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[4280]保甲制と新路口(夏家は何処?) 熊猫 07/3/19(月) 1:40 [添付]
[4282]東南第十七甲 熊猫 07/3/20(火) 8:37 [添付]
[4283]東南第十七甲(その2) 熊猫 07/3/21(水) 9:01 [添付]
[4284]Re(1):東南第十七甲(その2) K−K@南京事件資料集 07/3/21(水) 20:34
[4285]Re(2):東南第十七甲(その2) 熊猫 07/3/22(木) 8:03
[4298]Re(3):東南第十七甲(その2) K−K@南京事件資料集 07/3/24(土) 22:27
[4288]Re(2):東南第十七甲(その2) ピッポ 07/3/22(木) 9:55 [添付]
[4289]Re(3):東南第十七甲(その2) ピッポ 07/3/22(木) 10:12
[4299]Re(4):東南第十七甲(その2) K−K@南京事件資料集 07/3/24(土) 22:29
[5270]新路口の場所が解りました。 熊猫 08/1/19(土) 10:00 [添付]
[5271]Re(1):新路口の場所が解りました。 タラリ 08/1/19(土) 23:51
[5272]Re(2):新路口の場所が解りました。 熊猫 08/1/20(日) 9:54
[5273]歩兵115か150連隊が犯人かな? 熊猫 08/1/21(月) 0:55
[4297]雨花門 熊猫 07/3/23(金) 17:57 [添付]
[4287]マギーは氏名を確認しなかったか? 熊猫 07/3/22(木) 9:26

[4280]保甲制と新路口(夏家は何処?...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/3/19(月) 1:40 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sha11.jpg
・サイズ : 35.9KB
  
添付画像【sha11.jpg : 35.9KB】  「保甲制度」あるいは「保甲制」については、皆さんもある程度認識されていると思います。当時の中国には戸籍がないという認識で、農村部などの被害者の人数報告がいい加減なものであったとは考えてはいけないのです。
 平頂山事件や、南京周辺の農村部などの被害は「保甲制度」があったのでかなり正確であり、信憑性の高いものではないかと思います。

フィルムに映った老女
 フィルムに映った老女は同じ「」または「」の住人であれば夏家の内情に詳しくてもなんら不自然ではありません。地域と時代によって保甲制度は随分と違うようで、南京に「」があったかどうかは解りませんが「」は存在しました。

新路口
 事件当時の地図を探しましたが、新路口はありません。おそらく1937年当時は既に新路口は公式には無くなっていた可能性すらあると思います。
 保甲制度より判断すれば、新路口と馬道街は本来は別の場所であることを確認することが出来ます。
『同治上江両県誌』より
東南第十七甲
 蔵金橋・半辺営・大樹城・金家巷・転輪橋・正覚寺前・小英府・新路口・方井・小心橋・石観音
東南第十八甲
 馬道街・小油坊巷・木匠営・石将軍・蕭家苑・宰猪巷・水所営・小西湖・lei3功巷・千仏巷・染坊巷・箍桶巷・灯草営
 中華門だけでなく雨花門からも近かったのではないでしょうか。
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[4282]東南第十七甲
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 熊猫 E-MAIL  - 07/3/20(火) 8:37 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sinro01.JPG
・サイズ : 448.5KB
  
添付画像【sinro01.JPG : 448.5KB】 東南第十七甲
 南京は清時代の地名が多く残っていたことが、左の地図を見れば解ります。
 東南第十八甲は広い範囲であるのに比べて、十七甲は半辺営から小心橋にかけての、極めて狭い地域であったことも解ります。
 新路口のあった、十七甲は中華門よりは武帝門あるいは雨花門に近かったと思われます。また、現在では馬道街から小心橋にかけて馬道街となっており、新路口はその間の何処かにありますのすので、半辺営から小心橋の間をイメージしていれば問題ないはずです。

 雨花門から近いということは、日本兵のアリバイが無くなったということです。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/66i_c.htm
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[4283]東南第十七甲(その2)
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 熊猫 E-MAIL  - 07/3/21(水) 9:01 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sinro0.JPG
・サイズ : 449.0KB
  
添付画像【sinro0.JPG : 449.0KB】  「武帝門」は間違いで、正しくは「武定門」です(^^;
 
