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[4350]崇善堂 熊猫 07/4/20(金) 15:08 [添付]
[4351]児島襄氏の信憑性 熊猫 07/4/21(土) 13:24 [添付]
[4381]児島襄氏の幼稚な南京の地理認識 熊猫 07/4/30(月) 9:10
[5835]Re(1):崇善堂 かず色 08/10/11(土) 23:18
[5839]Re(2):崇善堂 熊猫 08/10/15(水) 8:59
[5848]Re(3):崇善堂 かず色 08/10/16(木) 21:38
[5854]Re(4):崇善堂 熊猫 08/10/18(土) 1:43
[5858]Re(5):崇善堂 かず色 08/10/18(土) 23:42
[5863]Re(6):崇善堂 とほほ 08/10/19(日) 5:08
[5870]Re(7):崇善堂 かず色 08/10/19(日) 9:10
[5872]Re(8):崇善堂 とほほ 08/10/19(日) 9:28
[5874]Re(6):崇善堂 熊猫 08/10/19(日) 14:15
[5879]Re(7):崇善堂 かず色 08/10/20(月) 22:56
[5880]Re(8):崇善堂 熊猫 08/10/20(月) 23:37
[5882]Re(9):崇善堂 かず色 08/10/20(月) 23:56
[5887]Re(10):崇善堂 とほほ 08/10/21(火) 23:55
[5896]Re(10):崇善堂 熊猫 08/10/23(木) 3:27

[4350]崇善堂
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 熊猫 E-MAIL  - 07/4/20(金) 15:08 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : File0017.jpg
・サイズ : 81.9KB
  
添付画像【File0017.jpg : 81.9KB】  提示した画像は、南京崇善堂掩埋隊工作人員一覧表です。隊長の名前が周一漁ではなく周一通となっています。
 他にも周一通と記述されていますので、これは誤記ではなく、当時中国では別号を名乗る習慣がありましたのでどちらかが別号であった可能性があります。有名なところでは蒋中正は介石、汪兆銘は精衛、何応欽は敬之というような号をつかっていました。はたして「号」なのか、「手書き文字の読み違い」なのか興味のあるところです。

崇善堂の12月の埋葬
 崇字埋葬隊は12月26日から埋葬活動(1,011体)をしたとされていますが、実際には崇善堂は崇字埋葬隊を組織する以前から埋葬活動をしていたのではないかと思います。

『日中戦争 VOL3 1937/1945』児島襄(文芸春秋)202項〜203項
 -----十二月十六日、
 日本軍は掃蕩と清掃を急いだ。
 翌日、十七日に入城式、次いで十八日に陸海合同慰霊式をおこなうことがきまったからである。
 とくに、市内に散乱する中国側の死体の片づけが、急務とみなされた。
 入城式行進のルートは、中山門から国民政府大礼堂までの目ぬき通りがえらばれている。
「安全区」委員会に協力がもとめられ、委員会は、紅卍会(楊登瀛)と慈善団体「崇善堂」(周一通)に委託した。
 紅卍会は急には人夫が集められない旨を回答し、「崇善堂」だけが、「安全区」の難民を「一体四角」の処理賃金で動員した。
 だが、それでもわずか四十人をあつめ得たにすぎず、おかげで死体処理といっても、中山路と中正路が交差する鼓楼附近の死体を、双龍巷、石婆婆巷などの路地の側面につみあげるか、いくつかの池に投棄するだけで埋葬は後日に待つほかはなかった。
 児島襄氏が何を根拠にこのような記述をしたかは不明ですが、『週間文春』の1974年1月4日号〜1981年の12月24日号に記載されたもので、この当時に憶測などで周一通の名前を記載することは不可能なことであり、きちんとした調査によるものであることは間違いありません。


 周一通という名前は洞富雄氏ですら知らなかった名前です。
『南京大虐殺の証明』洞富雄(朝日出版社)72項
 「周一通」は「周一漁」の誤りか------洞注記
 

漁と通
 発音も違いますし通常は間違える文字ではありません。しかし、「漁」という文字を手書きで続け字で書くと「通」に見える可能性はあるとおもいます。南京崇善堂掩埋隊工作人員一覧表周一通ではなく、実際には周一漁と書いているのが、「通」に見えているのかも知れません。右下の角印は「南京市崇善堂図記」となっていますので、崇善堂の主要メンバーの誰かによって記載されたものだと思います。
 児島襄氏が日中戦争を執筆中に、南京崇善堂掩埋隊工作人員一覧表を見るのは不可能と思いますので、崇善堂が作成した非常に貴重な資料を入手していたか、特別な情報提供者でもいない限り周一通の名前は出てこないはずです。
339 hits

