留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
7 / 644 ツリー ←次へ | 前へ→

[6487]伯爵 亀井茲明が撮影した旅順虐殺の証拠写真と日記 ピッポ 09/5/28(木) 15:07
[6489]復刻版目次 ピッポ 09/5/28(木) 16:51 [添付]
[6490]藤村道生氏の解説(1) ピッポ 09/5/28(木) 19:14 [添付]
[6494]Re(1):藤村道生氏の解説(1) 訂正 ピッポ 09/5/28(木) 19:54
[6491]藤村道生氏の解説(2) ピッポ 09/5/28(木) 19:19 [添付]
[6492]旅順口中新街集仙茶園の舞台と俳優 ピッポ 09/5/28(木) 19:21 [添付]
[6493]兵難を避ける婦女子 ピッポ 09/5/28(木) 19:23 [添付]
[6498]原田敬一「日清・日露戦争」より ピッポ 09/6/1(月) 20:08
[6499]査問、剔出、良民証、粛清----後藤新平 ピッポ 09/6/2(火) 0:33 [添付]
[6501]これも南京事件のプロトタイプ ピッポ 09/6/10(水) 0:13
[6502]文字化けの解 ピッポ 09/6/10(水) 17:34
[6503]Re(1):文字化けの解 とほほ 09/6/11(木) 6:52
[6505]Re(2):いやこちらこそ ピッポ 09/6/11(木) 10:45
[6504]Re(1):文字化けの解 とほほ 09/6/11(木) 7:19
[6525]1910年の「蕃ころ餅」 ピッポ 09/7/12(日) 8:58
[6529]「論説 生蕃の前途」 ピッポ 09/7/12(日) 20:58 [添付]
[6544]Re(1):1913年「兇蕃斬首の光景」 ピッポ 09/8/9(日) 0:03 [添付]

[6487]伯爵 亀井茲明が撮影した旅順...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 15:07 -

引用なし
パスワード
   [#6486]を受けて

熊猫さんが指摘した「旅順虐殺事件」を従軍写真家が捉えていました。「旅順虐殺事件」は、城内掃討戦、市民の虐殺としては、南京事件のプロトタイプといえるかもしれません。

その従軍写真家とは、参議院議員亀井久興の曽祖父である伯爵亀井茲明(これあき)です。亀井茲明は大本営に願い出て特別許可を得、5人の従者2人の小者を従えて日清戦争に従軍し、銀乾板写真に日清戦争の経過を定着するとともに、克明な日記を記しています。日記はラーベの日記と同様に、収集した軍の文書や報道記事なども後から挿入し、克明な資料となっています。

しかし、18,000円という高価な大型本なので、あまり引用されてないようです。
http://www.amazon.co.jp/æ—\清戦争従軍写真帖â•ä¼¯çˆµäºäº•ã“れ明のæ—\記-äºäº•-これ明/dp/4760107843


たまたま、市立図書館にこれを見つけましたので、以下にごく一部を紹介します。
556 hits

[6489]復刻版目次
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 16:51 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 私家版写真帖.jpg
・サイズ : 65.2KB
  
添付画像【私家版写真帖.jpg : 65.2KB】








復刻版目次

日清戦争従軍写真帖 伯爵亀井茲明の日記
1992年7月10日 初版第1刷
定価 18000円
著者 亀井茲明
発行所 柏書房株式会社

目次
=============================
解説
日本近代史上の日清戦争と亀井茲明の記録  藤村道生 7
伯爵カメラマンの従軍日記 内藤正中 18
写真家としての亀井茲明 飯沢耕太郎 27
写真家・亀井妓明の視線― 追跡・日清戦争従軍カメラマン 富岡幾朗 31

従軍日乗・明治二十七八年戦役写真帖

東京出発から広島まで 40
広島滞在と出港準備 44
宇品港から大陸へ 56
花園河口上陸と進軍 66
金州城の攻撃と占領 93
旅順攻略戦と占領行政 135
講和成立から帰国へ 260

付録
伯爵亀井茲明の美術研究及び美術論 柳田泉 305
=============================

※ なお亀井茲明は半年間の従軍の無理がたたったか、翌1896年7月18日結核性の病で没す、36歳。
371 hits

[6490]藤村道生氏の解説(1)
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 19:14 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : よじ登る.jpg
・サイズ : 362.3KB
  
添付画像【よじ登る.jpg : 362.3KB】 「武勲再現ショット」はこの時から。

金州城西隅の壁をよじ登る吉田少尉ら
11月6日午前9時10分、第二連隊吉田梶次郎少尉は部下を率いて前進し、金州城の西隅に迫る。少尉は靴を脱いで率先して煉瓦の欠所に手をかけ、高さ3丈余の塁壁をよじ登ると部下も続き、ついに城門に躍り入り、大砲1門、弾薬若干を獲収した。明治28年1月3日、当日の模様を再現してもらい撮影する。
〜〜〜〜〜〜〜〜

冒頭の藤村道生氏の解説は是非読んでいただきたい。

日清戦争の実態が、陸奥宗光の日記まで公開禁止となる極秘事項だったとは知りませんでした。日本の戦争の仕方が「日清・日露の頃は道徳的であってそれが満州事変からおかしくなった」と刷り込まれてきた私には意外な文章でもありました。
(この藤村道生氏の解説は、同氏の岩波新書『日清戦争』の要約でもあります。)


日本近代史上の日清戦争と亀井茲明の記録
〓〓〓〓

薄弱な開戦理由

日清戦争は、開戦当時すでに勝海舟が「無名の師」であると喝破しているように開戦理由が薄弱で、のちには戦争指導の先頭に立った明治天皇すらが開戦には消極的であった。日本はまず開戦を決したのちに、その口実を探したというのがことの真相であった。そのうえ日清戦争は軍事的に清国を圧倒しながらも、政治的には失敗の戦争であった。三国干渉を導きだして、戦争目的であった「朝鮮の内政改革=その植民地化」を達成できなかったからである。それは中国の列強による本格的分割の出発点となり、アジアに帝国主義体制を成立させる画期となるとともに、ロシアを朝鮮にひきいれて日本の戦争目的の大半を失わせたのみであった。それゆえアジアの諸民族の立場からいえば、日清戦争は、明治天皇の言葉のごとく「痛歎すべき戦争」以外のなにものでもなかった。

したがって、日清戦争の真実を明らかにしようとする努力は権力によってきびしく取り締まられねばならなかった。現職の外務大臣陸奥宗光自身の回想録『蹇蹇録』は、当初私家本として刊行されたが、それさえ公刊はきびしく取り締まられ、ようやくその公刊が許されたのは、じっに日清戦争終了後三〇年以上経過した一九二九年(昭和四)に『伯爵陸奥宗光遺稿』と題した書物に収められたときであった。戦後筆者が実際に経験したことだが、都下有名大学においても『蹇蹇録』の私家本は閲覧カードが抜き取られ、入庫の特権が与えられた教職員しかその存在を知ることができなかったのである。そうした取り締まりの理由は、さきに述べたように、開戦理由があまりにも非道だったからである。

