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H.S,Wongインタビュー(1978出版本より)
聴き手、日時など典拠はどこかにあるか?
▼タラリさん: >"newsreel wong"でググって見てください。 >Great News
Photos and the Stories Behind Them - Google
ブック検索結果 >というのが出てきます。
教えていただいたものを試し訳して見ました。
【追記1】 訳文訂正などもありましたので、4投稿を統合しました。
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http://books.google.co.jp/books?id=DqwLVaPdDgoC Great
News Photos and the Stories Behind
From the Crimean War
to Jimmy Carter, here are the shots professional photojournalists
still discuss. 140 great photos and the stories of how they were
taken. Lindbergh, death of Oswald, first men on the moon,
others.
詳細 Great News Photos and the Stories Behind
Them 著者: John Faber 出版社: Courier Dover Publications,
1978 ISBN 0486236676, 9780486236674 159
ページ
32ページ
32. The Baby in the Shanghai Railroad
Station 上海鉄道駅の赤ん坊
It was August 28, 1937.
Retreating Chinese Nationalist Troops had left behind them a
blockade across the Whampoo River in Shanghai. At two P.M. that day,
the Japanese Navy was scheduled to blow it
up.
1937年8月28日、撤退中の中国国民党軍は、上海黄甫江を横切るバリケードを背後に残して去った。日本海軍はその日午後2時にはそれを爆破する予定を立てた。
On
the roof of the Butterfield Swires Building, which faced the
Whampoo, were many correspondents and cameramen. They waites to
record the bombing. By three o'clock the Japanese had not shown up.
Word came through that the bombing had been postponed. The newsmen
left. All but H.S."Newsreel" Wong of Hearst Metrotone News; he
decided to wait a little
longer.
黄甫江に面したバタフィールド・スワイヤー・ビルディングの屋上には多くの新聞通信員やカメラマンが集まっていた。爆撃を記録しようと待機していたのである。しかし三時になっても日本軍機は現れなかった。爆撃は延期されたという言葉が流れてきた。新聞記者たちは去っていった。ハースト・メトロトーン・ニュース社の H.S."ニュスリールの"ウォンだけが、もう少し粘ってみようとそこに残っていた。
About
four P.M. he heard the sound of planes. Three Japanese bombers came
in low. They circled the temporary Japanese airfield and passed over
Wong again. Seconds later, he felt the concussion of bomb exploding.
Black smoke arose in the direction of Chinese Arsenal, two miles
away.
午後4時、飛行機の轟音が聞こえてきた。3機の日本軍爆撃機が低空でやってきた。臨時の日本軍飛行場を周って戻ってきて、ウォンの頭上を再び通り過ぎていった。数秒後、爆弾破裂の衝撃を感じた。黒煙があがったのは、2マイル離れた中国軍兵器庫の方角だった。
Wong
grabbed his 35mm Eyemo camera and film. He raced his car toward the
arsenal. As he approached it, he realized that the railroad station
had been
hit.
ウォンは35ミリのアイモカメラとフィルムをひっ掴むと(引用者注:カメラとフィルムが入ったボックスのことか)、兵器庫に向って車を急行させた。近づくと、鉄道の駅が攻撃されたのだと分かった。 "It
was a horrible sight. People were still trying to get up. Dead and
injured lay strewn across the tracks and platform. Limbs lay all
over the place. Only my work helped me forget what I was seeing. I
stopped to reload my camera. I notices that my shoes were soaked
with
blood.
「それはそれは惨い光景でしたよ。人々は起き上がろうとして起き上がれず、死人やけが人が線路上やプラットホームに散らばっていました。もぎ取られた手足が、至るとことに転がっていました。そんな中で私の仕事が、見たものを忘れさせる(冷静になる)助けとなりました。
私は、カメラのネジを巻くために立ち止まりました。そして、靴にべっとり血が染み付いてることに気が付いたのです。」
"I
walked across the railway track, and made many long scene with the
burning overhead bridge in the background. Then I saw a man pick up
a baby from the track, and carry him to the platform. He went back
to get another badly injured child. The mother lay dead on the
tracks. As I filmed this tragedy, I heard the sound of planes
returning. Quickly, I shot my remaining few feet on the baby, I ran
toward the child, intending to carry him to safety, but the father
returned. The bombers passed overhead. No bombs were
dropped.
「私は線路を横切るように歩いていき、燃える跨線橋を背景にしたロングショット(引用者注:遠景ショットのこと)をいくつも撮影しました。そして、一人の男が線路上から赤ん坊を拾い上げプラットホームに運ぶのを見ました。彼はまた、<s>重傷を負ったもう一人の子供を助けにいきました、(二人の:引用者)母親は、死んで線路のうえに横たわっています。</s>
重傷を負った別の子供を助けにいきました。その子の母親は線路の上で死んでいます。そうした惨状を撮影してたとき、飛行機が戻ってきた音が聞こえました。急いで私は、残り僅かのフィルムで赤ん坊を撮影しました。そして彼を安全な場所に移してやろうとしましたところ、父親が戻ってきました。(幸いにも:引用者)爆撃機は頭上を通り過ぎました。爆弾を落とされなかったのです。」
【追記2】another child
に関しての誤訳訂正。 × 重傷を負ったもう一人の子供を助けにいきました、(二人の:引用者)母親は、死んで線路のうえに横たわっています。 ↓ (訂正後) ○ 重傷を負った別の子供を助けにいきました。その子の母親は線路の上で死んでいます。 〜〜〜〜〜〜 注:この「別の子供」が写真や映像として今私たちが見られる子供かどうかは不明です。残された映像や画像と無理に対応づけるのは適切ではありません。映画フィルムの撮影は今日のビデオ撮影と違って、起こった現象のごく一部しか切り取ることができません。一枚一枚の写真を説明してもらっているインタビューでもなさそうですし。
"The
next morning's papers said there had been more than 1800 people,
mostly women and children. on the railway platform, waiting to be
evacuated to the inland. The Japanese airmen had mistaken them for a
troop movement." Fewer than 300
survived.
