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2008年3月19日『毎日新聞』より 平和をたずねて ●南京−沈黙の深い淵から● 1 封印された記憶を開く ≪滞在とは夢、すぐ出発だ。一小隊が二百名位の敗残兵を捕虜にした。彼等は南京陥落を知らず逃げて来たものであらう。之を如何に処置するか副官に聞きに行つた≫ 昭和12(1937)年12月13日、日本軍は中国の首都、南京を陥落させた。その翌日、14日の日記はこんな書き出しで始まる。大隊の副官から「二百あらうと五百あらうと適当な所へつれて行って殺してしまへ」と指示された日記の主たちは、とりあえず捕虜を駅の空貨車の中へ詰め込む。 ≪ワァ/\貨車の中で喚き立てる。貨車からは濛々と蒸しあがる。一人一人引ぱり出す。皆素裸になってフウフウ苦しい呼吸する「大人、大人、水、水」と水筒を指さす。「馬漉物」怒鳴ってやった。凹みに溜まった泥水をすくって飲んでゐる≫ やがて捕虜たちの揚子江岸への連行が始まる。その時の様子はこう描写されている。 ≪小隊丈の兵隊だ。少人数であり、下士官は二人のみだ。彼等が死物狂で暴れ出さうものなら手に負えない。「面没手」の観念で諦めがよいのか「救命 救命」といへぱワァーっと喊声あげて拍手する≫ そして、そのすぐ後にこんな場面が続く。 ≪膝を没する泥土の中に河に向って座らせた千二百人。命令一下、後の壕に秘んで居た重機(重機関銃)二、一斉に掃射を浴せた。将棋倒し、血煙、肉片、綿片、飛上る。川に飛込んだ数十名は桟橋に待ってゐた軽機の側射に依って全滅し濁水を紅に染めて斃れてしまった。あゝ何たる惨憺たる光景ぞ。斯る光景が人間世界に又と見られるだらうか。動く奴は押収銃で狙撃。揚子江には軍艦が浮び、甲板から水兵がこの光景を眺めてゐた≫ さらに彼は次の日、兵舎に一万人の捕虜が詰め込まれているのを目撃し「こんな多数の捕虜の処分どうするのだらうか」と書く。続く16日にも「敗残兵や若いni3〔ニイ〕(中国人男性の蔑称)を捕へる。これ等は皆銃殺の運命だ」と記している。 日記の主は8年前に92歳で他界した元兵士。東京に住む長男(76)がいとおしげに見せてくれた古い升目帳には、捕虜や民間人の虐殺、集落への放火、女性への強姦など、南京攻略前後の日本軍による蛮行が生々しく描かれていた。 長男によると、昭和14年末に家に戻った父親は、揚子江が血で染まった様などをよく話して聞かせたという。しかし敗戦を境に、戦争の話は一切口にしなくなった。 「東京裁判が始まるとラジオにかじりついて聞いていました。聖戦と信じていたあの戦争が何だったのか、考えざるを得なかったんでしょう」 昭和13年に銃創を負って帰国する時の日記には「憲兵の私物検査も形式だけで済む」とあり、見つかれば罰せられることを書いているという自覚はあったようだ。自ら進んで捕虜を刺殺する場面も記されており、戦後は戦犯として訴追される物証にもなりえた。なのに父親は、ついに日記を処分しなかった。 湾岸戦争時、父親はこんな歌を詠む。 ≪白旗掲げ続々投降のイラク兵に南京戦の捕虜を思えり≫ 日記はずっと自宅の戸棚の奥深く蔵され、誰の目にも触れることはなかった。10年前、南京戦の聞き取りに関西の市民有志が訪れるまでは。 自ら日記を取り出して彼らに見せた父親の行為に、戦場の真実を伝えたいとの意思を読みとった長男は、日記を活字にして私家本にしようと思い立つ。そしてワープロで起こした原稿を臨終の床にあった父親に見せた。 「涙ぐんで、両手でぐっと握ったまま震えていました。言葉は発せずとも、体全体で、よくやってくれたと喜んでくれました」 今なお政治家や有力メディアが「無かった」と主張する南京大虐殺。証言者が激しい非難や嫌がらせにさらされることも多く、元兵士たちは黙したまま次々と世を去りつつある。彼らの記憶の封印を解き、この国の記憶として共有することはできないのか。人生の最晩年を迎えた兵士たちを訪ねる。 【福岡賢正、写真も】 16師団の兵士の日記と思いますが後世に残したいものです。
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