。ラフィは「喪失の歴史」を語り終え、解放されます。アーシル・ゴーキーの絵画「アララトの聖母」の秘密は何であったのか。アルメニアで何があったのか。何が、なぜ、「喪失」させられたのか。映画は歴史と現在を重ね合わせながら描きます。

第一次大戦時、ロシアとトルコが交戦状態になりました。トルコはアルメニア人がロシア側につくと考え、アララト山周辺地域のアルメニア人を強制移住させ、従わない場合には攻撃しました。被害は五〇万とも一〇〇万とも言われます。多数のアルメニア人が外国に逃れました。アズナブールもその子孫です。フランスやオランダでアルメニア系の人と出会うことは決して珍しくありません。現在、カスピ海沿岸につくられたアルメニア国家の人口は三五〇万人です。被害の大きさは想像を絶するものでした。

アルメニアと言っても、どこにあるのかわからないと思うかもしれませんが、皆さんはこの夏にテレビで毎日のように見ています。ロシア軍がグルジアに侵攻しましたが、グルジアの隣がアルメニアです。黒海とカスピ海の間で、グルジア、オセチアなどでの事件、カスピ海沿岸の石油とガスをめぐる国際政治が吹き荒れる地域です。

アルメニア人が多数フランスに逃げたこともあって、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて、フランス議会でこの問題が取り上げられ、フランス議会は「アルメニア事件はジェノサイドであった」と決議しました。このためトルコとフランスの外交問題に発展しました。二〇〇五年にはアメリカ議会でも議論が巻き起こっています。そのくらい有名な事件で、西欧ではアルメニア人を「第二のユダヤ人」
と呼ぶくらいです。在日朝鮮人の間でも「第二のユダヤ人」という言葉が使われてきたと思いますが、国際社会ではそれはアルメニア人のことです。

 一九一五年当時、フランス・イギリス・ロシアの共同宣言では、この事件を
「人道と文明に対する罪」と呼んでいます。国際法上、人道に対する罪という言葉が用いられたのはこれが最初だとも言われています。ジェノサイドと人道に対する罪という二つの異なった概念は、登場した最初から共通性を持っていたのです。

 一九一九年にキャルソープ高等弁務官が責任者処罰が必要だと唱え、イギリス軍がトルコに進出して、トルコ人容疑者六七人を身柄拘束し、マルタ島に送りました。裁判のために協議が続けられ、一九二〇年のセヴル条約案では戦争犯罪条項がつくられました。しかし、ナショナリズムに燃えるトルコ側の反発が激しくなり、イギリスは一九二一年にトルコと捕虜交換協定を結び、六七人は釈放されました。一九二三年のローザンヌ条約では恩赦が決定され、責任者処罰は実現しませんでした。一部の犯罪者がトルコのイスタンブール裁判所で裁かれるにとどまりました。その裁判でも人道に対する罪を裁くということが意識されていました(前田朗「ヴェルサイユからローマへ(二)」Let’s四六号)

 アルメニア・ジェノサイドについて、いくつか確認しておきましょう。
1.最初のジェノサイドです。もちろん歴史的には古くから大虐殺がありますが、ジェノサイドという考え方に直接の関連を持った最初の事件です。二十世紀最初のジェノサイドです。
2.当時すでに重大犯罪として処罰が要請されました。実際の処罰は不十分でしたが、当時から処罰するべき重大犯罪でした。
3.戦争の混乱は弁解にはなりません。トルコは今でも、アルメニア人の被害事実はあるが、戦争の混乱の中で起きた悲劇だと弁解しています。トルコ人も苦労したのだと言います。
アルメニアも、フランスやアメリカもこの弁解を認めていません。
4.九〇年たってもフランス議会やアメリカ議会で議論が行われています。トルコ政府が責任を認めず、弁解を繰り返しているからです。ただし、フランス議会などで議論が行われているのは、トルコのEU加盟問題との関係で、トルコに圧力を加える政治目的と言う面もあります。
5.アルメニア人の努力も指摘しておく必要があります。フランス議会を動かしたのは亡命アルメニア人です。もしアルメニア人に会えば、「朝鮮人はなぜこんなに淡白なのか」と質問されるかもしれません。戦争犯罪やジェノサイドには時効がありません。人道に衝撃を与えるような重大かつ深刻な犯罪は適切に扱う必要があります。

Subject: [AML 24243] パレスチナ・ジェノサイドを考えるために(2)−2

前田 朗です。

2月12日


第2回です。

******************************


レムキンの提案

 ポーランドの刑法学者ラファエル・レムキンは、すでに一九三〇年代に国際刑法の分野で、重大な虐殺を特別な犯罪として処罰するための議論を展開していました。ところが、ナチス・ドイツがポーランドを支配したので、ユダヤ人であったレムキンはアメリカに亡命します。そして、一九四四年に、アルメニアやナチスのユダヤ人虐殺を念頭において、ジェノサイドという犯罪類型を考えました。
レムキンは、国際社会がアルメニア・ジェノサイドに適切に対処していれば、ナチスの犯罪を防げたのに、と考えたといいます。

第二次大戦後、国連ができると、レムキンは国連に乗り込んでジェノサイド条約の制定を推進しました。レムキンはジェノサイドを次のように定義しました(以下詳しくは前田朗『ジェノサイド論』青木書店)。

 「国民集団の生命の本質的基礎を、その集団自体を全滅させようとして、破壊しようとするさまざまの行為の連結した企図。その企図の目的は、国民集団の文化や、言語、国民感情、宗教、経済の存在を解体したり、その集団に属する個人の人身の安全、自由、健康、尊厳や生命を破壊することである。ジェノサイドは、統一体としての国民集団に向けられ、その行為が個人に向けられるのは、その個人の特性によるのではなく、その国民集団の一員であることによる。」

