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[4921]昭和12年の国際法 熊猫 07/11/3(土) 23:37 [添付]
[6166]Re(1):昭和12年の国際法 かず色 09/1/12(月) 1:18

[4921]昭和12年の国際法
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 熊猫 E-MAIL  - 07/11/3(土) 23:37 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : kaigun.JPG
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添付画像【kaigun.JPG : 23.3KB】  提示した画像(出るかな?)は海軍省の国際法の本です。
 ありがたくも海軍大学校教官兼海軍書記官であらせられる榎本重治さんが著によるものです。
『支那事変に於ける帝国海軍の行動と国際法』海軍省海軍軍事普及部(昭和十二年十一月)30頁より

 右の外支那軍行動中には国際法の重大違反の行動が多々ある(例へば通州に於ける婦女幼者の虐殺、毒「ガス」焼夷弾の使用等)、併し乍ら帝国軍は其の品位を失墜するを欲せず争ふべからざる復仇権利をさへ行使することを差控へて居る。
 なんともまあ、素晴らしい軍隊じゃございませんか。しかし残念ながら陛下の軍隊は其の品位を失墜させてしまいました
 重慶爆撃には焼夷弾を使い、河北省北坦村で毒ガスを使い、既に通州事件より先に平頂山村で婦女幼者の虐殺をしました。
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[6166]Re(1):昭和12年の国際法
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 かず色 E-MAIL  - 09/1/12(月) 1:18 -

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   ▼熊猫さん:
> 右の外支那軍行動中には国際法の重大違反の行動が多々ある(例へば通州に於ける婦女幼者の虐殺、毒「ガス」焼夷弾の使用等)、併し乍ら帝国軍は其の品位を失墜するを欲せず争ふべからざる復仇権利をさへ行使することを差控へて居る。</blockquote> なんともまあ、素晴らしい軍隊じゃございませんか。しかし残念ながら陛下の軍隊は其の品位を失墜させてしまいました
> 重慶爆撃には焼夷弾を使い、河北省北坦村で毒ガスを使い、既に通州事件より先に平頂山村で婦女幼者の虐殺をしました。

戦争中、日本軍が戦時国際法に違反したことは揺るぎない事実です。特に毒瓦斯戦等に関しては、主として中国に甚大な被害を与えました。但し、致死性瓦斯・生物兵器使用に前向きであった現地司令部に対し、天皇の意向が一定のブレーキとなって働いていたことは案外知られておりません。簡単に纏めてみましたのでご紹介いたします。

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【検証1:米海軍情報部「フェル報告」】
●昭和22年、東京裁判ソ連検事団が、同年1月8日付の覚書でウィロビー少将に対し、抑留中の柄沢十三夫軍医少佐が人体実験をした供述書を添え、石井四郎以下3名の尋問を要求。
●3月29日、米国国務・陸海軍3省調整委員会はソ連要求の拒否、及び石井再尋問を決定。
 (注)終戦直後から石井部隊関係者は米軍の尋問対象となっておりました。
●昭和22年4〜6月、デトリック研究所員であったフェル博士による石井部隊関係者並びに具体的研究内容の詳細な再調査を開始。同年10月より同研究所の2博士も参加する。
 ⇒ 石井部隊関係者、人体実験を認める。詳細なデータを米国側に提出。
●昭和22年8月5日付、米海軍情報部レポート(フェル報告成果の要約)概要。
 ・石井部隊研究対象の内、家畜用炭疽菌とペスト蚤は有効。
 ・但し、免疫ワクチンにより予防可能。
 ・石井四郎と増田知貞発言を引用
  『このプロジェクトが天皇によって許可されていなかった為、必要な物資の供給が受けられず、軍の他の部局の協力が得られなかった』と証言。
 ・石井部隊の失敗要因についての分析
  1.天皇の支持を欠いていた。
  2.科学者と軍人との実践的な協力を欠いていた。
  3.信頼できる気象データを持っていなかった。
  4.野外の作戦に合致した培養方法その他を採用していなかった。