[4351]児島襄氏の信憑性
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 熊猫 E-MAIL  - 07/4/21(土) 13:24 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : koro03.JPG
・サイズ : 117.4KB
  
添付画像【koro03.JPG : 117.4KB】  児島襄氏の南京の地理認識は危険なものがありますので、鼓楼・双龍巷・石婆婆巷に印をつけた地図を提示します。
 児島襄氏の著書より再提示します。「だが、それでもわずか四十人をあつめ得たにすぎず、おかげで死体処理といっても、中山路と中正路が交差する鼓楼附近の死体を、双龍巷、石婆婆巷などの路地の側面につみあげるか、いくつかの池に投棄するだけで埋葬は後日に待つほかはなかった。」


中山路と中正路が交差するか?
 中山路と中正路は交差しません。新街口を境にして北側が中山路で南側が中正路です。勿論、中山路と中正路がぶつかる場所は「鼓楼」ではなく「新街口」です。
 
児島襄氏は何故間違えたのか?
 児島襄氏は、中山北路を中山路、中山路を中正路と認識したために「中山路と中正路が交差する鼓楼附近」という頓珍漢な記述をしてしまったのだと思います。
 この間違いは児島襄氏だけではなく、陸軍参謀本部の陸地測量部が1932年に作成した南京の地図も中山北路を中山路として間違えています。つまり日本軍も中山北路を中山路という間違った認識をしていたということです。当然、南京の南北に通る道は中正路になってしまいます。
 陸地測量部が南京の地図を間違えて作成するのは仕方の無いことです。この地図を使って幕府山事件の恥ずかしい検証をしたのが板倉由明氏です(^^)

陸地測量部が1932年に作成した南京の地図
 「死体処理といっても、中山路と中正路が交差する鼓楼附近の死体を、双龍巷、石婆婆巷などの路地の側面につみあげるか、いくつかの池に投棄するだけで埋葬は後日に待つほかはなかった。」児島襄氏が陸地測量部の地図を見て、想像の元にこのような記述をするのは不可能です。
【理由1】
 柏書房が『近代中国都市地図集成』を出版したのは1986年であり、板倉氏の場合と異なり児島氏が地図を見るのはタイムマシンでもないかぎり困難である。
【理由2】
 児島氏が絶対に地図を入手できなかったとは断定できません。仮に入手できていたとしても、陸地測量部の地図には「双龍巷」「石婆婆巷」の地名は記載されていません。

 至誠堂の『最新南京地図』などを入手していたとしたら、「中山路と中正路が交差する鼓楼附近」なんて頓珍漢な記述はしないはずです。児島襄氏の幼稚な南京の地理認識からして、詳細な地図は持たなかったと思います。

児島襄氏の著書の資料価値
 誤記あるいは誤認と思われるものが、逆に資料価値を高める場合があると思います。通常であれば児島襄氏の著書は、資料の出所も提示せずエビデンスも明確にしないままに書かれており無視するところなのですが、当事者でなければ解らない間違いをしていますので、その記述の信憑性は非常に高いものと思われます。
 再度、『週間文春』に1979年1月4日〜1981年12月24日に記述されたということを根拠に信憑性が高いという理由を提示します。
【理由1】
 当時、誰も知らなかったはずの「周一漁」が「周一通」として記述されている。周一通の名前が最初に記載された『証言・南京大虐殺』が青木書店より出版されたのは、1984年8月です。
【理由2】
 南京の詳細な地名を記述しているにも関わらず、中山北路を中山路と間違えている。中山路と間違えた柏書房の『近代中国都市地図集成』が出版されたのは、1986年5月です。

結論
 偶然では考えられない「周一通」と「中山北路」の記述は、当時の南京で崇善堂とかかわった日本軍関係者以外は知らないことであり、「鼓楼附近の死体を、双龍巷、石婆婆巷などの路地の側面につみあげるか、いくつかの池に投棄するだけで埋葬は後日に待つほかはなかった。」とか「難民を「一体四角」の処理賃金で動員した。」というのは、多少の記憶違いはあっても事実ではないかと思います。
235 hits

[4381]児島襄氏の幼稚な南京の地理認...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/4/30(月) 9:10 -