 これが初発の定義です。さらに、レムキンは、ジェノサイドのカテゴリー定義として、次のような要素を列挙しています。

とらわれた人々の生活のさまざまの面に向けられた共時的な攻撃

政治領域:自己の政府制度の破壊、ドイツ流の統治の押し付け、ドイツによる植民地化

社会領域:国民の社会的統合の分裂、精神的指導を与える知識人などの殺害や移動

文化領域:文化施設や文化活動の禁止と破壊、教養教育の取替え

経済領域:ドイツ人への富の移動、通商の禁止

生物領域:人口減少政策、占領地域におけるドイツ人生殖促進

身体存在:非ドイツ人飢餓政策の導入、ユダヤ人、ポーランド人、スロヴェニア人、ロシア人の大量殺害

宗教領域:教会活動の妨害

道徳領域:ポルノ出版物や映画を通じた道徳低下の試み

 レムキンの提案には、後にまとめられたジェノサイド条約と大きく違う点があります。文化、宗教、道徳を重視していることです。物理的生物学的に民族を抹殺することだけではなく、民族の文化や宗教を奪うことによって、結果として民族を抹殺することもジェノサイドの典型だと考えたのです。ですから、学校教育の組み換え、図書館利用の禁止、新聞の停止などによって、その民族の言葉を奪って、別の言葉を押し付けることも、レムキンの考えでは、ジェノサイドの要素なのです。日本の朝鮮植民地政策が何であったのかも、ジェノサイドの観点で見直す必要があります。

ジェノサイドの定義

 国連は一九四六年から一九四八年にかけてジェノサイド条約を準備しました。
一九四八年一二月に条約ができ上がりましたが、その議論の過程で、文化ジェノサイドについては、犯罪の成立要件を明示することは難しいと考えられたため、ジェノサイド概念は主に物理的ジェノサイドと生物学的ジェノサイドを中心に整理されました。レムキンのジェノサイド概念とはやや異なることになります。
ジェノサイド条約第二条はジェノサイドを次のように定義しています。

国民、民族、種族または宗教集団の全部または一部を破壊する意図をもって、次に掲げる行為を行なうこと

a 集団の構成員を殺害すること

b 集団の構成員に対して、重大な身体的または精神的な害悪を加えること

c 集団の全部または一部についてその身体の破壊をもたらすことを意図した集団生活の条件をことさらに押し付けること

d 集団内の出生を妨げることを意図した措置を課すこと

e 集団の子どもを他の集団に強制的に移転すること

 以上の五類型がジェノサイドと決まりました。注意してほしいのは、ジェノサイドは「集団殺害」ではないということです。従来、集団殺害という訳語が用いられてきましたし、私もこの訳語を使うことがあります。しかし、ジェノサイドは、殺害以外に、心身の害悪を加えることや、子どもを強制移転することなども含みます。一九四八年の定義が、一九九八年の国際刑事裁判所規程にも引き継がれたので、今も同じ定義が採用されています。国際法におけるジェノサイドの定義は確定したと言えます。

戦争犯罪やジェノサイドを裁くために設立された国際刑事裁判所の締約国会議において承認された『犯罪の成立要素』は、例えば、aの「殺害によるジェノサイド」について次のように示しています。b〜eについては省略します。

第六条a 殺害によるジェノサイド

1 実行者が、一人または複数の人を殺した。

2 その一人または複数の人が、特定の国民、民族、種族または宗教集団に属していた。

3 実行者が、その国民、民族、種族または宗教集団をそれ自体として全部または一部を破壊することを意図した。

4 実行行為が、その集団に対して向けられた明らかに同様の行為のパターンの文脈で行なわれた。または、その行為が、それ自体、そうした破壊をもたらしうるものであった。

 さらに、ジェノサイド条約第三条は、処罰すべき行為を次のように明示しています。

a ジェノサイド

b ジェノサイドの共同謀議

c ジェノサイドの直接かつ公然たる教唆

d ジェノサイドの未遂

e ジェノサイドの共犯

 ジェノサイドそのものが五つの行為類型からなっているのに加えて、共同謀議、教唆、未遂、共犯も処罰されるべきだというのです。まず、「ジェノサイドの直接かつ公然たる教唆」とあるのに注意してください。

 教唆とは、他人をそそのかして犯罪を実行させることです。一般には、ひそかに教唆することも含まれますが、ジェノサイドの教唆は「直接かつ公然たる教唆」に限られます。そそのかしたことで、相手が初めて特定の犯罪を実行することを決意することが必要です。もともと犯罪を行うつもりだった人にそそのかしても教唆にはなりません。それは従犯(幇助犯)です。実際には教唆と幇助が同時並行的に行われることがあります。いずれにせよ、教唆か幇助を行えば犯罪です。

 次にeに「共犯」とあります。「共犯」には教唆や従犯が含まれるので、cの
「直接かつ公然たる教唆」と重複するように見えます。
Subject: [AML 24244] パレスチナ・ジェノサイドを考えるために(2)−3

前田 朗です。
2月12日

****************************

コリアン・ジェノサイド

 以上のジェノサイド概念に照らして、コリアン・ジェノサイドについて考えていきましょう。私の見解では、コリアン・ジェノサイドを考えるには、少なくとも、1.植民地朝鮮におけるジェノサイド、2.関東大震災ジェノサイド、3.第二次大戦後における在日朝鮮人弾圧、をそれぞれ検討する必要があります。しかし、ここでは関東大震災ジェノサイドに限定して話を進めます。

 第一に、ジェノサイドは、実行者が「特別の意図」をもって客観的行為を行ったことが必要です。特別の意図とは「国民、民族、種族または宗教集団を全部または一部を破壊する意図」です。これは通常の犯罪のメンズ・レア(主観的要素)とは異なります。通常の犯罪のメンズ・レアは、「事実」を知っていたことです。殺人罪であれば、「自分が生きている人を殺そうとしていると知りながら、その人を殺すための行為をしようと決意する」ことです。ジェノサイドでは、「事実」を知っていたことに加えて、「特別の意図」を持っていたことを必要とします。「破壊」は身体的物理的破壊を意味しています。文化ジェノサイドを除外する含意をもっているからです。

