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[4929]「幕府山事件」東中野批判イントロ タラリ 07/11/6(火) 21:15
[4930]「幕府山事件」東中野批判その1 タラリ 07/11/6(火) 21:18
[4931]東中野批判その2 タラリ 07/11/6(火) 21:21
[4932]東中野批判その3 タラリ 07/11/6(火) 21:26
[4933]東中野批判その4 タラリ 07/11/6(火) 21:32
[4934]東中野批判その5 タラリ 07/11/6(火) 21:36
[4949]取り急ぎ ゆう 07/11/10(土) 17:40
[5382]Re(1):「幕府山事件」東中野批判その1 タラリ 08/3/24(月) 23:28
[4945]「幕府山事件」 まずは、さわり ゆう 07/11/10(土) 9:03
[4954]処刑目的の証明 タラリ 07/11/13(火) 9:27
[4957]Re(1):処刑目的の証明 ゆう 07/11/17(土) 7:39
[4985]秦Vs東中野 幕府山事件論争 ゆう 07/11/23(金) 8:20
[4986]Re(1):秦Vs東中野 幕府山事件論争 タラリ 07/11/23(金) 22:03
[4987]Re(2):秦Vs東中野 幕府山事件論争 ゆう 07/11/24(土) 10:59
[4990]Re(3):秦Vs東中野 幕府山事件論争 タラリ 07/11/24(土) 23:37
[5267]Re(1):処刑目的の証明 タラリ 08/1/18(金) 22:44
[5015]一応アップ 「幕府山事件(1)」 ゆう 07/12/8(土) 6:45
[5207]ここがヘンだよ、両角手記 ゆう 08/1/5(土) 17:48

[4929]「幕府山事件」東中野批判イン...
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/6(火) 21:15 -

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   東中野『再現 南京戦』、いわゆる、東中野のバカ本のひとつですが(バカ本パパの最新作)、ゆうさんが本腰を入れて、第六章「幕府山事件」をネタにしようと呼びかけがありました。

>(もしお持ちでない場合は、こちらに全文写しておきましたので参考にしてください)
>http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/higasinakanosaigen6-1.html
>http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/higasinakanosaigen6-2.html

というわけで、2−3日頭をひねって書いてみました。
ちょっと進みすぎて、ゆうさんの書きたいところをかなり浸食したかも知れません。
その節は申し訳ない。

その1から6までに分けてアップします。
6-1.htm
その1
 ○移しい「死体の山」はどこにあったのか
  (注:ゆうさんのアップしたコピペを使用しています。OCRで読み込んだらしく、
   特有の文字化けがあります。「移しい」は「夥しい」のことです)
 ○幕府山占領後に大量の投降兵が出た
 ○捕虜を得た会津若松六十五連隊の苦悩
その2
 ○「皆殺セトノコトナリ」
 ○「皆殺セ」は「命令」だったのか

6-2.htm
その3
○捕虜が火を放って脱走
○両角連隊長は捕虜解放を決心する
その4
○捕虜の逆襲と鎮圧
○「両角業作手記」は弁明であったのか
その5
○一貫して「皇軍はお前達を殺さぬ」の意向であった
○幕府山の会津若松六十五連隊は非難されなかった
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[4930]「幕府山事件」東中野批判その...
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/6(火) 21:18 -

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   >○夥しい「死体の山」はどこにあったのか

> 前田記者や大寺上等兵が見た「夥しい中国兵の死体の山」は、いったいどこにあったのであろうか。

前田記者が見たのは下関の話で、幕府山の捕虜は関係ない。

>>・・・下関をすぎると、なるほど深沢のいうとおり道路の揚子江岸に夥しい中国兵の支隊の山が連なっている。(『戦争の流れの中に』より、東中野本のpp150)

大寺上等兵のは大湾子と魚雷営のふたつである。大寺上等兵に「夥しい中国兵の死体の山」という表現はない。東中野は、いつものことだが、出典を無視した、切り張りが多い。この後もその連続なので、いちいち指摘しない。

>>午后は皆捕リョ兵方(片)付けに行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ、
『南京戦史資料集2』P348〜350(東中野本にはなし)

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>○幕府山占領後に大量の投降兵が出た

>幕府山砲台は発電機や探照灯や地下室を完備した要塞として、

私はそういう資料を知らない。東中野も出典をしめしていない。
ちょっと関心があるのは『13のウソ』に小野氏が大湾子の虐殺にサーチライトを持ってきた、と書いていることである。これも資料の提示はない。

>山の上から投げられた手榴弾により一人が戦死し、六名が重傷を負っている。

「一人が戦死し、六名が重傷」の部分の資料はどこにある?


>日が暮れる午後五時ごろまでに一万四千七百七十七名が投降していた。

堀越文男陣中日記では「第一大隊は1万四千余人の捕虜を道上にてカンシしあり(午前)。」とある。午前中にすでに1万四千余人が投降していた。ただし、1桁まで正確に数えたのは収容時だろう。午後五時にはすでに収容されていたと見た方がよい。同日中にも捕虜は増加中である。

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>○捕虜を得た会津若松六十五連隊の苦悩

>そこで非戦闘員などはどんどん解放されて、両角連隊長の「回想」では、捕虜約「八千名」が残った。

非戦闘員の解放があったという資料は両角手記以外にない。

■『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。(「南京戦史資料集II」)

1.『南京大虐殺を記録した兵士たち』所載の日記中の捕虜数の時系列で八千に減ったという事実があれば必ず、残されるはずであるが、それはない。

2.山田旅団の生き残り証言者の中に解放を証言するものがまったくいない。

3.平林氏は「1万4000の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した」と証言した。
朝日新聞・横田記者もまた、十五日発の記事で「第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。」と書いた。

両者とも十四日において必要な茶碗の数が一万四千ないし五千であったとの認識であった。横田記者は十五日において、捕虜数が一万四千七百七十七人との認識であった。両者とも十四日において、八千人しか収容しなかったという両角手記を否定している。

4.山田氏は鈴木聞き取りであいまいかつ、明らかにウソとわかる証言を交えて、両角連隊長の数字に口裏を合わせていた。これはかえって八千人説が虚偽である傍証となる。


>付近の村落は中国軍の清野作戦によって焼かれ、建物はなかった。

極東軍事裁判で殷有余証人は一般人、兵士ら三百人とともに捕虜となって民家に収容されたと証言している。堅壁清野作戦といっても戦場となるべき主要道路沿線の家屋の焼き払いであって、少し奥に入れば多少の民家は残っていたと思われる。
また、軍事施設、海軍関係の施設は当然、無傷で残されたはずである。


>そこで幕府山の上元門郊外を探して、ようやく発見された幕府山要塞の十数棟の建物に、捕虜は収容されることになった。寿司詰め状態である。

「上元門郊外を探して、ようやく十数棟の建物を発見した」という記述は一次資料にはない。新聞では東部上元門、山田日記で上元門外と表現される収容所は掃討中に偶然見いだされたもので、わざわざ探し廻って見つけたものではなかろうと思われる。この収容所は二十二棟である。


>しかし会津若松六十五連隊の兵士たちは、自らの食糧を切りつめ

「自らの食糧を切りつめ」と記載した資料は一切ない。
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[4931]東中野批判その2
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/6(火) 21:21 -

