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[5369]最近読んだ新聞記事より 熊猫 08/3/21(金) 1:28
[5371]Re(1):最近読んだ新聞記事より タラリ 08/3/21(金) 14:14
[5387]最近読んだ新聞記事より 熊猫 08/3/26(水) 22:49
[5403]Re(1):最近読んだ新聞記事より 熊猫 08/4/5(土) 14:15
[5769]『平和をたづねて』 熊猫 08/9/21(日) 0:15

[5369]最近読んだ新聞記事より
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/21(金) 1:28 -

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2008年3月19日『毎日新聞』より
平和をたずねて
●南京−沈黙の深い淵から● 1
封印された記憶を開く
 ≪滞在とは夢、すぐ出発だ。一小隊が二百名位の敗残兵を捕虜にした。彼等は南京陥落を知らず逃げて来たものであらう。之を如何に処置するか副官に聞きに行つた
 昭和12(1937)年12月13日、日本軍は中国の首都、南京を陥落させた。その翌日、14日の日記はこんな書き出しで始まる。大隊の副官から「二百あらうと五百あらうと適当な所へつれて行って殺してしまへ」と指示された日記の主たちは、とりあえず捕虜を駅の空貨車の中へ詰め込む。
 ≪ワァ/\貨車の中で喚き立てる。貨車からは濛々と蒸しあがる。一人一人引ぱり出す。皆素裸になってフウフウ苦しい呼吸する「大人、大人、水、水」と水筒を指さす。「馬漉物」怒鳴ってやった。凹みに溜まった泥水をすくって飲んでゐる
 やがて捕虜たちの揚子江岸への連行が始まる。その時の様子はこう描写されている。
 ≪小隊丈の兵隊だ。少人数であり、下士官は二人のみだ。彼等が死物狂で暴れ出さうものなら手に負えない。「面没手」の観念で諦めがよいのか「救命 救命」といへぱワァーっと喊声あげて拍手する
 そして、そのすぐ後にこんな場面が続く。
 ≪膝を没する泥土の中に河に向って座らせた千二百人。命令一下、後の壕に秘んで居た重機(重機関銃)二、一斉に掃射を浴せた。将棋倒し、血煙、肉片、綿片、飛上る。川に飛込んだ数十名は桟橋に待ってゐた軽機の側射に依って全滅し濁水を紅に染めて斃れてしまった。あゝ何たる惨憺たる光景ぞ。斯る光景が人間世界に又と見られるだらうか。動く奴は押収銃で狙撃。揚子江には軍艦が浮び、甲板から水兵がこの光景を眺めてゐた
 さらに彼は次の日、兵舎に一万人の捕虜が詰め込まれているのを目撃し「こんな多数の捕虜の処分どうするのだらうか」と書く。続く16日にも「敗残兵や若いni3〔ニイ〕(中国人男性の蔑称)を捕へる。これ等は皆銃殺の運命だ」と記している。
 日記の主は8年前に92歳で他界した元兵士。東京に住む長男(76)がいとおしげに見せてくれた古い升目帳には、捕虜や民間人の虐殺、集落への放火、女性への強姦など、南京攻略前後の日本軍による蛮行が生々しく描かれていた。
 長男によると、昭和14年末に家に戻った父親は、揚子江が血で染まった様などをよく話して聞かせたという。しかし敗戦を境に、戦争の話は一切口にしなくなった。
 「東京裁判が始まるとラジオにかじりついて聞いていました。聖戦と信じていたあの戦争が何だったのか、考えざるを得なかったんでしょう」
 昭和13年に銃創を負って帰国する時の日記には「憲兵の私物検査も形式だけで済む」とあり、見つかれば罰せられることを書いているという自覚はあったようだ。自ら進んで捕虜を刺殺する場面も記されており、戦後は戦犯として訴追される物証にもなりえた。なのに父親は、ついに日記を処分しなかった。
 湾岸戦争時、父親はこんな歌を詠む。
 ≪白旗掲げ続々投降のイラク兵に南京戦の捕虜を思えり≫
 日記はずっと自宅の戸棚の奥深く蔵され、誰の目にも触れることはなかった。10年前、南京戦の聞き取りに関西の市民有志が訪れるまでは。
 自ら日記を取り出して彼らに見せた父親の行為に、戦場の真実を伝えたいとの意思を読みとった長男は、日記を活字にして私家本にしようと思い立つ。そしてワープロで起こした原稿を臨終の床にあった父親に見せた。
 「涙ぐんで、両手でぐっと握ったまま震えていました。言葉は発せずとも、体全体で、よくやってくれたと喜んでくれました」
 今なお政治家や有力メディアが「無かった」と主張する南京大虐殺。証言者が激しい非難や嫌がらせにさらされることも多く、元兵士たちは黙したまま次々と世を去りつつある。彼らの記憶の封印を解き、この国の記憶として共有することはできないのか。人生の最晩年を迎えた兵士たちを訪ねる。
 【福岡賢正、写真も】
 16師団の兵士の日記と思いますが後世に残したいものです。
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[5371]Re(1):最近読んだ新聞記事より
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 タラリ E-MAIL  - 08/3/21(金) 14:14 -