関東大震災朝鮮人虐殺時に、朝鮮人集団、在日朝鮮人集団の全部または一部を破壊する意図があったか否かが問題になります。鈴木という日本人が、日頃から個人的に恨みを持っていた李という朝鮮人を殺しても、ジェノサイドではなく、殺人罪です。鈴木が、朝鮮人一般を憎んで、朝鮮人迫害のさなかに、李が朝鮮人であるが故に、李を殺せば、ジェノサイドです。

 ルワンダにおけるツチ虐殺を裁いたアカイェス事件ICTR一審判決は、特別の意図とは「実行者が、訴追された犯罪を引き起こす明白な意図をもっていた」
ことを要するとしています。実行者は特別の意図を持って客観的行為を行った場合にだけ責任を問われます。ICTRとはルワンダにおけるツチ虐殺を裁くためにつくられたルワンダ国際刑事裁判所です。

 それでは、実行者が「そんな意図はなかった」と言い張れば、ジェノサイドが成立しないのでしょうか。

クリスティン・バイロンの論文「ジェノサイドの罪」(ドミニク・マッゴルリック、ピーター・ローウェ、エリック・ドネリー編集『常設国際刑事裁判所−−法律問題と政策問題』)は、「破壊する意図は被告人の行為から推認できるか」と問いを立てています。多くの学者の論文でも、国際法廷であるICTRやICTY(旧ユーゴスラヴィア国際法廷)の判決でも、この問いには肯定の答えが出されてきました。実行者の自白がなければ特別の意図を認定できないことになってしまっては、ジェノサイドはほとんど成立しないことになってしまうからです。とはいえ、検察官が被告人に特別の意図があったことを合理的な疑いを超えて立証しなければならないので、こうした意図が推論できるのは補強証拠が十分に存在する場合だけということになります。

少し複雑な話になってきましたが、自分が、どのような状況でどのような位置にあって何をしようとしているのかを知りながら、特定の集団の一員を殺す決意をしたとすれば「特別の意図」があったと認定できることになります。

関東大震災時の日本内務省や、殺人実行にかかわった日本人の中に、朝鮮人に対する差別を基礎とした、迫害、排除、破壊の意図があったことを確認することは、客観的証拠、状況証拠によって可能となるはずです。補強証拠は十分といえるでしょう。

 第二に、「集団の構成員を殺害すること」について見ておきましょう。特定の集団の構成員を、その構成員であると認識し、集団の全部または一部を破壊することを意図して殺害することです。多数の構成員を殺害したことを必要としません。ジェノサイドがしばしば「集団虐殺・大量虐殺」と訳されるために誤解されがちですが、個人の刑事責任としての犯罪の成立要件としては、一人殺せば足ります。実際に一人の殺害でジェノサイドの認定が行なわれることはまれでしょうが、多数の犯行者によるジェノサイドが行なわれている状況で、同じ意図をもって一人殺害すれば、理論的にはジェノサイドが成立します。

 関東大震災朝鮮人虐殺は、非常に広範囲にわたって実行されました。それぞれの実行犯には全体状況がどうなっていたかの認識が十分になかったかもしれません。相互の連絡があったわけでもないでしょう。しかし、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマ宣伝が上から組織的に行われたことによって、互いに知り合いでもない多くの人々が、類似の状況で類似の社会心理を持たされ、朝鮮人に対する迫害行為に出ることになったのです。わざわざ朝鮮人を探して、朝鮮人であるという理由だけで殺しました。一人ひとりの実行犯が「殺害によるジェノサイド」を犯したと考えられます。

 第三に、ジェノサイドの直接かつ公然の教唆です。石田貞さん、山田昭次さん、梓澤和幸さん、三人のご報告が既に十分明らかにしたように、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」の類のデマ宣伝は、内務省から県へ、県から市町村へ、市町村から自警団へと伝達されたのです。大震災で混乱し、騒然としている状況において、デマ宣伝が果たした役割は非常に大きなものがありました。人々を恐怖に陥しいれ、反朝鮮人感情を爆発させ、結果として各地で朝鮮人虐殺が発生したのです。

 以上のことから、次の帰結を導くことができます。1.関東大震災朝鮮人虐殺は、上からのデマ宣伝によって、つまり「直接かつ公然たる教唆」によって、組織的意図的に惹き起こされたジェノサイドです。デマ宣伝に加担した者には、ジェノサイドの直接かつ公然の教唆という犯罪が成立します。2.虐殺に手を染めた実行犯のそれぞれにジェノサイドの犯罪が成立します。殺害によるジェノサイドです。ジェノサイドは未遂や共犯も処罰されるべき犯罪です。3.ジェノサイドの教唆と、ジェノサイドは、ともに、個人ではなく、組織としての日本政府の犯罪が中核にあります。個人によるジェノサイドも犯罪ですから見逃せませんが、最大の犯罪者は日本政府です。

ジェノサイドは終わったか

 関東大震災は一九二三年の出来事です。八五年の歳月が流れました。それでは関東大震災ジェノサイドは終わったのでしょうか。

関東大震災ジェノサイドの真相解明はなされたでしょうか。それどころか、日本政府は事実を隠蔽し、真相解明を妨げてきました。被害者への謝罪も補償もしていません。形だけ自警団メンバーの裁判を行いましたが、真の責任者を明らかにしていません。裁きも不十分で事実認定は歪曲され、量刑も著しく軽いものでした。それどころか、愛国心ゆえの犯行だったなどと弁解をしています。責任者処罰がなされたとはとても言えません。ですから、再発防止の努力もなされていません。民間ではさまざまな努力が積み重ねられてきましたが、日本政府はサボタージュあるのみです。