開戦の経緯(略)
盛り上がった国内世論(略)
緒戦の勝利(略)
日清戦争の意義(略)

乏しい日清戦争の記録(略)

日清戦争は、近いうちに開戦百年を迎えようとしているが、日清戦争についての記録は案外にすくない。日露戦争のときは最初から国内の報道陣が組織的に送りこまれただけでなく、大量の外国人記者や観戦武官が新興の東アジアの「強国」日本と大国ロシアの戦争という感覚から派遣されて、外国紙に詳細に報道された。とくに『タイムズ』は日英同盟の存在もあって、戦後にはその報遣を集積して出版し、日本でもその翻訳書が刊行されているほど大量の記事を送り出した。しかし、日清戦争のばあいは極東の一遇における局地戦争として、最初はたいして注目されることなく、観戦武官は無論のこと世界のジャーナリズムからほとんど無視された。

こうして、日露戦争については治外法権にまもられた外国人記者の報道が容赦なく飛びかい、自由な新聞報道という概念をもちあわせない日本の検閲官の苛酷な削除にさらされることのない外国人記者による「自由」な報道も残されることになった。これに対し、日清戦争の際には日本自身もマスコミが未発達だったので、大量の新聞記者は派遣されず、のちに『明治二十七八年日清戦史』にまとめられた軍人の目による観察以外は、アマチュアの目で戦争を見据える報道が乏しく、ほとんど当時『国民新聞』に運載された国木田独歩の「愛弟通信」以外には後世に残る従軍記録は存在しないと信じられてきた。

それに加えて当時の写真技術の水準では、戦場において写真を撮影、現像し焼き付けることは、絶望的に困難であった。暗いレンズ、感度の低い感光剤、それに重いガラス乾板という条件では、スナップ写真をとることなど思いもよらなかっただけでなく、戦場で撮影した写真を現像のうえ印画紙にプリントするためには莫大な労力と費用を要するうえに、作戦軍の全面的な協力が必要であった。

検閲を免れた私家本(略)

このような条件を考慮にいれると、旧津和野藩主であり、今からは想像のできないほどの権威を有した伯爵家の当主である亀井茲明の努力と財力を前提としなければ、そもそも本書に収録されたような写真帖の成立は不可能であつたと思われる。かれはヨーロッパに留学し、そこで学んだ最高の写真技術を有していた。またかれがもちかえった最新の写真機および現地で乾板を製造し現像、焼き付けるための膨大な付属機械と暗室設備、およびそれを運搬する人手を伴つて戦場を通行する権威的な地位と、それらすべてを調達したり給養する財力があっではじめて亀井の従軍は可能であった。むろん財力と権威だけで本書が成立しえたわけではない。亀井はこの時の過労と心労によるものであろう、戦後いくばくもなく死去している。こうした犠牲のうえに、はじめて写真帖は成立したのである。

またもうひとつ注意すべきことは、従軍日記・写真帖がともに亀井伯爵家の私家本として刊行されたために、当局の苛酷な検閲を免れたことである。この検閲を経ていないことが、今日におけるその史料的価値を高めていることに注意をうながしたい。前述したように、陸奥外相自身の回顧録すら今日残されている草稿と対比すると、自己規制による変革がおびただしいが、それでも昭和四年まで公刊は許されなかったのである。日清戦争は、明治天皇すらこれは大臣が始めた戦争であつて朕の始めた戦争でないとし、開戦報告の勅使を伊勢神宮に派遺することをためらったほど理不尽なかたちで開戦された戦争であり、その戦争中に旅順で起き、『ニューヨーク・ワールド』紙が報道したため国際問題となつた虐殺事件は、それが問題化すれば、折から不平等条約を改正しアメリカが領事裁判権を放棄して日本に裁判管轄権を賦与することの可否を審議中であったアメリカ上院の審議をストップさせるおそれがあったのである。

(つづく)

377 hits

[6491]藤村道生氏の解説(2)
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 19:19 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 敵死の埋葬.jpg
・サイズ : 244.9KB
  
添付画像【敵死の埋葬.jpg : 244.9KB】 旅順虐殺事件を物語る死体埋葬の写真(「写真帖」より)

敵屍の埋葬
第二連隊の猛進で旅順市街に潜伏していた多数の敵兵が殺された。清側では旅順付近の住民に15歳以上の男子は日本軍に抵抗するように命じていたため、各民家には多少の武器弾薬が蓄えられていた。このため日本軍は市街に進入するや、抵抗する者は兵農を問わず、少しも許容することなく殺していった。市街には敵屍を見ない所はないほどで、屍は脳漿が流れ、腹膜は露出して至る所に鮮血があふれ、生臭い風が人々を襲い、見渡す限り荒涼としたものであった。そこで数日問、掃除隊を派遣して諸所の敵屍をまとめ、住民を使って原野に埋葬させた。写真は11月24日、旅順口北方の郊野で見たものである。


日本近代史上の日清戦争と亀井茲明の記録(つづき)
〓〓〓〓

記録されていた旅順虐殺事件

『ワールド』は「旅順の日本軍は陥落の翌日から四日間、非戦闘員、婦女子など約六万人を殺害し、殺戮を免れた清国人は旅順全市でわずか三十六人に過ぎない」と報じ、そのうえで「日本は文明の皮膚を被り野蛮の筋肉を有する怪獣なり、日本は今や文明の仮面を脱し、野蛮の本体を暴露した」と糾弾した。旅順から日本に立ち寄った『タイムズ』通信員は陸奥外相に、「日本軍は捕虜を縛ったまま殺害し、平民とくに婦人まで殺害したのは事実である。これは各国記者や東洋艦隊の士官が目撃している」と強調し、「日本政府の善後策如何」と質問した。この通信は全世界に転電され、日本軍国主義の残虐性は世界のすみずみまで伝えられた。アメリカ公使エドウィン・ダンは陸奥外相を訪問して「この際日本政府において何とか善後策をほどこさざれば、これまで得来りたる日本の名誉は悉く消滅すべし」と警告した。

陸奥外相からこの連絡をうけた伊藤首相は「取乱すことは危険多くして不得策なれば、この儘不問に付し、専ら弁護の方便を執るの外なし」と指示した。こうして旅順虐殺事件の責任は不問に付され、それとともに資料の発表は厳重な検閲により抑えられた。陸奥外相は伊藤首相の指示にしたがって各国に弁明書を送り、とくに『ワールド』紙上には異例の外相署名入りの投稿をおこない「旅順虐殺事件は多少誇張に失するものあり。例えば被殺者の多数を非戦闘員といふも実は清兵が市民に仮装せしものなり」と苦しいいいわけをした(拙著『日清戦争』132ぺージ)。

国内ではこの事件は厳重に秘匿された。直接の責任者は第二旅団長として旅順攻略を指揮した乃木少将にあると思われ、今日でも大連市では子供が泣きやまぬと「ノギが来るぞ」といって黙らせる由であるが、かれの責任は問われず、一〇年後の日露戦争における旅順要塞の攻略と明治天皇への殉死により聖将として乃木神社にまつられている。現在の日本人のほとんどは旅順虐殺事件を知らず、乃木将軍との関連など想像もしないであろう。この事実は、旅順虐殺事件の封印がいかに完全であったかを物語るものである。

