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真珠湾攻撃に関する議論で近年必ず出てくるのが所謂「マッカラム覚書」です。田母神論文を支持する中西輝政京都大学教授等も、頻繁に当該「覚書」について言及されておりますが。田母神氏の「真珠湾攻撃FDR陰謀論」の論拠も、この辺りにあるのかもしれません。今回は、この点を検証したいと思います。
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【マッカラム覚書】 海軍情報部長あて覚書(マッカラムの戦争挑発行動八項目)
海軍情報部長極東課長 1940年10月7日
表題 太平洋地域の情勢見積及び米国の取るべき行動に関する意見具申
1 アメリカ合衆国は今日、欧州では敵対的なドイツ及びイタリアと対決しており、また東洋では敵対的な日本とも同様な状態にある。これらの二つの敵対的グループの間に介在する大陸国家ロシアは現時点では中立だが、あらゆる可能性から考えて枢軸国に味方するだろう。これら枢軸国の勝利の見込みを直接高めることとなると期待されるかもしれない。
独伊は欧州大陸で勝利を収めていると見られており、そして欧州全域が枢軸国の軍事的統制下におかれるか、またはその隷属を強制されていると見られている。唯一、英帝国が独伊及びその衛星諸国による世界支配の増大を阻止するための戦いを、積極的に戦っているにすぎない。
2 アメリカ合衆国は最初、欧州戦争には干渉しない態度をとっており、また独伊は力の及ぶ範囲内で、欧州戦争の結果に米国が無関心な態度をとり続けるよう、あらゆる手段を尽くしてきたとの見方を支持する相当な証拠がある。逆説的ではあるが独伊軍が勝利を収めるたびに、米国内の英国政府に対する同情と物的援助は増大して、戦争以外の、あらゆる援助の手を差しのべる政策を、英国政府に約束する立場に立っている。情勢が急激に変化しているので、米国政府はきわめて近い将来、英帝国の全面的な同盟国となるであろう。
アメリカ合衆国を無関心な傍観者の立場に維持せんとする独伊の外交政策が遂に失敗に帰した結果、独伊は(欧州以外の)他の地域で米国の安全保障に脅威を与える政策を採用せざるを得なくなった。それは、特に中南米地域における枢軸国に支配されたグループによる革命の脅威や、極東での日本による侵略と脅威を増大させるための激励である。それは、独伊がこうした手段により、米国の考え方や米国自体の身近の安全保障に大混乱を生じさせ、純然たる防御準備にきわめて神経質にさせ、米国のいかなる形式の対英援助をも事実上、禁止させようと希望しているからである。
この政策が採用された結果、独伊は米国を対象とした、日本との軍事同盟を締結した。この条約について報道された条件及び日独伊指導者たちの、とげとげしい言葉が信ずるに足り、かつ、それらを疑う理由もないように思えるので、米国が対英援助に踏み切ったり、また米国が東洋における日本の目標遂行に力ずくで介入する場合には、これら全体主義三カ国は米国との戦争に同意している。そのうえ、独伊は戦争に至らない、米国の対英援助が開戦の理由となりうるか否かを決定する権利、または彼らが英国を破った後ではそれが対米戦の理由とはならないと決定する権利を、はっきり留保している。換言すれば、英国が敵国により処分された後で、直ちに対米戦争に進むか否かを決定するだろうと言うのである。
地理的条件からドイツもイタリアも日本には、いかなる物的援助をも提供できる位置にはない。反対に日本は、英国の自治領及びオーストラリア、インド、蘭領東インドからの物資補給ルートを攻撃することにより、独伊両国に対して、大きな援助を提供することができる。かくして、欧州において枢軸国に反対する英国の立場を実質的に弱体化させることになる。
この援助と交換に日本は、米国が日本に対し積極的な行動に出るのを阻止するため、米国の注意を引きつけるべく、独伊は全力を尽くすだろうとの追加約束を得て、日本は奪取可能と考えるアジアのすべてを占領するためのフリーハンドを獲得している。
われわれはここで再び枢軸国と日本との―米国の力を発揮不能とし、かつ、脅迫と警告とにより、 米国民の考え方を混乱させて、行動するか、しないか、いずれの分野でも米国の迅速な決定的行動を阻止せんとする―外交的駆け引きの実例を見た。欧州の枢軸国または極東の日本が、最も望んでいないことは、いずれの戦域においても米国による挑戦的な行動であるということは、いかに強く強調しても、強調しすぎることはない。
3 欧州の現状を検討すると、英国を援助するため、われわれがまだ実施していなくて、現在直ちに実施可能なものはほとんどないとの結論に到達する。われわれは英国を援助するために派遣すべき訓練された軍隊を保有していない―すくなくともあと1年間は保有しないだろう。われわれは現在、対英援助物資の流れを増大して、あらゆる実施可能な方法で英国の防衛を支持するよう努力している。そして、この援助が増加されることは疑いない。