関東大震災ジェノサイドは、何一つ終わっていないのです。しかも、冒頭に見たように、石原都知事は差別の煽動を公然と行っています。日本政府は石原発言を擁護しています。

事実を認めず、隠蔽し、石原都知事発言のように逆転した発言を続けることは、次の不安と危険を呼び覚まします。ドイツにおいてユダヤ人虐殺を否定する「アウシュヴィッツの嘘」発言が新たなユダヤ人差別であり、犯罪とされていることはよく知られています。エクスター大学のキャロライン・フォーネットの著作
『破壊犯罪とジェノサイドの法』(アシュゲート出版)は、実際にジェノサイドがあった事実を否定する「ジェノサイドの否定」について論じています。「否定は、犯罪実行者にとって防御機制となります。防御はすべてのジェノサイドにおいて現に用いられています。言い換えると、ジェノサイドの否定は今やおきまりとなっているのです」。フォーネットは、ジェノサイドの否定が次のジェノサイドの教唆につながる恐れを指摘し、ジェノサイドの否定が被害者に対する精神的加害となると指摘しています。

終わっていないのは関東大震災だけではありません。コリアン・ジェノサイドは終わっていません。朝鮮半島に対する植民地支配、朝鮮人差別、数々の弾圧と虐殺の真相は解明されず、責任も明らかにされていません。

戦前だけではありません。例えば、阪神教育闘争事件とは何だったのでしょうか。阪神教育闘争事件は、一九四八年に起きた単発の事件として理解することはできません。朝鮮植民地支配の残滓であり、朝鮮人差別の繰り返しです。その後の朝鮮人弾圧と差別の予告でもありました。

いまもなお続く朝鮮人差別と歴史の偽造も指摘しておかなければなりません。朝鮮半島をめぐる政治的緊張のたびに、日本社会では「チマ・チョゴリ事件」に象徴される差別と犯罪が繰り返されています。社会で時たま起きる事件ではありません。日本政府が再発防止の努力を行わず、それどころか、最近の滋賀朝鮮学校事件を始めとする朝鮮総連関連施設弾圧事件のように、日本政府こそが率先して朝鮮人差別の犯罪を行っているのです。

世界史の中で考えよう

 関東大震災朝鮮人虐殺をジェノサイドとして理解することは、事件を世界史の中で考えることです。

レムキンがジェノサイド概念を構築したとき、念頭にあったのは一九一五年のアルメニア・ジェノサイドと、一九三〇年代からのナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺でした。レムキンは、なぜ一九二三年の関東大震災に言及していないのでしょうか。――知らなかったからです。国際社会でコリアン・ジェノサイドは語られていません。

今日でも世界各地でジェノサイド、人道に対する罪が繰り返されています。規模や原因はさまざまですが、世界各地で悲劇が続いています。歴史を振り返れば、スターリンの大粛正、日本軍の三光政策・無人区政策、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下、朝鮮戦争における国連軍の犯罪、ベトナム戦争・北爆・枯葉剤作戦、カンボジアのポルポト派による大虐殺、旧ユーゴスラヴィアの「民族浄化」、ルワンダのツチ虐殺、東ティモール独立をめぐる内戦による虐殺、スーダンのダルフール・ジェノサイド、そしてアフガニスタンとイラクで続いている戦争における膨大な民間人被害――コリアン・ジェノサイドは、これらと同じ文脈で語られなければなりません。

 歴史のはざまで数々の悲劇が起きてきました。この悲劇は自然災害ではありません。人為的な犯罪は防ぐことができます。ジェノサイドをいかにして防ぐのか。そのための議論はいまだに十分になされていないのではないでしょうか。石田貞、山田昭次、梓澤和幸報告が突きつけているのは、コリアン・ジェノサイドにきっちり決着をつけて、二度と起きないようにする課題です。八五年も昔の物語ではなく、今なお私たちが向き会わなければならない未決の課題なのです。

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[6331]【資料】続パレスチナ・ジェノ...
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 とほほ E-MAIL  - 09/2/17(火) 9:51 -

引用なし
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   続きです。転載します。
Subject: [AML 24396] パレスチナ・ジェノサイドを考える(4)−1

前田 朗です。

2月16日

ガザにおけるイスラエルの戦争犯罪は非常にわかりやすいと思いますが、そもそも戦争犯罪とは何かをご存じない方には、どう考えたらよいのか疑問も残るかもしれません。

戦争犯罪とは、国際慣習法に対する重大な違反や、ハーグ条約やジュネーヴ条約違反を言いますが、今日では国際刑事裁判所規程第8条に詳しく定められています。イスラエルによるガザ攻撃の中で数々の戦争犯罪が行われていますが、主なものは、民間人攻撃、無差別爆撃です。

民間人攻撃による戦争犯罪について、下記に私見を貼り付けます。これは2006年7月に広島で開催された「原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島(2006年7月15・16日、メモリアルホール(平和公園内))における私の証言「原爆投下の違法性について」の一部です。原爆投下の戦争犯罪論ですが、原爆に特有の部分を除けば、そのほかの戦争犯罪にも応用できます。2回に分けて投稿します。

なお、イスラエルによる戦争犯罪には、下記に示したもの以外にも、宗教施設攻撃や医療機関攻撃、赤十字攻撃などもあります。更に、占領法規違反の数々も。

************************************

六 戦争犯罪

 東京裁判条例第五条ロの戦争犯罪は、戦争法規慣例違反を意味している。そして、起訴状はハーグ規則の三つの条項を掲げている。

ハーグ規則第二三条a(イ) 毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト

ハーグ規則第二三条e(ホ) 不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト

ハーグ規則第二五条 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。

 起訴状はこれらに加えて、ジュネーヴ毒ガス議定書、空戦に関する規則案第二四条を掲げている。

 本証言に求められているのは、起訴状記載の罪名に関する検討を行なうことだが、その検討とともに、本証言では、戦争法規慣例の基本をなすと考えられる、故意による殺害、民間人攻撃、民用物攻撃の成立要素についての検討を行なう。
ニュルンベルク裁判条例第六条(b)の例示を参考にする。これらの罪の成否について検討することは、起訴状記載の罪名についての検討と密接不可分につながりを有するし、後の人道に対する罪の検討に際しても同様のことが言える。

