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最近、「張作霖爆殺事件」に凝っています。こちらに夢中になっているおかげで、おそらくは「ネタ」の宝庫であろう東中野先生の新刊も、まだ斜め読みしかしていない(^^;
きっかけは、最近出てきた「KGB犯行説」。果たしてこの「説」が成立する余地があるのかどうか、ちょっと調べてみたくなったわけです。まだまだ勉強途中で皆さんに発表できる段階にはないのですが、Wikipediaで議論になりましたので、以下の文章を投稿しました。読み返してみると我ながら結構面白いので(^^)、一部改稿の上、こちらにも投稿しておきます。
なお、あちこちで原典を大胆に要約しておりますし、また調査不足の部分も多数ありますので、このまま他のところで「議論」に使われますと、思いがけない「ご迷惑」をおかけするかもしれません。そのうちコンテンツにまとめるつもりですので、どうぞ、それまでお待ちください。
「張作霖爆殺事件」に関して、日本国内の「研究」によって明らかにされている「事実」を、列挙してみます。
1.「張作霖排斥」は、当時関東軍の中で広く行き広まった「世論」であった。例えば秦少将、土肥原軍事顧問などは、「張作霖の従来日本に対する態度は頗る不遜である。依って此の際、東三省より張を排斥して何人かを以て之に代える必要がある」と主張していた(林久次郎『満州事変と奉天総領事』)。斎藤参謀長も日記に「現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし」と書いており、また村岡軍司令官も、密かに部下の竹下義晴少佐に「張作霖殺害」を指示していた(秦郁彦『張作霖爆殺事件』)。(一部に伝えられる「動機がない」説は、明確な誤り)
2.河本も同じ考えを持っており、事件の直前、在京の親友磯谷大佐宛ての昭和3年4月18日付け書簡で、「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やって見る」と、犯行を予告する文言を書き送っている。(秦郁彦『張作霖爆殺事件』)
3.河本自身、犯行を認めている。例えば、元陸軍少将大野宣明に対し、「私は軍司令官に関係なく自分でやろうと決心したのである」と語っている。(昭和17年12月1日「満州事件関係者七氏の談話手記」=『昭和三年支那事変出兵史』所収 稲葉正夫『張作霖爆殺事件』による)
4.河本は自分の犯行を吹聴していたようで、小磯国昭も、河本から「一切の事情を聴かせて貰った」という(小磯国昭『葛山鴻瓜』=大江志乃夫『張作霖爆殺』より再引用)。また、義弟の平野零児に対しても犯行の経緯を詳細に語っており、平野はその口述筆記を河本の家族に預けた。その一部は、文藝春秋に「私が張作霖を殺した」として発表された。(平野零児『戦争放火者の側近』より=猪瀬直樹監修『目撃者が語る満州事変』所収)(筆記したのがプロレタリア作家の平野氏であることからこの文の信憑性を問題にする向きもありますが、内容的には他の記録との大きな齟齬はなく、またマスコミに流れたのは家族の保存文書である、という経緯から「家族」も事実を認めているものと思われ、大筋では信頼できるものと考えます)
5.実行犯の一人である東宮大尉も、「陰謀の黒幕が関東軍高級参謀河本大作大佐だった」ことを、奉天副総領事森島守人に「内話」している(森島『陰謀・暗殺・軍刀』)。なお、出典は不明だが、『赤い夕陽の満州野が原に』に、東宮大尉の「張作霖の列車を爆破したあと、私は部下のひとりに状況を偵察させた」に始まる、事件経過についての詳細な「証言」が掲載されている。
6.河本は、張作霖の乗車した列車の運行状況を確認するために、途中駅に何人かの偵察者を配した。そのうちの一人、角田市朗中尉の手記によれば、角田は河本の命を受けて駅に張りこみ、張作霖の乗車する列車を確認、その乗車位置を河本に通報した。その通報の1時間後に「爆殺事件」が起きた。(塚本誠『ある情報将校の記録』)
7.事件直後、現場調査を行った民政党代議士松本謙三氏なども、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを中国側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している(『三代回顧録』)。
8.田中義一首相は、峯憲兵司令官・難波憲兵大佐のコンビに、事件の調査を命じた。河本はシラを切ったが、峯は事件の実行者である朝鮮軍筋(桐原大尉等)を尋問して事件の真相をつかみ、爆弾のスイッチを押したのが東宮大尉であることまでも判明した。この情報は田中首相にも伝えられた。(概説書多数の記述)
9.事件の計画者の一人である大陸浪人「工藤鉄三郎」は、身の危険を感じて、小川鉄相に対して、「爆破事件の真相」と題する書簡を送り、事件が陰謀であった旨を告白した。(多数の概説本に記述あり。出典は「小川平吉関係文書」であると思われるが、未確認)
10.関東軍・関東庁・領事館による「張作霖爆殺事件調査特別委員会」が設けられ、関東庁は、関東軍が「南方便衣兵の死体」と発表した「中国人2人」の出自を調査した。この中国人の「調達」に関わったとの情報があった「伊藤謙次郎」「劉載明」「安達隆盛」らに聞き取り調査を行った結果、「伊藤、安達及劉載明の言の大体一致」し、彼らがアヘン中毒の中国人2人を「日本軍の密偵になれ」と騙して「便衣兵」に仕立て上げ、2人を河本に引き渡したことが判明した。伊藤は、「河本は其際爆破は自分の方にて引受くるに付支那人四五名連れ来れ」と自分に言った、など河本との「共謀」を詳細に供述しており、河本の「クロ」は決定的になった。(「張作霖爆死事件 松本記録」=アジア資料センター資料 レファレンスコード:B02031915100)
11.余談ながら、彼らが「調達」した「中国人」は当初3名であったが、うち一名(王某)は途中で計画を聞かされて逃亡した。この王某が、張学良のもとに駆け込んで日本軍の陰謀を暴露し、張学良は事件の真相を知った、と伝えられる。(秦郁彦、他)
12.以上の調査を踏まえて、昭和天皇に対しても河本を犯人とする「上奏」が行われた。(粟屋謙次郎『東京裁判論』。「鳩山文書」の発見による。なお、永井和『張作霖爆殺事件と田中義一首相の上奏』によれば、「河本」の名を出した上奏を行ったのは、田中首相ではなく、白川陸相であると見られる、という)
13.その後、陸軍内の抵抗にあい、田中は関係者の処分を断念。昭和天皇に対して事件の真相を曖昧にする上奏を行った。昭和天皇は、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」と激怒し、田中は辞任に追い込まれた。昭和天皇によれば、「聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである」という事情があった、と伝えられる。(『昭和天皇独白録』)
これだけの「事実」に固められた「河本陰謀との事実認定」を、KGBの誰ぞやが事件は自分の「手柄」であったと(どのようにして「手柄」を実行したのか、という経緯さえも語らずに)言った、という程度のことで引っくり返せるわけがありません。瀧澤氏自身がいみじくも語っている通り、「ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多い」(『諸君』2006.6)のですから、常識的には「いい加減な自慢話」と捉えておくべきところでしょう。
「KGB犯行説」はロシアの「歴史学者」の記述として伝えられますが、この方は上記の「事実」群には何も触れていないようで、おそらくは日本語が読めず、上の「事実」群を承知していなかったものと思われます。
・・・と、ここまでがWikipediaへの投稿内容。コンテンツにする時には、上の出典を丁寧に引用するとともに、「KGB犯行説」を半分支持するかのような発言を行っている瀧澤氏の文章を、徹底的にネタにするつもりです。
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