【検証2:秦郁彦氏の見解1.】
 *『正論』1990年4月号記事より引用
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(前略)天皇の関与については、数年前にイギリスの新聞が取り上げた際、私は『天皇が決裁する軍令であっても、内容を知らなかった例が少なくない』と控えめにコメントしておいたが、最近「陸密大日記」に関連文書を発見した。それは1936年5月21日付で参謀本部第一課が起案した昭和11年度の兵備改善に関する上奏案で、「在満兵備」の10.として「防疫に関する部隊---人、馬の防疫に関する部隊各1個を新設す」とある。
その一つが8月に軍令で編成された関東軍防疫部すなわち731部隊であるが、この表現だと、昭和天皇はせいぜい細菌防御研究と理解したのではあるまいか。天皇が真相を知った時点は不明だが、とうやら石井は、実戦投入という彼の宿願が実現しなかったのは、天皇の「無理解」のゆえと思い込んでいたふしがある。

【検証3:秦郁彦氏の見解2.】
 *『昭和史の謎を追う(上) 第22章:日本の細菌戦(下)』より引用
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大本営作戦課員の朝枝繁春少佐が服部作戦課長に呼ばれたのは、サイパン陥落の直前であった。「陛下の御内意はいかんということだが、それでも細菌戦をやることになった。ついてはハルビンに行って状況を見て来い。」
少佐はその年の春まで関東軍作戦課で731部隊を担当、対ソ戦の使用計画を作っていたので指名されたものと推察した。すぐにハルビンへ飛んで帰ってくると、「部隊は引き受けると言ってます」と復命したが、以外にも服部大佐は「やっぱり止めることにしたよ」と申し渡した。
今も健在の(注:現在は死去されております)朝枝は、作戦発動となれば、731部隊航空班の飛行機でペスト蚤を詰めた爆弾を米艦船の上空からばらまく構想だったと語るが、やってみても成功の公算は皆無に近かったと思われる。
6月19日のマリアナ沖海戦で、敵艦隊攻撃に向かった数百機の海軍艦載機が、強力な防空戦闘機群に阻まれて、ほとんど目標に到達できなかったからだ。それに汚染した甲板はDDTを撒くか海水で流せば終わりで、ペスト患者が発生する可能性はなかったろう。

しかしサイパン失陥の衝撃で動転していた大本営は、理性を失い、狂気の世界に身を委ねていた。亡国の悲運を回避するには手段を選ぶ余裕はない---そうした空気の中で特攻戦術が採用され、毒ガスや細菌兵器の使用が論議された。

この時期の部内の動きを記録している真田少将(大本営陸軍部作戦部長)メモは、要点だけの走り書きなので意味をとりにくいが、次のような断片的記事が散見される。
「大局上直チニ禁止スルコト(あか筒)」(7月12日)
「瓦斯ハ使ハヌカ使フカ 早ク決メラレ度」(7月26日)
「ガスハ米トスモーニナラヌ。ヨリテ使ハヌコトトセラレタナラバ兵本トシテハ結構ナリ」(7月27日?)
「2、毒ガス生産ニ関スル部内意見取マトメ、3、ガスト細菌ノ件 返、4、北野少将ヲ招ビシヤ」(8月5日)
(注:あか筒は催涙ガス、兵本は兵器行政本部)

大本営も多少は冷静さを取り戻したらしく、質量ともに劣る毒ガス戦を挑むのは日本側が不利と納得する過程を示したものと読み取れるが、細菌の部分はおそらく風船爆弾への搭載問題を指しているのではなかろうか。

成層圏の強い西風を利用して、米本土に焼夷弾を積んだ気球(風船爆弾)を送り込む奇想天外な作戦は11月3日から始まるが、10月25日、梅津参謀総長の上奏に際し、昭和天皇は作戦自体は裁可したものの、細菌の搭載は許可しなかった。(半藤一利「もう一つの聖断」、文藝春秋増刊『昭和の瞬間』1988)。

しかし細菌戦に対する陸軍の執着が、これで断ち切れたわけではなかった。半藤によると、1945年春の硫黄島戦でも、731部隊長に返り咲いた石井と作戦部が提案した細菌戦実施案が、医務局の反対で流れたという。

