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[2502]「張作霖爆殺事件」KGB犯行説 ゆう 06/5/13(土) 8:00
[2574]瀧澤一郎氏をネタにする ゆう 06/6/3(土) 11:51
[2575]Re(1):瀧澤一郎氏をネタにする とほほ 06/6/3(土) 12:53
[2576]Re(2):瀧澤一郎氏をネタにする 太宰由紀夫 06/6/3(土) 13:37
[2579]Re(2):瀧澤一郎氏をネタにする トロープ 06/6/3(土) 21:01
[2580]Re(3):瀧澤一郎氏をネタにする とほほ 06/6/3(土) 21:15
[2581]瀧澤一郎氏をネタにする 「諸君」座談会編 ゆう 06/6/3(土) 21:51
[2586]Re(1):瀧澤一郎氏をネタにする 「諸君」座談会編 eichelberger_1999 06/6/4(日) 16:38
[2590]Re(2):瀧澤一郎氏をネタにする 「諸君」座談会編 ゆう 06/6/5(月) 21:04
[2628]やっと半分 ゆう 06/6/13(火) 21:57
[2639]そして、完成 ゆう 06/6/18(日) 9:09
[2640]Re(1):そして、完成 熊猫 06/6/18(日) 23:05
[6083]そして2年 中西輝政氏の所説 ゆう 09/1/3(土) 10:10
[6141]中山隆志先生の見解 かず色 09/1/11(日) 13:35

[2502]「張作霖爆殺事件」KGB犯行...
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 ゆう WEB  - 06/5/13(土) 8:00 -

引用なし
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   最近、「張作霖爆殺事件」に凝っています。こちらに夢中になっているおかげで、おそらくは「ネタ」の宝庫であろう東中野先生の新刊も、まだ斜め読みしかしていない(^^;

きっかけは、最近出てきた「KGB犯行説」。果たしてこの「説」が成立する余地があるのかどうか、ちょっと調べてみたくなったわけです。まだまだ勉強途中で皆さんに発表できる段階にはないのですが、Wikipediaで議論になりましたので、以下の文章を投稿しました。読み返してみると我ながら結構面白いので(^^)、一部改稿の上、こちらにも投稿しておきます。

なお、あちこちで原典を大胆に要約しておりますし、また調査不足の部分も多数ありますので、このまま他のところで「議論」に使われますと、思いがけない「ご迷惑」をおかけするかもしれません。そのうちコンテンツにまとめるつもりですので、どうぞ、それまでお待ちください。


「張作霖爆殺事件」に関して、日本国内の「研究」によって明らかにされている「事実」を、列挙してみます。

1.「張作霖排斥」は、当時関東軍の中で広く行き広まった「世論」であった。例えば秦少将、土肥原軍事顧問などは、「張作霖の従来日本に対する態度は頗る不遜である。依って此の際、東三省より張を排斥して何人かを以て之に代える必要がある」と主張していた(林久次郎『満州事変と奉天総領事』)。斎藤参謀長も日記に「現首相の如きは寧ろ更迭するを可とすべし」と書いており、また村岡軍司令官も、密かに部下の竹下義晴少佐に「張作霖殺害」を指示していた(秦郁彦『張作霖爆殺事件』)。(一部に伝えられる「動機がない」説は、明確な誤り)

2.河本も同じ考えを持っており、事件の直前、在京の親友磯谷大佐宛ての昭和3年4月18日付け書簡で、「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やって見る」と、犯行を予告する文言を書き送っている。(秦郁彦『張作霖爆殺事件』)

3.河本自身、犯行を認めている。例えば、元陸軍少将大野宣明に対し、「私は軍司令官に関係なく自分でやろうと決心したのである」と語っている。(昭和17年12月1日「満州事件関係者七氏の談話手記」=『昭和三年支那事変出兵史』所収 稲葉正夫『張作霖爆殺事件』による)

4.河本は自分の犯行を吹聴していたようで、小磯国昭も、河本から「一切の事情を聴かせて貰った」という(小磯国昭『葛山鴻瓜』=大江志乃夫『張作霖爆殺』より再引用)。また、義弟の平野零児に対しても犯行の経緯を詳細に語っており、平野はその口述筆記を河本の家族に預けた。その一部は、文藝春秋に「私が張作霖を殺した」として発表された。(平野零児『戦争放火者の側近』より=猪瀬直樹監修『目撃者が語る満州事変』所収)(筆記したのがプロレタリア作家の平野氏であることからこの文の信憑性を問題にする向きもありますが、内容的には他の記録との大きな齟齬はなく、またマスコミに流れたのは家族の保存文書である、という経緯から「家族」も事実を認めているものと思われ、大筋では信頼できるものと考えます)

5.実行犯の一人である東宮大尉も、「陰謀の黒幕が関東軍高級参謀河本大作大佐だった」ことを、奉天副総領事森島守人に「内話」している(森島『陰謀・暗殺・軍刀』)。なお、出典は不明だが、『赤い夕陽の満州野が原に』に、東宮大尉の「張作霖の列車を爆破したあと、私は部下のひとりに状況を偵察させた」に始まる、事件経過についての詳細な「証言」が掲載されている。

6.河本は、張作霖の乗車した列車の運行状況を確認するために、途中駅に何人かの偵察者を配した。そのうちの一人、角田市朗中尉の手記によれば、角田は河本の命を受けて駅に張りこみ、張作霖の乗車する列車を確認、その乗車位置を河本に通報した。その通報の1時間後に「爆殺事件」が起きた。(塚本誠『ある情報将校の記録』)

7.事件直後、現場調査を行った民政党代議士松本謙三氏なども、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを中国側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している(『三代回顧録』)。

8.田中義一首相は、峯憲兵司令官・難波憲兵大佐のコンビに、事件の調査を命じた。河本はシラを切ったが、峯は事件の実行者である朝鮮軍筋(桐原大尉等)を尋問して事件の真相をつかみ、爆弾のスイッチを押したのが東宮大尉であることまでも判明した。この情報は田中首相にも伝えられた。(概説書多数の記述)

