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ここの掲示板の方々は既にご存知の事と思います。
「東史郎日記」を読み終え、「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」を途中まで読んだところです。
以前から考えていた事なのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ていたようです。
これはネットからですが 「GSが片山・芦田両内閣を、G2が吉田内閣を支えており、政権交代や昭和電工事件の要因にはGSとG2の闘争があったといわれる。 逆コース以後は国務省の後押しもありG2の力が増した。」
以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。
防衛研修所戦史室の源流
...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。 服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。 占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。
一方、「服部グループ」は、史料整理部を中心にして、「大東亜戦史」の編纂にも、大きな力を注いだ。 この点について、二代目の戦史室長をつとめた島貫武治は、次のように書いている。
史料整理部の陣容は俊秀をもって当てられ、服部卓四郎、...各大佐、 ...三少佐等で、 わが国においても政府による正統の大東亜戦争史を編さんすべきであるとの願望を抱き、 史料の収集整理に努めるとともに、昭和二十八年には大東亜戦争全史四巻を世に発表した。
...著者は服部卓四郎となっているが、「実際は各戦域の作戦参謀級の幕僚が、分担執筆し、稲葉正夫(四二期、終戦時陸軍省軍務局軍事課員、中佐)がまとめたもの」であり、服部周辺の旧幕僚将校による合作だった。 そして、「後にこの整理部から多くの人が、貴重な史料とともに戦史室に転用され」、戦史室の中心を、これらの旧幕僚将校が占めるようになったのである。
...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...
(この戦史部OBで終戦時少佐のM.T氏が2006年に父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗した事は以前にお話しした通りです。)
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