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   >○「皆殺セトノコトナリ」
> どうしたらよいものか、本来ならば、会津若松六十五連隊は仙台十三師団長に指令を仰ぐべきなのだが、荻洲立平中将は仙台十三師団の主力を率いて対岸の揚子江岸を進んでいたため、それはできなかった。

「仙台十三師団長に指令を仰ぐべきなのだが」―これは間違い。

――――――――――――――――――――――
資料■上海派遣軍第十三師団司令部の通達
11、俘虜ノ取扱二就テ
 多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スルラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス。
――――――――――――――――――――――

ただし、山田支隊を編成した時点で支隊は第十三師団の下にではなく、支那派遣軍に直属することになっていた。そこで支那派遣軍に報告したのである。支那派遣軍中央もまた、多数の俘虜を上海送致するつもりでいた。
対岸に師団主力がいたから支那派遣軍に指令を仰いだなどという説明はありえない。事実、第十六師団と支那派遣軍の双方からけられ、せっぱ詰まって実際に十三師団に伺いを立てた、という証言がある。→板倉由明『本当はこうだった、南京事件』


> しかし、山田旅団長が伝令を南京に走らせた十二月十五日、上海派遣軍司令部は南京ではなく湯水鎮にあった。

*『徹底検証』のときはこう書いていました。少しだけ智恵がついたようです。

「そこで、南京の師団司令部へ、本間少尉が派遣された。すると、二行目にあるように、荻洲立兵師団長の師団司令部は「皆殺せ」という指示を出したというのである」pp131


>中島中将率いる京都十六師団は、投降後の投降兵から逆襲されるという苦汁を舐めている。従って本間騎兵少尉から然るべき善後策を問われたとき、中島師団長が「皆殺セ」と言った可能性も否定できない。

山田旅団長が、指揮命令系統を異にする第十六師団長に「然るべき善後策を問う」必然性はまったくない。まず、山田旅団長が何の目的で十六師団長に本間少尉を遣わしたのか、そこを理解した上で論理を進めなければ何もでて来ない。飯沼少将の日記にある「依テ取リ敢ヘス16Dニ接収セシム」は無視してはならない。


>ところが、中島師団長が南京に入ったのは十六時であった。本間騎兵少尉は何時に京都十六師団司令部に着いたのか、定かではないが、京都九連隊の中村龍平少尉の証言によれば、師団長クラスが一少尉に会うことは滅多になかった。会ったとすれば、司令部の参謀クラスだったであろう。

「師団長クラスが一少尉に会うことは滅多になかった」−旅団長の伝令としてくるものに会わないとか、下級の参謀に応対させるというはずはないだろう。時刻をあれこれ言って会わなかったと言いたがっているようだが無駄な努力だ。

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> ○「皆殺セ」は「命令」だったのか

略、略、略。

> こう見てくると、次のように考えるのが妥当であろう。つまり山田旅団長は大量の投降兵を捕虜として受け入れた十二月十四日の翌日、本間騎兵少尉を南京に派遣し、捕虜をどうすべきかについて、京都十六師団司令部で意見を聴取させた。

すでに述べたように全然、妥当ではない。軍隊というのは他師団に「どうすべきか、意見を聴取させ」るような間の抜けた組織ではない。


> だからこそ、山田旅団長は「皆殺セトノ命令ナリ」― 皆殺せという命令だ― とは書かなかった。「皆殺セトノコトナリ」― 皆殺せということだ― と書いたのである。(P162)

回りくどい言い方をしなくても、はじめから命令ではない。命令なら、逡巡することはない、したがって日記に逡巡を書き残すことはない。また、皆殺しは決して不可能な命令ではない。
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[4932]東中野批判その3
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/6(火) 21:26 -

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   > ○捕虜が火を放って脱走
> 十二月十四日に投降してきた一万五千名は、非戦闘員などが解放されて、「約八千人」が残った。会津若松六十五連隊は彼らを幕府山要塞の十数棟の兵舎に収容して、その四囲に五、六人を配置して監視するだけの兵力しかなかった。それだけに、ある少尉は「警戒のため非常に疲労す」(一三三頁 )と記している。(P163)

約八千人、十数棟はウソ。”「幕府山要塞」の兵舎”というのはなく両角手記原文は”幕府山要塞の使用建物”である。上元門外の廠舎は離れており、要塞付属のものとは思えない。両角氏の書き方は幕府山砲台下の廠舎(10数棟?)と東部上元門の廠舎(22棟)を一緒くたにするための記述ではないかと思われる。


> 十二月十六日、やがて炊事が始まった午後十二時半ごろ、一棟から火が出た。煙はもうもうと上がり、大混乱となった。捕虜の計画的な放火だった。これを消火するため会津若松六十五連隊が走るなか、捕虜は次々と逃亡した。両角業作連隊長は「少なくとも四千人」が逃亡したと見た。(P163-P164)

失火は砲台下の廠舎でも(唐広晋証言)、東部上元門の廠舎にも(小野発掘日記群)あった。捕虜の逃亡についても日記には記載がない。平林証言でも最初の鈴木聞き取りでは「憶えていません」となっている。


>残るは四千人となったが、宮本省吾(仮名)少尉は十二月十六日の陣中日記に「午後三時大隊(第一大隊)は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」(一三四頁)と記している。

> 同じく第二大隊第八中隊の遠藤高明(仮名)少尉は同じく十六日の「陣中日記」に、「午後零時三十分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ、同三時帰還ス。・・・・夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シI(第一大隊)ニ於テ射殺ス」 ( 一二九頁 ) と書いている。

> 第一大隊の宮本少尉と、第二大隊の遠藤少尉とでは、数字に違いが見られるが、ともかく十二月十六日の夕刻に、捕虜の放火にたいする「最後の取るべき手段」、すなわち関係者処刑の「軍命令」が出て、四千人のうちの「約三千」もしくは「三分ノ一」が揚子江岸で銃殺された。残るは約二千名前後となった。

第一大隊第四中隊の宮本少尉は砲台下廠舎から引率したようで、捕虜総数は「無慮万以上に達す」である。第二大隊の遠藤少尉の三分の一の母数は一万七千二十五名である。適当な切り張りの結果、残りが約二千名前後になったなどといっても、だれも納得しないであろう。

残りの捕虜が二千名になった、とは両角氏はじめ平林氏、その他どの「否定派」証言者も口にしたことがない。また、否定派研究者のだれもまだ言ったことのない説であり、トンデモ説の一つに数えてしかるべきである。ここから先は相手にする意味がほとんどないということになる。


> 捕虜の放火を理由に、捕虜を処刑するとは残酷だとも思えてくる。もともと「皆殺セ」という方針があったから、会津若松六十五連隊は渡りに船とばかり処刑に及んだのでは、という疑いも出てこよう。そこで、もう少しそのときの状況を見ておかなければならない。



> ちなみに、ハーグ陸戦法規は第八条の「処罰」において、「総テ不従順ノ行為アルトキハ、俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得」と謳っている。従って戦闘下にあるこの処刑は合法であった。