9.事件の計画者の一人である大陸浪人「工藤鉄三郎」は、身の危険を感じて、小川鉄相に対して、「爆破事件の真相」と題する書簡を送り、事件が陰謀であった旨を告白した。(多数の概説本に記述あり。出典は「小川平吉関係文書」であると思われるが、未確認)

10.関東軍・関東庁・領事館による「張作霖爆殺事件調査特別委員会」が設けられ、関東庁は、関東軍が「南方便衣兵の死体」と発表した「中国人2人」の出自を調査した。この中国人の「調達」に関わったとの情報があった「伊藤謙次郎」「劉載明」「安達隆盛」らに聞き取り調査を行った結果、「伊藤、安達及劉載明の言の大体一致」し、彼らがアヘン中毒の中国人2人を「日本軍の密偵になれ」と騙して「便衣兵」に仕立て上げ、2人を河本に引き渡したことが判明した。伊藤は、「河本は其際爆破は自分の方にて引受くるに付支那人四五名連れ来れ」と自分に言った、など河本との「共謀」を詳細に供述しており、河本の「クロ」は決定的になった。(「張作霖爆死事件 松本記録」=アジア資料センター資料  レファレンスコード:B02031915100)

11.余談ながら、彼らが「調達」した「中国人」は当初3名であったが、うち一名(王某)は途中で計画を聞かされて逃亡した。この王某が、張学良のもとに駆け込んで日本軍の陰謀を暴露し、張学良は事件の真相を知った、と伝えられる。(秦郁彦、他)

12.以上の調査を踏まえて、昭和天皇に対しても河本を犯人とする「上奏」が行われた。(粟屋謙次郎『東京裁判論』。「鳩山文書」の発見による。なお、永井和『張作霖爆殺事件と田中義一首相の上奏』によれば、「河本」の名を出した上奏を行ったのは、田中首相ではなく、白川陸相であると見られる、という)

13.その後、陸軍内の抵抗にあい、田中は関係者の処分を断念。昭和天皇に対して事件の真相を曖昧にする上奏を行った。昭和天皇は、「それでは前と話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」と激怒し、田中は辞任に追い込まれた。昭和天皇によれば、「聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云つたので、軍法会議は取止めと云ふことになつたと云ふのである」という事情があった、と伝えられる。(『昭和天皇独白録』)


これだけの「事実」に固められた「河本陰謀との事実認定」を、KGBの誰ぞやが事件は自分の「手柄」であったと(どのようにして「手柄」を実行したのか、という経緯さえも語らずに)言った、という程度のことで引っくり返せるわけがありません。瀧澤氏自身がいみじくも語っている通り、「ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多い」(『諸君』2006.6)のですから、常識的には「いい加減な自慢話」と捉えておくべきところでしょう。

「KGB犯行説」はロシアの「歴史学者」の記述として伝えられますが、この方は上記の「事実」群には何も触れていないようで、おそらくは日本語が読めず、上の「事実」群を承知していなかったものと思われます。


・・・と、ここまでがWikipediaへの投稿内容。コンテンツにする時には、上の出典を丁寧に引用するとともに、「KGB犯行説」を半分支持するかのような発言を行っている瀧澤氏の文章を、徹底的にネタにするつもりです。
298 hits

[2574]瀧澤一郎氏をネタにする
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 ゆう WEB  - 06/6/3(土) 11:51 -

引用なし
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   ここしばらく「張作霖爆殺事件」に熱中しています。「KGB犯行説」を完全粉砕するだけの材料はとっくに集まっているのですが、最後の「まとめ」に苦心しているところです。とりあえずここでは、「KGB犯行説」に好意的なスタンスをとる、瀧澤一郎氏の文をネタにしてみます。

瀧澤氏の『張作霖を「殺った」ロシア工作員たち』が掲載されたのは、『正論』2006年4月号です。基本的には、「KGB犯行説」が事実であるとまでは断定できない、との論調で話が進みますが、氏の「思い入れ」が圧倒的にこちらの説にあることは明らかです。
以上、張作霖爆殺事件については「ソ連犯行説」も「日本犯行説」も、現段階では決定的説得力に欠けていることがわかる。しかし、「日本犯行説」に数々の捏造疑惑があるのに反して、「ソ連犯行説」は、もう一つ二つソ連側の資料が出てくれば決着する。これは単に時間の問題のような気がする。
他の論者たちが、これで事件の真相はわからなくなった、程度の控えめなニュアンスで語っているのに比べても(ただし「わからなくなった」と言っている方々は、「事件」についてあまり知識を持たない方のみ)、瀧澤氏のスタンスは突出しています。しかしさて、その「動機」は・・・。
さらに言えば、歴史の大きな流れがある。すでに指摘したが、昭和戦争史のすべての重要事件を日本の「犯行」とする「東京裁判史観」が崩れつつあるのだ。張作霖爆殺問題も解明され、この「捏造史」が完全に崩れ去り、日本人が「自虐史観」から自由になる日はそう遠くあるまい。そのときこそ、戦後が本当の意味で終わり、新生日本が誕生するのである。
思い切り勇ましい文章ですが、はてさて、何で「張作霖爆殺問題」の「解明」がいきなり「新生日本」の「誕生」につながっちゃうんだ? と誰しも突っ込みたくなるところですね。要するに、氏にとってこの問題は、「自虐史観」なるものにダメージを与える材料でしかないようです。


まずそもそも、「従来説」が「張作霖爆殺」の犯人が河本大佐だと断定してきた材料は何なのか。氏は、次のふたつをあげます。
「日本犯行説」の根拠としてよく引用されているのが、爆殺工作の「首謀者」とされる関東軍高級参謀河本大作大佐の「手記」と、作家立野信之の小説『昭和軍閥』である。
え、「河本犯行説」の根拠って、これだけのなの? と、この問題に疎い読者はびっくりしてしまいそうですが、もちろんそんなことはありません。だいたい、「立野信之氏の小説『昭和軍閥』というのは、いろいろな資料をつなぎ合わせたいわゆる「二次資料」であり、普通の学者であればこれを直接「根拠」に使うことはないでしょう。なぜここに氏が『昭和軍閥』を持ち出すのか、不思議に思うところです。(念のためですが、立野氏の資料の引用は、結構正確でした)