 前回の地図に手を加えて、もう少し詳しくしました。私が東南第十七甲という清時代の保甲制を提示したのは、新路口の場所を特定するためだけではなく、夏淑琴さんの事件は南京城内南部虐殺事件の一例であることに拘りたいと思ったからです。

 12月13日は夏淑琴さんの家庭だけでなく小心橋や正覚寺でも住民が殺害されていますので、この地域の住民は安全区に避難せず家に残っていたために虐殺事件があったのではないかと思います。
68 hits

[4284]Re(1):東南第十七甲(その2)
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 K−K@南京事件資料集 E-MAILWEB  - 07/3/21(水) 20:34 -

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   こんにちは、熊猫先生。
新路口事件のマニアックな研究は、非常に興味深く読ませていただいております。

ところで、夏淑琴さんの家(新路口5号)の場所ですが、これについては些か情報があります。
というのは、去年、夏淑琴さんが来日し、東京地裁で証言を行った際、「南京への道・史実を守る会」で夏さん一行のお世話を手伝ったのですが、その時、夏さんに「新路口5号」の場所を地図に書いてもらうように、史実を守る会の人にお願いしていたのです。
ただ、残念なことに夏さんは、地図がよく解らないということでした。そこで、中国側の随行の方(確か通訳の人だったか)が代わりに、地図に「新路口5号」の場所を書いてくれました。

で、その場所なのですが、熊猫先生が青線で囲った「半辺営」の西側に「馬道街」という地名が書かれていますが、ちょうどその「街」の字当りに記しがされていました。

なお、マギーフィルムが発見された年(1991年)に関西のMBSで放送された南京大虐殺の特集番組において、夏淑琴さんが、新路口5号を訪れるという場面があります。
まだ、当時の家は存在するようですので(1991年の話ですが)、家のつくりなど実際の様子を知ることが出来ます。

ではでは。

▼熊猫さん:
> 「武帝門」は間違いで、正しくは「武定門」です(^^;
> 
> 前回の地図に手を加えて、もう少し詳しくしました。私が東南第十七甲という清時代の保甲制を提示したのは、新路口の場所を特定するためだけではなく、夏淑琴さんの事件は南京城内南部虐殺事件の一例であることに拘りたいと思ったからです。
>
> 12月13日は夏淑琴さんの家庭だけでなく小心橋や正覚寺でも住民が殺害されていますので、この地域の住民は安全区に避難せず家に残っていたために虐殺事件があったのではないかと思います。
70 hits

[4285]Re(2):東南第十七甲(その2)
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 熊猫 E-MAIL  - 07/3/22(木) 8:03 -

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   >で、その場所なのですが、熊猫先生が青線で囲った「半辺営」の西側に「馬道街」という地名が書かれていますが、ちょうどその「街」の字当りに記しがされていました。

 新路口という地名からして、交叉点周辺ではないかと推察し内心は「半辺営」の「半」の字の場所の、交叉点が非常に怪しいと思っていたのですが、見事なまでに外れてました(^^;
 ・・・・・だとすると、新路口は十八甲になると思うのですが、「首都計画」で既に地名が馬道街になっていたか・・・・・・。
 いずれ、守る会の事務局の皆さんに場所の確認と、家族の名前の確認をお願いしようと思っていたのですが、既に確認されていましたか。
64 hits

[4287]マギーは氏名を確認しなかった...
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 熊猫 E-MAIL  - 07/3/22(木) 9:26 -

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南京事件資料集 2 中国関係資料編』324項
 十三日 物売り夏小六子、新路口五号にて射殺される。
 これは夏淑琴さんの父親である、夏庭恩の記述です。祖父が銀細工師であったことと、夏家が商人であったことが安全区へ避難しなかった理由のような気がします。

 夏さんの母親の名前は「夏聶氏(夏の妻で、聶の娘)」となっていますので、明らかに名前が無かった思われます。南京事件資料集では、「氏」を「婦人」と訳していますが、水滸伝や三国志の事例もありますので、素直に「氏」と使ったほうが自然だと思います。

排行(「はいこう」と読みます)
 夏さんの父親が夏小六子と記述されていますが、明らかに幼名であり中国の典型的な排行です。小六子あるいは小六というのは、その家で六番目に生まれた子供の幼年期の呼称です。必ずしも六男という意味ではなく、複数の家族が同居していた場合などもそこで、6番目に生まれた子供であれば、小六子または小六と呼ぶ習慣がありました。
 つまり、三男であっても小六子なる場合もあるのです。
 このような排行で呼ばれるのは、あくまでも子供頃であり、4人の娘のいるような男が排行で呼ばれるのは不自然です。