不従順の行為(この場合は「放火」)に対する処罰は放火をしたものに対してだけ適用できる。捕虜の1/3とか3000名が放火に参加したということはありえない。
また、逃亡中の捕虜を射殺することはできるが、逃亡を断念して収容所に戻った、あるいは連れ戻した捕虜に対して懲罰的処罰はできないことになっている。また、不従順の行為の処罰は外界が戦闘下か否かには関わりがない。


> もしこのとき会津若松六十五連隊が「皆殺セ」の方針に立っていたのであれば、この放火にたいする処罰が「皆殺し」の格好の口実となっていたことであろう。捕虜はそれこそ「皆殺し」にされていたはずだが、そうはせず、処罰の対象者のみを処刑していた。それゆえ会津若松六十五連隊は「皆殺セ」の方針に立っていなかったと見ることができよう。(P165)

「皆殺セ」という方針に立っていたとするならば、放火の有無に関わりなく、皆殺した、という結論が導かれるだけの話である。前述のように放火したものだけを処刑したという事実はない。

放火に対する処罰のために殺害したとするならば、『南京の氷雨』にある角田中尉の開放説をどう説明するのか。角田氏は処刑説ではなく、開放説をとる否定派証言者である。この角田証言がウソであることを証明しなくては、処罰説は通らない。
(この角田証言については別に書きます)

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>○両角連隊長は捕虜解放を決心する

>すでに述べたように、会津若松六十五連隊に与えられた任務は、幕府山砲台を占領したのち速やかに揚子江対岸に渡って、仙台十三師団主力に合流することであった。会津若松六十五連隊は、捕虜集団に関わって、これ以上出発を遅らせるわけにはいかなかった。また放火といった捕虜の逆襲に再び遭わないという保証もなかった。手を拱いているうちに友軍や仙台十三師団主力が大きな問題に直面してはどうにもならない。残りの捕虜約二千名をどうすべきか、なんとか良策を出さねばならなかった。

> 勿論「皆殺セ」の意見に従うべきかどうかも考えねばならなかった。しかし放火のさいに処刑した死体約二千体に加えて、さらにまた処刑して二千人の死体を出すことは、その始末だけでも相当の時間をとられることは目に見えていた。先を急ぐ会津若松六十五連隊としては、これ以上死体を出したくなかったのは確かであろう。

死体を出したら処理するという指示・命令はだれも出していない。少なくとも、そういう必要があったことを東中野は示していない。東中野の主張に則っていうならば、すでに、捕虜の「故意の放火」によって四千人の脱走を許し、南京北部の危機を招いており、これ以上放火・逆襲を許すわけには行かない。捕虜集団に関われば出発は遅れるばかりだ。
・・・とすれば「皆殺せ」を実行して悪いことはひとつもない、という結論になるはずだ。


>会津若松六十五連隊の連隊長両角業作大佐は『南京戦史資料集II』のなかの「手記」に次のように記している。



>軍からは早く「処置するよう」督促がきていた。それを軍 ( 上海派遣軍 ) の命令であったと取るべきか、軍の意見であったと取るべきか。ともあれ、両角業作大佐はそれには従いたくなかった。「私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」、両角連隊長は十二月十七日夜、捕虜を対岸の草鞋洲へ舟で送って解放せよと、第一大隊の田山芳雄大隊長に指示した。

軍隊たるもの、下級の隊に「意見」を表明する必要はない。両角手記に則って事件を組み立てる以上、命令以外ありえない。軍命令に反して解放したとしても、遅かれ、早かれ捕虜は草鞋洲で見つかってしまうはずだ。そのときどう言い訳するのか、言い訳なしの計画はありえない。


>そのため、解放された捕虜が逃走兵集団と合流して再び逆襲してくる危険性も否定できなかった。しかし夜間に揚子江「北岸」の草鞋洲に解放するのであれば、解放された捕虜が揚子江「南岸」の日本軍と衝突する恐れはない。そう考えた両角連隊長は苦肉の策として、夜陰に乗じて舟で捕虜を北岸に送って解放することにした。(P167)

普通は草鞋洲を揚子江の北岸とは言わないと思うが。
「解放された捕虜が逃走兵集団と合流して再び逆襲してくる危険性も否定できな」いとするならば、草鞋洲でも事情は同じである。両角自身、手記で草鞋洲に陣取る中国兵について描写した(後出)。事実、海軍はそれを危険と考え、その掃討を計画していた。草鞋洲に捕虜を解放することは決して安全だと考えられていたわけではない。


> すでに述べたように、そのとき約二千人の捕虜は幕府山要塞の兵舎にいた。天野三郎(仮名) 少尉が十二月十七日午後四時半に書いた軍事郵便によれば、彼らは幕府山の「砲台下支那軍廠舎」 ( 二五二頁 ) に収容されていた。捕虜の集結地点は「幕府山北側の揚子江南岸」であったから、幕府山砲台下の中国軍兵舎を出発した会津若松六十五連隊第一大隊は捕虜を護送しながら約一キロ北上して、「揚子江南岸」に出た。そこは揚子江南岸の「上元門」であった。

>一五三頁の地図を見ると、そこには対岸の草鞋洲とを結ぶ船着き場がニカ所ある。その船着き場は、両角連隊の本部となっていた「支那海軍の海兵団」 ( 三七頁 ) ないしは「支那軍の水雷学校」 (一六六頁 ) 、すなわち地図上の「水魚雷営」から見ると、東に三〇〇メートルの地点であった。船着き場は、「砲台下支那軍廠舎」 ( 二五二頁 ) の捕虜収容所からは北に直線距離で七〇〇メートルの地点であった。護送するにはちょうどよい距離であった。


「幕府山要塞の兵舎」とは幕府山要塞使用の建物のことであった。これは東部上元門の廠舎のことであろう。「砲台下支那軍廠舎」は砲台直下、幕府山西麓の廠舎のことである。
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[4933]東中野批判その4
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/6(火) 21:32 -

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   >○捕虜の逆襲と鎮圧

>会津若松六十五連隊の両角大佐の残した「手記」を続ける。

>もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。(P168-P169)

ウソの記述である。田山大隊長が途中で戻ってくるわけはない。
捕虜開放が目的であるならば、すべて対岸に送り出すまで見届けなければ、任務は終わらない。開放現場(大湾子)に集結したくらいで、帰って来れるはずはないのである。


>日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

これもウソである。捕虜開放説を証言する角田氏の証言がこれを否定する。
角田は前日魚雷営において、開放予定のつもりが捕虜が騒いだので殺害になった、としている。とすれば、また、昨日のようなことがあるのではないか、と緊張して待っていると書いたなら本当らしいと思うが。


> 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる》 (II三四一頁 )(P169)

二、三百人乗りの軽舟艇なるものがあった、という資料は両角手記以外にない。
「日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し」は、捕虜の心理を聞いたわけはないので、推定でしかない。これも両角手記以外にない。中国兵が仮に発砲したとしても様子見の発砲くらいが精々である。とすれば、即断の可能性はない。
また、江上に引き出して銃殺するとすれば、機関銃射撃でないと不可能である。船上で二、三百ずつ射殺したとすればおそろしく手間がかかるし、二回目からは抵抗されるから途中でできなくなる。状況からして、江上に引き出しての殺害計画と即断される可能性は非常に少ない。