「河本犯行説」の根拠となる資料は数多いのですが(ある程度は前投稿で紹介済み)、とりあえずは、「本人がそう言っている」という信頼できる資料をあげれば十分でしょう。意外と知られていないのですが、河本が昭和17年に森克己氏のインタビューに応じた記録があります。全文は、森克己氏の『満洲事変の裏面史』で見ることができます。(なお、この本は、「満洲事変」の多くの関係者にインタビューを行った、大変な労作です)

http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku2.html

ご覧の通り、河本自身が、自分の犯行の動機、犯行の状況を詳細に語っています。本人が「自分が犯人である」と詳細な事件経緯を語っているのですから、これに勝る「根拠」はないでしょう。なお、『正論』『諸君』で「これで事件の真相はわからなくなった」とする論者で、この「森記録」に触れている方は誰もいません。ご存知なかったのでしょうか。


さらに瀧澤氏は、「河本大作手記」に対して、このようにコメントしています。
河本大作大佐は、一九五三(昭和二十八)年に中国の太原収容所で悲惨な獄死をとげた。翌年『文藝春秋』(昭和二十九年十二月号)に「私が張作霖を殺した」という「手記」が出た。「日本犯行説」を当然のものとして疑わない多くの著者がこの「手記」を引用している。ところが、これは河本の自筆ではなく、義弟で作家の平野零児氏は「私が河本の口述を基にして筆録したもの」であると言っている(『特集文藝春秋』昭和三十一年十二月) 。「基にして」というところが、どうもひっかかる。そもそも口述録音もなく、真筆でもなく、本人の死後現れたものが手記などと言えるのだろうか。
平野氏は著書『人間改造』を見ればわかるように、中共の収容所で強烈に洗脳され、一九五六(昭和三十一)年に帰国した人である。彼が中共で受けた「マインド・コントロール」の解けないまま、特殊目的をもった文章を書き綴ったとしても何の不思議もない。
実はこの「河本手記」(実際は「河本への聴取記録」)は、河本の秘書であった平田九郎氏が「河本伝記」作成を目的として平野氏に命じて聞取りをさせたものです(平田氏→井星英氏談)。写しのうち一部は河本の遺族に渡り、さらにその写しが現在では防衛研修所戦史部に保存されているようです。

内容がでたらめなものであれば、当然平田氏なり遺族の方なりが抗議しそうなものですが、その気配はありません。内容的にも、全く独立した聴取記録である「森記録」と概ね一致しており、少なくとも「河本がこのようなことを語った」という事実は否定できそうにありません。

念のため、河本大作『私が張作霖を殺した』全文、及びこの記録の出自に関する、平野氏、井星氏の記述を掲示しておきます。

http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/koumotodaisaku.html


その他、河本は、いろいろな方に自分の「犯行」について語っていたようです。松本清張『昭和史発掘』中の『満洲某重大事件』にも「河本と山西産業社時代に最も近しかった城野宏という人が河本から聞いたという話」が掲載されていますし、井星英氏も「たとへば、大川周明博士門下狩野徹氏は、昭和六年、十月事件の直後、河本氏と東北視察旅行に行く途次、車中にて事件の内容を聴いた、と昭和五十五年十二月三日、自宅にて筆者に語られた」との記述を残しています。(『張作霖爆殺事件の真相』(一)=『芸林』1982年6月号P6)


最初は、事件の当事者の一人である「川越守二大尉手記」を紹介し、さらには瀧澤氏の『諸君』2006年6月号における発言もネタにする予定だったのですが、いいかげんに大変な長文になってしまいました。今日はここまでにします。

PS 引用部分を青地にして見やすくしようと思ったのですが、どのようにタグを使えばいいか、よくわかりません。誰か、教えてください(^^;

[管理人二回修正:タグ打ち]
266 hits

[2575]Re(1):瀧澤一郎氏をネタにする
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 とほほ E-MAIL  - 06/6/3(土) 12:53 -

引用なし
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   ▼ゆうさん:
>引用部分を青地にして見やすくしようと思ったのですが、どのようにタグを使えばいいか、よくわかりません。誰か、教えてください(^^;

<font color=blue>ここに引用部を書く</font>

と言う風に使います。尚この掲示板では引用符を全角の > ではなく、半角で > を使うと自動的に色付けします。

また引用であることを示すには
<BLOCKQUOTE></BLOCKQUOTE>
と言うタグもよく使われます。
これに色づけすることも出来ます。
<BLOCKQUOTE><font color=blue>ここに引用部を書く</font></BLOCKQUOTE>

他にもテーブルを使って引用部を表現している常連投稿者さんも多いですね(^.^)

タグの使い方とかは簡単に
思考錯誤ヘルプ
に書いてあるので参考されてください。
220 hits

[2576]Re(2):瀧澤一郎氏をネタにする
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 太宰由紀夫 E-MAILWEB  - 06/6/3(土) 13:37 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>▼ゆうさん:
>>引用部分を青地にして見やすくしようと思ったのですが、どのようにタグを使えばいいか、よくわかりません。誰か、教えてください(^^;
>
>ここに引用部を書く
>
>と言う風に使います。尚この掲示板では引用符を全角の > ではなく、半角で > を使うと自動的に色付けします。
>
>また引用であることを示すには
>

>と言うタグもよく使われます。
>これに色づけすることも出来ます。
>
ここに引用部を書く

>
>他にもテーブルを使って引用部を表現している常連投稿者さんも多いですね(^.^)
>
>タグの使い方とかは簡単に
>思考錯誤ヘルプ
>に書いてあるので参考されてください。


ウィキペディアには、右派工作員が、かなりいるようですね。私もしばらく前まで、ウィキの編集に携っていましたが、いまは、もっぱらブログで言いたいこと書いています。粘着的に突っ込まれるのに、嫌気が差したのが理由。
217 hits