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   ▼熊猫さん:
>16師団の兵士の日記と思いますが後世に残したいものです。

−−−−−−−−−−
第十六師団歩兵三十三連隊第一大隊田中次郎
[田中手帳]手帳に書いていた日記を、昭和十四年負傷入院時に書き写す
−−−−−−−−−−
が出典ですね。松岡環『南京戦』pp82にあります。
阿羅などが、捏造だと非難していましたが、記者によって事実であることが確かめられたということで有意義です。息子さんが証言者である父上の言動について証言しているのも原資料の真実性を保証しています。

以前には東中野が証言者のひとりを見つけだし、証言者から「作文ですな」という一言を引き出してはしゃいでいましたが、証言者が実在したことは認めざるを得なかったわけです。また、長文の証言内容に対して一言「作文です」と言ったからといって否定はできません。

今回、またまた証言の真実性を保証する資料が得られたわけです。
381 hits

[5387]最近読んだ新聞記事より
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/26(水) 22:49 -

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2008年3月26日『毎日新聞』より
平和をたずねて
●南京―沈黙の深い淵から● 2
「だから、堪えて下さい」
 市町村の出征著名簿などをもとに、私が暮らす福岡県内で南京戦の参加兵士を捜した。大半が故人か対話困難な状態で、ひと月余りかけてようやく有料老人ホームに暮らす92歳の老人にたどり着いた。戦車隊員として、南京陥落翌日の昭和12(1937)年12月14日から9日間、南京城内に滞在した人だ。
 「上海に上陸すると敵の死体がゴロゴロしててね。知らんで毛布かけて寝とったら、朝見たら死体の上でしてね」
 「食料は現地調達が主でしたな。後方から持ってこれる状態じゃなかったですもん」
 「面白いこと? ありましたな。面白いことと言えば……当時は話してはいけないこととか。食料の徴発に行ってね。姑娘あたりを追いかけて。姑娘徴発はやっぱあったですねえ。そげん堅物ばかりじゃなかですから
 話し始めて30分後、日中戦争全般についての私の問いに、当時兵隊たちが姑娘徴発と呼んだ強姦の詰まで飛び出した。これなら話してくれるかもしれない。そう思って「南京ではいろいろあったと聞きますが」と切り出した。すると、サッと顔色が変わり、ゆったりした口調が早口になった。
 「私は全然知りません。百人斬りとか、揚子江に浮かべて殺したとか言いますが、見たこともない。そんなことあったら文書に残ってるはずです。何にも知りません」
 後は何を聞いても延々と話をそらされ続けた。
 再挑戦を期して帰ろうとすると、元陸軍士官を主な読者とする雑誌に載った彼の投稿を見せられた。そこには戦車隊の慰霊祭で彼の先輩が読んだ祭文が引用されていた。