また、両角手記の中では放火後に捕虜数は四千に減ったままである。二千に減ったというのは東中野氏の「推論」であるから、両角手記とは繋がらない。両角手記を引用する限りは、江岸に集結を終わったのも四千としなくてはならない。また、なぜ、二千だけが騒ぐか不明である。騒いだのが二千とわかるのも不審である。


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>○「両角業作手記」は弁明であったのか

>このような結果になってしまったこと、そして先に述べた「皆殺セ」という参考意見から、「両角業作手記」は、大いに疑われることになってしまった。捕虜を護送して解放することが目的であったとは言うが、実のところ「皆殺し」を目的とした方便ではなかったのか。「両角業作手記」は捕虜の不法殺害と言われないための言い逃れを書いているのではないか。そう疑われることは、結果が結果であっただけに、やむを得ないであろう。

>しかしこの疑いは次のことから否定されてくる。一つは「二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで」逃走したこと、それは「如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもって」制止したこと。このことは次のことから事実として確認されるのである。

以下(1)−(3)は東中野の理由づけを抽出する。

>(1)もし処刑目的の銃撃であったのならば、万全の計画がなされ、友軍が友軍兵士を撃たないように処刑の配置が設定されていたであろう。勿論、捕虜に逃亡させないよう、準備万端、処刑の銃を向けて監視していたはずである。

十六日の虐殺でも日本軍兵士を誤って殺害した、と角田中尉は証言している。虐殺目的なら日本軍兵士を殺すことはない、とは言えない。


>(2)「解放した兵は再ぴ銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう」とは、両角部隊が捕虜を解放したという事実がなければ、発せない言葉である。両角連隊長は解放された兵を確認しているからこそ、彼らは「再ぴ銃をとるかもしれない」と言えたのである。そしてまた、軽舟艇から逃走した兵士を確認しているからこそ、その兵士たちは再び銃をとっても「昔の勇者には立ちかえれない」と言えるのである。

解放しなくてもそのくらい言える。
両角連隊長が確認したという事実はない(笑)。


>(3)何とか解放できないものかと第三の道を模索していた。

・・・という資料は両角手記しかない。六十五連隊出身者で「解放」説を証言に取り入れるものはあるが、下級の兵士には連隊長のそもそもの意図が解放か処刑かはわからないはずである。山田栴二氏は遂に解放と明言しなかった。
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[4934]東中野批判その5
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/6(火) 21:36 -

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   >○一貫して「皇軍はお前達を殺さぬ」の意向であった

> 人の性格というか、物事にたいする人の対処の仕方というものは、急に変えられるものではない。従って、先の解放が「皆殺せ」という一貫した方針の究極の結果であったと仮定するならば、それは会津若松連隊が捕虜を得たときから少なからず見え隠れしていたはずであった。

「皆殺せ」は中島師団長の十二月十五日の発言であり、山田旅団の決定は十六日の相田中佐の帰還後である。それ以前の対処の仕方を問題にするのは無意味である。


>横田特派員も捕虜の今後の行く末に心を悩ませていた。たしかに会津若松連隊は十四日に「皇軍はお前達を殺さぬ」と捕虜に伝達した。(P175-P176)

>しかし横田特派員はすぐにこれを打電しなかった。十二月十五日、「両角部隊大殊勲 敵軍一万五千余を捕虜」と打電したものの、「皇軍はお前達を殺さぬ」という会津若松六十五連隊の方針については黙殺していた。ひょっとしたら処刑があるかもしれないと、横田特派員は一抹の不安を隠せなかったのであろう。この言葉を打電してもよいものか、心に決めかねていたのであろう。

>もし部隊が「皆殺せ」の方針であることをそのときに感じとっていたならば、横田特派員は決して新聞に取りあげなかったであろう。

横田特派員が捕虜の心配をした、という資料は一切ない。一切がバカ本パパの想像、妄想である。

> しかし先に見たように、十二月十六日午後、放火が起き、最後の取るべき手段としての処刑がなされ、そして解放どきには逃亡騒ぎが起きた。そのため第三報が出ることはなかった。

相田中佐が支那派遣軍に何をしに行ったかを抜きに山田旅団の方針変更は説明できない。

>しかし解放策が成功していたとしても、横田特派員には第三報は書けなかったであろう。日本軍は捕虜を「解放」しましたと、おおっぴらに報道できる時代ではなかった。(P177)

横田特派員がずっと山田旅団に張り付いていた、という証拠がないのに、あれこれ想像しても始まらない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
>○幕府山の会津若松六十五連隊は非難されなかった

> 国民党宣伝部は会津若松連隊が捕虜をどう処置するか注目していたはずである。『大阪朝日新聞』の記事からも明らかなように、捕虜のなかには将校もいた。放火と解放どきに、多くの捕虜が逃げた。彼らは必ず国民党政府に実態を伝えていたはずである。(P177-P178)

「注目していた」という資料がない。資料がないのに「注目していたはずである」と想像しても始まらない。それまでの話である。


> だからこそ、本章の冒頭で述べたように前田記者たちは、「石油をかけて火をつけたらしい焼死体」を目撃して驚き、事実を問いただしたのである。そして、「少数の日本部隊が多数の投降部隊を護送中、逆襲を受けたので、撃滅した」と知って、それは反乱鎮圧のさいに生じた死体と知って納得した。その説明と認識は正確だったのである。

前述の通り、これは山田旅団による虐殺死体ではない。深沢記者が見たのは十七日夕刻であるから、大湾子の死体ではもちろんない。下関から数キロ下流まで、死体が延々と連なっていたのは角、ラーベの証言でも知られる。また、山田旅団の兵士自身、下関に至る道々で大量の死体を見ている。

日本軍の説明では、虐殺すると必ず、捕虜の護送中に反抗したから撃滅(決まって全員殺害)したという説明が出てくる。


> 最後に、次のことにも触れておかねばならないであろう。つまり一六六頁の両角連隊長の記述からすると、上海派遣軍司令部は会津若松六十五連隊に「強引にも命令をもって、その実施をせまった」、つまり捕虜処刑に着手するよう命令したという。しかしその命令があったという記録はこれまでのところ存在しない。しかしここではそれが出ていたと仮定して進めてみよう。

命令はなかった。それまでであり、仮定による検証の必要もない。


>会津若松六十五連隊はその命令にもかかわらず捕虜を解放することにした。まさにこれは会津若松六十五連隊の命令違反の行為であったことになる。しかもそのさい、友軍にまで死傷者を出してしまった。これもまた命令違反から生じた大失態であったことになる。(P179)

虐殺命令があったことを仮定し、さらに解放が事実だと仮定したわけである。二つも仮定を置いて真実を演繹しようとしても一般的には困難となる。


>このようなとき、上海派遣軍司令部は、会津若松六十五連隊を強く非難したであろう。あるいは関係者の処罰に出たであろう。

>《何日カニ、相当多数ヲ同時ニ同一場所ニ連行セル為、彼等ニ騒ガレ、遂ニ機関銃ノ射撃ヲ為シ、我ガ将校以下若干モ共ニ射殺シ、且ツ相当数ニ逃ゲラレタリトノ噂アリ》 (I 二二二頁 )