ところが、本書にはこの事件の第一級の史料が解説つきで収録されている。すなわち「敵屍ヲ旅順口北方郊野ニ埋葬スルノ状況」と題する写真がそれであり、

第二連隊勇往猛進シテ旅順市街ニ潜匿スル敵兵ヲ屠殺スルモノ甚タ多シ、是ヨリ先、清将、旅順附近ノ店民ニ諭シ十五歳以上ノ男子ハ挙テ皆我軍ニ抵抗セシム。故ニ民家毎戸多少ノ兵器弾薬ヲ蓄ヘサルハナシ、是ニ於テ我兵ノ市街ニ進入スルヤ兵農ヲ問ハス苟クモ我ニ抗スル者ハ悉ク戮ヲ加ヘテ少クモ寛貸スルコト無シ、則街衢所トシテ敵屍ノ横ハルヲ見サルナク脳漿流迸、腹膜露出、到ル所鮮血淋漓トシテ腥風惨然人ヲ襲ヒ満目荒涼タリ、後チ数日ノ間我軍ハ掃除隊ヲ派シテ諸所横死ノ敵屍ヲ纏メ土人ヲ役シテ之ヲ原野ニ埋〓(えい)セシム。是レ明治二十七年十一月二十四日旅順口北方郊野ニ於テ見ル所ノ実況ナリ

とキャプションが付されており、それに該当する日記には、

第一師団ハ実ニ敵軍対シテハ消極ナリ。抵抗スル者ハ悉ク斬テ許サス。従フ者ハ悉ク黙シテ之ヲ放ツ。故ニ嚢中ノ鼠ハ半ハ殺サレ半ハ放タレ旅順落城後第一師団ニ捕虜一名モ無キ有様ナリ(「十二月二日)

とある。ここに描写された事実は従来公開された日清戦争のどの記録にも描かれていなかったものである。

本書は、実際に従軍したもののみが描きうる事実を、日記と写真の双方によりきわめて具体的に残したものであり、この点で本書は、元来記録の極端にすくなかった日清戦争の全体像を解明するための必須の文献である。亀井茲明は従軍中の無理がたたり、戦後まもなく不帰の客となったが、彼が残した本書により日清戦争の全体像が解明されるならば、その労は酬われるであろう。日記・写真帖の両書が百年ぶりに復刻公刊されることを地下の亀井氏も喜んでいると信ずる。(上智大学教授)

371 hits

[6492]旅順口中新街集仙茶園の舞台と...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 19:21 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 舞台と俳優.jpg
・サイズ : 467.3KB
  
添付画像【舞台と俳優.jpg : 467.3KB】 客がいなくても演じつづけることで死を逃れた、京劇役者の少年達


旅順口中新街集仙茶園の舞台と俳優

11月21日、旅順を防御する陸上の砲台は午前中にすべてが陥落、午後には海岸の砲台への攻撃を始めた。歩兵第二連隊がこれにあたり、命令を受けるや直ちに猛進突撃して旅順市街に潜伏する敵兵を皆殺しにした。その時、中新街の劇場集仙茶園の俳優は絲竹笙鼓の音を絶やさず、悠然と演技をしていて難を免れた。まことに幸いというべきである。聞いたところによると、この者たちは道台の招きに応じて天津辺りから来た劇団で、50人ずつの2班で一座を興行しているという。俳優は14,5歳の少年で、扮装して舞台に上がり演技をする。その様子はまことに奇異である。舞台は正面の高い所にあり、観客は桟敷・土間の二つに分かれ、桟敷は舞台両側の二階にある。土間には長卓が数脚おかれている。構造はほぼ日本の劇場と似たようなものである。

367 hits

[6493]兵難を避ける婦女子
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 19:23 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 兵難を避ける婦女子.jpg
・サイズ : 185.6KB
  
添付画像【兵難を避ける婦女子.jpg : 185.6KB】 避難民に恐怖感を懐かれていない撮影者のまなざし


兵難を避ける婦女子
旅順口北方の郊野で撮影する。富豪は戦闘の始まる前に家財を持って遠くに兵難を避け、市街に残る婦女子は1人もいなかった。しかし貧困者は難を怖いとは思ってもどうすることもできない。父や兄は死んだか逃げ出したかで、日本軍兵士が充満した街には家もなくなり、婦女子はやむを得ず幼児を抱いて避難していった。その様子は哀れで痛みに耐えなかった、

386 hits

[6494]Re(1):藤村道生氏の解説(1)...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/5/28(木) 19:54 -

引用なし
パスワード
   >乏しい日清戦争の記録(略)
乏しい日清戦争の記録

>検閲を免れた私家本(略)
検閲を免れた私家本
377 hits

[6498]原田敬一「日清・日露戦争」よ...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/6/1(月) 20:08 -

引用なし
パスワード
   原田敬一「日清・日露戦争」
シリーズ日本近現代史3
岩波新書

**第3章 日清戦争
より

***4 戦争の実相

****旅順虐殺事件
一八九四年九月、大本営は旅順半島攻略のため第二軍を編成した。第一師団と混成第一二旅団(第六師団所属)で編成し、一一月二一日未明から旅順攻撃を始め、正午頃には周囲の砲台等を占領した。午後以降市街と付近の掃討作戦が始まる。

そこで捕虜や、婦女子や老人を含む市民を虐殺する事件が起きた。二五日頃まで市街の掃討が続き、同時に旅順から金州方面に脱出しようとする敗残兵の掃討も行われた。これらを「旅順虐殺事件」と捉えるのは、戦闘と掃討戦の両方で、捕虜を取る意志がほとんどなく(計二三二人のみ、『戦役統計』)、軍人と民間人を無差別に殺害する例が多く、捕虜や負傷兵の殺害もあり、
75
敗残兵捜索のための村落焼き討ちも行われるなど、容赦ない残酷な戦闘であったことが、参加した兵士らや内外のジャーナリスト、観戦武官などにより明らかであることによる。

一一月二八日の英紙『タイムズ』による「〔旅順での〕戦闘後二〇〇名の中国人が、日本人捕虜を扱った際の冷酷な暴行に対する報復として虐殺された、という噂があるので確認が必要だ」という報道から事件は広がる。翌日にも「両軍が残虐な行為を行ったという報告が確認された。多くの日本人捕虜が首を切られ、手足を切断されて発見された。それゆえに日本軍は住民を一掃した。無差別の虐殺である」という旅順に上陸した英国人将校の情報を掲載した。一二月には、米国の新聞『ワールド』に「日本軍の大虐殺」と題し、「三日問にわたる殺人」「無防備で非武装の住民は家の中で殺された」などの記事が掲載され、欧米各地の新聞に転載された。

欧米新聞の報道に接した参謀総長熾仁親王は、第二軍の虐殺や掠奪という風説に答えよ、という親書を持たせた使者を大山第二軍司令官のもとに急いで派遣した。二週問後に大山は「旅順市街の兵士人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況」と明確に認めつつ、市街戦が薄暮で行われたことなどを挙げて弁解した。

