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[6020]東中野先生、久しぶり! ゆう 08/12/10(水) 19:04

[6020]東中野先生、久しぶり!
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 ゆう WEB  - 08/12/10(水) 19:04 -

引用なし
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   そういえば、ここしばらく「東中野修道」先生の名前を見かけないなあ・・・。

ふと思いついて国会図書館のNDL-OPACシステムで検索したみたところ、2006年以降の氏の雑誌論文は、こんな感じでした。


1.南京大虐殺「生き証人」の疑惑 / 東中野 修道
Will. (46) [2008.10]

2.渡部昇一×東中野修道 「大虐殺」捏造を生んだもの (「南京大虐殺」の真実) / 渡部 昇一 ; 東中野 修道
Will. (-) (増刊) [2007.12]

3.映画『南京』から見えるもの (「南京大虐殺」の真実) / 東中野 修道 ; 冨澤 繁信 ; 水島 総
Will. (-) (増刊) [2007.12]

4.「南京大虐殺」という虚構宣伝の全容と教科書のウソ / 東中野 修道
正論. (通号 412) [2006.7]

5.人物交差点 「南京大虐殺」は戦争プロパガンダだった--東中野修道 / 東中野 修道
明日への選択. (通号 245) [2006.6]

6.南京事件 党秘密文書を発掘!「南京大虐殺」は国民党宣伝部のプロパガンダだった (SIMULATION REPORT 「日米離間」から「資源・歴史問題」までこの権謀術数に嵌まるなかれ 中国「恫喝外交」に呑まれるな) / 東中野 修道
Sapio. 18(12) (通号 391) [2006.5.24]


昨年の「南京事件70周年」でWillに登場して以降は、雑誌論文の発表は、たった1回だけ。それも、あの「Will」です。


それにしても、タイトルが「南京大虐殺「生き証人」の疑惑」とは。明らかに夏淑琴さん裁判を意識しています。裁判の過程でここまでコテンパンにされた氏が、一体どんな「弁明」を試みているのか。面白そうなので、早速取り寄せて読んでみました。

(余談ですが、私の住む地域の図書館には、なぜか「Will」が於ていない。仕方なく、国会図書館のネットサービスで注文しました)

読んでの感想は、まあ、相変わらず「東中野氏」しているなあ(笑)、というもの。大局を見ず、データの細かい部分をひねくりまわして、ほらここに「矛盾」がある、とやる、例の手法です。

なお、第一審判決で「学問研究の成果というには値しない」とまで酷評された、例の「bayonet」の誤訳は完全スルー。どうやらこの論点で争うことは諦めたようです。


まず氏は、「マギー師の記録の矛盾」として、「マギーフィルム」に「一家全員」が虐殺された、との字幕が入っていることを追及します。

フィルムを撮ったのも、虐殺の聞き書きをとったのもマギー師であったとするかぎり、「字幕説明AとB」に「二人の少女が生き残った」という説明は不可欠であったはずだ。

すなわちマギー師が付したかマギー師の記録に基づいて付けられた「字幕説明A」「字幕説明B」はマギー師が書いた「フィルム解説文」と一致せず、矛盾しているのである。


・・・あのお、先生。まさにその当事者であるマギー自身が、あっちこっちで「二人が生き残った」ことを語っているわけですよね。

だったら普通は、何らかの理由で字幕に誤った説明がつけられたんだろうな、と考えるところでしょうが。相変わらず東中野氏、ひねくれています。


今さらですが、参考までに、当時の記録である、「日本軍の暴行記録」です。

第二一九件 ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。〔マギー〕


ここからしばらく、氏は頭の痛くなるような「マギーフィルムの文章解釈」を重ねた挙句、おかしな「矛盾と疑問」を作り出します。何と、撮影者はマギーではなかったかもしれない、というのです。

その根拠は、「マギーフィルムの解説文」に「写真撮影者を案内したのは」とある。本当に自分が撮影したのであれば、「写真撮影者の私」と書くはずだ、ということだそうで。ちょっと読んだら何の冗談だ、と思うところですが、東中野氏は大真面目。おいおい(^^;


さすがに自分でもちょっとどうかと思ったのか、「とりあえずマギー師が実際に撮影し聞き書きしたと想定した上で論を進めていきたい」と路線修正。しばらく重箱の隅のようなどうでもいい議論を続けたあとで、いよいよ「夏氏の証言の矛盾」に話を進めます。


まず1点目は、夏さんの「年齢」です。「1929年生れ」だったり「1930年生れ」だったり、「年齢」が揺れ動く。

ここに列挙した八冊のなかの証言、そのなかの英文と中文の証言をそれぞれ一回と計算すると、夏氏は全十回の証言のうち九回も一九三〇年生まれの「数え年八歳=満七歳」と証言していた。