1 故意による殺害

 第一に、故意による殺害である。「民間住民または占領地住民の殺人」である。ハーグ規則には「民間住民または占領地住民の殺人」が含まれていない。しかし、ニュルンベルク裁判条例第六条(b)は「民間住民または占領地住民の殺人」を戦争法規慣例違反の代表例として掲げている。ニュルンベルク裁判条例と東京裁判条例とは同じ意味内容を有しているという本証言の前提からすると、故意による殺害の成否の検討を行なわないわけにはいかない。

 民間住宅地を含む地域に原爆を投下すれば、民間住民に被害を生じることは誰もが予見しうる。原爆投下が故意による殺害にあたることは議論の余地がない。

 念のため、ICC規程第八条の戦争犯罪の諸規定を解釈するために作成された『ICC犯罪の成立要素』(二〇〇二年、ICC締約国会議)を引用する(6)。

第八条第二項a(I) 戦争犯罪としての故意による殺害

1. 実行者が、一人以上の人を殺した。

2. その一人以上の人が、一九四九年のジュネーヴ諸条約の一つ以上で保護されていた。

3. 実行者が、その保護された地位を決定づける事実条件を知っていた。

4. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

5. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。

 2.には「一九四九年のジュネーヴ諸条約によって保護された者」とある。一九四九年ジュネーヴ諸条約は極東京裁判よりも後の条約だが、しかし、民間人が保護される対象であったことは第二次大戦以前から変わっていない。また、「国際的武力紛争」という表現も、当時の言葉では「戦争」と読み替えることになる。
つまり、実行者が、戦争の文脈で、かつそれと結びついて、国際法上保護された民間人を、民間人であると知りつつ、殺したことが成立要件となる。広島・長崎への原爆投下が、これに当たることは言うまでもない。

 本証言において『ICC犯罪の成立要素』を引用したのは、今日の水準における戦争犯罪を当時に当てはめて適用するためではない。原爆投下が当時の戦争法規慣例違反に該当したことは『ICC犯罪の成立要素』を引用するまでもなく明らかなことである。本証言において『ICC犯罪の成立要素』を引用するのは、原爆投下が当時の戦争法規慣例違反に該当することを確認すると同時に、今日の解釈水準から見ても同じことが十分に裏付けられることを誰の目にも明らかにするためであり、それ以外の目的を有するものではない。


2 民間人攻撃

第二に、民間人攻撃そのものである。ハーグ規則には「民間人攻撃」とは明記されていないが、ハーグ規則の基本原則である<軍事目標主義>は、民間人攻撃を禁じている。そして、ハーグ規則第二五条は無防守都市攻撃を禁止している。これは民間人攻撃の禁止を意味している。民間人攻撃について、『ICC犯罪の成立要素』は次のように規定している。

第八条第二項b(I) 戦争犯罪としての民間人攻撃

1. 実行者が、攻撃を指令した。

2. その攻撃目標が、民間住民、または敵対行為に直接参加していない民間の個人であった。

3. 実行者が、民間住民、または敵対行為に直接参加していない民間の個人を攻撃目標にしようと意図した。

4. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

5. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。

 広島・長崎への原爆投下が、広島・長崎に居住する数十万の民間人に対する攻撃を意味することも議論の余地がない。広島・長崎の数十万の民間人が「敵対行為」に参加していたとはいえない。それゆえ、原爆投下が「戦争犯罪としての民間人攻撃」に該当する。
Subject: [AML 24397] パレスチナ・ジェノサイドを考えるために(4)−2

3 都市町村の恣意的破壊

 第三に、「都市町村の恣意的破壊」である。また、「軍事的必要性によっては正当化されない破壊」も問題となる。ここでもニュルンベルク裁判条例第六条の例示が重要である。

 原爆投下が、広島・長崎という都市を恣意的に破壊する行為であることにも議論の余地がない。もっとも、「恣意的」であるか否かは、なお検討の余地がある。『ICC犯罪の成立要素』のうちでこれと関連するのは次の箇所である。

第八条第二項b(ii) 戦争犯罪として民用物攻撃

1. 実行者が、攻撃を指令した。

2. その攻撃目標が、民用物、すなわち軍用物でない物であった。

3. 実行者が、その民用物を攻撃目標にしようと意図した。

4. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

5. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。

第八条第二項b(xiii)  戦争犯罪としての敵側の財産の破壊または接収

1. 実行者が、一定の財産を破壊または接収した。

2. その財産が、敵側の財産であった。

3. その財産が、武力紛争に関する国際法で破壊または接収から保護されていた。

4. 実行者が、その財産の地位を決定づける事実条件を知っていた。

5. 破壊または接収が、軍事的必要性から正当化されなかった。

6. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

7. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。

 誰が考えても、原爆投下はこれに当たるだろう。

4 軍事的に不必要な過剰な死の惹起

 <軍事目標主義>と<不必要な苦痛を与える兵器の使用禁止>を交錯させた東京地裁判決の論理にやや類似した形で、「軍事的に不必要な過剰な死の惹起」がある。

第八条第二項b(iv) 戦争犯罪としての過剰で付随的な死、負傷、または損害

1. 実行者が、攻撃を始めた。

2. その攻撃が、民間人の付随的な死または負傷、民用物の損害を引き起こし、または自然環境に広範、長期かつ重大な損害を引き起こし、かつ、その死、負傷または損害が、具体的かつ直接的な予期された軍事的優位全体との関連で、明らかに過剰な程度のものであった。

3. 実行者が、その攻撃が、民間人の付随的な死または負傷、民用物の損害、または自然環境に広範、長期かつ重大な損害を引き起こすことを知っていた、およびその死、負傷または損害が、具体的かつ直接的な予期された軍事的優位全体との関連で、明らかに過剰な程度のものとなることを知っていた。

4. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

5. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。


 その攻撃が必然的に無用の死傷や破壊をもたらす攻撃、必然的に「付随的損害」を生じる攻撃は戦争犯罪である。原爆投下はこれにも当たる。

5 無防備都市の攻撃

第八条第二項b(v)  戦争犯罪としての無防備な場所攻撃

1. 実行者が、一つ以上の都市、村落、居住地または建物を攻撃した。

2. その都市、村落、居住地または建物が、無抵抗の占領に無防備であった。

3. その都市、村落、居住地または建物が軍事目標ではなかった。

4. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

5. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。

 ここでの無防備都市は「占領に無防備」という文脈なので、広島・長崎に直接適用できるか否かはなお検討が必要だが、他の条項とあわせて戦争犯罪の基本的な考え方を明らかにすることに役立つ。

6 非人道的な兵器の使用

第八条第二項b(xvii)  戦争犯罪としての毒または毒性のある兵器の使用

1. 実行者が、ある物質、またはその使用の欠陥としてある物質を放出する兵器を使用した。

2. その物質が、有毒の特性により、通常の過程において、死を引き起こし、または健康を重大に損うものであった。

3. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

4. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。

第八条第二項b(xviii) 戦争犯罪としての禁止されたガス、液体、物質または装置の使用

1. 実行者が、ガス、またはその他の類似した物質もしくは装置を使用した。

2. そのガス、物質または装置が、窒息性または有毒の特性により、通常の過程において、死を引き起こし、または健康を重大に損なうものであった。

3. 実行行為が、国際的武力紛争の文脈で、かつそれと結びついて行われた。

4. 実行者が、武力紛争の存在を決定づける事実条件を知っていた。

 以上の成立要素を見れば、それだけで原爆投下が戦争犯罪であったことを理解できる。その際に、<軍事目標主義>や<不必要な苦痛を与える兵器の使用の禁止>という原則を思いおこしながら見ていく必要がある。

 戦争犯罪についての結論をまとめておこう。広島・長崎への原爆投下は、故意による殺害、民間人攻撃、都市町村の恣意的破壊、軍事的に不必要な過剰な死の惹起に当たり、戦争法規慣例違反である。従って、東京裁判条例第五条ロの戦争犯罪に当たる。さらに、広島・長崎への原爆投下は、非人道的な兵器の使用に当たり、戦争法規慣例違反である。従って、東京裁判条例第五条ロの戦争犯罪に当たる。
前田 朗です。

2月16日

イスラエルによるパレスチナにおける犯罪には、数々の「人道に対する罪」も含まれると考えられます。

人道に対する罪(日本政府の翻訳は「人道に対する犯罪」)とは何かについては、前田朗『戦争犯罪論』(青木書店)および『民衆法廷の思想』(現代人文社)において論じましたが、最近のものでは、日本の戦争責任資料センターのミニコミ「Let‘s」にも書きました。その一部を下記に貼り付けます。

人道に対する罪には、殺人、せん滅のほかにも、迫害、アパルトヘイト、その他の非人道的行為などがあります。イスラエルも複数の人道に対する罪を犯しているというべきですが、下記ではその一部にしか言及していません。考え方の参考として投稿します。

*********************************

三 成立要素

1 基本性格

人道に対する罪の解釈は、かつてはニュルンベルク憲章・判決、その他の各国における裁判判決などに基づいて議論されてきたが、一九九〇年代にはICTYおよびICTRの多数の判決、さらにはICC設立に向けた国際的議論の高まりの中で、詳細な解釈が示されるようになった。

 クレア・ド・ザンとエドウィン・ショートは、人道に対する罪の基本性格を、その形成過程および既存の国際法廷における法適用の両面から明らかにする。以下、ド・ザンとショートの見解に依拠して考える(8)。

 人道に対する罪と呼ぶべき犯罪には数百年の歴史があるが、国際的な処罰の試みは、一九〇七年の陸戦法規慣例に関するハーグ条約の「マルテンス条項」に始まり、一九一五年のトルコによるアルメニア・ジェノサイドについて一部実現したものの、当時は国際法による個人処罰は共通に受容されていなかった。ヴェルサイユ条約による処罰の試みも成果を得ることがなかった。特に国内で行われた民間住民に対する虐殺などは、基本的には国家主権原理のうちにあると理解されていた。国際法による個人処罰の前進は、ニュルンベルク憲章・裁判と管理委員会規則第一〇号裁判であった。それ以後、人道に対する罪の個人処罰は国際慣習法となった。

 とはいえ、長い間、人道に対する罪の責任を追及するための条約が存在しなかった。人道に対する罪の定義は、ICTY規程とICTR規程によってなされた。ニュルンベルク憲章では、人道に対する罪は武力紛争と結びついて行われる必要があったが、管理委員会規則第一〇号ではその結びつきが不要とされていた。ところが、ICTY規程第五条は、武力紛争時に行われた人道に対する罪のみを処罰することにした。これは逆行と見るべきであろうか。そうではない。
ICTYとICTRは、特別のアド・ホックな法廷であり、特定の状況に対応して設置されたため、管轄権が時間的にも場所的にも制約されている。ICTYとICTRにおける人道に対する罪の本質要素は次の通りである。

1.実行者が、その行為によって、重大な心身の苦痛を惹起しなければならない。

2.当該行為が、広範又は組織的な攻撃の一部でなければならない。

3.攻撃が文民たる住民に対してなされたものでなければならない。

4.当該行為は差別的理由に基づくものでなければならない(ICTRにはこの要素はない)。

5.実行者には、意図と、犯罪が行われている広範な文脈の認識がなければならない。


武力紛争

 国際慣習法には武力紛争要件はなく、人道に対する罪は平時にも行われるが、ICTY規程第五条は武力紛争要件を定めている。タディッチ事件控訴審判決(一九九九年七月一五日)によると、武力紛争は国家間だけのものではなく、国内における政府と武装勢力の間の武力紛争や、国内における武装勢力間の武力紛争も含まれる。ICTY規程第五条は武力紛争が存在することだけを必要としているので、犯罪が武力紛争時に行われたことだけが必要である。武力紛争要件は、犯罪のメンズ・レア(主観的要素)ではなく、管轄権に関する要素である。