引用なし
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    訂正します。中山北路は陸地測量部の地図では「中山路」となっていますが、大阪毎日新聞社が1937(昭和12)年9月1日に発行した、『中支戦局詳解地図』の「南京市街図」では、中山北路は「中正路」と間違えています。
 児島襄氏はあらかじめ「鼓楼附近の死体を、双龍巷、石婆婆巷・・・・」だけ認識して、あとは(間違えている)地図を見て文章を記載したとも考えられます。

 当時は中山北路中山路とか中正路と間違えた認識がされていた。連隊史なんかを読んでも、よく地名が間違えられています。旧軍人の方の証言に地名があったらそれは要注意ということでしょう。
231 hits

[5835]Re(1):崇善堂
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 かず色 E-MAIL  - 08/10/11(土) 23:18 -

引用なし
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    崇善堂の埋葬記録については長らく不毛な論争が続いておりましたが、最近の中国側研究者の論調の変化には実証主義的傾向が見られ、今後の議論の流れには確実に変化の兆しがあります。これは、南京事件の学術的・実証主義的研究といった観点から、日中双方に好ましい傾向であると考えます。以下、笠原十九司著『「百人斬り競争」と南京事件』より一部引用。
---------------------------------------------------------------
 ※笠原十九司著『「百人斬り競争」と南京事件』(大月書店刊)P256〜257

 埋葬資料については、埋葬団体が埋葬統計数に関するこれまでの議論について、根本からやり直しが必要であることを明らかにした、孫宅巍編『南京大屠殺史料集 第5巻 遇難者的死体掩埋』(江蘇人民出版社、鳳凰出版社、2005年)が出版された。同史料集には、これまで知られてきた慈善団体の世界卍字会、崇善堂、中国紅十字会の他の慈善団体の埋葬資料、安全区国際委員会、日本軍占領下の傀儡市南京政府による埋葬、日本軍部隊の処理、埋葬、さらに民間個人による埋葬と、種々の埋葬史料が収録されている。

 先の判決(注:谷寿夫裁判判決)の根拠となった崇善堂が埋葬した11万2,267体について、崇善堂記録では4月が10万4,718体となっているが、同史料に収録された「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止と記録されている(同史料集、145P)。他の史料で確認する必要があるが、そうだとすれば、4月の10万4,718体の処理数には疑問が生ずることになる。

 同史料を編集した孫宅巍は、埋葬史料の統計には、大小さまざまな慈善団体間で同一地域における重複が見られるので、判決文に見られるような単純な加算は不可であると指摘している。一方では、これまで知られなかった埋葬団体による1万3,700体の埋葬という数字も紹介されている(44)。

 注記論文で孫宅巍は「新しい埋葬史料の一部は、従来の資料内容とそれに基づいた認識[30万人虐殺説を意味する]に衝撃と挑戦を確実に与えるものである。・・・・・挑戦の結果、これまでの認識を維持するか、あるいはこれまでの認識を覆すことになるか、いずれにせよ、歴史の真実に向かって前進させる一歩である」と結んでいる。これまで、中国における南京大虐殺研究の第一人者として「30万人虐殺説」を主張してきた氏の、学者として勇気のある誠実な発言である。<以下、省略>

(44)孫宅巍「新発現南京大屠殺埋屍資料的重要価値」(江蘇省中国近現代史学会・南京民間抗日戦争史料陳列館編『南京大屠殺研究新論』2007年)。
----------------------------------------------------------------
 孫宅巍先生の歴史家としての態度に、改めて敬意を表したいと思います。
190 hits

[5839]Re(2):崇善堂
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 熊猫 E-MAIL  - 08/10/15(水) 8:59 -

引用なし
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   ▼かず色さん:
 私も孫宅巍さんの歴史家としての態度には、かねてから敬意を表しています。陥落直前の南京の人口の論説は画期的なものでした。

 元崇善堂の埋葬隊に雇われた、郭立言さんと崔金貴さんの証言があります。このうち崔金貴さんはその証言内容からして、4月9日から23日に行われた第二隊の埋葬活動であることは間違いないでしょう。
『この事実を……』加藤実訳(星雲社)418頁

 わたしが行ったのはもうかなり暖かい時で、三月か四月のことでした。初めの日は水西門外二道geng3子の金華醤油廠に行き、その工場の醤油のかめから屍を掬いあげたのですが、それはどれも日本兵が日本兵が中国人を抛り込んだもので、それに別のところから集めてきた屍もありました。
 専門に集計した者がいたと証言していますが、埋葬者の崔金貴さんは整った死体はほとんどなく数えなかったことを証言していますので、四月に埋葬を行ったのは確かでしょうが、その数は参考数値程度の認識で良いと思います。