そうである以上、「数え年九歳=満八歳」と記載されたパスポートは夏氏には手交されないであろう。

ちなみに二〇〇〇年の「民事訴状」では「一九二九年生まれ」と言っていることも付言しておく。

だから何だい、と言いたくなる「疑問」です。原告側準備書面において、とっくにこの点は説明されています。

原告夏淑琴は,新暦で1929年5月5日に生まれた。

 もっとも当時の中国では,旧暦でしかも数え年が当然であったから,生誕した時点で1歳となり,その後は旧正月を迎える度に1歳ずつ年を重ねていくというのが年齢の計算方法であった。そのため実際に生まれた日というのは重視されておらず,原告は自己の正確な生誕日を知らない。

 1929年5月5日という日付は,戦後になって新暦が採用された後に,親族の記憶を頼りに「生まれたのはこの時期だったのではないか」との推測に基づいて,便宜的に定めたものである(これは,中国のこの世代の老人にはよくあることである)。特に原告は,家族が全て殺されてしまっているため,なおさら正確な日付がわからず,1930年生まれだった可能性もある。


この「書面」を見ながら、同じ主張にしがみついているとは。こらこら先生、何も知らない読者を、騙してはいけません。


続いて「夏氏の証言の矛盾2.」。夏さんの叔母、王芝如さんの証言を取り上げます。

二十何日かして家に帰って見たら、家には死体が七つ転がっていたのです。父と母と夫の姉の主人とが殺害されていて、一番上の姪(二十歳)と二番 目の姪(十八歳)と夫の姉とが活きながら踏みつけ死されていて、七歳の姪が幾太刀か刺されて意識を無くしていて、三才の姪が恐さに気が変になっていて、一番小さい姪が日本軍に突っつき殺されていたのです。その時の惨状は言葉ではとても形容できません。


東中野氏の論評。

これによれば、叔母夫婦は最初に親戚の死体を発見して一つ一つ確認し、生き残っていた「七歳の姪・・・三歳の姪」をも発見したあと、死体を片付けた人であった。どうであろうか、何度読んでも、第一発見者は「叔母」の王如芝氏夫妻であったとしか思えない。

しかしマギーによれば、「第一発見者」は近所の老女性であった。従って、これは矛盾である。

しかし「マギーフィルム」の方では「近所の老女性」とありますし、王さんが語ったのは「帰って見たら死体があった」まで。

この二つのデータを組み合わせれば、「帰って見たら」との前には、例えば「誰かから知らせを受けて」のようなことが省略されているのだろうな、と見れば自然な発想です。

おそらく王さんにとってはあまりに当然のことで、いちいち説明する必要を感じなかったのでしょう。また中国人のインタビューアーも、そんな細かいところに拘泥しなかったのでしょう。

しかしひねくれ者の東中野氏は、むりやりここに「矛盾」を発見してしまいます。同じ文を「何度」も「読」まないで、他の資料もちょっと読んでみればいい話なんですが。この点、2年以上も前に、私が書いていますね。


落合信彦氏『目覚めぬ羊たち』より

 十日ぐらいしてから紅卍字会の人々が死体探しに来たんですが、そのとき私と妹を見てまだ生きていることに気づいたんです。それで助けられて孤児院に入れられました。もちろん私は歩けなかったので背負ってもらいました。
 その後何日かして母方のおじが私たちふたりを探し出してくれて引きとってくれたんです。
(同書 P116)


星徹氏『ルポ・中国の人々の怒りとは』より

 あの惨事から一〇日ほどたっただろうか、数人の老人が敷地内に入ってきて、生きている人がいるかどうか調べたり、何か探し物をしているようだった(夏さんは、彼らは何か食べ物を探しにきたのではないか、と推測する)。夏さんと妹は人の気配に気づいて「避難所」に隠れたが、その老人たちが中国語で話していたので、大丈夫だと思いそこから飛び出した。すると、近くにいた老婆が「あっ! まだ生きている人がいる!」と驚いて言い、近くに住む「老人堂」(老人ホーム)に二人を連れていってくれた。

 年が明けて三八年になり、難民区から中国人が少しずつ外に出るようになってから、そこに避難していた叔父(もともと同居していた母の弟)が、心配になって夏さん一家のようすを見にきた。

 それで叔父は、夏さん一家の惨劇の現場を目撃したのである。しかし、そこには夏さんとその下の妹の姿がないので、近所の人に尋ねて、二人が「老人堂」で保護されていることを知った。それで、叔父が「老人堂」に迎えにきたのである。
(『南京大虐殺 歴史改竄派の敗北』 P153〜P154)


はい、夏さんが発見されたのは事件発生から「十日ぐらい」してから。叔母さんがやってきたのは「その後何日かして」、あるいは事件から「二十何日か」あと。

それだけの話です。ここには、何の矛盾もありません。


しかし東中野氏は、「開き直り」ともとれる弁明を続けます。夏さんが王さんの証言に続けて「王芝如はわたしの叔母で、今言ったのはみんな事実です」と語っているのをいいことに、こんなことを書いています。


ところが原告弁護団は私に対して、「原告の叔母である王芝如を勝手に『第一発見者』だとしたうえで、マギーのフィルムの写真に写っていたのも王芝如だと勝手に決めつけているに過ぎない」と非難している。しかし私は勝手にそうしたのではなく、右のように、夏氏の証言に従ったまでであった。