[2579]Re(2):瀧澤一郎氏をネタにする
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 トロープ  - 06/6/3(土) 21:01 -

引用なし
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    ゆうさんのウィキペディアの記事は時々拝見しています。記事の執筆だけでなく、妙な人物の相手まで本当にお疲れ様です。なんであの種の連中というのは実りある議論ができないのやら……。

 ところで、とほほさんの解説に少し補足です。
 引用部分を「青地」にするというのが「青字」じゃなくて背景色のことを差しておられるのなら、タグの内部にstyle="background-color:(背景色)"という字句を挿入すれば好きに決められます。背景色はwhiteのように色名を書くか、#のあとに16進数でRGB(赤緑青)を指定します。

 私は背景色は<blockquote style="background-color:#ccffff">のように#ccffffで薄い青緑にしています(#cffでも同じ色になります)。
 ところでこれを思考錯誤で最初にやったのはたぶん私ですけど、微妙に普及しているようで少し気恥ずかしいかも(^^;。

(入力の例)
 一部の人間は<blockquote style="background-color:#ccffff">南京大虐殺は捏造だ!</blockquote>と主張している。

(表示の例)
 一部の人間は
南京大虐殺は捏造だ!
と主張している。


 注意点としては、blockquoteタグの前後で改行を入れると少し見栄えが崩れることがあります。少し変な感じですが、タグの前後は繋げて書くのがよいです。
216 hits

[2580]Re(3):瀧澤一郎氏をネタにする
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 とほほ E-MAIL  - 06/6/3(土) 21:15 -

引用なし
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   ▼トロープさん:
> 引用部分を「青地」にするというのが「青字」じゃなくて背景色のことを差しておられるのなら、タグの内部にstyle="background-color:(背景色)"という字句を挿入すれば好きに決められます。背景色はwhiteのように色名を書くか、#のあとに16進数でRGB(赤緑青)を指定します。

あー、なるほどBLOCKQUOTEってスタイル属性が使えるのですね、みんなそうやっているんだ(^^;
てっきりテーブルを使っているのかと思いました(^^ゞ

> 注意点としては、blockquoteタグの前後で改行を入れると少し見栄えが崩れることがあります。少し変な感じですが、タグの前後は繋げて書くのがよいです。

実はこれはこの掲示板の弱点なのです。改行を入れてしまうと<br>に変換してしまうのです。ですからテーブルなどを使うときにも改行を入れたらおかしくなるので改行を入れずにHTMLを書かなくてはならず、非常にやりにくいのです。
219 hits

[2581]瀧澤一郎氏をネタにする 「諸...
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 ゆう WEB  - 06/6/3(土) 21:51 -

引用なし
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   オフ会でも「とほほ」さんにちょっと申上げましたが、この「思考錯誤」板の存在、私のような(本業は「歴史」とは全く無関係の)「素人歴史ネットワーカー」にとっては、大変ありがたいものです。このように、HPで公表する前に自分の思考をまとめる助けになりますし、何よりも投稿者のレベルが高いので、おおい、私の書いたこと、ちゃんと読んでくれよお、というレベルのしょうもないコメントにいちいち答える必要がないのが嬉しいところです。

さて、本題。折角「青字表示」の方法を教えていただきましたので、調子に乗って、『諸君』2006年6月号の記事をネタにしてしまいましょう。

『諸君』2006年6月号は、わざわざ「張作霖爆殺の犯人はソ連諜報員か」との章を設けて、この説も十分可能性があるものである、という印象を読者に植え付けようとしています。瀧澤氏がほとんど突出した発言を行っているようですので、こちらをじっくりと取り上げてみることにしましょう。


まず、次の瀧澤氏の発言をご覧ください。私は、ひょっとしたらこれは「誤植」ではないかと思い、何度も目をこらしてこの部分を見直しました。さて皆さん、すぐにわかりますか?

ユン・チアンが「ソ連犯行説」の参考にしたのは、2000年にモスクワで出版されたコルパキヂとプロホロフの共著『GRU帝国第一巻』です。GRUとはソ連軍諜報本部情報総局のことです。私はこの原著を読みましたが、『GRU帝国』は張作霖爆殺のソ連犯行説については次のように書いています。

<「グリーシカ」機関の実行したいくつかの工作の中でも、いちばん世間を騒がせたのは一九二八年六月の張作霖爆殺であったろう。張作霖は北京政権を牛耳り、露骨な反ソ姿勢をとっていた。特別列車が爆破されたとき、張作霖の乗っていた車両の隣の客車にはイワン・ヴィナロフ(エイティンゴンの部下)が乗車しており、事件現場の写真を撮った。謀殺は周到に計画され、日本軍の特務機関がやったように見せかけた>


念のためですが、犯人は、ゴルゴ13のように、列車に乗った張作霖を外から銃撃しようとしたわけではありません。(駅近くで速度を落としているとはいえ)高速で動く列車に、タイミングを見計らって線路に仕掛けた爆薬を爆発させ、張作霖の乗車している車両を狙っていたわけです。

最初にスイッチを押したところ失敗し、もう一度押し直してようやく成功、たまたまそのタイミングで張作霖の乗車車両が爆破地点の上にあったために張作霖爆殺に成功した、という、まさに「幸運」としか言いようのない状況での「爆破成功」でした。

そんな状況で、「イワン・ヴィナロフ」という人は、「張作霖の乗っていた車両の隣の客車」に乗っていたそうです。「狙いの正確さ」がここまで不確実な状況で、いくら何でも、「写真を撮る」だけのために、そこまで危ないことをするかあ。

ちなみに、張作霖の顧問、嶬峨中佐は、まもなく駅に着くという連絡を受けて張作霖の乗車車両を離れて自分の車両に引き返し、危うく難を逃れています。(それでもかなりの傷を負っています。このエピソード、結構面白いのですが、詳しくは後日発表の私のページで)


私のような素人が見ても「全く無茶な記述」なのですが、座談会の参加者の誰一人として、ここまで明白な「おかしな発言」に突っ込もうとはしません。まあ、いちいち突っ込む暇もないほど、座談会の流れが速かったのかもしれませんが。