事件はイギリスに続く条約改正の実現の妨げになる可能性もあった。栗野慎一郎駐米公使は、国務長官から、事実であれば条約改正が困難になる、と警告され、陸奥に対処を仰いだ。陸奥
76
は栗野に「旅順口の一件は風説ほどに夸大(こだい)ならずといえども、多少無益の殺戮ありしならん」と認めた上で、戦闘の混乱の中での行き過ぎた行為、という論法で突破しようとした。「被殺者の多数は無辜の平民にあらずして清兵の軍服を脱したるものなりという」と新情報を付け加え、こうした「許多(きょた)の流説を傍生せざる内に」新条約が上院を通過するよう「敏捷の手段を執」れと厳しく命じた(『蹇蹇録』)。事件は曖昧のうちに終わるが、旅順には今でも旅順虐殺被害者の集団墓が、一〇〇年問の修復・再建・新設を経て維持されている。
372 hits

[6499]査問、剔出、良民証、粛清---...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/6/2(火) 0:33 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 後藤新平.jpg
・サイズ : 29.1KB
  
添付画像【後藤新平.jpg : 29.1KB】 後藤新平
査問、剔出、良民証、粛清

後藤新平といえば、関東大震災のあとの復興のリーダーとして、多くの日本人の記憶に残っています。それは、関東大震災のときの虐殺事件をひきおこした狂信的軍人とは一線を画す、清廉潔白なエリート・テクノクラートとしての後藤新平像です。私自身も子供の頃、家の近くの『昭和通り』が東京市長後藤新平の英断によって造られたことを何度も聞かされました。大正末期、自動車社会はまだまだ夢の夢でしかないとき、震災後の焼け野原のうちでなければ作れないと四車線の道路をつくってしまった、その大英断は35年後の戦後高度成長時代の人々にまで感謝されていたのでした。

今日、日本語教育を受けた世代の台湾人の胸にも、後藤新平は「台湾近代化の父」として刻印されています。そして日本の右翼もまた、開発官僚のトップリーダーとしての後藤新平の一側面しか見ていません。だからこそ彼らは、NHKの番組に怒ってデモを掛けてるというわけです。

ですから、私もあのNHKの「アジアの一等国」を見たとき、抗日台湾人の「弾圧者」として紹介された後藤新平には大きな違和感を感じたのでした。

しかし、NHKの番組は私を啓発したのかもしれません。比較的簡単に見つかる本の中に、残念ながら、「弾圧者後藤新平」の像を見出してしまったからです。


以下は、原田敬一「日清・日露戦争」岩波新書 シリーズ日本近現代史3の中の一節です。日清戦争に引き続く台湾植民地戦争が終わったあと、開明派超一級官僚・後藤新平がおこなった、超クールな「匪賊粛清法」。


第4章 台湾征服戦争
1 苛酷な征服

のなかから

その後の抵抗運動と弾圧

予想の通り、同年一二月には台湾北部の宜蘭(ぎらん)が包囲され、翌年元旦には台北城が襲われるなど、各地で高山族が蜂起し、日本統治への抵抗は一九〇二年まで続く。台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』は、一節を「土匪(どひ)蜂起と討伐」とし、一八九五年五月末から一九〇二年五月末に至る七年間の蜂起と鎮圧経過を記している。

一八九五年から一九〇二年は台湾統治上「第一期」と呼ばれている。この時期に「土匪の台北を襲うこと二回、台中を襲うこと二回、その他各所の守備隊弁務署支庁憲兵屯所を襲うこと五十数回、巡査派出所襲撃などは枚挙に遑(いとま)あらず(矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』)と総督府の弾圧が残虐であるだけ、抵抗もいっそう厳しくなっていた。『公爵桂太郎伝』も、「匪賊」と住民の区別を付けることができず、「玉石倶(とも)に焚(た)くという殺戮を敢てしたり」と認めている。

後藤新平が一九一四年五月、東京で行った講演の記録『日本植民政策一斑』は、一八九六年から一九〇二年までの「匪徒殺戮(林少猫討伐まで)」について、「捕縛もしくは護送の際抵抗せしため」五六七三人、「判決による死刑」二九九九人、「討伐隊の手に依るもの」三二七九人、合計一万一九五一人を「殺戮」したが、そのうち裁判で死刑となったのは三〇〇〇人しかいなかった。その他の九〇〇〇人の「殺戮」の例を、後藤はこう語った。
102

帰順証交付のため警察署弁務署支署等へ呼び出し、訓令を加え、これに抵抗したるものはこれを殺戮することに予定し、同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります。(中略)土匪帰順法は(中略)天皇の大権に亘る生殺与奪の権で(中略)帰順させた者の中には良民たるべきものと不良民にして到底ものにならぬ奴がある、まず仮帰順証を与えて若干月日監視し選び抜いてその悪い者を同日同時に殺したのであります。

赤裸々に「土匪」の「殺戮」を語る後藤だが、第一期支配の特色として挙げたのが「保甲制度」だった。宋代の中国にあった民衆監視制度で、中国史に詳しかった当時の日本人ならすぐに思いつく政策で、陸奥宗光も提案している(『現代史資料』台湾1)。後藤は「総ての罪悪に連座の制です」と語って、治安維持に大いに効果があったと誇っている。


これが伏流水となり、やがて1937年の「南京事件」や1941年の「シンガポール大検証」として再び三度、噴出したのでしょうか?

※後藤新平『日本植民政策一斑』は、国会図書館サイトの「近代デジタルライブラリー」で公開されています。
362 hits

[6501]これも南京事件のプロトタイプ
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/6/10(水) 0:13 -

引用なし
パスワード
   日清戦争は、「馬関条約」締結後も台湾領有をめざす植民地戦争(「領台戦争」)が繰り広げられました。領有戦争勝利宣言は1895年10月になされましたが、戦争指導機関である大本営は1896年6月まで継続されました。

参照:拙稿「不可解なNHKバッシング(2)日台戦争」http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1035432/

大本営が閉じられた後は平定され平穏になったのかと思いましたが、そうでもなかったようです。

参照:拙稿「「日本語族」のおじいさんたちが知らない後藤新平のもう一つの顔」
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1065205/

そして、上記に対するコメント欄に触発されて、ネットサーフィンを行ったところ、この「領台戦争」こそ正しく、南京事件のプロトタイプであることを知りました。

以下は、台湾日本綜合研究所長・許介鱗氏の「日本「武士道」の謎を暴く」という一文からです。
http://homepage3.nifty.com/aab/busido.htm#_ftn24

許介鱗氏の政治的立場はよく判りませんが、氏は、『台湾総督府警察沿革誌』など、日本側資料に基づいてこれを書いていることに留意したいと思います。


日本「武士道」の謎を暴く
台湾日本綜合研究所長
許介鱗

(略)