夏さんは「叔母さんに発見されました」なんて一言も言っていないのですが・・・。東中野先生、「しかし私は勝手にそうしたのではなく、勘違いをしただけであった」と書けば正直なところでしょう。全くの素人の私ですら、ちょっと資料を眺めただけですぐに気がついた程度のことなのですから。


つづいて東中野氏は、夏さんの証言の「変転」ぶりを取り上げます。夏さんの証言では、『南京への道』では第一発見者は「近所のおばあさん」だった。それが『南京大虐殺と原爆』では「死体を収容に来た人たち」に変わっている。

これは本人がよく覚えていない部分で、あとで周りの大人から教えてもらったんだろうな、と私など素直に思ってしまうのですが、東中野氏はこんなトリビアに大騒ぎしてみせます。


夏氏は「第一発見者=近所の老女性」だと「一貫」して述べてきたと言うのであれば、右の本に述べた証言を否定し、「一九八五年ごろ最初に証言したことは間違っていました。事実ではありませんでした」と訂正する必要がある。そしてなぜ間違って証言したのか、読者に納得のいく説明をする義務がある。

先生、あなた、自分の著作でいくつ「間違い」をやらかしましたか? そして、その「間違い」をぜーんぶ、「なぜ間違ったのか、読者に納得のいく説明」なんかしていますか? ・・・と思わず突っ込みたくなりますが、それはさておきましょう。


そしてまた次のように推測されても致し方ないであろう。・・・つまり夏氏の証言はマギー師の記録に合わせるように変化してきたと思われてくるのであり、そうである以上、八歳の少女であると言う夏氏の証言は永久かつ完全にその信憑性を疑われることになろう。

つまり東中野氏は、夏さんの証言による「第一発見者」が「叔母さん」から、いつのまにかマギーフィルムと一致する「近所のおばあさん」になってしまったことを問題にしているわけです。

あんたが勘違いしただけだろ、というだけの話です。しかし東中野氏は、自分の勘違いをベースに「夏氏の証言は永久かつ完全にその信憑性を疑われることになろう」まで、話をオーバーにしてしまっているわけですね。そりゃ、無茶というものだろ。


東中野氏は、続いてこんなことを書きます。


最後に一言しておきたい。夏氏はあれほど詳しく今も昔も目撃証言を話しているにもかかわらず、一度も「当時、外国人に会って事件のことを語った」と証言していない。
(略)
夏氏はいつ誰から、自分がマギー師に会って事件のことを語ったと知らされたのだろうか。知らされた時点からでも遅くはなかった。証言する時は、常にマギー師のことに触れていて当然であった。

しかし今に至るまで夏氏がマギー師のことや「私はあの八歳の少女である」と公言したことは一度もないのである。


「常にマギー師のことに触れていて当然であった」というのは、いかにも東中野節。別に「当然」じゃないだろ、何十年前の子供時代の出来事のデティールなんかいちいち覚えていなくても不思議じゃないし、「マギー師」のことを知ってからもいちいち「常に」触れなければならない、なんてこともない。

・・・と、普通ならば思うところです。


それはともかく、東中野氏は笠原氏の本を読まなかったのでしょうか。2年ほど前に出た本ですので、「今に至るまで」というのは明確に東中野氏の事実誤認です。


叔父が私の家の惨事を外国人に報告したので、外国人が私の家を見に来て、その外国人は私の写真を撮っていきました。(机の上にあった分厚い写真集を見せて)これらの写真はその時にその外国人が撮ったものです。その外国人 ( のちにマギー牧師であることを知った)は、私を連れて行こうと考えましたが、叔父が同意しなかったのです。

 私たちの家族で生き残ったのは、私と妹だけで、そのとき妹はすでに孤児院に連れていかれていました。叔父が同意しなかったのは、叔父には三人の子供がおり、私に家事、育児を手伝わせようと考えていたからでした。

 私はその時の外国人(マギー牧師 ) に感謝しています。彼は、私の当時の状況を撮影し、さらにその写真を送ってくれました。私は当時まだ小さかったので、何も分からなかったのですが、これらの写真記録によって、私の証言の事実を裏付けてくれるからです。もし、それらの外国人が私たちを撮影してくれていなかったら、私たちは当時の状況を詳しく知ることができなかったでしょう。
(笠原十九司氏『体験者27人が語る南京事件』より)



*今さらですが、拙サイトを紹介しておきます。

夏淑琴さんは「ニセ証人」か?−東中野修道氏『SAPIO』論稿をめぐって−
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html

続・夏淑琴さんは「ニセ証人」か?−東中野修道氏『「南京虐殺」の徹底検証』を検証する−
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/tetteikenshou.html

「南京虐殺を語る 夏淑琴さん事件の証言集」
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/kashukukinshougen.html

私のサイトとK−Kさんのサイトを合わせれば、夏さんの証言のさまざまなヴァージョンは、ほぼカバーできます。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/</blockquote></blockquote></blockquote>
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