さて、瀧澤氏の発言を追っていきましょう。

瀧澤 一九二〇年代、三〇年代のソ連では暗殺は日常茶飯事。喜んでやるような連中がソ連諜報部にはたくさんいましたからね。ただ、ソ連犯行説も完璧ではありません。『GRU帝国』には情報の出所が明示されていないんです。プロホロフは元軍人なので、未公開文書に触れた可能性はあるものの、それについては本の中でも何も語っていない。私も裏付け情報が出るのを待っているのですが、出版から六年たっても出て来ません。

伊藤 私はエイティンゴンが自分の手柄にするために、報告書でもデッチ上げて書いたんじゃないかという印象を受けましたね。

瀧澤 おっしゃる通り、仮にそうした文書が残っていたとしても、"偽の報告書"である可能性もあります。ソ連の情報機関は上からのプレッシャーが強く、手柄の奪い合いや粉飾が頻繁で、偽書も多いですから。


意外なことに、この部分、私も瀧澤氏に完全に同意できます。ここまで冷静な判断ができるのに、どうして瀧澤氏、「ソ連陰謀説」などという「トンデモ」に走ってしまうのか。

なお、ここの「伊藤」というのは、伊藤隆氏のことです。前投稿で紹介した「森記録」の存在は、私も、伊藤氏の論稿によって知りました。この座談会で、ほとんど唯一、まともな発言を行っている方です。


さて、ここまで冷静な発言を行いながら、瀧澤氏はまた、「トンデモ」に走ってしまいます。

瀧澤 (略)でもこれだけの大謀略ですから、関係者の証言が現れるのではないかと期待しているんですよ。張爆殺の下手人がソ連であったとの証拠を固めるには、あと一つ二つ史料が欲しいところですね。でも、当時のハルピンにおけるソ連特務機関の動きを細かく分析すれば、かぎりなくクロに近い疑惑と言えます。


どうも、氏のご意見は、「文書」ベースでの新史料の発見はほとんど期待できないが、「関係者の証言」によって「ソ連陰謀説」が立証できるかもしれない、ということのようです。これは直後の氏の発言と矛盾しているのですが、それはともかく、河本本人を含む「関係者の証言」は、どうして無視するんでしょうか。

ついでですので、前投稿で紹介しそこねた、「仕掛人のひとり」である川口守二大尉の証言を紹介しておきます。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/kawagoe.html


さて、ここで冷静な見解を述べているのが、伊藤氏です。

伊藤 私はやはり日本の軍部がやったと考えています。というのは田中義一内閣の鉄道大臣だった小川平吉氏の手記によると、現地から詳細な報告とともに事後処理に関する相談を受けていることがわかるからです。「国民党便衣隊員の仕業に見せかけるために用意していた中国人の一人に逃げられてしまった。この用意をした中国人を逃がすための費用が必要だ」という生々しいやり取りが出てくるんですよ。


「座談会」という「形式」のためか、伊藤氏は、必ずしも「言いたいこと」のすべてを尽くしているようには見えません。過去の論稿で、伊藤氏はもっと突っ込んだ発言を行っています。なおこの件については、小川平吉手記の他に、「松本記録」という文書が存在します。

http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/matumotokiroku2.html

余談ながら、森島守人氏によれば、この「逃げた中国人」が張学良の下に駆け込んで、事件の真相を中国側に暴露したとのことです。


さて、瀧澤氏の、最後の発言です。

瀧澤 東京裁判で検察側の証人として出廷した外交官、森島守人も同じようなことを著書『陰謀・暗殺・軍刀』に書いています。しかし、これらはいずれもいわゆる伝聞証拠です。


実際に、『陰謀・暗殺・軍刀』の記述を見てみましょう。

私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。(P22)


何のことはない、森島氏は、事件の当事者である「東宮大佐」から、直接「内話」されているわけです。これ、普通の感覚では「伝聞」とは言いません。


さて、瀧澤氏の発言を、もう一度読み直してください。

>でもこれだけの大謀略ですから、関係者の証言が現れるのではないかと期待しているんですよ。

今から80年近く前の事件ですので、「関係者」の年齢は、例え存命であっても、どう控えめに見ても100歳近く。そんな「関係者の証言」など出てくるわけがありません。出てくるとしたら、「関係者から話を聞いた」という、氏の言うところの「伝聞」証言が精一杯でしょう。でも氏は、本人以外の「伝聞」証言など、とるに足らぬものであると考えているようです。

瀧澤氏の考えに素直に従うのであれば、「ソ連犯行説」は、永遠に「立証」されそうにありません。さて瀧澤氏、一体、どうするんでしょうね(笑)。
275 hits

[2586]Re(1):瀧澤一郎氏をネタにする...
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 eichelberger_1999 E-MAIL  - 06/6/4(日) 16:38 -

引用なし
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    ゆうさん、お久しぶりです。

 張作霖爆殺はソ連スパイの犯行説をもちあげるトンデモ説に対する批判と資料集作成のお仕事、いつもながら興味深く拝見しております。

 ご紹介の「張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録」の、杉山軍務局長の発言

「調査方針を示したる書類を峯憲兵司令官に授け満州地方に出張せしめ関東軍司令官と協議の上本件調査方を命じたるに付同司令官帰京(十月八日頃帰京の筈)し其報告に接さは更に本件の真相を捕捉し得へきか」

で言及されている「峯憲兵司令官の調査報告書」は、その現物は残っていませんが、それを踏まえてなされた白川陸軍大臣の昭和天皇への報告(内奏)の写しは現存しています。

 ゆうさんの#2502で言及されている粟屋憲太郎氏が東京裁判の国際検察局文書の中に発見した「鳩山一郎提出書類」に含まれるものです。原本は日本ではなく、アメリカの国立公文書館にあります。なお、鳩山は田中義一内閣の内閣書記官長でした。
 