> ここで注目したいことは、「噂アリ」という記述の異様さである。そこからは自ら命令したという当事者意識がまったく感じられない。自ら命令を発していたのならば、命令の結果にかんする詳細な報告を必ず得ていたであろうから、なにがしかの事実を記していたことであろう。また会津若松六十五連隊は、上海派遣軍から命令を受けていたのならば、必ず上海派遣軍参謀長に報告していたはずだ。

「必ず上海派遣軍参謀長に報告していたはずだ」―これはその通り。
ここからはっきり言えることは、
【上海派遣軍は山田部隊に捕虜殺害の軍命令を出してはいなかった】ということである。


> 従って「噂」という記述には決してならなかったはずだ。このように、命令が出ていたと仮定すれば、一致しないのである。

問題は別のところにある。
「相当数に逃げられた」という旅団にとって恥さらしな事情を内容とする噂がなぜ広がるのか。しかも、十九日に旅団が渡河して二日後という早い段階で。普通であれば不名誉な事情を隠し立てして行くのが普通であろう。

「噂」では連行の目的を明らかにしていない。「噂」を広めたものは目的を明らかにしなくても大丈夫と踏んだようである。ならば、なんらかの目的で連行中に騒がれたから殺害した、で通る話だったはずである。他の師団はすべてこの手の言い訳で大量虐殺を行ったではないか。

山田支隊はできる限り、死体を揚子江に捨て、捨て切れないものは焼却を試みた。これは日記などで明らかである。つまり、山田・両角らは殺害の事実をできるだけ伏せたかった。「連行中に騒がれたから殺害した」というどこから見ても文句の付けようのない言い訳を残さなかった。逆に、殺害する積もりはなく、逃げられたのだという噂を残したのである。


殺害の事実を伏せようとしたのは、ひたすら、派遣軍の命令に反しないようにしたかったのである。派遣軍にしたがって捕虜の保護をしようとすれば、渡河ができない。渡河しようとしても捕虜をほっとくわけにいかない。捕虜を殺せば渡河はできるがそれでは派遣軍の面目をつぶしてしまう。追い込まれた以上、「連行中に騒がれたから殺害した」といういい加減な言い訳もできず、かといって、解放は論外。残るは「まことに下手を打ったが、実は逃げられた」というポーズをした上での殺害である。

両角の発案は「帝国軍人」としては上出来であった。派遣軍参謀もその辺の事情は薄々承知であった。しかし、自らが中島師団長を叱責し、従わせることができなかった弱みがあるから、それ以上山田支隊長の責任を問うことはできなかった。そのため、「噂」を追認するというlow tensionのぼやきを日記に書いたのである。
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[4945]「幕府山事件」 まずは、さわ...
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 ゆう WEB  - 07/11/10(土) 9:03 -

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   今回の東京地裁の判決文、「学問研究の成果というに値しないと言って過言でない」という東中野氏評は、氏および氏の信奉者にとってかなりの打撃であったと思います。

ネットを見ても、東中野氏の主張を擁護するものは皆無。いつもは賑やかなウヨさんたちも、今回ばかりは「擁護」の余地がなく、困ってしまったようですね。


今さらではありますが、東中野氏の論稿は、先行研究無視、自分に都合のいい資料のつまみぐい、デタラメかつ強引な解釈、と、およそ「学術論文」の体をなしておりません。

「南京の真実」などは、こんな「学者」をお先棒に担いで「宣伝」に努めていらっしゃるようですが、大丈夫なんでしょうか。


さて、幕府山事件について、タラリさんの詳細な分析をいただきました。これで私のやることがなくなってしまったようなのですが(^^;、ここ、東中野氏のトンデモぶりをたっぷりと楽しめるところでありますので、重複を厭わず、私なりに解説してみます。


まずは、「幕府山事件」にあまりなじみがない方向けに、少し解説します。

「幕府山事件」は、かつて1980年代前半までは、次のようなものとして受け止められていました。いわゆる「自衛発砲説」です。

第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』P437)

 
ポイントを要約すれば、

1.当初の「一万四千余」の捕虜のうち非戦闘員を釈放して「約八千余」となり、さらに半数が(火事に紛れて闇夜の中)逃走し、四千人が残った。

2.残りの捕虜については、支隊では釈放を企図したが、捕虜が反抗したため射撃を加えることとなり、一千人を射殺した。残り三千人は逃亡した。

ということになります。


しかし80年代後半から、栗原利一伍長証言、及び小野賢二氏の膨大な資料・証言発掘努力により、事件の全体像のイメージは全く変わってきます。『南京大虐殺否定論13のウソ』所収、小野賢二氏の『虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方』からです。

山田支隊が一九三七年一二月一三日烏龍山、一四日幕府山両砲台付近で捕えた捕虜は一万四七七七名にのぼり、その後の掃蕩戦でも捕虜を獲得、その総数は約一万七〇〇〇-一万八〇〇〇人にものぼった。捕虜は白旗を掲げ無抵抗で捕虜となった。

 この膨大な捕虜は幕府山南側にあった国民党軍の兵舎二二棟に収容した。この時、非戦闘員の解放は行なわれなかった。捕虜収容所は歩兵第六五連隊第一大隊 ( 第一中隊欠 ) が中心に警備した。

 一六日の昼頃、捕虜収容所内に火災 ( ボヤ ? 〉が発生したが、捕虜の逃亡もそれに対する銃撃もなかった。その後、当時の『アサヒグラフ』に掲載された捕虜の写真が撮影された。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で二〇〇〇-三〇〇〇人が虐殺 ( 試験的に ?) され、死体はその夜のうちに長江に流された。

 残りの捕虜を一七日、上元門から約二キロ下流の大湾子で虐殺した ( 証言によると、魚雷営でも行なわれ、大湾子の虐殺には他部隊の機関銃隊が加わった可能性もある ) 。この一七日の虐殺は大量の捕虜だったため、薄暗くなるころから開始された虐殺が一八日の朝がたまで続いた。そして、死体処理には一八、一九日の二日間かかった。

 その他、歩兵第六五連隊第一中隊は烏龍山砲台を警備し、その付近で多数の敗残兵をその場で、あるいは捕虜とした後、銃殺した。


つまり、

1.「自衛発砲説」のような、「捕虜がどんどん減っていった」という事実は見られない。

2.虐殺は一回ではなく、16日夜(二、三千人)、17日夜(一万人以上?)の2回に分けて行われた。

3.支隊としての「釈放」意図を確認することはできない。


ということですね。


さて、東中野氏です。

東中野氏にしても、小野賢二氏の研究成果を全く無視することはできませんでした。そこで氏は、「自衛発砲説」を基本的に維持しつつも、小野賢二氏の研究成果を無理やり全体のストーリーにとりこんでしまう、というウルトラCを企画します。

「虐殺」が2回に分かれていたことは認める。しかし、「捕虜がどんどん減っていった」というストーリーは維持する。すると、どんなことになるか。


小野氏の研究では、16日には二、三千人の虐殺が行われています。そして17日に残り(一万人以上?)の虐殺が行われます。

しかし、「自衛発砲説」のストーリー通り16日段階で「四千人」しか残っていないとすると、そこから「二、三千人」が殺されたら、残りは「一、二千人」しかいなくなる! 17日の大規模な虐殺を、氏はどう説明するのでしょうか。