 
 あと郭立言さんは第三隊主任の郭全濤の息子ではないかと思うのですが、ちっとも話題になりません。洞、藤原、本多の3氏は大切なことを聞き忘れています。それとも知っていて記述しないのか?第三隊主任の職業は裁判所の書記官だったかどうか、……気になるところです。
155 hits

[5848]Re(3):崇善堂
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 かず色 E-MAIL  - 08/10/16(木) 21:38 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:

 南京事件に関する中国側埋葬数記録には従前から疑念を抱いておりますが、それは崇善堂等の存在・活動を否定するといったものでは全くありません。これら諸団体は、南京攻略戦終了後に埋葬活動に従事していたと考えます。

 但し、埋葬数記録は、戦後の軍事法廷での被虐殺者に関する証明資料となった為、その後の中国側研究者にとって、一種の「学術的聖域」になってしまったのではないか、とも推察しております。

 私は、今後の自由且つ学術的な研究調査によって、新たな事実が発掘されることを望んでおります。そしてその結果として、日本軍による虐殺事実を証明するものが出てきたとすれば、それは学術的調査の帰結として、謙虚に受け止めるべきであると考えます。
132 hits

[5854]Re(4):崇善堂
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 熊猫 E-MAIL  - 08/10/18(土) 1:43 -

引用なし
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   ▼かず色さん:
> 私は、今後の自由且つ学術的な研究調査によって、新たな事実が発掘されることを望んでおります。そしてその結果として、日本軍による虐殺事実を証明するものが出てきたとすれば、それは学術的調査の帰結として、謙虚に受け止めるべきであると考えます。

 かず色さんが謙虚に受け止めるべきものは、「埋葬数」とそれを証明する証言です。疑う根拠は存在しません。単純に「埋葬記録があるんだ」「それを裏付ける証言もあるんだ」で良いのです。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=5283;id=sikousakugo#atop
 「安全区以外は」の城外版を調べていて驚いたのですが、崇善堂埋葬記録と証言内容が符合しています。
126 hits

[5858]Re(5):崇善堂
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 かず色 E-MAIL  - 08/10/18(土) 23:42 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:

 埋葬数を疑う根拠はあります。孫教授の提示する問題点もその一つです。
118 hits

[5863]Re(6):崇善堂
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 とほほ E-MAIL  - 08/10/19(日) 5:08 -

引用なし
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   ▼かず色さん:
> 埋葬数を疑う根拠はあります。孫教授の提示する問題点もその一つです。

本当に実証史学というものの論理が理解できない方ですね(^^;
そもそも、埋葬記録があるから疑いが無い、と言う主張は出来ないのですよ。実証史学にわかることは、埋葬記録がある、と言う事実です。それだけで十分なのです。

4月に埋葬が行われていないのであれば、と言う前提で4月分の埋葬記録を疑おうが、その結果が如何にあろうが、歴史学的結論には関係ないのです。逆に言えば、4月に行われていないのになぜ4月の埋葬記録があるのでしょう?
「行われていない」と言う資料を信用し、埋葬記録は信用しない、と言う論理に具体的な説明・根拠はあるのでしょうか?

資料が無いから、真実ではない。とはいえ無い。これの意味がわかりますよね?エセ実証主義(かず色さんが陥っているもの)の誤謬にそろそろ気がつきましょうよ。
123 hits

[5870]Re(7):崇善堂
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 かず色 E-MAIL  - 08/10/19(日) 9:10 -

引用なし
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   ▼とほほさん:

まあ、今後の中国側研究者の研究成果を注視していきましょう。

>▼かず色さん:
>> 埋葬数を疑う根拠はあります。孫教授の提示する問題点もその一つです。
>
>本当に実証史学というものの論理が理解できない方ですね(^^;
>そもそも、埋葬記録があるから疑いが無い、と言う主張は出来ないのですよ。実証史学にわかることは、埋葬記録がある、と言う事実です。それだけで十分なのです。
>
>4月に埋葬が行われていないのであれば、と言う前提で4月分の埋葬記録を疑おうが、その結果が如何にあろうが、歴史学的結論には関係ないのです。逆に言えば、4月に行われていないのになぜ4月の埋葬記録があるのでしょう?
>「行われていない」と言う資料を信用し、埋葬記録は信用しない、と言う論理に具体的な説明・根拠はあるのでしょうか?
>
>資料が無いから、真実ではない。とはいえ無い。これの意味がわかりますよね?エセ実証主義(かず色さんが陥っているもの)の誤謬にそろそろ気がつきましょうよ。
119 hits