 粟屋『東京裁判論』で紹介されている内容は以下のとおりです。

  厳秘
  内奏写
 曩ニ上聞ニ達セシ奉天ニ於ケル爆破事件ハ其後内密ニ取調ヲ続行セシ結果、矢張関東軍参謀河本大佐ガ単独ノ発意ニテ、其計画ノ下ニ少数ノ人員ヲ使用シテ行ヒシモノニシテ、洵ニ恐懼ニ堪ヘズ。
 就テハ軍ノ規律ヲ正ス為、処分ヲ致度存スルモ今後此事件ノ扱ヒ上、其内容ヲ外部ニ暴露スルコトニナレバ、国家ニ不利ノ影響ヲ及ボスコト大ナル虞アルヲ以テ、此不利ヲ惹起セヌ様深ク考慮ヲ致シ充分軍紀ヲ正スコトニ取計度存ズ。
右ノ取扱方ハ陸軍ノ将来ニモ関係スル重大事項ニ付、参謀総長、教育総監ト内議ヲ遂ゲ、且ツ元帥方ノ御意見モ承リシ処、孰レモ同意ナルヲ以テ此議上聞ニ達ス
右内奏終ルヤ御下問アリ
直ニ奉答シ置ケリ


 陸軍省は、調査の結果、犯人が河本であることをつきとめ、それを昭和天皇に報告したわけです。1929年の3月27日のことだと推測されます。
 だからこそ昭和天皇は、その『独白録』で「この事件の首謀者は河本大作大佐である」と断言したのです。

 ソ連犯行説がほんとうなら、河本大作はソ連のエージェントでなければ辻褄があいません。そのことを示すソ連の秘密書類でもでてこないかぎり、ソ連犯行説はトンデモ説以外の何ものでもない。

 なお、峯報告書が陸軍省に保管されていたことは、東京裁判への田中隆吉証言でもふれられています。田中は陸軍省兵務局長時代の1942年1月にそれを読んで、真相を知ったと陳述しています。

 最後に、すでにご存知かもしれませんが、「松本記録」とは、外務参与官および外務政務次官であった松本忠雄夫が在任中(昭和8年12月より14年1月)に、外務省記録のうち、政治、外交、条約関係等の重要文書を筆写し、所蔵していたものです。この時期の原本の外務省記録が焼失、紛失してしまったので、原本のかわりに、現在外務省外交史料館に保存されています。詳しくはこちらをご覧になってください。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shozo/senzen_1.html
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[2590]Re(2):瀧澤一郎氏をネタにする...
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 ゆう E-MAILWEB  - 06/6/5(月) 21:04 -

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   いや、eichelbergerさんの「守備範囲」の広さには、いつものことながら、驚かせられます。


そもそもアカデミズムの世界では、「関東軍のどこまでが爆殺事件に関わっていたのか」「河本の真の動機は何か」「"上奏"の真の内容は何か」といった議論は盛んなのですが、「本当に真犯人は河本だったのか」というファンダメンタルな議論は、まず目にしません。

当り前の話、まともな学者さんでしたら、私が取り上げた程度の資料など、とっくにご存知のはずですから。


「張作霖爆殺」と「柳条湖事件」の区別もはっきりついていなかった私が(^^;、たった2、3か月でこれだけの資料を集めることができたのですから、まともな学者から見れば、「KGB陰謀説」なぞ、それこそ「炊飯物」の世界でしょう。

ま、私の作成しかけているコンテンツも、「アカデミズムからの本格的な反論」が出てくるまでの、「つなぎ」程度のものであるのかもしれません。


実は今回の調べで最も役に立ったのは、あまり世に知られていない、井星英氏の『張作霖爆殺の真相』と題する長大な論文でした。

筆者はどうやら保守派の学者であるらしいのですが、すべての記述に出典がきちんとついていることに加え、ご自分の独自の「聞取り調査」もあり、大変重宝しました。この問題では秦氏の論稿(『昭和史の謎を追う』所収の『張作霖爆殺事件』)が有名なのですが、その重厚さで、比較になりません。

(ちなみに秦氏は、よく読むと、結構怪しげなことも書いています。秦氏、ちょっといろいろな問題に手を広げすぎの感がありますね)


実は、「峯調査」の内容が今日では確認不能になっている、との事実は、この論文で始めて知りました。確かに概説書を見ても、その具体的な文面にまで言及したものはありませんね。

しかし、eichelbergerさんのデータにもある通り、この「調査」の存在自体は、疑う術もありません。例えば、「森克己氏の聞取り記録」(『満州事件の裏面史』)で、建川美次中将の、こんな発言を発見しました。

彼の時の峰憲兵司令官も馬鹿な奴だった。調査に行ったのは、そんな事実なしということを調べにやった筈なのだ。現地へ行って河本らを呼び出し、「帝国軍人はそんなことはせぬ。お前ら何を馬鹿げたことをいうか、そんなことは捏造だろう」と叱り飛ばして帰って来ればよいのに、態々調べ上げて来て、あの結果になった。(森克己『満洲事変の裏面史』 P326)

いや、リアルです。当時、「峯調査」が、かなり広い範囲に知られていたことを窺わせます。


なお、粟屋憲太郎氏の発見した「上奏文」(鳩山文書)については、永井和氏が、この上奏は田中首相によってなされたものではなく、白川陸相によって行われたものである、との論文を書いていますね(『張作霖爆殺事件と田中義一首相の上奏』=『日本歴史』1990年11月号)。eichelbergerさんは、既にそのことまでご存知でいらっしゃるようですが。

なお、秦氏は「1992年10月」に『張作霖爆殺事件』の「補筆」を行っていますが、「鳩山文書」の内容に細かく触れながら、永井論文の内容への言及はありません。秦氏の方はご存知なかったのでしょうか。


あと、「松本記録」です。こちらを「アジア資料センター」の資料で発見して、(手書きであまりに読みにくいので)自分で筆写してみたのですが、その内容には驚きました。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/matumotokiroku2.html