4.武士道が台湾で威を振るう

一.大??の大放火、殺人 1895年、馬関条約[下関条約]後、日本軍は台湾に上陸した。台北と新竹の間の大??渓沿岸の地区には猛者汪国輝、三角湧樟脳製造業者蘇力、樹林地主王振輝らがいて、それぞれ「住民自警団」を率いて自衛していた。7月12日、日本軍がこの地区に進軍すると、汪らは抵抗した。7月16日以後、日本軍の援軍が到着して、虐殺を繰り広げた。日本軍は大??以東、三角湧までの間のすべての村を抗日義軍とみなし、大??街を放火するよう命令を下した。かくして、4万人前後の繁華街は、7月22日から連続して3日間、遥か三角湧街にまで延焼し、20数里絶え間なく、あたり一面、寒々とした焦土へと変わり、焼失した住宅は合計1500戸余、死傷者は260人だった。抗日のリーダー汪国輝は日本軍に武士道のやり方で斬殺された[13]。

二.大?林の婦女暴行 1895年8月30日、日本軍は雲林地方に入り、9月2日大?林、すなわち今の嘉義県大林鎮に到達した。この地のリーダー簡精華は装備戦力が日本軍の相手にならないことをよく知っており、人びとが塗炭の苦しみをなめるのが忍びなかったので抵抗を放棄し、住民に道路を清掃し、食物を提供して日本軍を歓迎するよう命令した。ところが、予期に反して日本軍は簡に200人の女性を差し出すよう要求した。簡が応じなかったところ、日本軍は簡氏一族の女性60人余を強姦、殺害した。簡氏は激怒し、雲林の民衆を招集し、9月3日から弓矢、棍棒、落とし穴、自作の銃で日本軍を襲撃した。その後、簡精華は辜顕栄の誘いを受け、苦痛を忍んで帰順を受け入れたが、1ヶ月経たないうちに、自ら左手の血管を切り、自宅で失血死した。地元の人びとはその忠義に感動し、「簡忠義」として偲んだ[14]。

三.蕭壟街の惨殺 1895年10月10日、日本軍混成第四旅団が布袋嘴(嘉義地方)に上陸すると、当地の義軍のリーダー林崑岡は決死隊の勢いで郷里を守った。しかし、武器が粗悪で相手にならず、蕭壟街(今の台南県佳里鎮)まで退いた。そこで、日本軍は大がかりな捜索を行い、千人近い村民が渓谷のそばの雑木林の天然の溝や谷に隠れたが、嬰児の泣き声で発見されてしまった。日本軍は兵を派遣して長い坑の頭尾両端を遮断し、坑内に向けて一斉に20分近く激しく銃撃した。凄まじい叫び声と泣き声はこの世の地獄のようで、坑に避難した台湾人は一人として災いを逃れられず、嬰児、女性も一人として生き残らなかった。真に残酷さの極みであった[15]。

四.雲林大虐殺 台湾中部の雲林地方に「大坪頂」と呼ばれる山地があり、三面は渓谷に囲まれ、東南は険しい山地につながり、地勢は険しく、柯鉄率いる柯氏家族が住んでいた。日本軍が北から南下した際に、簡義ら抗日分子が続々と風雨を避けてこの地に来た。1896年4月1日、雲林県地方は台中県に併合され、雲林支庁が斗六に設けられた。6月10日、日本軍混成第二旅団の守備隊が雲林地方に進駐を開始した。当時大坪頂には抗日分子千余名が集結しており、決死の覚悟で抗日を誓い、大坪頂を「鉄国山」と改名し、全島に檄文を発し、日本人を台湾から駆逐するよう呼びかけた。6月16日、日本軍の一連隊が斗六に進入すると、「鉄国山」の抗日軍はその鋭鋒を避け、深山に退いた。それから6月22日に至るまで、日本軍は雲林地方で血なまぐさい虐殺を行い、全部で4295戸の民家が焼かれ、六千人の民衆が惨殺された[16]。日本軍を歓迎した約50人の順民までもが殺された。

 当時の台湾高等法院院長高野孟矩は雲林大虐殺事件について次のように証言している。「漫然兵隊ヲ出シテ六日間ヲ費シ七十余庄ノ民屋ヲ焼キ良匪判然タラサル民人三百余人ヲ殺害シ附近ノ民人ヲ激セシメタルハ全ク今般暴動蜂起ノ基因ト認メラル故ニ土匪何百人又何千人ト唱フルモノ其実際ヲ精査スレバ多クハ良民ノ父ヲ殺サレ母ヲ奪レ兄ヲ害セラレ又子ヲ殺サレ妻ヲ殺サレ弟ヲ害セラレタル其恨ニ激シ又家屋及所蔵ノ財産悉皆ヲ焼尽サレ身ヲ寄スル処ナク彼等ノ群中ニ投シタルモノ実ニ十中七ハニ位シ真ニ強盗トシテ兇悪ヲ極ムル輩ハ十中二三ニ過キサル。」[17]

 1896年7月4日香港の英字紙『Daily Press』が日本軍の6月16日から6月22日までの雲林大虐殺事件を明らかにしたことにより[18]、日本軍が台湾民衆を虐殺した事実が国際的な関心を引き起こした[19]。日本政府はしばしば関係部局に、香港の新聞の土匪に関する報道を取り消すよう訓令し、また拓殖務次官に外事新聞[20]に(作り上げた)事実を掲載するようにし、外国の新聞ではこのことを隠蔽するようにした。しかし、雲林大虐殺を契機として、台湾各地では連鎖的に日本の統治に対する不満が爆発し、各地で抗日運動が起こった。国際世論の圧力の下で、第二代の台湾総督桂太郎が退任を余儀なくされた。皮肉なことに、就任した第三代の総督乃木希典は甲午戦争[日清戦争]の旅順大虐殺で責任を負うべき旅団長だったのである。

五.阿公店大虐殺 第四代台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平は「台湾近代化」の生みの親で、彼らは台湾に「懐柔政策」を実行した「能吏」だ、と讃えるものがいるが、彼らにはもつれた麻を切るごとく人を切る日本の武士道の本性があり、大虐殺によって抗日台湾人を鎮圧して台湾統治の基礎を確立したことを見落としている。児玉は1898年に台湾総督に就任、11月12日からの、台湾中南部の抗日軍に対する、日本人が「大討伐」と呼んだ大規模攻撃の展開を決定した。この「大討伐」は台南県知事が台湾総督に提出した報告によれば、殺害した人数は2053人に達し、負傷者は数え切れない。焼かれた民家数は、全焼が2783戸、半焼が3030戸だった。家屋の全焼、半焼、家財の焼失などの損害は、当時の貨幣価値で3万8千円余に達した。[21]中でも被害がもっとも残酷だった阿公店地方には、安平、打狗(高雄)に住む外国人がおり、日本軍の残虐暴力に議論が沸きおこり、イギリス長老教会牧師ファーガソン(Duncan Ferguson)等は『香港日報』(Daily News)に投書し、日本軍の人間性を喪失した大虐殺の人道問題を提起して、国際世論の非難を巻き起こした[22]。