この時点になると、細菌攻撃を考えていたのは陸軍だけではなかった。海軍も小沢軍令部次長の発案で直属のPX作戦計画がスタート、責任者は作戦課部員の榎尾義男大佐が坐った。海軍には細菌の手持ちが無かったので、731部隊から譲り受け、改造した大型潜水艦に積み込み、艦載機で米本土かサイパンに撒こうという構想だった。

榎尾談では陸軍の服部作戦課長は乗り気で、4、5回会って打合せしたが、梅津参謀総長が否決したので流れ、服部は中国の連隊長、榎尾は九州の航空隊司令へ転出、立ち消えになった。その後も海軍部内では細菌戦議論が燻ぶっていたが、陸軍側をふくめ生物学者でもあった昭和天皇の意向がブレーキの役を果たした、と認める関係者が多い。 <以上、引用終>
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細菌戦実施に関して昭和天皇が一定のブレーキ役を果たしたとの見解は、概ね私の見解と同じですが、一方で一部英国側研究者には、天皇が積極的に細菌戦に関与したのではないかとの見解もあります。次は【検証1】〜【検証3】への反対意見をご紹介いたします。

【検証4:英国人研究家の見解】
 *P.ウィリアムズ、D.ウォーレス著『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』より引用
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[天皇は知っていたのか]P63〜
石井が生物戦研究の主導役であるのははっきりしていた。彼は1945年までに生物化学兵器の大量生産を可能にした。しかし協力、認可、実行、予算などの当事者が誰であったのかはまだ充分に解明されていない。生物戦は日本国の最高レベルの軍事作戦の一部となっていたことははっきりしている。したがって、この国の軍部の最高指導者の何人かが間違いなく関わっていた。それは誰だろうか?そして天皇は知っていたのだろうか?後にこれらの疑問に対する答を曖昧にする為に、人々は恐ろしく長い時間を費やすことになる。

今の時点からすると、日本軍組織内部の命令系統は複雑に見える。誰が関わっていたのか、正確に見分けることは難しい。しかし、おおよその全体像を再現することは出来る。

これを理解する一つの手掛かりは、部隊の資金源にある。731部隊の資金源は3つあったと言われている。全体的な意味では関東軍の指揮下にあった。攻撃的生物戦の研究に関しては、直接陸軍参謀第2部の指揮系統に入っていた。そして、第3に、陸軍省がある程度コントロールしていた。全体的な政策決定の指示は、陸軍省軍務局から来ていたが、研究の細部に関わる方針の決定権は、陸軍省医務局の衛生課が握っていた。100部隊には関東軍を経由して、陸軍省から人件費60万円の予算が出ていた。100万円が関東軍の情報部第2課から、攻撃的生物戦の研究の為に支出されていた。731部隊の予算総額は1,000万円、人件費300万円、20万から30万円が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも、731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることは無かった。関東軍の獣医将校は、生物戦研究の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。

小泉親彦中将は、最初から石井の仕事を支持していた。小泉は後に医務局長になった。1941年7月から1944年7月までは厚生大臣であり、石井の仕事を直接東条内閣に結びつける結果となった。また早い時期から、石井は陸軍統制派のリーダーで、陸軍省軍務局長でもあり、日本帝国陸軍の中で最も強力な一人であった、永田鉄山からも支持を受けていた。

石井はここでも皇道派と統制派という陸軍内部の相対立する派閥の狭間で、皇道派のリーダーであり、陸軍大臣でもあった荒木貞夫からさえも支持を取り付けた。

したがって、ごく初期の段階から、陸軍上層部が石井の仕事を認知していた。その上、関東軍首脳部の多くが認知していたに違いない。満州占領後、満州事変の主要な扇動者の一人である石原莞爾中佐がじかに石井に対して、資金と実験用の人間を送り届けている。記録によれば、関東軍の三代の司令官が石井の仕事に関わっている。植田謙吉大将(1936年3月〜1939年9月まで)は、人体実験用の人間を「特別移送扱」とする命令を最初に下した。この仕組みは植田の後任の梅津美治郎大将(1939年9月〜1944年7月まで)や山田乙三大将(1944年7月〜1945年8月まで)によって引継がれた。梅津は石井の中国における細菌兵器による攻撃を認可した。また植田はおそらく、ノモンハンにおける細菌戦を同様に認可した。