誰が小六子と言ったのか?
 夏淑琴さんが自分の父親を、排行で呼ぶことは考えられません。「ケンちゃん」のような愛称と排行はあくまで意味が違います。夏庭恩を知る目上の人が呼んだと考えるのが普通だと思います。(できたら、これも確認していただきたい)
 フイルムの老婆によるものと判断するのが最も自然です。夏さんの叔父にしても義理の兄にたいして、小六子などとは呼ばないと思います。
 小六子というのはマギーがフイルムの老婆から聞いた名前と考えるのが妥当ではないかと思います。
63 hits

[4288]Re(2):東南第十七甲(その2)
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 ピッポ E-MAIL  - 07/3/22(木) 9:55 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : ha_san.jpg
・サイズ : 38.7KB
  
添付画像【ha_san.jpg : 38.7KB】 K−K@南京事件資料集さん
熊猫先生 こんにちは


>なお、マギーフィルムが発見された年(1991年)に関西のMBSで放送された南京大虐殺の特集番組において、夏淑琴さんが、新路口5号を訪れるという場面があります。
>まだ、当時の家は存在するようですので(1991年の話ですが)、家のつくりなど実際の様子を知ることが出来ます。

これは、上のシーンに続くこれらのシーンではないかと。



WEB映像[馬ギ牧師的見証]より
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/album.html
この映像にはマギーのもの以外のものも混じっていますのでご注意あれ!
67 hits

[4289]Re(3):東南第十七甲(その2)
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 ピッポ E-MAIL  - 07/3/22(木) 10:12 -

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   >これは、上のシーンに続くこれらのシーンではないかと。

中庭からみた家です。
76 hits

[4297]雨花門
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 熊猫 E-MAIL  - 07/3/23(金) 17:57 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : ukamon00.JPG
・サイズ : 26.9KB
  
添付画像【ukamon00.JPG : 26.9KB】 雨花門
 南京事件当時の内門は22箇所あり、その最後に造られたのが雨花門(1935年)です。写真は2年後の雨花門を114師団の歩兵第150連隊が万歳しているところです。朝でんなぁ!

 野戦重砲兵第14連隊第2大隊の四年式十五糎榴弾砲と工兵の爆破によって、見事に破壊されています。
『大陸蹈破三万粁 野戦重砲兵第十四聯隊史』
101-102項 十二月十一日前日南京防衛第一線将軍山西方一帯を突破しこの日は主陣地帯雨花台―特に右燕子山附近の既設陣地を潰滅せしめ、更に雨巷門(鉄道引込線のある門)左壁の破壊に第四、六中隊勇戦し、破壊口を概成せしも未だ意の如くならず、工兵隊の雨巷門爆破により一部の歩兵突入し、通信掛大山太一郎少尉外数名、これに跟随して連絡の任に当たったが成功せず。
        (略)
 十二月十二日前日占領した右燕子山六角堂高地に観測所を推進、城壁前の秋山支隊に協力、また城東南角にも猛射、破壊口を概成し、午前十一時城内に対して全大隊をあげ壮絶な弾幕射撃を敢行し最後の止めを刺した。
 午後四時末松師団は一斉に雨巷門、東南角破壊口に殺到した。直ちに射撃中止となる。第五中隊の如き十一、十二日両日にかけ射弾百四十五発を数えたほどであった。間もなく城壁上には幾十の日章旗が翻るを見た。

南京攻略戦記 第二大隊本部伍長  八波 武  
138項 十二月十三日 南門を指呼の間に望む雨花台に、観測所を前進して雨巷門を望めば鉄扉は半分ばかり捩れたように開いていた。又雨巷門左側突撃口より友軍歩兵が続々登るのが見えた。城壁には何百本と知れぬ日章旗がはためき、壮観と言おうか、胸躍る快感が込み上げてきた。
※雨巷門とは雨花門の誤記です。


 
71 hits

[4298]Re(3):東南第十七甲(その2)
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 K−K@南京事件資料集 E-MAILWEB  - 07/3/24(土) 22:27 -