六.帰順式場に誘き出しての惨殺事件 児玉と後藤の台湾中南部の抗日勢力への対応は、軍警の大規模な「討伐」以外に、投降を呼びかけ、誘き寄せて殺す策略を使った。これがいわゆる「土匪招降帰順政策」であり、画策者は児玉長官、立案参与者は後藤民政長官、総督府事務官阿川光祐、策士は白井新太郎で[23]、中でも雲林の騙し討ちが抗日軍でもっとも人を驚かせる事件だった。1902年、斗六庁長・荒賀直順は警務課長・岩元知と投降を呼びかけて殺戮する計画を密かに画策した[24]。

 5月14日、斗六庁長・荒賀と当地の守備隊長、憲兵分隊長は5月25日に帰順式を開いて騙し討ちすることを画策した。5月18日、岩元警務課長は林?埔、?頭?、土庫、他里霧、下湖口の5人の支庁長を招集し、帰順式典を行う真意と段取りを指示し、斗六、林?埔、?頭?、西螺、他里霧、内林の6ヶ所を式場とすることを決定、各市庁長に十分な準備をするよう命じた[25]。

 帰順の意思を示した抗日の各リーダーに対しても、表面的には甘言を弄し、彼らの帰順を許したが、内心では徹底的な殲滅を企てていたので、張大猷以下265人の抗日分子をこの年の5月25日に誘い出すことを決め、6ヶ所でそれぞれ帰順式を行うと公言した。すなわち、一.斗六式場60余人、二.林?埔式場63人、三.?頭?式場38人、四.西螺式場30人、五.他里霧式場24人、六.林内式場39人である。その後、機関銃で6ヶ所同時にすべて殺戮した[26]。このような投降を誘い、騙して殺戮した事件に関して、日本人は口実を設け、5月25日、帰順式場での妄動により、一斉に殺戮したと説明しただけであり、騙して殺した事実を隠蔽した。

(略)

[13] 杉浦和作『明治二十八年台湾平定記』(台北、1896年)71頁;日本参謀本部編『明治二十七八年日清戦史』、許佩賢訳『攻台戦紀―日清戦史、台湾篇』(台北、遠流、1995年)184-193頁;許佩賢訳『攻台見聞―風俗画報、台湾征討図絵篇』(台北、遠流、1995年)150-152頁;許世楷『日本統治下の台湾―抵抗・弾圧』(東京、東京大学出版会、1984年)50-51頁。

[14] 『攻台戦紀』248-253頁;『攻台見聞』294頁;『譲台記』60頁、63頁、64-65頁;『瀛海偕亡記』11頁、15頁;姚錫光「東方兵事紀略、台湾篇上」、『台海思慟録』所収61頁;洪棄生『瀛海偕亡記』(台北、台湾銀行経済研究室、1959年)24-25頁。

[15] 『攻台見聞』422頁;『譲台記』69-70頁。

[16] 台湾総督府『陸軍幕僚歴史草案』巻一、6月21日の項;台湾総督府警務局編『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻(東京、緑陰書房、1986年、復刻版)432頁、436頁。

[17] 苫地治三郎『高野孟矩』1897年、252-253頁。

[18] 『台湾史料稿本』巻六、58頁。

[19] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、436頁;『公爵桂太郎傳』乾巻、735頁。

[20] 『台湾総督府公文類纂』23巻永久乙種第十門軍事、明治29年7月11日。

[21] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、512頁。

[22] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、512頁。

[23] 台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』(台北、台南新報支局、1920年)22頁。

[24] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、454頁。

[25] 『台湾総督府警察沿革誌』第二編、上巻、457頁。

(略)


文字化け?は、引用元ブログからのものです。

ーーー
332 hits

[6502]文字化けの解
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/6/10(水) 17:34 -

引用なし
パスワード
   一、大??大燒殺

ニ、大?林暴行

こちら
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2112.html

(ここに書きましたが、繁体字のせいか、おかしくなりました)
334 hits

[6503]Re(1):文字化けの解
←back ↑menu ↑top forward→
 とほほ E-MAIL  - 09/6/11(木) 6:52 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>(ここに書きましたが、繁体字のせいか、おかしくなりました)

は、もうしわけありません。
当掲示板は外国文字はつかえませんm(__)m
327 hits

[6504]Re(1):文字化けの解
←back ↑menu ↑top forward→
 とほほ E-MAIL  - 09/6/11(木) 7:19 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>一、大??大燒殺
>
>ニ、大?林暴行
>
>こちら
>http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2112.html
>
>(ここに書きましたが、繁体字のせいか、おかしくなりました)

引用もとのページソースをごらんください。
文字を表現するために非常に苦労されている様子が伺えます。

ページ全体をsjisではなく、utf8と言う文字コードにしてみたら引用元のようなご苦労はしなくても良いかもしれません。
358 hits

[6505]Re(2):いやこちらこそ
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/6/11(木) 10:45 -

引用なし
パスワード
   ▼とほほさん:
>▼ピッポさん:
>>(ここに書きましたが、繁体字のせいか、おかしくなりました)
>
>は、もうしわけありません。
>当掲示板は外国文字はつかえませんm(__)m


こちらこそ事情を知らずお手数をおかけしました。
451 hits

[6525]1910年の「蕃ころ餅」
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/7/12(日) 8:58 -

引用なし
パスワード
   蕃ころ餅

歩兵第8中隊松山小隊は最先発の隊なり 其のバゴン付近に前進するやバゴン社の蕃屋を焼棄し、此地一帯の察備に任じ、尚一小隊をして同地に駐屯せり、一日、残余の蕃屋を捜索して臼と杵を得、更らに蕃公の貯蔵せる粟を得たり、即ち之を以て粟餅を搗き隊中に饗ひ、号して蕃ころ餅という。
(台湾日日新報1910年7月13日「戦袍余塵」より)


隠語として中国人を「チャンころ」と呼んだように、台湾原住民を「バンころ」と呼んでいたという証言もあります。早乙女勝元さんは、小学校で教師から「蕃コロの蕃は野蛮の蛮と同じ」だとして、『蕃コロ』という言葉を教わったそうです。(「台湾からの手紙」より)


チャンネル桜が報じた元台北一中生徒の証言によれば、皇民化運動のころ、
一等国民は内地人、二等は琉球人、三等は台湾人、四等は朝鮮人、五等は高砂族、と言われていたそうです。(なお、台湾原住諸民族を、高砂族という言い方に変えたのは1935年です)


というわけで、「台湾日日新報」記事は、今から99年前、1910年(明治43年)当時の台湾日本人の、台湾原住民に対する「人種感覚」を映し出した、貴重な歴史資料ではないかと思った次第です。


http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1103917/
「日英博の生蕃館」全文を読む(1)〜(8)
より
333 hits

[6529]「論説 生蕃の前途」
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ  - 09/7/12(日) 20:58 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 生蕃の前途.jpg
・サイズ : 110.5KB
  
添付画像【生蕃の前途.jpg : 110.5KB】 「日英博の生蕃館」全文を読む 1〜8
http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/1103917/