梅津は関東軍での要職を歴任した後、陸軍参謀長となった。かくして梅津は太平洋戦争を終結させた降伏文書の調印者となったのである。山田は関東軍の司令官になる前から、石井の仕事について知っていた。1939年10月に就任した日本軍教育総監として、山田は細菌兵器による破壊工作要領などを含む、謀略隊戦闘教範作りの責任者でもあった。

一時期、首相、陸軍大臣、陸軍参謀総長という3つを兼務した東条は、関東軍時代には、石井の人体実験のフィルムを見ていた。東条は1935年から37年の間、関東軍憲兵隊司令官であり、後に関東軍参謀長となった。首相となったその月の内に、東条は石井に陸軍技術者功章を手ずから渡している。731部隊の活動について知っていたその他の関東軍首脳には、勿論1940年10月から41年4月まで参謀長だった、木村兵太郎も含まれているだろう。木村は後に、陸軍省次官となり(1941年4月〜43年3月まで)、それからビルマ方面軍司令官となった。1934年から36年まで関東軍司令官だった南次郎大将は、当時関東軍司令部において人体実験のフィルムが上映されていたというのであれば、間違いなく人体実験については承知していたことであろう。そのような認識は、1932年から34年まで関東軍参謀長であった小磯国昭大将にも及んでいたかもしれない。陸軍大臣だったこともある小磯は、1944年東条が失脚した後、日本国首相となった。

関東軍関係者以外では、1942年3月から11月まで支那派遣軍司令官だった畑俊六大将は当然、1942年夏の浙&#36123;作戦に細菌兵器が使用されたことを知っていただろう。

畑、東条、木村、梅津、小磯、南、そして荒木、これら全員が、後に東京戦犯裁判の被告となった。そして、奉天特務機関長土肥原賢二大将、1936年から37年まで関東軍参謀長で、1938年から39年まで陸軍大臣だった、満州事変の陰謀者の一人板垣征四郎大将(当時は中佐)が被告席に加わった。土肥原と板垣は石井の仕事についての知識を上記の同僚たちと共有していたに違いない。

そのうちの多くが国政の頂点まで上り詰めた陸軍首脳のほとんどが、石井の仕事について、認識していたか、認可をあたえていたことははっきりしている。

軍部を除けば、外務省は平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルビンの日本領事館の地下室がマルタの留置所として使われていたことからも言える。

細菌部隊についての情報は、さらに上層まで到達していたのだろうか?皇族は知っていたのだろうか?昭和天皇の弟である三笠宮は731部隊を視察している。部隊のカメラマンだった山下はその時の事を回想して、次の様に語ってくれた。

『私は731部隊の幹部隊員と三笠宮の、記念撮影のカメラマンを勤めました。私は三笠宮が平房の部隊の内部を視察する時には同行しなかったので、三笠宮がどこまで見たのかはわかりません。あいにく、私か撮った写真は、三笠宮の眼鏡が反射していて、目の辺りがよく見えませんでした。ひどく機嫌を損ねた石井隊長に、修正するようにきつく言われました。我が部隊は科学の粋を集めているのだから、そのような修正ができないはずはないというのです。この出来事のせいで、私は三笠宮が部隊を訪問した時のことをよく覚えています。』

宮自身がその回想録の中に、「兵隊の突撃力を向上させる為に、銃剣訓練に生きた捕虜を使ったと士官学校の同期性が話していたこと」「多数の中国人捕虜が毒ガスの人体実験の為、満州の平原を行進させられているフィルムを見せられたこと」を書いている。また更に、階級の高いある軍医が「満州事変の後、国際連盟から派遣されたリットン調査団に対して、コレラ菌で汚染した果物を食べさせようとしたが失敗した」という話をしたと書いている。「この様なことが、聖戦の名の下に行われていた」とも書いている。

天皇の従兄弟で宮田陸軍中佐として知られる竹田宮は、東京の大本営勤務の後、1943年8月、関東軍作戦参謀として作戦本部に勤務し始めた。関東軍作戦部長松村少将は、ハバロフスク裁判の証人として、宮田中佐の731部隊に関連した任務について次のように供述している。