何のことはない、伊藤謙二郎、安達隆盛、劉載明といった「首謀者」たちが、一致して「現場の中国人の死体は実は自分たちの偽装工作だった」と告白しています。こんな資料が残されているのに、「実はKGBの仕業だった」なんて発想、どうして生れるんでしょうね。

eichelbergerさんのおっしゃるとおり、河本は実はKGBのスパイだった、という突拍子もない「仮定」をしない限りは、この説は成立しえません。まあもっとも、「KGBのスパイ」だったのならば、何で中国共産党に捕まって獄死するような羽目になったのか、という新たな疑問が生れてしまいますが(笑)。


・・・ところでひょっとして、eichelbergerさんって、「アカデミズムの世界」の方なのでしょうか。詳しすぎます。
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[2628]やっと半分
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 ゆう E-MAILWEB  - 06/6/13(火) 21:57 -

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   とりあえず、「張作霖爆殺事件(1) 河本大佐犯行説、これだけの根拠」をアップしました。

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chousakurin.html

続く「張作霖爆殺事件(2) KGB犯行説をめぐって」も、のんびりと(^^;作っていく予定です。
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[2639]そして、完成
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 ゆう WEB  - 06/6/18(日) 9:09 -

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   「張作霖爆殺事件(2) KGB犯行説をめぐって」をアップしました。

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chousakurin2.html

この問題に詳しくない方にも楽しんでいただけるコンテンツになったのではないか、と自負しています。結構、自信作です(笑)


どちらかというと「資料集」の感がある前コンテンツ「張作霖爆殺事件(1) 河本犯行説、これだけの根拠」と合わせれば、「張作霖爆殺事件」についての議論状況は、ほぼ把握できるのではないか、と思います。なお、「小川平吉関係資料」を確認できましたので、こちらの記述も加えてあります。

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chousakurin.html


3か月がかりの「張作霖爆殺事件」問題も、とりあえずはこれで一段落。さあて次は、何をやろうかな(笑)。
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[2640]Re(1):そして、完成
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 熊猫 E-MAIL  - 06/6/18(日) 23:05 -

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   >さあて次は、何をやろうかな(笑)。

ニセ札!アヘン!慰安婦!沖縄戦!・・・・・てのは?
あと「日本の豊台事件」と「中国の豊台事件」とでは全く内容が違うのに、何故か論争にならなくて、児島襄氏が少しだけ話題にした程度じゃないでしょうか?
実は、日本軍が中国で発行したニセ札の生資料の入手に失敗してしまい、古銭マニアの方にゲットされてしまいました(T-T)。コピーでいいから見たかった・・・・・。一生の不覚!!!!恐るべしマニア!
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[6083]そして2年 中西輝政氏の所説
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 ゆう WEB  - 09/1/3(土) 10:10 -

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   年末、mixiで「張作霖爆殺事件」に関する議論をしました。

その時に相手が持ち出してきたのが、中西輝政氏の所説です。早速『歴史の書き換えが始まった!』なる小冊子(小堀桂一郎との対談)を取り寄せて読んでみたのですが、これ、まさに爆笑ものでした。


はっきり言えば、拙サイトの「張作霖爆殺事件 河本大佐犯行説、これだけの根拠」、及び「張作霖爆殺事件(2) 「ソ連犯行説」をめぐって」を見ていただければ、それで済む内容です。
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chousakurin.html
http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/chousakurin2.html


両方読み比べるのが面倒な方向けに、サイトに批判文を掲載しておこうと考えていますが、とりあえず書きかけの「さわり」だけ紹介しておきます。

以下、本文。

★★★
2006年以降、「張作霖爆殺事件=ソ連犯行説」は、事実上アカデミズム界からも論壇からも無視された形になっていました。裏付けがあまりに貧弱であり、到底従来の「河本大佐犯行説」への対抗軸とはなりえない、という「判断」も、その背景にはあるでしょう。

 しかし2008年秋、防衛庁航空幕僚長、田母神敏雄氏が「日本は侵略国家であったのか」と題する論稿を発表し、その中で「ソ連犯行説」に触れたことから、この論議が復活したようです。

 いくつかの論稿を見る限り、過去の拙コンテンツ、「張作霖爆殺事件 河本大佐犯行説、これだけの根拠」、及び「張作霖爆殺事件(2) 「ソ連犯行説」をめぐって」を上回る材料はほとんどないのですが、ここでは、小堀桂一郎氏と中西輝政氏の対談『歴史の書き換えが始まった!』に即して、中西氏の所説を見ていくことにしましょう。


小堀氏の「前振り」が、いきなり大胆です。

小堀 (略)まず、やはり私共が、「ああ、そうだったのか」という感慨を覚えましたのが、張作森爆殺事件の真相についてです。これまでの通説は関東軍が起こした事件とされていましたが、実はソ連コミンテルンが計画し関東軍の仕業に見せかけたものだったという説ですね。

 関東軍の河本大作の自己認識が、果たしてあれは自分の工作の成功だったのだと、本当に思いこんでいたのか、それとも祖国を裏切ってまでソ連の謀略工作を庇うという、そういう気持ちがあって、「あれは、俺がやったんだ」というふうに言い張ったのか、という事は勿論簡単には解けませんけれども、その辺、現在の中西さんの解釈はいかがでしょうか。(P16)

 小堀氏の頭の中では、いきなり「ソ連犯行説」が事実となってしまったようです。

 「果たしてあれは自分の工作の成功だったのだと、本当に思いこんでいたのか、それとも祖国を裏切ってまでソ連の謀略工作を庇うという、そういう気持ちがあって、「あれは、俺がやったんだ」というふうに言い張ったのか」という「二者択一」も、何とも大胆なものですが、ここには「あるいは実際に河本の犯行であったのか」という、ごく普通の選択肢がすっぽりと抜け落ちています。


中西氏は、まずこう答えます。

中西 (略)ある歴史問題の特定の解釈についてそれが正しいかどうかを判断するには、その歴史像を作り上げてきた元の過程に遡って、どうしてそういう話が流布するようになつたか、というところまで遡らなければいけないということです。

張作霧爆殺事件も、その手法で遡っていきますと、殆ど全部が伝聞資料です。しかも、相当事後的な、もう何年も後になって誰それから聞いた、例えば関東軍の参謀が言っていたけれども、こんな話だったとか、当時、東京では「関東軍がやった」と内閣や宮中に報告された、とかいう類いの全て間接的なものですね。(P16)