 ≪パール博士の「日本無罪論」の正しさを確信するとともに大東亜戦争の目的が、日本国の自存自衛のための聖戦と東南アジア諸国を解放する戦いであったという大義名分を確認したい≫と。
 南京戦後、彼は幹部候補生学校に入り、敗戦時には中尉となっている。「自分はこういう立場で生きてきた。だからあきらめてくれ」。そんな声が聞こえた気がした。
 創価学会青年部熊本県反戦出版委員会が29年前にまとめた「揚子江が哭いている」という証言集がある。強姦して殺した女性の肉を「牛肉」と戦友に偽られて食べた話や、生きながら妊婦の腹を割いて胎児を取り出した体験など、熊本の第6師団の元兵士たちによる加害証言が収められている。
 聞き取りの中心になった玉井保人さん(64)によると、捜し出した元兵士は100人。しかし会ってくれたのは半数で、取材が進むとさらに脱落していったという。
 「熊本で第6師団といえば、世界最強とか無敵とか、強さばかり語られていました。だから最初は皆さん、我かく戦えりといった感じでね。でも我々が食い下がるから、そんなこと聞くなら、もう話さんと。戦友に確認するからと別れた後、全て自分の思い違いだったと証言を翻した人もいます。飛び出した者だけ銃殺すれば弾をほとんど使わずに殺せて合理的だから、100人、200人と家の中に捕虜を詰め込んで火をつけたと言っていた人でね。戦友から圧力がかかったんでしょうね。あまりにあからさまなひょう変に、逆に生々しさを感じましたよ」
 結局、収録できたのは17人にとどまっている。
 「(南京の)下関から筏のようなものに乗って逃げ出した敵さんが、ようけ撃たれよったと聞いた」。元戦車隊の老人がそう話してくれたのは6回目に有料ホームを訪ねた時だ。首の試し斬りを見たこともこの時初めて明かした。「南京陥落後に攻めた徐州では、麦畑の中を戦車に乗ってだいぶんひき殺しました」とも。ただ突っ込んで聞くと口をつぐんでしまう。
 「民衆のこととか、これまで聞きたいというもんはおらんかったし」家族にも話したことないです。パンパンやりおうて陥落させたと、それだけ。あなたがこうして来て、尋ねられるからちらほら言いますけど、あんまり実情は話したくないです。やっぱり、いい行いはしとらんですけんね。自分の家族があんな目にあうと思うたら、戦争はされんなあと。それだけ。だから、堪えとって下さい」
 やはり、これが限界なのか。  【福岡賢正】
 気骨のある新聞記者がいるもので、日本のマスコミが終わったわけではないと、微かな希望を感じてしまう記事です。
 自分の人生なのにその真実を語ることができない、この老人も戦争の犠牲者なのかもしれません。
 偕行社の連中はきれい事を言うくせに、その実態は強姦とは……。
410 hits

[5403]Re(1):最近読んだ新聞記事より
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 熊猫 E-MAIL  - 08/4/5(土) 14:15 -

