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野中広務氏は、1年ほど前、『世界』のインタビューに答え、次のように語りました。インタビューアは、クマさんこと熊谷伸一郎さんです。
野中広務インタビュー『政治家と歴史認識 日中戦争・南京事件七〇年に思う』
南京で立ちすくんだ後援会員
私は南京には、最初は一九七一年、次が一九八一年、次が一九九六年と三回行きました。
最初に南京を訪れた時のことです。当時、京都府会議員をしていた私は、二〇〇人ほどの後援会員とともに上海・蘇州・南京への旅行を行ないました。まだ中国との国交回復前のことで、まだまだ、かつての戦争の傷跡が残っておりました。鬱蒼とした樹木の中を自転車だけが走っているという光景でした。
同行した後援会員のなかには、戦争に従軍した体験を持つ方が何人かいらっしゃいました。ちょうど南京市に入り、南京城壁のところにさしかかったとき、そのうちの一人が突然うずくまって、体をガタガタと震わせはじめたのです。しまいには、土の上に倒れて体を震わせて動かないのです。
私はびっくりして、看護婦に強心剤を打たせました。数十分が経過してから、ようやく落ち着きました。
「どうしたんだ」と聞きました。すると彼は、「私は戦争の時、京都の福知山二〇連隊の一員として南京攻略に参加し、まさにここにいたのです。いま南京に来て、当時を思い起こし、地の底に足を引きずり込まれるような状態になり、体が震えてきたのです」と話し、当時体験を話してくれました。(P240)
女や子どもまで焼き殺した
その一つは、彼が南京に攻め込んだとき、倒れていた中国側兵士の命を助けた話でしたが、もう一つは痛ましい話でした。
「南京の城内に入った時、土嚢が積まれた家がありました。扉を開けて中を見ると、女性と子どもがいるばかりだったので、私は上官に『ここは女、子どもばかりです』と言って扉を閉めようとしたのですが、上官が『何を言っているのだ、その中に便衣兵がいるのだ、例外なしに殺せ、容赦するな』と言って命令を下し、私たちはみんな目をつぶって、火をつけてこの人たちを殺してしまった。戦争のなかで一番嫌な体験です。戦争から帰ってきてもずっと心に消えないまま残っていて、私の夢に現れてきます。今日この地に来て、私はまた三〇年程前の話を思い出して、本当に恐ろしくなったのです」と話したのです。
この体験を話してくれた方は数年前に亡くなりました。(P241)
(『世界』2008年1月号)
さてその1年後、12月13日の講演で、野中氏はこの「事件」について、もう少し詳しく語りました。
後援会員が「殺した」と告白;南京占領71周年で野中氏
旧日本軍の中国・南京占領から71年になる13日、市民団体が「南京事件71周年集会」を東京都内で開き、野中広務元自民党幹事長が講演で、1971年に後援会の人たちと南京を訪れた際、日本軍兵士だったという1人が「女子供を百数十人も殺した」と告白したエピソードを紹介した。
「子どもと教科書全国ネット21」など主催で、約300人が参加した。
野中氏の講演によると、後援会員は南京を占領した部隊の一員。野中氏らと訪れた城壁の近くで突然倒れ「体がガタガタ震え、地の底に引き込まれる気持ちになった。やってはならない(ことをした)中にいた当時を思い起こし、居たたまれなくなった」と説明。
この後援会員は「占領した市内の点検を命じられ大きな土塀の家を調べたところ、中は女子供ばかりだった。上官に報告すると、『その中に便衣隊(民間人を装った軍の部隊)がいるんだ。皆やっちまえ』と言われ、目をつぶって、恐らく百数十人を全部殺してしまった」と話したという。
野中氏は「規模は分からないが、異常で非人間的な事態があったことを、その人を通じ知ることができた」とし「国の将来を思う時、歴史に忠実でなければならない」と訴えた。
2008/12/13
17:56
【共同通信】
野中氏はこの講演で、この「後援会員」の実名、部隊名も明らかにしています(「二十連隊」までは『世界』インタビューにもありますが)。
各種資料からその方の実在を確認できましたが、現在のところそこまでを報じたメディアはありませんので、以下では実名を窺わせるデータは一切出しません。部隊名についてもとりあえずは書かず、以下の引用文も引用元を省略します。
以上の配慮をいたしますが、ご存知の方には部隊の特定は容易だと思いますので、管理者の方が、これはちょっとどうか、という判断をされるのであれば、この文は削除しても構いません。
さて、これはいつの出来事であったのか。同じ部隊の方が、部隊の行動をこう語っています。
十三日午後八時迄城壁内で一日暮す。他の中隊は掃蕩を命ぜられ我々は午後十時宿営する。
明けて十四日街の掃蕩、十五日には・・・南京城外の守備にて下士哨となる。二十四日城内に帰り、軍司令部衛兵や大隊本部の衛兵となり勤務、勤務の中に正月を迎え、殺風景な所で元旦をする。
(略)
こうして一月二十四日、思い出多き南京城をあとに、揚子江南京港より大連に向かって・・・(以下略)
ただし同じ部隊の他の方の記録は若干異なります。
13日朝、・・・その場で城内の掃蕩を命じられました。
以上のデータを総合すると、13日、もしくは14日に城内掃蕩を行ったようです。
その後部隊は、12月24日から1月24日まで城内に駐留していたようです。この時期にも部隊が「掃蕩」を行った記録は存在しますが、目の前の民間人をすぐに殺さなければならないほど切迫した情勢だとも思われません。
「事件」は、13日もしくは14日の出来事であった可能性が高い、と思われます。
