提示した画像は、南京崇善堂掩埋隊工作人員一覧表です。隊長の名前が周一漁ではなく周一通となっています。
他にも周一通と記述されていますので、これは誤記ではなく、当時中国では別号を名乗る習慣がありましたのでどちらかが別号であった可能性があります。有名なところでは蒋中正は介石、汪兆銘は精衛、何応欽は敬之というような号をつかっていました。はたして「号」なのか、「手書き文字の読み違い」なのか興味のあるところです。
崇善堂の12月の埋葬
崇字埋葬隊は12月26日から埋葬活動(1,011体)をしたとされていますが、実際には崇善堂は崇字埋葬隊を組織する以前から埋葬活動をしていたのではないかと思います。
『日中戦争 VOL3 1937/1945』児島襄(文芸春秋)202項〜203項
-----十二月十六日、
日本軍は掃蕩と清掃を急いだ。
翌日、十七日に入城式、次いで十八日に陸海合同慰霊式をおこなうことがきまったからである。
とくに、市内に散乱する中国側の死体の片づけが、急務とみなされた。
入城式行進のルートは、中山門から国民政府大礼堂までの目ぬき通りがえらばれている。
「安全区」委員会に協力がもとめられ、委員会は、紅卍会(楊登瀛)と慈善団体「崇善堂」(周一通)に委託した。
紅卍会は急には人夫が集められない旨を回答し、「崇善堂」だけが、「安全区」の難民を「一体四角」の処理賃金で動員した。
だが、それでもわずか四十人をあつめ得たにすぎず、おかげで死体処理といっても、中山路と中正路が交差する鼓楼附近の死体を、双龍巷、石婆婆巷などの路地の側面につみあげるか、いくつかの池に投棄するだけで埋葬は後日に待つほかはなかった。
児島襄氏が何を根拠にこのような記述をしたかは不明ですが、『週間文春』の1974年1月4日号〜1981年の12月24日号に記載されたもので、この当時に憶測などで周一通の名前を記載することは不可能なことであり、きちんとした調査によるものであることは間違いありません。
周一通という名前は洞富雄氏ですら知らなかった名前です。
『南京大虐殺の証明』洞富雄(朝日出版社)72項
「周一通」は「周一漁」の誤りか------洞注記
漁と通
発音も違いますし通常は間違える文字ではありません。しかし、「漁」という文字を手書きで続け字で書くと「通」に見える可能性はあるとおもいます。南京崇善堂掩埋隊工作人員一覧表も周一通ではなく、実際には周一漁と書いているのが、「通」に見えているのかも知れません。右下の角印は「南京市崇善堂図記」となっていますので、崇善堂の主要メンバーの誰かによって記載されたものだと思います。
児島襄氏が日中戦争を執筆中に、南京崇善堂掩埋隊工作人員一覧表を見るのは不可能と思いますので、崇善堂が作成した非常に貴重な資料を入手していたか、特別な情報提供者でもいない限り周一通の名前は出てこないはずです。