攻撃

 ICC規程第七条第二項は次のように述べる。

(a)「文民たる住民に対する攻撃」とは、そのような攻撃を行うとの国若しくは組織の政策に従い又は当該政策を推進するため、文民たる住民に対して1に掲げる行為を多重的に行うことを含む一連の行為をいう。

 クナラッチ事件判決(二〇〇一年二月二二日)によると、攻撃要素は、次のように示されている。攻撃がなければならない。実行行為がその攻撃の一部でなければならない。攻撃が文民たる住民に向けられていなければならない。攻撃が広範又は組織的でなければならない。実行者が、自己の行為が行われている文脈を知り、自己の行為が攻撃の一部であることを知っていなければならない。判決は「暴力行為の実行を含む一連の行為」としての攻撃を取り上げている。ICC規程第七条も同様の規定をしている。「一連の行為」とは、一定の時間に数多くの行為が行われたことであり、単独の行為は含まれない。しかし、攻撃が文民たる住民に対する広範又は組織的な作戦の一部である場合、個人に対する単発の暴力行為も人道に対する罪となる。攻撃は必ずしも積極的物理的攻撃とは限らない。
収容政策、アパルトヘイト、追放、差別は、暴力的でない行為のこともありうる。

広範又は組織的な攻撃

 ICTY、ICTRおよびICC規程のもとでは、集団が破壊されたことは必要ではなく、広範又は組織的な暴力政策がとられたことで足りる。ICTR規程第三条やICC規程第七条と違って、ICTY規程第五条には「広範又は組織的な」という言葉がないが、これは必要な要素である。アカイェス事件判決(一九九八年九月二日)によると、大きな、数多くの、大規模行為が多数の被害者に向けられたことが必要である。

 人道に対する罪は通常は国家やその他の組織集団によって行われる。政府の政策や計画によらない自然発生的行為は人道に対する罪には当たらないように見える。ただし、政策が決定的要素であるか否かは、未解決の問題である。コルディチ事件判決(二〇〇一年二月二二日)は、計画や政策の存在を不可欠と見ているが、クルノジェラッチ事件判決(二〇〇二年三月一五日)は、政策や計画は国際慣習法上の要素ではないとしている。

文民たる住民

 軍隊と文民たる住民の区別は国際慣習法では確立している。文民たる住民とその財産は、紛争時における害悪から保護されなければならない。一九七七年のジュネーヴ諸条約第一追加議定書第四八条以下の諸規定が、保護を定めている。
ICTY規程第五条は、人種、国籍、宗教などにかかわりなく、文民たる住民に対する犯罪としているが、ICTR規程第三条は、文民たる住民は国民、政治、民族、人種又は宗教的理由、それゆえ差別的理由で攻撃されたことを要するとしている。文民には非戦闘員だけではなく、もはや敵対行為にかかわらなくなった元戦闘員も含まれる。

民族浄化

 人道に対する罪と民族浄化の関連も問題となる。両者を同じ意味で用いる例も散見されるが、民族浄化を人道に対する罪の一部とみなす例も見られる。

 アレクサンダー・ザハールとゲラン・スルイターは、その著作の第二部第五章で「人道に対する罪の増加と『民族浄化』の法典化」を取り上げている(9)。
人道に対する罪の国際法についての基礎的な解説を加えるとともに、人道に対する罪の発生の増加、その裁判と判決の増加、そして「民族浄化」問題という現代的状況をふまえて議論を行っている。議論のかなりの部分は、現代国際刑法におけるICTYの位置づけにある。ICTYが、ICTRやICCとどこまで共通であり、どの程度異なるのかである。

 ザハールとスルイターは、「最近の人道に対する罪の法の歴史は、一九九七年五月のタディッチ事件判決から始まる。この法と事案への適用は、その時以来、アドホックな裁判所によって数百の訴因が検討されたことにより、他の犯罪カテゴリーよりもずっと多くの、膨大な司法的関心を手にしてきた。『民族浄化』概念は――単に技術的にではなく、ユーゴスラヴィア戦争の結果と目的の一般的性格にふさわしいのだが――人道に対する罪の法に概念的本拠地を見出す。というのも、迫害と同義語だからだ」と始め、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ルワンダ、東ティモール、シエラレオネ、ダルフールの武力紛争において、同じことが続いているとする。それゆえ、タディッチ事件判決の到達点と限界を解明する手法がとられている。
Subject: [AML 24400] パレスチナ・ジェノサイドを考えるために(5)−2

2 主観的要素

 人道に対する罪のメンズ・レア(主観的要素)には論争がある(10)。

カッセーゼは、主観的要素に関する重要判例として、イギリス占領地におけるドイツ最高裁判所、フィンタ事件におけるオンタリオ控訴裁判所とカナダ最高裁判所、バルビー事件とトゥビエ事件におけるフランス憲法裁判所などの判決を検討している。焦点となるのは、人道に対する罪の故意は、人道に対する罪としての殺人の故意やせん滅の故意を指すのか、それとも、人道に対する罪の客観的要素でもある状況の認識を必要とするのかである。つまり、自分の行為が広範又は組織的な実行の一部として行われていることの認識を必要とするかどうかである。
単に状況を認識していたか否か、さらにその状況と自分の行為との結びつきを認識していたか否か、である。判例によると、実行者には状況の認識および行為と状況の結びつきの認識が必要とされている。