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2008年4月2日『毎日新聞』より
平和をたずねて
●南京―沈黙の深い淵から● 3
耳を澄まし、心を通わす
 南京戦に参加した元兵士の証言を収めた未公開のDVDを見た。語られているのは耳をふさぎたくなるような内容だが、事実から目をそらさぬために、そのまま紹介する。
 「子供がおったら、親死なせてためにならんさかい、処分しておけちゅうもんやろ。そんで河べりには大きな倉庫があるねん。中にみな放りこんでん。そんでもう入らんようになってしもたら、閉めて蒸し焼きや
 「やっぱ飢れてんねん。明日はない命やんけ。で、軍医さん、いっペん調べよっていうんやわ、大事なとこを。『サイコ(性交)、サイコ』はするこっちゃ。『カンカン』ちゅうんは大事なとこ見してくれや。それをな、嫌がるわけや。1人2人(兵隊が)おってな、広げるわけや、無理やり
 「高校の生徒や、おなごの子や。部屋一つやっとんねん。我々兵隊は若いさかい、サイコ、サイコはつきもんやさけえ
 今は故人となったその老人は、早口の関西弁であっけらかんと話す。正面から顔をさらし、実名で。もう1人は仮名だが、やはり素顔のままカメラの前で語る。
 「行軍中はすぐですわ。背嚢を横にやってね。銃剣は外せへん。いつ飛んでいかないかんか分からへんさけ。何て言うか、すぐそういう気になってまう。気持ちが荒れてしもてるからなあ。覚えとらへんけど(強姦した相手は)50人じゃきかへんわ。(苦笑)きかへん。人間のすることちゃうねん。自分らかて死ぬか生きるかさかい。ほんまの畜生てえか、最低の動物みたいになっとったんや
 こうしたDVDが30人分ある。モザイクの入ったものもあるが、大半の老人は顔をそのまま出しており、生前、実名の公表に同意した人も多い。すべて関西の市民団体「日中平和研究会」の松岡環さん(60)が聞き取ったものだ。
 松岡さんが元兵士の聞き取りを始めたのは、南京大虐殺から60年たった平成9(1997)年の暮れ。以来10年間に訪ねた相手は150人に上る。初回に紹介した日記の主もその一人だ。
 「大抵、南京と言っただけでシャットアウト。言うことなんてない、帰ってくれって。だから、連絡せずにいきなり訪ねます。最初2時間くらいは、兵隊がどんな生活してたのかといった、おじいさんたちが話したいことを細かく聞いていくんです。それで口が回ってきたなと思うころ、初めて南京の話を切り出す。私が女なのも良かったんでしょう。こんなに一所懸命に話を聞いてくれて、ほんまの娘みたいだって言ってくれますもん」
 松岡さんには、忘れられない元兵士との交流がある。亡くなるまで6年間通い続けた相手で、略奪や避難民の大量殺りくの話は早い段階で明かしてくれたが、強姦についてだけは固く口をつぐんでいた。
 通い始めて5年後、食料徴発の話が出た折に松岡さんは軽い調子で水を向けた。「そういう時って女の子捕まえるでしょ。おじいちゃんは」と。
 「そしたら、しましたなあって。強姦したのって聞き直したら、やりました、って」
 4年前、その人は91歳で亡くなった。妻は夫が娘のように心を許した松岡さんに、陥落直後の南京から彼が送った手紙など、多くの遺品を託した。
 私ももう一度、前回取り上げた元戦車隊の老人(92)を訪ねてみた。喜んでもらおうと、毎日新聞が保存する日中戦争時の戦車の写真を携えて。
 彼は肺炎を起こし、老人ホームから地域の中核病院に移っていた。ホームの職員に「ぜひ写真を見せてあげて」と言われ、病院へ急いだ。
 左腕に点滴、鼻に酸素の管をつけ、心拍をモニターする装置の横で彼は眠っていた。しばらく待って目を開けた彼に「僕が分かりますか」と尋ねた。声を出すのがつらいのか、黙ってうなずく。
 一通り戦車の写真を見せた後、「話したくないことまでいろいろ聞いて、すみませんでしたね」と声をかけた。
 彼は首を小さく横に振り、毛布の下から右手を差し出した。その手をギュッと握りしめる。かすれた声で彼が言った。
 「ありがとう……ございました」
 【福岡賢正、写真も】
 毎日新聞には我が国の報道の良心として今後とも頑張ってもらいたいものです。
395 hits

[5769]『平和をたづねて』
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 熊猫 E-MAIL  - 08/9/21(日) 0:15 -

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   本日、友人の計らいで毎日新聞の『平和をたずねて』の執筆者のひとりである福岡賢正氏にお会いすることができました。
 ここのメンバーの皆さんには『平和をたずねて』はぜひ読んで頂きたい。
http://mainichi.jp/select/wadai/heiwa/visit/archive/
 福岡賢正氏と広岩近広氏のスタンスの違いなんかも比較しながら読むと非常に面白いのではないかと思います。
 スレを読み返して福岡氏の悪口を書いてないことを再確認して、ホッとしています(^^)

 福岡賢正氏の著書
http://www.amazon.co.jp/s?ie=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&_encoding=UTF8&field-author=%E7%A6%8F%E5%B2%A1+%E8%B3%A2%E6%AD%A3&page=1


 
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