[5872]Re(8):崇善堂
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 とほほ E-MAIL  - 08/10/19(日) 9:28 -

引用なし
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   ▼かず色さん:
>まあ、今後の中国側研究者の研究成果を注視していきましょう。

あなたの、主張を聞いているのですよ。本当に発言に責任感が無いですね。
126 hits

[5874]Re(6):崇善堂
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 熊猫 E-MAIL  - 08/10/19(日) 14:15 -

引用なし
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   ▼かず色さん:
> 埋葬数を疑う根拠はあります。孫教授の提示する問題点もその一つです。

 根拠になっていません。
125 hits

[5879]Re(7):崇善堂
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 かず色 E-MAIL  - 08/10/20(月) 22:56 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:

それでは、孫先生の問題提起についてはどの様にお考えですか?

>▼かず色さん:
>> 埋葬数を疑う根拠はあります。孫教授の提示する問題点もその一つです。
>
> 根拠になっていません。
114 hits

[5880]Re(8):崇善堂
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 熊猫 E-MAIL  - 08/10/20(月) 23:37 -

引用なし
パスワード
   ▼かず色さん:

>それでは、孫先生の問題提起についてはどの様にお考えですか?

 それも参考程度です。問題提起は論拠になりません。先生が崇善堂の数値が重複しているという証拠でも見つけない限りは意味がありません。勿論、崇善堂の方の「四月の埋葬記録は他の埋葬記録と重複しています」という証言でもあれば別ですが……。
 空想レベルの話と、実証主義を混同してはいけません。
226 hits

[5882]Re(9):崇善堂
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 かず色 E-MAIL  - 08/10/20(月) 23:56 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:

 孫先生の「「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止と記録されている」との問題提起は、私は非常に重要であると考えます。

>▼かず色さん:
>
>>それでは、孫先生の問題提起についてはどの様にお考えですか?
>
> それも参考程度です。問題提起は論拠になりません。先生が崇善堂の数値が重複しているという証拠でも見つけない限りは意味がありません。勿論、崇善堂の方の「四月の埋葬記録は他の埋葬記録と重複しています」という証言でもあれば別ですが……。
> 空想レベルの話と、実証主義を混同してはいけません。
230 hits

[5887]Re(10):崇善堂
←back ↑menu ↑top forward→
 とほほ E-MAIL  - 08/10/21(火) 23:55 -

引用なし
パスワード
   ▼かず色さん:
> 孫先生の「「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止と記録されている」との問題提起は、私は非常に重要であると考えます。

そろそろ、議論のルールを守りましょうよ。
この問題提起が重要である、と言うのであればどういったことで重要なのかきちんと論証してください。

では、なぜ4月分の埋葬記録があるのか?
だれかが4月分を捏造したのか?何のために?4月分の虐殺が無いとして誰が利益を得るのか?またあるとして誰が利益を得るのか?捏造の根拠はあるのか?

単純に考えて、崇善堂とはボランティアの団体です埋葬活動も、上からの組織的命令で動く軍隊のような団体ではありません。組織としてはこれで活動を止めましょう、しかしここの人々の行動を制限するものではなく、4月にも遺体が残っているのであればボランティアの人々は活動を続けたことでしょうし、記録にも残したことでしょう。

かず色さんの妄想の中の「どこかの陰謀」を考えるより、上記のように考えた方がはるかに現実的です。し、この問題の結論がどうなろうと南京虐殺の全体像に対した影響は与えません。
223 hits

[5896]Re(10):崇善堂
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 熊猫 E-MAIL  - 08/10/23(木) 3:27 -

引用なし
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   ▼かず色さん:
> 孫先生の「「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止と記録されている」との問題提起は、私は非常に重要であると考えます。

 1938年9月の「南京市慈善団体調査表」は誰が作成したのですか?その調査表の「備考」には1月23日に埋葬工作を開始し3月29日に終わる(熊猫訳)≠ニあります。
 孫先生は如何なる問題提起をされていますか?12月から1月にかけての埋葬は無かったと申しましたか?
 文章をつまみ食いして、孫先生の問題提起を誤解していませんか?孫先生は淡々と史料を提示しているだけです。南京自治委員会宛ての周一漁の手紙を引用し、「1月23日からというのはない」と否定しています。
217 hits

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