東中野氏の文章を見ていきましょう。

残るは四千人となったが、宮本省吾(仮名)少尉は十二月十六日の陣中日記に「午後三時大隊(第一大隊)は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」(一三四頁)と記している。

 同じく第二大隊第八中隊の遠藤高明(仮名)少尉は同じく十六日の「陣中日記」に、「午後零時三十分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ、同三時帰還ス。・・・・夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シI(第一大隊)ニ於テ射殺ス」 ( 二一九頁 ) と書いている。

 第一大隊の宮本少尉と、第二大隊の遠藤少尉とでは、数字に違いが見られるが、ともかく十二月十六日の夕刻に、捕虜の放火にたいする「最後の取るべき手段」、すなわち関係者処刑の「軍命令」が出て、四千人のうちの「約三千」もしくは「三分ノ一」が揚子江岸で銃殺された。残るは約二千名前後となった。(P164)


ここで、東中野氏はとんでもないインチキをやらかしました。

東中野氏の引用する「遠藤高明日記」を見ると、読者は間違いなく「四千人のうち1/3」ということなのだろうな、と錯覚します。

しかし東中野氏の引用を見る場合には、例によって、前後、あるいは「・・・・」のうちに「省略」がないかどうか、確認する必要があります。


遠藤高明陣中日記

十二月十六日 晴

 定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に遭ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しIにて射殺す。(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P219)


何と氏は、「捕虜総数一万七千二十五名」の部分を「・・・・」に置き換えていたのでした。これには呆れます。

これに頬被りして、東中野氏は「四千人のうちの「約三千」もしくは「三分ノ一」が揚子江岸で銃殺された。残るは約二千名前後となった」なんてとんでもないことを言っているわけですね。


ついでに、宮本省吾日記の方も見ておきましょう。

宮本省吾陣中日記

〔十二月〕十六日

警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。


〔十二月〕十七日 ( 小雪 )

本日は一部は南京入城式に参加、大部は捕慮兵の処分に任ず、小宮は八時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、壮厳なる史的光景を見のあたり見る事が出来た。

夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加はり出発す、二万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまった。


「三千」を殺したあとで、なお「二万以上」が残っていたわけです。この数字が正しいかどうかは疑問ではありますが、少なくとも遠藤高明も宮本省吾も、残りが「二千」である、などというとんでもない認識は持っていません。


まだまだ「さわり」で、タラリさんにコメントしたいこと、皆さんに教えていただきたいことが多々あります。随時このスレッドに書き込ませていただきますので、よろしくお願いします。
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[4949]取り急ぎ
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 ゆう WEB  - 07/11/10(土) 17:40 -

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   いや実は、東中野本のコピーは自分用に作成したもので、公開を予定したものではありません。著作権法の問題もありますので、この章の批判作業が終了したら、そのままそっと消滅させる予定のものです。

というわけで、前田記者の記述が中心となる最初の項「従軍記者の証言」は、あまり本題に関係がなかったので省略していました。タラリさんの誤解を招いたようですので、復活しておきました。

http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/higasinakanosaigen6-1.html


しかし、前田記者の見た死体の山は、果たして幕府山事件のものだったのでしょうか。東中野氏の「根拠」は滅茶苦茶ですが、16日の事件が起こった「魚雷営」のもの、と考えれば、そういう解釈もできなくはないように思うのですが・・・。

この点、ちょっと確認中です。
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[4954]処刑目的の証明
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/13(火) 9:27 -

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   幕府山事件にはあと、2−3編の論考を書きたかったのですが、いつも初っぱなでくじけて書いていません。なにが原因かというと、すでに構想はあって、材料もあるのですが、その資料がどこにあったか、思い出せないということです。
ゆうさんのお題に便乗して、この機会に再発見できたものもあります。

幕府山事件について歴史修正主義者・右翼は第一に、捕虜の人数、連行人数、死者を少な目に修正し、第二に処刑目的を自衛発砲と偽ります。
東中野の最新書の人数の下方修正はお笑いものです。

残る最大の問題点は処刑目的の連行か、自衛発砲かということです。
これについてはHPに書こう、書こうと思いながらまだ果たしてはいません。
これを書くのは決して難しい話ではありません。ただ、資料を読んで材料となるものは頭に刻みつけ構想し終わっているのですが、いざ書く段になると資料がどこにあるか思い出せず、探し回ってはやめています。今回は資料は思い出せる範囲、数日中に探し得た範囲で書いており、わからないところは[要出典]と付記しておきます。

(1)処刑目的説で通常言われている、最大の根拠は栗原証言で、後ろ手にされて反抗するわけはない、ということです。しかし、この部分は本多氏が、追加質問して聞きだしたもので、栗原氏の自発発言ではありません。その後に否定派が独自に聞き取りを行い、ある種の誘導を加えて、その結果、栗原氏もある程度板倉などの否定派の歪曲工作に流されて証言を訂正している部分があります。全体としては毎日新聞聞き取り、本多聞き取りが正しいのですが、否定派の説得には力不足です。

(2)小野発掘日誌では「処分するもののごとし」などの記述がありますが、これも「下級兵士の認識にすぎず、山田、両角の意志はそうではなかった」という否定論の説得には不足です。兵士たちが捕虜に対して「解放する、船で『対岸』に渡す」と説明したことは事実のようですから、反論に一定の根拠を与えています。大状況からして、処分以外はありえないのですが、初心者、素人にはあたかも、どちらの説もありえると見えているようです。

(3)肯定派は、解放説に対して「『対岸』に渡す(解放する)とすれば、中国軍と一緒になってまた、敵対する恐れがある、山田支隊がその危険を知らないはずがない」という反論をしています。12月16日の魚雷営での処刑は揚子江北岸(左岸)への解放と見られますから、否定派の反論はかなり苦しいと思います(まだこれに対する反論を読んだことはない)。
12月17日の処刑については解放先を草鞋州に擬する説が大半である。草鞋州には戦闘力のある中国兵が果たしていたのかどうか、あるいは日本軍がそう認識していたのかどうか、情報が少なく、否定派によって中国兵の存在や日本軍の認識を過小評価する向きもある。また、草鞋州は船で出入りしなくてはならないから、解放先として安全であると力説するものもある。

逃げ込んだ中国軍は微弱であり、すでに掃討されていたのが事実であると思うが[要出典]山田支隊がどう認識していたのかについては資料がなく、ここは詰めきれない。(もちろん、山田支隊は中国軍は微弱であり、すでに掃討されていたと認識していた、と否定派が主張する根拠もまた、ない)。

(4)両角手記は魚雷営での処刑を書かずに済ましているが、これは史実であり、動かせない。魚雷営での殺害は肯定派元兵士の黒須忠信上等兵が証言した上、否定派元将校の角田中尉が証言している。魚雷営での処刑方針が事実である以上、大湾子での処刑も確定する。両角証言は魚雷営をなかったことにして書かれているが、魚雷営での処刑について解放説の立場から説明をした否定派はいなかった。