 それゆえ、カッセーゼは、人道に対する罪の故意には、殺人やせん滅などの故意に加えて、特に残虐な性質を有することを認識していたことが必要であるとしている。1.広範、組織的な政策、あるいは大規模なといった広範な文脈の認識が必要である。2.殺人、せん滅などの実行行為についての認識が必要である。3.迫害の場合には、さらに、差別や虐待などの意図も必要である。

 一般の刑法では、犯罪の主観的要素には、故意以外に過失が含まれるが、人道に対する罪においては過失は問題とならない。

 最後に、カッセーゼによると、人道に対する罪の主観的要素には、実行者が人道に対する罪の法的定義を知っていたことは必要ない。自分の行為とその帰結に関する事実条件の認識で足りる。

 一方、ザンとショートによると、ICTY規程とICTR規程はメンズ・レアについて明確に規定していない。国際判例や国内判例によって解釈されてきた。
人道に対する罪のメンズ・レアには二つの内容が含まれる。1.第一に犯罪を行う意図であり、2.第二にその犯罪が行われる文脈についての認識、である。広範又は組織的な攻撃があるという認識だけでは足りない。実行者が、自己の行為がその攻撃の一部であるとの認識を有している必要がある。政策や計画を知っていて、その攻撃に関与することでリスクを容認したことが必要である。政策や計画に賛成していたことまでは必要ない。意図と認識が証明されれば、その背後にある行為者の動機は重要ではない。

 さらに、ザハールとスルイターによると、タディッチ事件判決は選択的な方法を採用している。アカイェスICTR事件判決も同様である(11)。迫害だけではなく、人道に対する罪のすべての犯罪が、一定の理由に基づく差別的意図を成立要素とするか否かである。ICTY規程は迫害については差別的意図があったことが必要と明示している。他方、ICTR規程は人道に対する罪のすべての犯罪について一定の差別的理由が必要であると明示しているが、ICC規程は迫害に限って差別的理由を明示している。

 ザハールとスルイターによると、カナダのフィンタ事件最高裁判決(一九九四年)は、人道に対する罪に必要な主観的要素は、通常犯罪に必要な主観的要素以上のものであるとしている。必要な追加要素とは、それが人道に対する罪となるような犯行の状況を知っていたこと、文民たる住民に対する攻撃と結びついている認識である。被告人が、人道に対する罪を犯しているとの認識(違法性の認識)は必要ないが、その状況を認識していたことは必要である。

3 客観的要素

 第一の客観的要素は「広範又は組織的な実行」である。

ニュルンベルク憲章以来、国内刑法も国際法もこの表現を採用している。人道に対する罪は大規模又は組織的な文脈のものでなければならない。国家によって、政府の政策として、あるいは一定の地域を領有している勢力によって行われたものが当たる。それゆえ、単独で行われた行為は、たとえ嫌悪すべき行為であっても人道に対する罪には当たらない。カッセーゼによると、ナチスの武装親衛隊裁判で、オランダ特別法廷は、人道に対する罪は大規模犯罪や広範なテロ犯罪であるとしている。イギリス占領地におけるドイツ最高裁判所もゲシュタポ事件裁判で同様の判示をしている。さらに、バルビー裁判とトゥビエ裁判において、フランス憲法裁判所が同様に述べている。

 政府による犯罪的政策が人道に対する罪になりうることについても、イギリス占領地におけるドイツ最高裁判所や、フィンタ事件におけるカナダ最高裁判所が確認している。

 第二の客観的要素は、アクトゥス・レウスとして掲げられた実行行為である。

ニュルンベルク憲章には六行為、ICC規程には一一の行為が列挙されている。
カッセーゼによると、これらに共通の特徴は、1.人間の尊厳に対する重大な衝撃を与えるような特にいやらしい犯罪であること、2.単独で行われた行為ではなく、政府の政策の一部として行われたような行為であることである。殺人、せん滅などの行為が、広範又は組織的な実行の一部として行われた場合に人道に対する罪の出発点に立つことになる。単独で行われた場合はこれに当たらないが、個人が行ったことでも、広範又は組織的に実行が行われているのに結びついてその一部を行ったものであれば人道に対する罪に該当する。実行行為は大きく二種類に分けられる。1.広範又は組織的に行われた基本的人権の重大な侵害が民間人に行われた場合、2.民間人であれ軍隊構成員であれ、宗教、人種、民族、政治的理由で行われた差別政策によって特定の集団に迫害が行われた場合、である。

殺人

 ザンとショートは、ICTYとICTRの判例をもとに、人道に対する罪の実行行為についての現在の法解釈を整理している。

 ICTR規程第三条は、英語ではmurderだが、フランス語ではassassinatとされている。これは異なる法体系の間での翻訳の困難さの例として知られる。コモン・ロー(英米法)では、殺人の主観的要素には、あらかじめ計画していたことが必要条件とはされていない。ところが、大陸法(フランス法やドイツ法)では、一般にあらかじめ計画していたことが必要条件とされている。カイシェマ・ルジンダナ事件判決(一九九九年五月二一日)は、「murderもassassinat も、起草者が明示したもので、ICTR規程によって要求されている主観的要素を確認するために、両者ともに考慮されるべきである。murderをassassinatと並べて考慮するならば、主観的要件の基準は、意図的であらかじめ計画された殺人である」としている。

せん滅(絶滅させる行為)

 ICC規程第七条第二項は次のように述べる。

(b)「絶滅させる行為」には、住民の一部の破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に課すること(特に食糧及び薬剤の入手の機会のはく奪)を含む。

 絶滅させる行為(せん滅)とは諸個人の集団の大規模破壊を意味し、破壊の規模に焦点が当てられ、単発の殺人事件とは区別されてきた。ICTY規程の解釈では、被告人が特定の人物の殺害に関与した。その作為・不作為が不法かつ意図的であった。不法な作為・不作為が広範な攻撃の一部であった。攻撃が文民たる住民に向けられていた。ICTR規程の場合は、攻撃が差別的理由に基づいていたことも必要とされる。

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