「翌朝の新聞に依れば、殆どが婦人と子供からなる1800人が、プラットフォームで内陸への避難を待っていたとのことでした。日本軍の飛行士は彼らを部隊の移動と間違えたのです。」 生き残りは300人以下。
(引用者注)人数の記憶はどうか、当時の報道との対照で。 The
film was sent by U.S. Navy ship from Shanghai to Manila, then to New
York by Pan American Airlines. Two weeks later, the crying baby,
sitting in the bombed South railway station in Shanghai, was seen in
the Hearst newsreels and
newspapers.
フィルムは米国海軍の艦艇で上海からマニラに送られ、パンアメリカン航空機でニューヨークに送られた。上海の鉄道駅爆撃の下で泣き叫ぶ赤ん坊は、2週間後には、ハーストのニュース映画や新聞を通して人々が見るものとなった。 It
was a story with international repercussions. The U.S, protested the
Japanese bombing open cities, killing defenseless men, wpmen, and
children. Wong's life was threatened by the Japanese. He said, "To
their embarrassment, the Japanese blamed me that the picture was a
fake. They put a price on my head to prove they were right." He was
under the protection of the British Authorities, and shortly after
fled with his family to Hong
Kong.
これは、世界的な反響を呼び起こす物語となった。合衆国は無防備都市への攻撃、無防備な男、女、子供の殺戮に抗議した。ウォン氏の生命は日本軍によって脅かされた。「日本軍は邪魔をする為に、映画はインチキだと私を非難しました。彼らのほうが正しいと主張するために、私の首に懸賞金をかけたのです。」とウォン氏は云う。ウォン氏はイギリス当局の保護下に入り、間もなく家族とともに香港へと逃亡した。
The
October 14, 1937, issue of Life magazine estimated that 136,000,000
people had seen Wong's "Chinese Baby."
1937年10月14日号のライフマガジンは、ウォン氏の「中国の赤ん坊」を1億3千6百万人が見たと見積もった。
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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 【追記3】 なお上記は、タラリさんに昨日教えていただいて初めて知った、タラリさんの論考とその中の概訳を参考とさせていただきました。 http://www.nextftp.com/tarari/nanshi/nanshibakugeki3.htm
《なお》 1箇所、left
と有りました誤記を felt に直しました。
また、stopped to reload camera
は「撮影を止めた」ではなく「カメラを再起動させるために立ち止まった」、つまり Eyemo
ならば、ぜんまいを巻くことだと思ったのでそうしました。前後の文脈でも自然です。カメラマンという職業意識が、気が動転するような状態から判断力を取り戻すための助けになったというのです。
また、男が赤ん坊を救出するの描写は、もう少し細かく注意してみたつもりです。
long
scenes は、カメラマン用語の「ロングショット」ではないかと思います。
Wongは、男は線路の上から赤ん坊を pick
up
して プラットホームに運んだ、といってます。
このような言葉から写真のキャプションが作られていくうちに、プラットホーム上の赤ん坊が(写真のトリミングの仕方によっては)線路の上にいるように「見えないこともない」ことなどから、紛れが生じたのでしょう。
また、Wong
は「父親がきたので」、赤ん坊を運ぼうとしたが止めた、といってます。Wongにとって「父親」はいたという記憶なのですね。
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まずH.S.Wong は現場の惨状に近づき「死体が飛び散った足元」を見ながら、それをむやみに撮影せず冷静に「ロングショット」から撮影を始めた、この冷静さに驚き賞賛の声をあげたいと思います。
カメラマンが自分の感情に振り回されてしまっては、映像を見る観客の感情を引き出すものが結局は得られないということを、彼は十分に弁えていたのですね。
この回顧の典拠は定かではありません。また40年後の記憶が細部にわたって確かだということもいいきれません。LIFEやLOOK以上の情報を求めたり、その空隙を埋めようとしたいなら、1937年秋当時のメディアの「直接資料」を検証する必要があるかと存じます。後発資料をもとに推理に推理を重ね上げるは、情報の紛れを招く恐れがあります。
※「情報の紛れ」こそが、史実を隠したいものの常套戦術であることはいうまでもありません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 【追記4】 LIFE
SEP 6, 1937 (オークション) どなたか是非 http://auction.jp.msn.com/item/111570841
わたしはやりませんので・・・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 【追記5】
生存者数と死傷者数 "The next morning's papers said there had been more
than 1800 people, mostly women and children. on the railway
platform, waiting to be evacuated to the inland. The Japanese airmen
had mistaken them for a troop movement." Fewer than 300
survived.
「翌朝の新聞に依れば、殆どが婦人と子供からなる1800人が、プラットフォームで内陸への避難を待っていたとのことでした。日本軍の飛行士は彼らを部隊の移動と間違えたのです。」 生き残りは300人以下。
この300人というのは、
渡辺さんの紹介: >シンガポールで刊行された SHUHSI HSU (徐淑希)'The War Conduct
of The Japanese'(中国語題名:日人戦争行為要論) http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=230;id=imgbord#230
による死者+負傷者の合計と同じ。 1800人のうち「生存者が300人しかいない」というのには疑問を隠せない。著者による聞き間違いとか誤読はなかったか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 【追記6】典拠
いつ、だれが聴き手になったインタビューで、初出はどこか、このインタビューの典拠が明らかになれば、歴史資料としての信頼性は高まるでしょう。
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