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▼Simaqianさん: >こちらで主に活躍されている論者のかたの南京事件に関するページをいくつか読んだのですが、○○は間違い、
○○は暴論、みたいな検証が多く、自身が南京事件についてどのような認識を持っているのか要約してまとめた文章を書いていないかたがいます。ここまで色々調べたのであればそのぐらい簡単に書けると思うのですが、なぜ書かないのでしょうか。
南京事件はこれこれこういう事件である、という要約は確かに書かれなくてはいけないでしょう。私はそれを書いて日本人が南京事件にどう向き合うべきかを論じることを最終的な目標としています。
「簡単に書ける」と思っていらっしゃるようですが、それがそうでもないのです。もし、否定派の主張を知らなかったり、頭から無視するのであれば話は非常に簡単でスラスラ書くことができます。しかし、現状は南京事件の個別のテーマ毎に、微に入り細に入った否定論が疑似的に体系をなしている状況です。もちろん、それらはすべて虚妄に過ぎないのですが、このような状況下で否定論の主張を意識しない要約を書いたところで否定論者はおろか、中間派、innocentな部分、初学者や「無関心」派にも通用しないのです。実際問題としてこれらの方々の多くは否定論の影響がかなり認められるのが事実です。
これに対して、「南京事件は確かにあったと思っている、否定論の主張を一通り読んだが、すべては反論できないものの、馬鹿げた主張であり信用できない」と考えている人に対しては全体的な要約はあまり必要でなく、事実、そのような人から全体像の要約を求められることもほとんどありませんでした。そういう人が特定のテーマにおける否定論拠に反論に窮したというときにはここはどうですか、と尋ねてきます。したがって、全体像の要約が求められる場面というのは非常に限られています。
私が書きたいと思っているのは道理がわからない一部の否定論者を除いてだれもが容易に納得されるような全体像ですから、かなり難題です。現在、南京事件の個別テーマである、幕府山事件と百人斬り競争について全体像の要約を書きかけていますが、それすら遅々として進まない状況です。
あなたの質問は「なぜ書かないのか」でありますが、これで正面切って解答を果たしたと思います。
しかし、あなたの求めはなぜ「南京事件の要約を知りたい」ではなかったのでしょうか。そこに私は疑問を覚えます。もし、あなたが知的探求心から要約を読みたいのであれば、なにも私どもに要求するのではなく、成書にそれを求めれば済むはずです。もし本心からそれを求めていたのなら、笠岡十九司、秦郁彦両氏の『南京事件』を読むことをお勧めします。
そうではなく、私が要約をまだ書いてないことをもって、「書けないのは実は自信がないのであろう」とお考えでしたら完全に間違っています。理屈の通らない否定派に対しても説得性をもつ反論を内包した要約を書くことは非常に難しいことなので、時間と労力が必要だということに尽きます。
また、私の、個別の否定論に対する反論と南京事件に関する成書を読み合わせれば南京事件の全体像やその要約を自分なりに持つことは容易であろうと思います。
>何かを証明するのは大変なことです。それに比べると、「十分な証明になっていない」と言うのはずっとたやすいことのように思います。
もっともな話です。しかし、「十分な証明になっていない」と言ってきたのは否定派の方なのです。そして、正統的な歴史学者は否定派の個別否定論拠に対して逐一、資料を示して反駁してきました。
歴史学者は南京事件の包括的な全体像を書きあげました。対して、否定派はいろいろな難癖をつけたり、個別の資料・証言を否定しましたが、南京事件の全体像というものを構成することについてはついぞ成功していない、このことを指摘しておきます。
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