問題は、野中氏が伝えるこの方の証言がどこまで正確か、ということです。
南京において、何か異常な体験をした、ということは事実でしょう(南京以外での出来事が記憶の中で「南京」に摩り替わってしまった、という可能性はありますが)。その「異常な体験」というのが、「非戦闘員の殺害」であることも間違いないでしょう。
しかしこの後援会員さんは、三十年も前のことを回想して語っているわけです。野中氏はそれからさらに四十年も経ってからこの話をしたわけです。「骨」はともかく「肉」の部分は随分と変わってしまっている可能性がある、と思います。
例えば、野中氏も「規模はわからないが」と述べる通り、本当に「百数十名」の規模だったのか。また、本当に「女子供ばかり」だったのか。「女子供」も混じっている、という状況ではなかったのか。殺害方法はどうだったのか。このような細部については、保留しておく方が無難でしょう。
『南京戦史』では、第二十連隊の掃蕩は、「ほとんど銃火を交えることなく」、あるいは「戦果はほとんどなかった」ことになっています。「弾丸一発も使わずに城内の掃蕩を終わったのであります」と語っている方もいます。第三大隊の森英生中隊長など、「私共の部隊に限って絶対その様な覚え(「南京大虐殺」の実行)はない」と語っています。
ただしこれを額面通り受け止めることができるかどうかは、微妙なところです。我々は、石川達三が、「第二十連隊」が属する「第十六師団」に取材して「生きてゐる兵隊」を書いたことを知っています。
また、第二十連隊の兵士には、こんな日記も残されています。
林(旧姓・吉田)正明日記
明けて十四日、街の掃討する。敗残兵を殺す。又避難所へと逃げて行くニーイコを捕える。又道路上には支那兵服を脱ぎ、避民所へ逃げ入っているのが明らかである。でも避民所以外の所を掃討した。これを捕へて殺す。最高法院前にて逃げ行く敗残兵を捕へる事何十名、敵弾は西方より来る中を。 (『南京戦史資料集』P519)
どうも、『南京戦史』が記す「戦果はほとんどなかった」とは、イメージが違ってきます。
もし本当に「百数十名」の規模であったのであれば、どこかにデータが残っているかもしれない。そう考えて中国側資料を当ってみたのですが、類似の事件は発見できませんでした。
私の想像ですが、これは「夏淑琴さん事件」に類似した出来事だったのかもしれません。
日本軍の「掃蕩」過程では、かなり乱暴なことが行われていた、と見られます。鈴木二郎記者なども、いきなり部屋に侵入してきた日本兵に、問答無用で殺されかけた体験を語っています(拙コンテンツ「資料:日中戦争における民間人殺害」)。
「規模」などの正確な細部はともかく、「掃蕩」過程で起きた悲劇のひとつ、と捉えることも、あるいは可能かもしれません。
なお、『福知山第二十連隊第三大隊史』などを読むと、その3か月後、北支に転戦した同部隊は、掃蕩の課程で、「民間人殺害」を行っていたようです。
拙サイト「郷土部隊戦史に見る南京事件」に収録済みですが、N・K氏(原文実名)の記述を紹介します。
「福知山歩兵第二十聯隊第三中隊史」より
三月十六日作戦終了、新郷地区警備に任する。細井第二小隊のみ潞王墳警備に着く。潞王墳は二百米平方土塀に包まれた寒村小さい田舎駅があった。着任早々鉄道開通式があり満洲鉄道の酒保品の販売車が来た。附近村落より村長や村役等、四、五名が日本軍歓迎の俄造り手製の日の丸小旗を振りながら鶏玉子など持参して、心にもない護身用の歓迎の意志表示に来た。
三月○○日二時頃、歩哨の敵襲々々の声、パンパン、ドカンドカン手りゅう弾のさく烈音に夢破られ飛び起きた。(P306)
(以下、戦闘の詳細な様子が2ページにわたって記述されていますが、省略します)
その時、新郷方面よりトラックの来る音が闇夜に聞えて来た。中隊の応援隊の到着であることが判断出来た。トラックは駅舎二百米地点に停車して、重機関銃をトラックより降している。
静まり返った潞王墳の状況を偵察している様子が判断出来たので、自分はあまりの静寂は全滅と判断の不気味さであったのだろうと、走り寄り大声を張りあげ「敵は退却しました」「敵はどの方向に退却したか」「ハイこの道路を通って」指さして「あの前の村の方向であります」「よし判った」 重機が据え終るや照準を合して静まり返った中をドドドドドド重い射撃音が潞王墳一帯に響いていた。
翌朝附近一帯の村落を掃射した。二十才以上三十五才位の男子を連行した。山麓において処刑の際「我們不是富兵老百姓」(ウオメンプスタンピンラオパイシン) 「私達は兵隊ではない百姓だ」と「言っております」 「分隊長本当の兵隊なら今頃この村なんかには居りませんよ、とっくに逃げております。そう思いませんか」「殺せの命令だから仕様がない」 初年兵の言葉など通る雰囲気ではなかった。
我が小隊に多くの犠牲者が出たので、この善良な百姓達は敵視され犠牲になったのに、この若い百姓にも年老いた両親や妻子があっただろうに、戦争は正常なる精神の者を狂人にしてしまう。翌日の日暮に射殺された遺体をその家族が戸板を持って引取りに来た。年老いた父や母、妻に子供も悲しさを越えた恨に焼えた目で我々を睨んでいた。自分は思わず手を合して目をそらした。とても正視出来る情景ではなかった。(P309)
東史郎氏(この方は実名を出してもいいでしょう)も、同じ掃蕩作戦での「民間人殺害」の様子を詳細に語っています。
このような事例を見ると、「第二十連隊が南京掃蕩作戦の中で民間人を殺害した」ことは、十分にありうる出来事である、と考えられます。
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