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   ▼熊猫さん:
> 新路口という地名からして、交叉点周辺ではないかと推察し内心は「半辺営」の「半」の字の場所の、交叉点が非常に怪しいと思っていたのですが、見事なまでに外れてました(^^;
> ・・・・・だとすると、新路口は十八甲になると思うのですが、「首都計画」で既に地名が馬道街になっていたか・・・・・・。
> いずれ、守る会の事務局の皆さんに場所の確認と、家族の名前の確認をお願いしようと思っていたのですが、既に確認されていましたか。

いやいや、過去の文献のみでそこまで調べ上げることが出来るというのは、すごいと思います。

ところで、この取材をしてくださった守る会の事務局の方(mixiのコルチャック先生)から、追加の情報をいただきました。
まずは、前便で私は「通訳の人」に教えてもらったと書いてしまいましたが、実は、南京大屠殺紀念館の朱成山氏だったようです。すごく大物でした(驚)。
そして、朱氏によると、位置を書き込んだ頂いた地図が日本製で、微妙に不正確であったということです。

それにしても、家族名ですか・・・。その点には思いが至りませんでした。せっかくだから聞いておけばよかったですね。
今度、来日されたときにでも、お聞きできれば良いのですが…。
73 hits

[4299]Re(4):東南第十七甲(その2)
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 K−K@南京事件資料集 E-MAILWEB  - 07/3/24(土) 22:29 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>>これは、上のシーンに続くこれらのシーンではないかと。
>
>中庭からみた家です。

そうです、この番組です。
さすがに収集していますね(笑)。

私としては、イメージしていた家より狭い感じでした。
87 hits

[5270]新路口の場所が解りました。
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 熊猫 E-MAIL  - 08/1/19(土) 10:00 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sinro03.JPG
・サイズ : 234.0KB
  
添付画像【sinro03.JPG : 234.0KB】 ▼K−K@南京事件資料集さん:
 いやぁ〜やっと新路口の場所が解りました。(^^;
 保国寺を調べていて、偶然に新路口を見つけました。トロープさんが保国寺と和記洋行の関係を疑問に思わなかったら、解らないままだったと思います。
 「馬」の文字が書かれた場所ではありません。これは朱成山館長と通訳さんとコルチャック先生の誰かが勘違いをしています。
 新路口は小心橋と半辺営の中間にあり、私のマニアックな資料は間違ってなかったようで、提示した地図との辻褄が合っています。

 夏淑琴事件は中華門から侵入した日本兵が犯人である可能性は極めて低く、雨花門から侵入した部隊であると考えるのが妥当ではないかと思います。
 
81 hits

[5271]Re(1):新路口の場所が解りまし...
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 タラリ E-MAIL  - 08/1/19(土) 23:51 -

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   ▼熊猫さん:
>▼K−K@南京事件資料集さん:
> いやぁ〜やっと新路口の場所が解りました。(^^;

これはお見事。
私も夏淑琴さんに地図を持って行ってどのあたりか、聞いたことがあるのですが、
この当たり、そうそうこの当たりとアバウトに地図の上を指で丸を書かれて、
困ったことがあります。それ以来ずっと心に引っかかったことでした。
ときにこの赤い地図は何年のどこ製ですか。
98 hits

[5272]Re(2):新路口の場所が解りまし...
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 熊猫 E-MAIL  - 08/1/20(日) 9:54 -

引用なし
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   タラリさん
 地図は民国22年(1933)の南京市です。宝塔橋街に寺院があったことは確認できたのですが、それが保国寺であるかどうかは判りません。右翼の先生が「……のはずだ。」と根拠なく断定するのを真似して「保国寺のはずだ。」と言うのも気がひけますので、空気を読んでください(^^;
 詳しくはFAQにて記載します。

 新路口の場所が解ったことにより、その近くの寺院(武定門側)で同様の殺害事件があっていますので、これらの地域には安全区に入らなかった住民がいて日本軍に殺害されており、夏淑琴さんの事件が特別だったわけではないことが分かります。
92 hits

[5273]歩兵115か150連隊が犯人かな?
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 熊猫 E-MAIL  - 08/1/21(月) 0:55 -

引用なし
パスワード
    新路口の場所と時間から判断して、歩兵第115連隊か歩兵第150連隊による殺害事件となります。問題なのは新路口だけでなく小心橋や正覚寺でも住民殺害事件が発生していますので、夏淑琴さんは南京城内南部市民虐殺事件の貴重な生き証人であるという認識が必要かと思います。
105 hits

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