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拙サイト「南京事件の真実」の中文版(繁体字)を作ることになりました。拙サイトを読まれた南京市民の方が翻訳に当たっていただくことになり、現在、翻訳とHTML化の作業を続行中です。すでにベータ版として三編をupload済みです。
翻訳に至った経緯の詳細はむしろフージェンさんと私のmailのやりとりをご紹介した方が早いでしょう。彼にはmailの公開の許可をいただいたのでここに公開します。
フージェンさんからタラリへのmailその1
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タラリさん : わたしの名前はフージェンといいます。日本語がわかりますから、よくネットで日本のサイトを見たりしていました。昨日もグーグルで貴サイトを見つけました。はじめての時は「南京事件がうそだ」と主張しているサイトではありませんかと思って、落ち着いてじっくり貴サイトのご内容を拝見したら、ようやく自分が思い間違ったとわかりました。ほんとにすばらしいサイトです!日本人ながらもタラリさんはあんなにも熱心に事実を世間に伝えようとの偉い姿を見て、この私は正直にいえばとっても感動でした。
わたしは生まれ育ちの南京人です。自分のおじいの家族もあの事件のとき、南京にいました。おじいは1939年のうまれで、あのときはまだこの世にいませんでしたが、おじいの兄も、姉も、母も父も、あのときこの南京城に残っていました。わたしがまだ子供のごろも、おじいのお母さん(つまり自分の曾祖母)から戦争中のことをいろいろ聞かれました、でも四歳のとき曾祖母が亡くなって、今日になってわたしはもうなにも覚えてませんでしたが、おじいの兄も姉もまだ健康に生きていますから、私は大人になって(とはいってわたしは今年21歳です)まだかれだちから当時の事情を聞きました(おじいの兄は当時9歳、姉は12歳)、かれだちから自分の記憶と、長年親から聞かれましたことを、いろいろ聞きました。わたしは日本語を勉強する前、まだ小学生のごろは教育の影響を受けて、日本のことは仇だと思ってました(あのごろの歴史教育は多少とも反日教育がこめて、国語科にも反日の文章がたくさんありました。)でも改革開放につれて、わたしが中学生になった頃はもうすでにだんだん改善されました、教科書には「桜」とか「日本の驚くべき経済成長」とか「おいしい日本料理」とか、日本のよい面を表す文章が増えてきました。いまは日本人にとって非常識かもしれないですが、この南京の市民は反日の人が非常に少ないのです、それどころか、むしろ日本の先進の技術とか電気製品とかファッションとかから親日の人の方が多いかも知れません。わたしはあと日本語を勉強してから、よく日本側のこの事件に関する文章を見て、私も惑われました、ほんとにこの事件があるのでしょうか、ほんとに30万人が殺されましたでしょうかと、ですから私はネットと図書館でいろいろ調べて、おじいの兄に聞いて、日本人が書いた本と中国人が書いた本を見て、中日両方の意見を聞いて、いまの私の考えではタラリさんと大体同じです、つまり1.「たしかに虐殺事件がある」と「実際の死者は30万人まではしないかもしれない」とのことです。おじいのあにの話によって、あのごろはまだ冬の師走でしたから、安全区にいる家族四人は布団が足りなくて、おじいの父はもともと大胆の人ですので、敢えて深夜のうちにこっそり安全区外にある自宅に戻って布団を取ってきました、おじいの父は無事に帰りました、あのごろ彼も家族の四人の誰もその目で虐殺を見かけたことはありませんでしたが、たしかにおじいの父はあの夜、道でたくさんの死体があるとおじいに言いました。それと「兵士じゃなくて民間人です」と。おじいの父はおじいの兄にうそつくわけがありませんから、私はこれで「たしかに虐殺があった」と信じることができました。でもたしかに中国側がちょっとおおげさしたかもしれないとのこともありえないことでもありません。ですからもっと知りたいです、今日までもずっとネットで調べていました。そこでタラリさんのサイトに出会えてよかったです、ほんとに勉強になりました。ほんとにほんとにありがとうございます。 今日がこのメールを送って差し上げるのは、まずタラリさんに尊敬の意を表します、ほんとに感動しました、それとタラリさんを応援したいと思って、自分は何ができることはないでしょうか?タラリさんに協力したいです、たとえばこのサイトを中国語に翻訳するとか、わたしのできることならなんでもいいからわたしに言って下さい。
ほんとにありがとうございました、日中両国は永遠なる友好になるように、こころより祈っております。 フージェン 2月26日
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