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幕府山事件を論ずるネット否定派の中には2万人も殺せるだけの弾がないなどという「試算」をしてみせるものが後を絶たない。これは否定派がいつも陥る病気である。・・・はなかったんじゃないかなー、と感じると、・・・ということができるだろうかと問いを発して見る。資料をすこしばかりほじくって「出来ない理由」が発見される。どうだ、このようなことは出来るはずがない、と誇らしげに主張する。
出来るような条件を一切考慮しないから、そういうことになるのだ。 たとえば、幕府山事件では半円形に囲むと対角線の機銃で互いに撃ち合うことになるから殺害はできないと主張するものもいる。知的水準の低いネットウヨクがそういうのならまだしも、なんと阿羅健一までがそのような主張をするのだからあきれたものだ。この議論のどこが間違っているかはいわずともわかるであろう。
ここで、弾数がないという妄説を粉砕して置こう。
(1)機関銃・軽機関銃・小銃の性能と威力
九二式重機関銃(皇紀2592年=1932年制式)は口径7.7mm、装弾数30発、全長1.156m、実用発射速度200発/分、重量55.3kg、最大射程4150mである。初速750m/s。最大射程4100m。 十一年式軽機関銃の性能は、口径6.5mm、装弾数30発、実用発射速度120発/分、全長1.105m、重量10.2kg、最大射程1500mである。
軽機関銃は機関銃を小ぶりにしたもののような感じを受けるが、重機とは威力に大きな違いがあり、歩兵連隊の中の位置づけも大きく異なる。また、銃弾は歩兵銃と同じ口径であったが、威力はむしろ歩兵銃が優る。
歩兵が持つ三八式歩兵銃は口径6.5mm、装弾数五発、銃身長79.9cm、全長128cm、着剣時全長166.6cm、重量3.95kg、最大射程3700m。
三八式歩兵銃の威力を試そうと中国兵捕虜を縦一列に並べて何人の体を貫通するのか試したという記録がある(松岡環『南京戦』所載)。七人まで倒したそうである。これは捕虜の体に銃口を当て体に直角に射入するという至適の条件ではあるが、威力の大きさを物語っている。近距離から命中すると肉がちぎれ、関節が吹き飛ばす威力がある。
機関銃の威力はこれよりさらに大きい。幕府山事件では密集した捕虜めがけて射撃するから狙わなくても当たる。銃と捕虜の距離は数十メートルであろうから、一人を貫通して、さらに一人や二人は傷つけることができた。
(2)配備する弾数
機関銃分隊は分隊長の下に八番までで構成され、(総勢九名)五番から九番までの四名が弾薬箱の係である。軍馬を利用できない場合は五番から九番が一個ときには二個の弾薬箱を膂力輸送する。弾薬箱は三〇発を保持する保弾板の十八連、すなわち、五百四十発を入れ、一箱は22.1kgの重さである。分隊当たり二千三百二十発である。
幕府山事件では魚雷営では二門、大湾子では機関銃八門を準備したという証言がある。重機八門に対して当初補給されている弾数は一万九千発である。殺害当日において、弾薬の消耗率を半数と仮定して約一万発を持って行くことができた。
機関銃隊の他に捕虜を護送する歩兵部隊は捕虜四人縦隊、25列に対して歩兵1名を当てた。捕虜を2万とすれば200名である。歩兵は初期には120発の弾薬を携行する。半数消耗として60発を携行、200名で12000発を携行する。
軽機関銃は小隊あたり1門であるが、何門用意されたかは資料がない。機関銃との割合、当初の配備数から考えて同数以上である。また、投降した捕虜が所持した機関銃も使うことができただろう。少なくとも角田中尉はその可能性を口にしている。
(3)射殺の準備
捕虜が二万人とすると歩兵銃を持った兵士200人が護送に当たった。機関銃隊は72人、その他軽機関銃も同数程度いると思われる。機関銃部隊はまず、一帯の柳を切り倒して広場を作って有刺鉄線を張り巡らせた。人の背ほどもある銃座を作って偽装をした。
捕虜たちが座って作る隊列は一人が0.8m×1.2mほどを要するとして160人×120人=19200人が作る隊列の広さは128m×140mほどになる。兵士たちはこれを半円形に取り囲むが、完全な半円であっては対角線上の兵士の弾を受けることになるから、実際にはやや押しつぶされた半円に取り囲んで、主として捕虜の後方から射撃することになる。証言によると前列から揚子江に逃げ込もうとする捕虜は小銃隊が主に受け持ったらしい。
(3)捕虜たちの体力消耗
捕虜は十二月十五日に一回食事を与えられただけであった。捕虜がトイレから流れる小便に口をつけて飲んだと記録がある。捕らわれてからは飲み水は与えられなかったようだ。また、連行の間渇きに耐えかねて、近くの小川に倒れ込んで水を飲もうとして銃剣で突かれて死んだものがいるという。捕虜は十二月十二日からほとんど水も食料もなく、憔悴しきっていた。その上長時間の行軍(連行)で、ものをいう気力もなかった。連行の前には縄やゲートルで上腕同士を縛られていた。あるいは両手を後ろ手に縛られていた。
(4)発射直前の状況