『宮田中佐は関東軍作戦部と731部隊の連絡役として、作戦部から特別に任命されていました。731部隊への訪問者に対して直接通行証を発行するのが、作戦本部副部長である竹田宮の仕事でした。訪問者はその通行証を竹田宮に返却することになっていました。』

関東軍と731部隊とは日常的に接触しており、作戦本部は、細菌の生産必要量、備品の補給、731部隊に必要な専門人員の養成などについて、指令を与えていた。更に細菌兵器使用方法の研究の為、関東軍内部には特別委員会が設置されていた。この委員会の構成員には竹田宮と731部隊及び100部隊の部隊長、関東軍司令官、参謀長だった。この会議では細菌爆弾のフィルムが上映された。またある時、笠原幸雄中将(関東軍参謀長)が竹田宮に対して、731部隊を訪問し、兵器生産について報告するように命令したので、彼は山田司令官を伴って、平房を公式に視察したということも知られている。部隊の印刷担当だった上園は、その時のことを覚えていて、「私は、731部隊正門の隣の本部で仕事をしていました。誰か偉い人が部隊を訪問すると必ず記念撮影するんですが、大体正門の前に並ぶんです。天皇の従兄弟の竹田宮が731部隊に来て、記念撮影をしていたのを覚えています」と語った。

天皇は自国の細菌兵器開発について知っていたのだろうか?一説によれば天皇は細菌兵器を認可したという。731部隊新設の命令には、天皇の印鑑が押されていた。また731部隊の様々な形での拡張計画が布告された折にも、同様であったといわれている。このような印鑑は無数の軍関係者の命令や、政府の文書に押されていた。いばしばそれは単なるゴム印以上のものではない。天皇の印を必要とする命令について、軍首脳部が毎回詳細な説明を求められた訳ではなかったかもしれない。

石井は隊員の指揮を高め、自己の任務を正当化する為にしばしば天皇の名を口にした。「彼は自分の仕事は天皇の直接の命令でやっているのだ」とよく言っていたと、部隊に勤務した事のある秋元医師が証言している。「自分は天皇が望むことを実行しているだけだと何度も繰り返していた」という証言もある。当時の熱狂的な国粋主義者の日本軍人が、こうした言動をとることはよくあることだった。事実上、満州で起こった歴史的事件を見てみると、関東軍将校たちが彼らの文民政府を侮ることを正当化する一つの方法として、軍に対する天皇の統帥権をしばしな悪用したことは明白だった。

天皇を弁護するならば、帝国海軍がアメリカ合衆国をターゲットに細菌戦の研究を始めようとしたのを止めさせたと言われている。1943年、海軍はマーク7と呼ばれる細菌爆弾の実験用のものを東京湾でテストしたことは知られている。

一方では生物兵器は最重要視されていた。軍最高首脳、政治家の最高首脳の共通した認識だった。天皇の弟、天皇の従兄弟が知っていた。そして731部隊設立の認可文書に天皇の印が押されている。日本の明治憲法の規定によれば天皇は陸軍及び海軍を統帥し、宣戦を布告し、条約を締結する権限を持っていた。日本国天皇は1899年のハーグ条約にも署名している。 <以上、引用終>
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引用書『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』は、1985年(昭和60年)に英国のテレビ局(TV South)が制作したドキュメンタリー番組『Unit 731〜Did Emperor Know?〜』の番組制作スタッフによる著作であります。
ドキュメンタリー制作過程で、当時の731部隊関係者並びに研究者に対して、綿密な取材を約3年間に亘って行っておりますが、これは番組リサーチャーであり、且つ本書訳者でもある西里扶甬子氏の功績でしょう。記述内容には誤記も散見され、又、内容的にも同意出来ない部分が多々ありますが、海外メディアの作品としては良く取材されていると思います。
秦郁彦氏の文章の中で、『数年前(注:1980年代半ば〜1980年代後半)にイギリスの新聞が取り上げた際、私は「天皇が決裁する軍令であっても、内容を知らなかった例が少なくない」と控えめにコメントしておいたが〜』との記述を紹介しましたが、この英国メディアから秦氏への取材時期と、本ドキュメンタリーの放映時期は重なっており、若干なりとも関連性があるのではないかと推測しております。
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