そこにも記しましたが、パイワン族の日英博覧会への派遣は、原住民征圧戦争と同時並行的な事業だったのです。

同じ台湾日日新報の同9月29日に、興味深い論説が載っていましたのでご紹介します。

台湾日日新報は台湾総督府の官報を兼ねていたような、台湾における独占新聞です。この論説は台湾原住民に対する総督府の現状認識を述べ、政策を分かりやすく解説したものといってよいでしょう。


論説 生蕃の前途
台湾日日新報 明治43年(1910年)9月29日

五個年計画を以て現に進行しつつある理蕃(りばん)事業の成就さるヽ暁(あかつき) 十余万の生蕃(せいばん)を如何に化育(かいく)し如何に利用せんとするかは今日に於て考究せざるべからざる問題なり、蓋(けだ)し生蕃の我と接触したる者決して新たなるに非ず、牡丹社の攻撃当時既に其の性情の幾分は之を極めざるに非ざるべきも 勿論僅(わず)かに其(その)一端に触れたるにみにして到底其種族の数をさへ知る能はざりし如し 爾後(じご)台湾の領土に入りし後に至り 必要上之が研究を忽(ゆるがせ)にする能はざるに至りも なほ我が国民の由来此(この)種の研究に対する趣味の欠乏も研究法に習熟せざると 年処を経たる未だ甚(はなは)だ多からざるとより未だ根本的に之を理解するに至らず、即ち之が化育と之が利用とに先立ちて先決問題となるは其言語の研究と其の性情の理解とに在りとす。

(現代文読み下し)

5ヵ年計画によって今進行しつつある理蕃(りばん)事業が成就された暁に10万を超える生蕃(せいばん)をどのように教化育成し利用しようとするかは、いま考究しなくて良いはずがない問題である。

確かに生蕃と我々が接触したことは最近のことではなく、牡丹社への攻撃当時、すでに生蕃の性情の幾らかは研究された筈だが、勿論、僅かに生蕃の一端に触れたに過ぎず、到底、生蕃の種族の数さえ知ることができないぐらいであった。

その後、1895年に領土として台湾に入った後になって、必要上、生蕃に関する研究をゆるがせにしてはならないとしたものの、なお我が国民がこれまで此の種の研究に対する興味が無かったからか研究法に習熟しておらず、(15年という)年月を経た今になっても研究ははなはだ少なく、根本的に生蕃を理解するには至っていない。すなわち、生蕃の教化育成と生蕃の利用とに先立って先決問題となるものは、其言語の研究と其の性情の理解とに在るのだ。
(つづく)

(ことばの説明)
理蕃(りばん)事業:
台湾原住民に対する統治

理蕃五個年計画:
1910年から始まった原住民の征圧計画

生蕃(せいばん):
宗主国の「教化を受けた」ことと「服属して納税する」か否かを判断の基準とし、それができているものを「熟蕃」といい、それができていないものを「生蕃」といった。「蕃」は漢語の「番」に由来する、野蛮の意味である。

牡丹社の攻撃:
牡丹社事件。1874年に起こった明治政府による台湾出兵。1871年、沖縄の宮古島から首里への年貢運搬船が暴風で台湾南部に漂着し、乗員66名はパイワン族に救助を求めたが、パイワン族にしてみれば村への侵入者であり、意思疎通がうまくいかず逃走した遭難者54名が斬首された。

3年後の出兵は懲罰を大儀名分としたものだったが、清国統治が実質的に及んでいなかった台湾東部の領有をもくろむものであった。西郷従道率いる征討軍3000名はパイワン族との戦闘には勝ったものの、マラリアに罹患するなど大被害を蒙り、統治責任をもつ清国からの賠償金を請求し、それと交換に撤退を急ぐしかなかった。

種族の数:
「図説 台湾の歴史」(周 婉窈)から引用すると、台湾原住民に種族は、

「台湾の先住民族は、一般には高山(こうざん)族と平埔(へいほ)族に分けられる。」

「「高山族」は一般に9族に分けられるが、平埔族の分類は今日もなお論争の的となっているので、ここでは仮に10族の分類法を取っておく。

高山族はタイヤル、サイシャット、ブヌン、ツオウ、ルカイ、パイワン、プユマ、アミ、ヤミの9族に分かれる。

平埔族はケタガラン、クヴァラン、タオカス、パゼッヘ、パポラ、バブザ、ホアニヤ、サオ、シラヤ、カウカウト(あるいはマカタオ)の10族に分かれる」

台湾の領土に入りし:
1895年(明治28年)の台湾領有をいう。


続いて「論説」は、人種問題、少数民族問題についての見解です。そこには、ダーヴィニズムに根ざした強烈な『適者生存説』が主張されています。そして言外には、「我が日本民族は優良民族として勝ち残った」という余裕があるようにも思えます。


世界の諸人種中、今日において活動的地位にあるものはアリアン人と蒙古人である、マレー人種中のある人種はあるいは一転化ののち、その数に於てもその智においてもその富においても優に一角を占めるに至るかもしれないといっても、それ以外の人種に至っては僅かに人類学者研究の対象として止まるだけだ。

しかも各種族は絶対的に決定された運命を持っているわけではない、時期と教育とはどのような性情をも作り得ないことはない。ましてや他種族との接触は次第にその人種を改造して新性情を造出するに於ては大いに可能なことだ。現に台湾の生蕃が熟蕃となり、南からの種族と西北からの種族とを抱合して大和民族の国民性を形成させようとしていることは眼前の例証である。

夷(い)といい狄(てき)といい蛮(ばん)といい戎(じゅう)という中華の民を、ときには犬羊のように見なし、今日において我々が生蕃に対するよりも甚だしく見下していたその夷狄にして、も時期と機会に遭遇すれば直ちに中原に王覇(おうは)を称(とな)えて優等種族であるという立場を得るに至った。すなわち、今日の生蕃の徒といえども時期と教育によって、同種であって現在優良であるマレー種と同一程度に至ることは不可能だというのは、理屈が立つだろうか。

ただ現在の各人種の中で優良のものは常に同種の増殖膨張をもって第一の主眼としていて、優良の地位を占めることが出来なかった種族は各小部族が互いに非難しあって、はなはだしいときは同種同士の殺し合いこそが、その為すべきこととなってしまう。南洋およびアフリカの諸蕃族中、食人を行うものが少なくない。
(つづく)


ここでの最初の段落は、適者生存の競争に敗れた種族は、陳列物として保存対象になる運命だといってます。(後述のなかでは、アイヌがその一例にあげられています)。

アリアン人とは白人をさし、蒙古人とは日本人・漢族・朝鮮族・韓族などを含むようです。マレー(馬来)人は東南アジア・オセアニアの人種で台湾原住民はそこに含まれているという認識のようです。

第2の段落は、種族間の適者生存競争の結果はもう決まっているわけではなく、これからの「チャンス」と「教育」によって変わりうると述べ、台湾総督府の理版事業がそのチャンスを与えるものだ、と主張しています。

第3の段落では、<中原に王覇(おうは)を称(とな)えて優等種族であるという立場を得るに至った>と、夷狄でありながら中国を制した「元朝」や「清朝」の例を引いています。