(5)解放説の立場をとる否定派は、「支那派遣軍、あるいはそれに連なるものが処刑命令を出し、両角連隊長が解放方針を取った」という。しかし、命令があればそれに対する復命が必要である。もし仮に対岸への解放が成功したとして、両角連隊長は、山田支隊は支那派遣軍にどのような復命をするつもりだったのか、否定派から、これについての説明を聞いたことがない。復命を予定しない解放意図はありえない。したがって、否定派の主張、「解放方針を取った」は通らない。
否定派が「『処刑方針を取ったが逃げられた』と装って逃がした」と主張するのならば、それは(死者を多数出しているとい事実関係を別とすれば)一応通る。しかし、否定派はそうは主張しなかった。

(6)12月16日の魚雷営の殺害は対岸と言えば、揚子江北岸(左岸)になり、ここでは中国軍は第13師団にほとんど駆逐されていたとはいえ[要出典]、まだ解放地点として山田支隊が考えるのには無理がある。両角手記ではこれを完全に無視して叙述しますから、手記の範囲では矛盾がない。しかし、魚雷営の殺害は事実として角田中尉も証言している。こちらの方は説明がつかない。角田中尉の阿部輝郎氏に対する証言ではこれも捕虜が騒いだための事故といっている。東中野はこちらの方は放火に対する処分と説明したが、1/3とか3000名が放火するわけはない。また、放火に対する処分であれば、両角は明言したはずである。したがってどう逃げても破綻している。結局、魚雷営での殺害は処分以外に説明がつかない。

(7)最後に否定派のエセ解釈に対する決定打となるのは、大量の死体投棄のために「ひきじ」を用意していたことを示す鈕先銘の『還俗記』の記述と箭内氏の証言である。

最後の(7)の項目は次の投稿に書きます。
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[4957]Re(1):処刑目的の証明
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 ゆう WEB  - 07/11/17(土) 7:39 -

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   Clawさんのところでこちらが紹介されたようです。私としては、「大学のゼミ討論」のような気分で気楽に「思いつき」を言える場にしたかったので、ちょっと困ってはいるのですが(^^;

以下も「気楽な思いつき」ですので、どうぞ、そのつもりでお読みいただくようお願いします。


「解放目的かハプニングか」―「人数」問題と並び、幕府山事件論議のハイライトです。

例えば秦郁彦氏がどう言っているのかを確認すると、「南京事件」旧版では、

この「暴動」が「釈放」の「親心」を誤解した捕虜の疑心から起きたのか、実は「処刑」を計画した日本側のトリックを感づかれて起きたものか、は微妙なところである。

と言いつつも、

山田支隊関係者の多くはハプニング説をとるが、もし釈放するのならなぜ昼間につれ出さなかったのか、後手にしばった捕虜が反乱を起せるのか、について納得の行く説明はまだない。

と、どちらかといえば「殺害目的」説に傾いたような書き方でした。(P147-P148)

増補版では、こんな記述が見られます。

これを計画的殺害と見るか、両角連隊長の回想記が強調するように釈放の意図を誤認しての反抗から生じた突発的事故なのか、見解は依然として割れている。概して大虐殺派は前者を、マボロシ派と中間派は後者に傾いているが、「どちらだったのか、私にはよくわからない」が「どうやら解放意図が一転しての失敗だったようである」と書く阿部や、「皆殺しにしようとする意図も計画も感じられない」とする板倉のように迷う人がいるのも、やむえないのかもしれない。(P316)

秦氏は慎重に断定を避けてはいますが、これを読んだ読者は、「中間派」という言葉に幻惑されて、何となく「ハプニング」説の方が有力であるかのように感じてしまうかもしれません。

「増補版」加筆部分の全体に言えることですが、秦氏は、基本的な「事実認識」は維持しつつも、「可能な事実の幅」の範囲で、何となく「否定論」的方向に自論を修正している印象があります。(このあたりの話も、そのうちやりたいですね)


タラリさんもご指摘の通り、「ハプニング説」をとるとすると、山田支隊の行動には首を捻らざるをえないところがいくつも見えてきます。

特に「船の用意」が問題でしょう。船も満足に用意できていないのにどうやって「対岸に渡そう」としたのでしょうか。

例えば「両角手記」には、「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ」という表現が見られます。捕虜を対岸に渡して往復するのにどのくらいの時間がかかるかわかりませんが、仮に乗降時間を含めて一組往復30分とすると、4000人を運ぶには13-20時間を要します。実数を8000人とすると、その倍です。

全員の輸送には、夜が明けるどころか、とんでもない時間がかかってしまいそうです。全員の輸送が物理的に可能だったか、ということはさておいても、明るくなって「釈放」現場を他の部隊に発見されたらどうするつもりだったのでしょうか。


何で大量の捕虜を苦労して「殺害現場」に連行したのか。単に「釈放」するだけならば、船で対岸に渡す、なんて非現実的なことは考えずに、四十五連隊の例のように適当なところで「あとは自分でどこにでも行け」と釈放してしまえばよかっただけの話ではないか。また、エリート将官であったはずの山田支隊長や両角連隊長が、「抗命罪」のリスクを負ってまで本当に「釈放」しようとしたのか。疑問は尽きません。


そして私がもう一つ、大きく疑問に思っているのは、「ハプニング」で機関銃掃射を行ったあと、わざわざ「生き残りはいないか」と倒れた捕虜群を銃剣で突き刺して歩いている事実です。

「解放」目的であったのならば、そこまでのことをする必要は全くないと思うのですが・・・。


いずれにしても、例え「ハプニング」説に立つにしても、これは「虐殺」です。控えめに言っても「過剰防衛」ですし、その後で「生き残りの捕虜を銃剣で刺して歩いた」という事実は、明らかな不法殺害です。

どうも山田支隊幹部の証言には「仕方がなかった」というニュアンスが見え隠れしますので、念のため。


なお、
>肯定派は、解放説に対して「『対岸』に渡す(解放する)とすれば、中国軍と一緒になってまた、敵対する恐れがある、山田支隊がその危険を知らないはずがない」という反論をしています。12月16日の魚雷営での処刑は揚子江北岸(左岸)への解放と見られますから、否定派の反論はかなり苦しいと思います(まだこれに対する反論を読んだことはない)。

とありますが、一応板倉氏はこんなことを言っています。(「南京事件 虐殺の責任論」=「日中戦争の諸相」所収)

捕虜を揚子江対岸に釈放することについて、ゲリラ化や原隊復帰 ( 再戦力化 ) の恐れがある危険を犯すはずはない、という主張がある。
 しかし、南京占領当時は、もうこれで戦争は終わり、という希望的観測が一般的で、揚子江対岸での長期駐留の予定はなく、将来の治安への心配より、現実に今困っている捕虜の処理の方が切実な問題であったと思われる。(P194)

説得力ある説明かどうかは、また別の話ではありますが。
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[4985]秦Vs東中野 幕府山事件論争
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 ゆう WEB  - 07/11/23(金) 8:20 -

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   『諸君!』2001年2月号に、「問題は「捕虜処断」をどう見るか」という座談会が掲載されています。

