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▼ピッポさん: >かず色さん、 >上記のようなことは、きちんと典拠を記していただけませんか? > >それからあちこちの古いスレッドに突然大量のレスをつけた突然異変は、どういう意図ですか? ただただ「議論をふっかけたい」がための所作のようにお見受けしますが。
『昭和史の謎を追う(上) 第22章:日本の細菌戦(下)』より引用
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大本営作戦課員の朝枝繁春少佐が服部作戦課長に呼ばれたのは、サイパン陥落の直前であった。「陛下の御内意はいかんということだが、それでも細菌戦をやることになった。ついてはハルビンに行って状況を見て来い。」
少佐はその年の春まで関東軍作戦課で731部隊を担当、対ソ戦の使用計画を作っていたので指名されたものと推察した。すぐにハルビンへ飛んで帰ってくると、「部隊は引き受けると言ってます」と復命したが、以外にも服部大佐は「やっぱり止めることにしたよ」と申し渡した。
今も健在の(注:現在は死去されております)朝枝は、作戦発動となれば、731部隊航空班の飛行機でペスト蚤を詰めた爆弾を米艦船の上空からばらまく構想だったと語るが、やってみても成功の公算は皆無に近かったと思われる。
6月19日のマリアナ沖海戦で、敵艦隊攻撃に向かった数百機の海軍艦載機が、強力な防空戦闘機群に阻まれて、ほとんど目標に到達できなかったからだ。それに汚染した甲板はDDTを撒くか海水で流せば終わりで、ペスト患者が発生する可能性はなかったろう。
しかしサイパン失陥の衝撃で動転していた大本営は、理性を失い、狂気の世界に身を委ねていた。亡国の悲運を回避するには手段を選ぶ余裕はない---そうした空気の中で特攻戦術が採用され、毒ガスや細菌兵器の使用が論議された。
この時期の部内の動きを記録している真田少将(大本営陸軍部作戦部長)メモは、要点だけの走り書きなので意味をとりにくいが、次のような断片的記事が散見される。
「大局上直チニ禁止スルコト(あか筒)」(7月12日) 「瓦斯ハ使ハヌカ使フカ 早ク決メラレ度」(7月26日)
「ガスハ米トスモーニナラヌ。ヨリテ使ハヌコトトセラレタナラバ兵本トシテハ結構ナリ」(7月27日?)
「2、毒ガス生産ニ関スル部内意見取マトメ、3、ガスト細菌ノ件 返、4、北野少将ヲ招ビシヤ」(8月5日)
(注:あか筒は催涙ガス、兵本は兵器行政本部)
大本営も多少は冷静さを取り戻したらしく、質量ともに劣る毒ガス戦を挑むのは日本側が不利と納得する過程を示したものと読み取れるが、細菌の部分はおそらく風船爆弾への搭載問題を指しているのではなかろうか。
成層圏の強い西風を利用して、米本土に焼夷弾を積んだ気球(風船爆弾)を送り込む奇想天外な作戦は11月3日から始まるが、10月25日、梅津参謀総長の上奏に際し、昭和天皇は作戦自体は裁可したものの、細菌の搭載は許可しなかった。(半藤一利「もう一つの聖断」、文藝春秋増刊『昭和の瞬間』1988)。
しかし細菌戦に対する陸軍の執着が、これで断ち切れたわけではなかった。半藤によると、1945年春の硫黄島戦でも、731部隊長に返り咲いた石井と作戦部が提案した細菌戦実施案が、医務局の反対で流れたという。
この時点になると、細菌攻撃を考えていたのは陸軍だけではなかった。海軍も小沢軍令部次長の発案で直属のPX作戦計画がスタート、責任者は作戦課部員の榎尾義男大佐が坐った。海軍には細菌の手持ちが無かったので、731部隊から譲り受け、改造した大型潜水艦に積み込み、艦載機で米本土かサイパンに撒こうという構想だった。
榎尾談では陸軍の服部作戦課長は乗り気で、4、5回会って打合せしたが、梅津参謀総長が否決したので流れ、服部は中国の連隊長、榎尾は九州の航空隊司令へ転出、立ち消えになった。その後も海軍部内では細菌戦議論が燻ぶっていたが、陸軍側をふくめ生物学者でもあった昭和天皇の意向がブレーキの役を果たした、と認める関係者が多い。 <以上、引用終>
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