暗闇の河原の中に数時間座らされて待たされた。前列の捕虜が舟に乗り込んだ気配もない。捕虜たちにすれば刻一刻と虐殺の時期が近づいてきたことは誰にもわかっただろう。暗闇をよいことにひそかに縄をほどいたものがおり、彼らはさらに隣の捕虜の縄をほどき、その輪が少しずつ広がっていた。
一方、日本軍の将校と数人の兵士は捕虜の列に分け入り、「整理」をしていた。列の横を詰めろとか、前後をつめろとかやっていたのであろう。その目的はおそらく機関銃射撃の効率があがるようにという意味であったろう。
すでに縄をほどいていた中国人兵士の一人がどうせ、殺されるのなら一人は道連れにしてやろうと将校の腰の日本刀を引き抜いて将校を刺した。制止しようとした兵士が威嚇の射撃をし、捕虜が一斉に立ち上がった。なにかあったら発砲するようにと命じられていた機関銃隊、兵士からの射撃がはじまった。捕虜の列には兵士たちが残っており、射撃のタイミングはできるだけ引き延ばされたのだが、完全に逃げ出すのを待ってはいられず、最後には見切り発車で射撃が開始された。
(5)一斉射撃
捕虜は総立ちになると同時に揚子江岸の方に逃げ出した。河岸の広っぱであるから、暗闇で地面の凹凸は見えない。たちまち多数の捕虜が転倒し、後に続く捕虜も転倒した仲間を踏んづけて倒れ込んだ。倒れた捕虜にも容赦なく銃弾が浴びせられ、倒れた捕虜もまた立ち上がって、味方の背中の上を走り始めた。たちまち人の山ができた。
捕虜たちは一斉射撃から逃れようと信じられないほどの力をふるい起こして捕虜の山を掛けのぼり始めた。仲間の背中や頭をのぼりきって幸運にも人の山の頂きに達したものも、そこまで来ると急峻な下り坂を転げ落ち、後から続く捕虜へ新しい急坂の一部になった。その光景を目撃し、記憶にとどめたたったひとりの証言者栗原利一氏は次のように描写する。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− いまなお忘れえない光景は、逃げ場を失った大群衆が最後のあがきを天に求めたためにできた巨大な人柱≠ナある。なぜあんな人柱ができたのか正確な理由はわからないが、おそらく水平撃ちの銃弾が三方から乱射されるのを、地下にはむろんかくれることができず、次々と倒れる人体を足場に、うしろ手にしばられていながらも必死で駆け上り、少しでも弾のこない高い所へと避けようとしたのではないか、と田中(栗原)さんは想像する。そんな人柱″が、ドドーツと立っては以朋れるのを三回くらいくりかえしたという。一斉射撃は一時間ほどつづいた。少なくとも立っている者は一人もいなくなった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
栗原氏は射撃が1時間くらい続いたと証言するが、非常に異常な体験であるのであるいは、誇張して記憶されたかも知れない。
銃撃が始まった直後、用意してあった数カ所のたいまつに火が着けられた。巨大なたいまつの火は兵士・捕虜たちの視界をまばゆく照らし出した。両端の監視兵は捕虜の列の左右両翼にめがけて猛烈な射撃を続け、列の幅を両側から圧迫して縮めた。列の先頭に座っていた捕虜のごく一部だけが両端の兵士たちの射撃をかいくぐって、揚子江に飛び込むことが出来た。
ほとんど動くものがいなくなったとき、河原には巨大な人の山ができていた。 人間の体重を60kgと仮定すると20000人の人間は1200000kg=1200tの塊になる。捕虜の山の大きさは幅を120mとすると、断面は底辺6m、高さ3.3mの三角形からなる巨大な山になる。射撃が終わった後、兵士たちはこの山に登ってまだ息のある捕虜を銃剣で刺殺して廻った。油をかけて焼くことも行われた。
(6)射殺の効率
小銃の実用発射速度は装着にかかる時間を考慮して分速20発と仮定して20×200=400発、機関銃は200×8=1600発、軽機は120×12=2400発の計4400発が1分当たりの最大発射数となる。射撃開始時はこれに近い割合で発射されたが、たいまつが点火され、捕虜の動きが明視できるようになると逃げようとして動いている捕虜を狙っての射撃となる。機関銃は通常の点射となり、小銃は注意深い狙撃に転じ、たちまち数分の一以下の発射速度となっただろう。
否定派は一人に数発撃たなければ殺せない、弾が足りない、などというがとんでもない。確かに一発で致命傷になることは少ないが、逆に1発で数人を倒すことができた。単に躓いて倒れたものも多かった。倒れてしまったものは、ほとんど圧死した。人間の山の表面の生き残り捕虜は銃剣で殺した。実際に銃撃で殺すことのできた捕虜の人数は1/4もいなかったのではないだろうか。第十六師団は下関で捕虜を五十人くらいずつ引き出しては機銃掃射を繰り返して殺害したが、それに較べて猛烈に効率が高かった。全体で何発消費したかは、資料がない。通常遭遇する激戦の数倍もの弾丸を消費したことだろうが、それでも65連隊が保有する弾丸で十分間にあったことは間違いがない。
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