最後の段落は、優良のものは我が日本民族のように増殖膨張を目指してどりょくするが、劣等なものは仲間同士の殺し合いまでしてしまう。だから食人の風習まで残っているのだと述べています。これは、台湾現住民族に残る出草(しゅっそう=首刈り)の風習をも指しています。


「論説」は続いて、劣等種族である生蕃をどのように<化育>すれば、適者生存できるようにすることができるか、あるいは、日本に有用な種族になりうるかを考察しています。


幸いにして我が台湾の生蕃はこのような(食人のような)残酷さは見れないというものの、あの馘首の風習のように同種の殺戮を喜んでいるようでは、種族として優良の地位を占めることができない。このことは、まさしく自然が命じる所である。したがって、昔からこの種の劣等種族は必ずしも他の種族との戦争を待つことなく、単に優良人種との接触するだけで次第に減少を来たすというのが原則である。アメリカ・インディアンやわが国のアイヌなどはその例証であって、いわゆる適者生存の原理から観てもまた免れることが出来ない数(の減少)である。

この大原理はしかも人の力を得て結果を左右できるものではないのだが、その減少は決して急激に起こるものではない。我が十余万の生蕃も、決して百年二百年程度の年月では根絶し得ることはない。今日において適切な生蕃の化育の途を講ずれば、もしかすると、やや優良な種族となって逆に人口を増加する結果となり、わが治世の下での堂々とした一勢力となり得るであろう。

かの南部牡丹社のように獰猛無比と称せられなかった時がなかったような種族が、しかるに英国人の熱心な化育を受けた結果、わが国の台湾領有前においてその頭目のように全く旧い習慣をすてて正に新生活に入ろうとする者がいると聞く。すなわちこれは、彼らが悪に対しても強く、更に善に対しても強いことを証明したことでなくて何であろうか? もし生蕃の性情を根本的に研究して十分な化育の方途を講ずれば、学術の種族あるいは知識の種族として化育するには幾十百世代を要するかもしれないが、労働の種族あるいは力役(りょくえき)の種族として化育し、生蕃を生産界に利用する限りでは、必ずしも難しいことだとは言えない。


(最後の段落の原文) 
彼の南部牡丹社の如き獰猛無比と称せられたる時なきに非ず、しかも英国人の熱心なる化育の結果我が領有前に於て其頭目の如き全く旧習慣を棄て将に新生活に入らんとする者ありと聞く、即ち其の悪に強き更に善に強きを証ぜざるに非ずや、若し夫れ其性情を根本的に研究して十分なる化育の途を講ぜば、学術の種族知識の種族としては幾十百の世代を要するとするも労働の種族力役(りょくえき)の種族として生産界に之を利用すること必ずしも難きに非るべし。

(「論説」おわり) 

このように、生蕃の同化教育の可能性は、労働の種族あるいは力役(りょくえき)の種族として生産界に利用することにある、ということを論じています。


NHKの番組「アジアの一等国」が台湾のパイワン族(この論説においては「牡丹社」)の名誉を汚した、とチャンネル桜は主張しています。つまり、日英博覧会出場はパイワン族にとっては名誉なことだったのに、NHK番組はそれを侮辱してしまったのだ、と。

果たしてそれは正しいことでしょうか?

ロンドンに渡ったパイワン族の人々は、果たして当時の日本人の自分達への扱い、すなわち

「学術の種族知識の種族としては幾十百の世代を要するとするも労働の種族力役(りょくえき)の種族として生産界に之を利用すること必ずしも難きに非るべし。」

このような日本人の考え方を知っていたのでしょうか?

この文章を現在の牡丹郷高士仏社のパイワン族の方々がお読みになって、当時の「理蕃政策」の目論見、日本人同士では語られていた事を知ったとき、どのような思いを抱かれるでしょうか?

もしお会いする機会があれば、直接お尋ねしたいと思うものです。
http://ni0615.iza.ne.jp/より
324 hits

[6544]Re(1):1913年「兇蕃斬首の光景...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 09/8/9(日) 0:03 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : タイヤル族斬首.jpg
・サイズ : 294.6KB
  
添付画像【タイヤル族斬首.jpg : 294.6KB】 台湾原住民斬首「大会」の写真
残虐写真につき
"クリックして拡大"する前によく考えて!!



「日帝植民地下の台湾原住民」(非売品)
発行:祖霊之邦 www.abohome.org.tw より



これも、南京「百人斬り」事件のプロトタイプか?

  この写真の出典元は、1913年に日本軍部が刊行した「大正二年討伐軍隊記念冊子」である。場所は現在の台中県梨山付近の佳陽部落(タイヤル族)である。
  これらの写真は、元は日本軍の戦功を頌える為のものであったが、今日では、侵略と植民支配の最も有カな証拠となっている。


「大正二年討伐軍隊記念冊子」をWEB検索すると、
husv83のジオログ 
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/husv83/view/20070410

遠藤克己1913『大正二年 討伐軍隊記念』の写真

高金素梅企画、徐宋懋・張群智著 2002『無言的幽谷』(無言の幽谷、中国語)新店:正中書局、やその他高金素梅氏発行のパンフレットでしばしば用いられている衝撃的な写真がある。

日本人らしき人物が屋外において、タイヤル人らしき人物の首をはねているものである。

筆者は台北において、写真つきはがきにその写真が使われているのを見て、それを購入したことがあった。(小草芸術学院発行、20002.1000林玲君助印、とある)

その原典が遠藤克己1913『大正二年 討伐軍隊記念』であり、このたび台北の南天書局において、魏徳文社長にお願いして自分で確認してきた。



遠藤克己1913『大正二年 討伐軍隊記念』 2
本書の基本データは次の通り。(旧仮名遣いは改めた)

大正二年十月卅一日発行
著作者兼発行者 遠藤克己
発売所 遠藤写真館(台北城内府前街三丁目)

高金素梅氏に使われている写真も確認できた。キャプションには、
「シカヤブ蕃人中獰猛兇悪なる者にして常に隘勇線に出草し馘首を擅にし尚タラー渓に於て我軍に抗し飽くまて官命を遵奉せさると放言せし兇蕃斬首の光景」
とある。

これは台湾総督府警務局 1921『理蕃誌稿』第三編下巻、に詳細が記されている「キナジー方面蕃社討伐並追加行動」の一環として行われたものである。

本写真の前の写真のキャプションは、
「シカヤブ社蕃人を包囲して銃器弾薬の提供を命す」
「八月十二日タラ渓谷に於て歩兵第二聯隊第八中隊に抵抗したるシカヤブ社蕃人」
とある。

これらの写真は一連のものと思われるため、撮られた日時は1913(大正2)年8月12日であろう。
また、文中の「シカヤブ」は「シカヤウ」の誤りで、現在の「シカヨウ」つまり環山集落である。

シカヨウというと、淑子(ヨシコ)さんという日本語の達者なタイヤルの女性がいらっしゃった。
人づてに「環山」という、淑子さんが書かれた歴史と集落の紹介の抜き刷りを頂いている。
1930年ころ生れた淑子さんの抜き刷りには、1913年の出来事は書かれていないようである。
 </b>
257 hits

7 / 644 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
314360
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) [AD-SIZE] Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送