一方、英国が戦争を継続し、英海軍が大西洋の制海権を維持しているかぎり、ドイツまたはイタリアが米国に対抗できる可能性はほとんどない。われわれの立場にとって一つの危険は、英帝国が早期に降伏し、英国艦隊が手つかずのまま枢軸国の手に入ることである。このような事態が生起する可能性は、われわれが実際に英国と同盟しているなら、実質的には少なくなっているか、もしくは英国にかかっている圧力を、行動の別の分野で軽減するため積極的手段をとるならば、最小限に抑えることができる。要約すると、英国海軍が大西洋の制海権を保持し、米国と友好関係にあるかぎり、大西洋における、米国の安全保障に対する脅威は小さい。
4 太平洋では、日本は独伊との同盟のおかげで、英帝国の安全保障にとって決定的な脅威であり、いったん英帝国が消滅すると、日本-独伊の戦力は米国と対抗することになる。シンガポールに対する日本の脅威または攻撃を伴った、また、バルカン半島及び北アフリカ経由のスエズ運河に対する独伊軍による強力な陸上攻撃は、英帝国にとってきわめて深刻な結果をもたらすことだろう。
日本を牽制もしくは中立化させることが出来たなら、枢軸国がたとえスエズ運河攻撃に成功したとしても、インド洋から英国の海軍力を排除することによってもたらされるのと同じ位の利益―つまり、日本にとって欧州補給ルートを開き、東洋の原料補給海上ルートを独伊まで伸ばす―を日本にもららすことにはならないだろう。従って、英米が欧州を海上封鎖し、かつ多分日本が部分的にせよ(東アジアで)活動している場合には、日本は牽制されなければならない。
5 第3項で指摘したように、米国が欧州の情勢を救うため直ちに実施可能なことはほとんどない一方、米国は日本の侵略的行動を効果的に取り止めさせることが可能で、しかも米国の対英物的援助を減ずることなく実施できる。
6 米国と対立している日本の現状を分析すると、次のことが言える。 有利な点
(1)日本列島は地理的に強力な優位性を持っている。 (2)きわめて中央集権化された強力な政府である。
(3)厳格に管理された戦時経済体制をとっている。 (4)国民は苦労と戦争に慣れている。
(5)強力な陸軍を有する。 (6)米海軍の約三分の二の兵力からなる熟練した海軍を有する。
(7)ある程度の天然資源の備蓄がある。 (8)四月までは天候により、日本近海での作戦行動が困難である。 不利な点
(1)アジア大陸での消耗戦に百五十万人が投入されている。 (2)国内経済と食糧配給が厳しく制限されている。
(3)戦争に必要な天然資源が大幅に不足している。特に石油、鉄及び綿花が不足している。
(4)欧州から資源を入手することが不可能になっている。 (5)必要物資を遠い海上交通路に依存している。
(6)合衆国と欧州の市場に頼ることなく、軍事機材の生産と補給を増加させることができない。
(7)主要都市と工業地域は空襲を受けやすい立地条件にある。
7 太平洋において、アメリカ合衆国は防衛上きわめて有利な立場にあり、海軍及び海軍航空隊は現在、この地域で長距離進攻作戦を実施する能力がある。
われわれは、次の点でもきわめて有利である。 すなわち、
(A)フィリピン諸島は今もなおアメリカ合衆国が領有している。
(B)友好的で多分連合側に加わる国家の政府が、蘭領東インドを支配している。
(C)われわれと友好関係にある英帝国が、香港とシンガポールを領有している。
(D)中国の主力軍隊が今なお日本と戦い続けている。
(E)日本の南方補給ルートに対し、重大な脅威を与えることのできる、米海軍の小部隊がすでにその作戦海域にいる。
(F)米国と同盟を結んだら貴重となる、オランダ海軍の相当規模の兵力が東洋に駐在している。
8 前述したところから、次の結論を引き出すことができる。米海軍が日本に対して速かに進攻作戦を実施すれば、日本は独伊のイギリス攻撃を支援できなくなるだろうし、日本は最も不利な情況で戦わざるを得なくなるか、もしくは海上封部隊により、かなり早い時期に国家が崩壊する状態に直面することになるだろう。
英国及び和蘭と適切な協定を結んだ後で、機敏かつ早期に対日宣戦を布告すれば、独伊が米国を効果的に攻撃する前に日本を早期に崩壊させ、太平洋から敵を排除できるだろう。さらに、日本を排除することは、独伊と対決している英国の立場を確かに強化するに違いない。さらに、そのような行動はわれわれと友好的関係を望んでいる、すべての国家の信頼と支援を増大させることだろう。
9 現在の世論の情況からは、さらにより多くの騒動が発生しないかぎり、米国政府が対日宣戦布告を出来るとは思えない。われわれの積極的な動きにより、日本が態度を変更することはほとんどない。従って、次の施策八項目を提案する。
(A)太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について英国との協定締結。