これははっきりと、中西氏の嘘です。

「河本が自分で犯行を語った」長文ヒアリング資料として、「森記録」「平野記録」のふたつがあります。「河本から直接話を聞いた」という証言も、私が知るだけでも四つあります。

「張作霖爆殺事件 河本大佐犯行説、これだけの根拠」でも紹介しましたが、「河本から直接話を聞いた」代表的なものとして、当時の鉄道相小川平吉氏、及び、のちの首相の小磯国昭氏の証言を再掲しましょう。

『小川平吉関係文書』より

 其後昭和五年間居中河本大佐は永田大佐と共に予を平塚に訪ひ、具さに当時の事を語れり。其談によれば初め村岡司令官の発意に対し反対せしが、後に至り独自全責任を以て決行せりといふ。而して劉に対しては金円贈与の約をなしたることなしといへり。惟ふに此点は安達氏の取計らひならん乎。昭和六年十月追記。

(P627)

小磯国昭『葛山鴻瓜』より


 此の事件のあった直後、筆者が年来懇意にして来た関東軍高級参謀の河本大作大佐が上京することを承知し、事件の真相等をも聴取することが出来ると思ったので、其の着京を出迎へる為、東京駅に行って見た。プラットホームで列車の到着を待ってゐると、そこへ参謀本部の荒木貞夫中将と小畑敏四郎大佐が来合はせたので挨拶すると、矢張、河本大佐を出迎へに来たといふのであった。其の中、河本大佐が予定の通り下車したが、駅では立話も出来ないので一緒に麹町平河町実亭に行き会食後、一切の事情を聴かせて貰った。

 此の作霖氏爆死事件を巡つて田中首相と白川陸相との間に責任者処分権限問題が論争の種となり、田中首相は処分問題に関し天皇陛下に内奏した所と結果とに喰ひ違ひを生じた責任を執り、内閣総辞職を決行するに至ったのだと聞いてゐる。

 関東軍司令官村岡長太郎中将と河本大作大佐とは此の事件に関連して共に現役を退くことになった。

(P491)

「本人から直接聞いた」という話は、普通「伝聞」とは表現されないでしょう。これだけでも、「ほとんどが伝聞資料です」という中西氏の所説は崩壊します。

しかしその後、中西氏は、わざわざ「岡田啓介証言」「森島守人証言」「田中隆吉証言」「佐々木到一証言」といった「伝聞資料」を2ページにわたって大仰に取り上げ、「資料はこれしかない」という印象操作を試みようとします。もちろん、上のふたつの証言には、触れようともしません。


その「伝聞資料」の否定ぶりも、何とも強引なものです。 

中西 (略) それから森島守人という外交官の証言も伝聞の伝聞で、しかも戦後、社会主義者になった人ですので、これまた割り引く必要があります。 (P17-P18)


 どうも中西氏には、「社会主義者であれば嘘をついてもおかしくない」という、根拠のない偏見があるようです。

 それはともかく、「伝聞の伝聞」という表現も、無茶なものです。森島氏の証言を、再掲しましょう。

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より

 私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。(P22-P23)


「伝聞の伝聞」どころか、犯行グループの一人から直接話を聞いているわけです。


参考までに、この本の巻末から、著者の略歴を抜き出してみましょう。

森島守人

1896年−1975年
1919年東京大学法学部卒業
1928-35年奉天総領事代理、ハルピン総領事代理として満州事変を処理
1936・37年東亜局長を経て北京・上海大使館参事官として日華事変の処理に当る
1939-46年アメリカ大使館参事官、ニューヨーク総領事として太平洋戦争開始前後の日米折衝に関与、戦争勃発から終戦までポルトガル公使を務めた後、退官
1955年以降衆議院議員、社会党国際事務局長・外交部長・政策審議会外務部長を務めた


中西氏の偏見はともかく、社会的地位の高い人物であったことがわかります。森島氏が、こんなつまらないところでウソをつく理由も見当たりません。他の資料とも整合性がとれます。

証言の信頼性は、証言者の資質、証言の状況、証言内容等を総合的に勘案して決定されるべきものです。森島氏の証言を「割り引く」理由など、何ひとつ見当たらないことがわかります。

★★★


ここまでで、三分の一ぐらい。まだまだ続きます(笑)。
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[6141]中山隆志先生の見解
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 かず色 E-MAIL  - 09/1/11(日) 13:35 -

引用なし
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   ―昭和史が書き換えられる― 進む秘密史料の公開
 中山 隆志 陸自58
 ※偕行 2009年1月号P23より一部引用

◆『マオ』の提起した問題の一部
28年の張作霖爆殺は長らく関東軍の一部によるものと思われてきたが、同書には、実はソ連情報部が実行し、日本軍の仕業に見せかけたものだというと記されている。その根拠は英語版の註によれば、コルパキディとプロホロフ共著『GRU帝国(1)』であるが、こちらの根拠はGRU史料というだけで詳細が明示されていないので、説得力不十分である。一方、これまでの関東軍によるという根拠は殆ど伝聞であり、張本人とされた河本大作大佐(中国の大原収容所で獄死)の一人称で書かれた手記「私が張作霖を殺した」(『文芸春秋』54年12月号)は義弟の平野零児氏の書いたものであって、信憑性に疑問がある。断定困難な二つの見解があるとしか言えない現状である。<以下、省略>

--------------------------------------------

関東軍研究の権威、中山隆志先生がこの問題に参戦したことで、当該議論の展開が俄然面白くなってきたと思います。中山先生は頭の良い方ですから本心は否定したいところを、「信憑性に疑問がある。断定困難な二つの見解があるとしか言えない現状である」と最終的には結論を保留されております。然しながら、客観的史料等から判断し、河本犯行説は揺るぎない事実。詳細についてはゆうさんのHP、又は秦郁彦氏の検証論文(『政経研究』44巻1号収録)で概ね反証可能でしょう。
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