(B)蘭領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の使用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結。
(C)蒋介石政権への、可能なあらゆる援助の提供。
(D)遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋、フィリピンまたはシンガポールへ派遣すること。
(E)潜水戦隊二隊の東洋派遣。 (F)現在、ハワイ諸島にいる米艦隊主力を維持すること。
(G)日本の不当な経済要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること。
(H)英帝国が押しつける同様な通商禁止と協力して行われる、日本との全面的な通商禁止。
10 これらの手段により、日本に明白な戦争行為に訴えさせることが出来るだろう。そうなれば、益々結構なことだ。いずれにしても、戦争の脅威に対応するため、われわれは十分に準備を整えておかなければならない。
A・H・マッカラム
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【マッカラム覚書の検証】
マッカラム(Arthur
N.McCollum)少佐は覚書起案当時、海軍情報部極東班長に在り、1940年10月7日付の覚書「Estimate of the
Situation in the Pacific and Recommendations for Action by the
United States」は、直属上司であるアンダーソン海軍情報部長に提出されたものであります。
現在、この覚書は米国立公文書館で閲覧が可能です(レコード・グループ38、ボックス番号6、フォルダー番号5750−15)。
公文書に関して、比較的機密性の高い文書は米国立公文書館側から「秘解除」(declassification)を実施する場合が一般的ですが、当該覚書に関してはスティネットの著書を精読した限りにおいて、「個別」に申請し「秘解除」したものと推測されます。つまり史料検証の前提として、当該文書が「機密性の極めて高い」史料として戦後50年以上秘匿されていた訳ではないことを認識する必要があります。
では、当該覚書が中西輝政教授等一部論者が主張する「対日開戦促進計画文書」であったかについて検証しましょう。
覚書の論点は、A〜Hまでの8項目の段階的実施勧告に集約されております。まず、Aの太平洋、特にシンガポール等太平洋に於ける英軍基地の利用について英国と協定を結ぶ件ですが、これは実行されておりません。
次にBの在蘭印の基地使用と補給物資の調達についてオランダ政府と協定を結ぶ件ですが、これも実行されておりません。
Cの蒋介石政権に対する可能な限りの援助に関しては、当該覚書以前の1939年からFDR政権に於いて実施されております。
Dの航続能力の高い重巡洋艦の1個隊を極東、フィリピン或いはシンガポールに派遣する件ですが、これも実行されておりません。
Eの潜水艦2個隊の極東派遣については実施されておりますが、これは南部仏印進駐等の緊迫した状況下での派遣であり、当該覚書との関連性には、個人的見解として懐疑的です。
Fのハワイ水域にいる米国艦隊主力を引き続き駐留させる件ですが、対日抑止力の観点からFDR命令で1940年5月から真珠湾に常駐されております。当該覚書5か月前の決定であり、当該覚書との関連性には、これも個人的見解として懐疑的です。
Gの対日経済交渉でのオランダへの非妥協要求についてですが、日蘭経済交渉は1940年夏に始まりましたが、当初からオランダ側の強硬姿勢で頓挫しておりました。交渉決裂は翌41年4月であり、これも当該覚書とは関連性が無いのではないでしょうか。
Hの英国と共同して対日全面禁輸を実施する件ですが、これも日本の南部仏印進駐への報復的措置として在米資産凍結と石油全面禁輸を実施したものであり、マッカラム覚書とは恐らく無関係であるものと判断いたします。
覚書起案当時の米国海軍部内の状況は、米国艦隊の準備不足、対独第一主義等の理由から、対日慎重論が主流であった点も見逃すことは出来ません。例えばスターク米海軍作戦部長等は、海軍戦備が不十分であるとの認識の基、対日全面禁輸にも反対しております。先述の通り、当該覚書は情報部長宛ですが、当時の米国海軍の序列では作戦部次長が情報部長より高位であること等から勘案し、マッカラムの対日強硬論が米国海軍の主流意見であった如くの一部見解には、相当の注意をもって接する必要があるでしょう。日本同様、開戦前の米海軍情報部の部内での地位は、相対的に低かったのであります(但し、開戦後は違います)。
マッカラム覚書がFDR等最高首脳に影響を与えたとの具体的史料も無い以上、当該覚書に依拠して「米国の対日政策」を語る最近の一部保守派の論調には、私は基本的に反対の立場です。
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