参加者は、秦郁彦氏、東中野修道氏、松本健一氏。ご存知の方はご存知でしょうが、非常に面白い内容ですので、そのうち「幕府山事件」の部分を抜粋紹介します。


ご覧の通り、秦Vs東中野の議論は、ほとんど「プロ対アマ」の印象があります。議論としては誰の目にも秦郁彦氏圧倒的優勢、東中野氏の大苦戦でしょう。


座談会『問題は「捕虜処断」をどう見るか』より (『諸君!』2001年2月号掲載)


幕府山で虐殺はあったのか


 そもそも、第十六師団では「戦闘詳報」が一部の連隊のものしか残っていないから、正式の命令があったかどうかは水掛け論になってしまう。南京にいた憲兵の証言も今まで見つかっていませんし、日本側のデータは十分とは言えません。埋葬記録にしても、かなり杜撰なところがあって信頼できない。

 だからといって日本軍は推定無罪であるという理屈にはなりません、今から刑を執行するのなら、挙証責任の関係で大いに議論すべきところでしょうがねえ。(P140)

東中野 でも歴史学で過去の出来事を考えるならば、過去の問題はすべて記録に基づいて発言すべきではないですか。

 だとしたら、例えば、上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀の長勇中佐が、幕府山で捕らえた一万数千人の中国人捕虜〕の扱いに苦慮していた第十三師団の山田支隊に対して、「始末せよ」と指示した事実をどう考えますか。

東中野 まず事実経過を考えると、一九三七年十二月十四日の段階で、捕虜を数えてみたら一万四千七百七十七名だったという。中には女兵士や老兵や市民も混じっていたから、そういうのを半分弱ぐらい逃がしてやった。残りの八千人ほどを収容していたら、十五日に放火があって、かなりの者が逃走し、残りは四千人ほどとなった。従って、日本軍の支配下に残った捕虜は四千人程度であったという認識でよろしいでしょうか。

 ちょっと留保したいですね。実数に関しては何とも言えません。

東中野 概数はそんなところだと思いますが、山田旅団長は、十五日に本間少尉を司令部に派遣したところ、「始末せよ」との命令を受けて困惑したわけです。確かに、山田日記には「皆殺セトノコトナリ各隊食糧ナク困却ス」と書いてある。

 しかし、この本意は、"皆殺しせよとはいうものの、自分としてはしたくないから何とか戦場から追放する処置にしたい、しかし、捕虜のための食糧もなくて困窮している"というニュアンスだった。その証拠に、山田はそういう処刑をしたくなくて、わざと十七日夜に揚子江南岸に捕虜を集合させて、夜陰に乗じて舟にて北岸に送り解放せよとの指令を出していたわけです。

 そこで、指令通り実行し、まず数百人の捕虜を乗せて揚子江の中流まで行ったところ、向こう岸にいた中国兵が日本軍の渡航攻撃と勘違いして発砲してきたために、残っていた捕虜が、仲間は川中で銃殺されていると誤解して騒ぎだし混乱の極みとなり、日本軍もやむを得ずに制止のために射撃したりしたというのが真相だったわけです。これは投降兵の処刑を命じられた両角連隊長の手記からも明らかです。この件については、拙著『「南京虐殺」の徹底検証』( 展転社 ) でも詳述していますが、幕府山での捕虜の扱いを日本軍の組織的な捕虜殺害命令だという虐殺派がいますが、とんでもない誤解というべきでしょう。

秦 ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。

東中野 まいったなあ(笑)。
(P141)

 わざわざ問い合わせをしてしまったために、軍司令部から殺せという指示が出たわけですが、そんなことをしなくても逃がしてやりたかったら、不注意で逃げられてしまったということにすればよかった。本当の事実経過に関しては、何しろ第十三師団の人達がみんな口をつぐんで言わないから困る。釈放しようとしたのかもしれないけど、結果として多数の捕虜を殺してしまったんですね。軍司令部は自分たちの命令通りに処理されたと思っていましたからね。長勇にしてもそう信じていた。ですから、そのあたりの枝葉末節をあれこれ議論しても詮ないことだと感じます。(P141-P142)

 舟で逃がそうとしたということに関しても、舟の準備をした形跡はないし、広い揚子江の向こうから闇夜に鉄砲で中国兵が撃ってきたために捕虜が反乱したという説明も変な話ですよ。殺されそうになっていたから彼らが反乱したと推定するのが無難でしょう。

東中野 しかし、両角連隊長その他のその他のそういう手記が残っているのに、それを信じないのですか。

 真実の部分もあるかもしれませんが、当事者の手記である以上、眉に唾しながら検分する必要はあります。自己弁護の要素も入ってくるでしょう。舟にしても、当時、あるのは数人乗り程度の漁船が数隻ですよ。そんなもので、どうやって四千人という捕虜を運べるんですか。日本海軍の船を頼んだ形跡もありません。私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います。死体も揚子江に流せばすむ。少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない。

東中野 しかし、長勇中佐の命令があったなんて本当ですか。情報参謀が何でそんな命令を出せるんですか?

 権限は確かにない。しかし、当時の日本軍は下剋上の風潮が高まっていました。石原莞爾だって、何の権限もない作戦参謀が満州事変を起こしたんですからね。それに比べれば、その種の越権行為はしょっちゅう起きていたと見てもいい。

東中野 そういう類推の一般化も危険ではないですか。

 いや、ぞれは『南京事件』にも書きましたが、裏付け証言が多々あるんです。そういう無茶苦茶な軍人がいて、松井大将も抑えることができなかった。しかし、そうした蛮行の最終的な責任はやはり彼にあったわけです。

松本 松井大将が、良識的で人情家であったのは間違いないでしょうが、現地の一指揮官が突出して独断専行で、現地調達という名の掠奪や捕虜殺害をやっていった事実は否定のしようがない。だから中島なり長勇がそういう非常識な命令であっても、出してしまうと、それが実行されていくという現実はあった。(P142)

以下、「ゆう」の感想です。

1.東中野氏、「中には女兵士や老兵や市民も混じっていたから、そういうのを半分弱ぐらい逃がしてやった」なんて思い切りトンデモを言っていますね。「女兵士や老兵」を釈放した、というのは初耳です。座談会の気安さで、口が滑りましたか。

2.ネットでときどき、秦氏との議論で東中野氏が「まいったなあ」と言った、という話が出てきますが、どうも元ネタはこの部分であるようです。

3.途中からの秦氏の発言が圧巻です。秦氏ははっきりと、「私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います]と述べています。少なくともこの時点では、秦氏は「計画説」に傾いているわけですね。

4.「少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない」という発言も注目すべきところでしょう。

しかしこの考えに立てば、秦氏は「幕府山事件」の犠牲者を「不法殺害」にカウントしていいはずです。

秦氏は、「捕虜殺害のうち不法殺害は1/2」というアバウトな考え方で「4万人説」を主張しているわけですが、「幕府山事件」の「8千人」(秦説)まで「不法殺害は1/2」としてしまっているわけで、これは秦説の矛盾という他ありません。

5.東中野氏の、「しかし、両角連隊長その他のその他のそういう手記が残っているのに、それを信じないのですか」には思わず笑ってしまいますね。2ちゃんあたりのネット否定派と言い回しがそっくりです。
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[4986]Re(1):秦Vs東中野 幕府山事件...
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/23(金) 22:03 -

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   ▼ゆうさん:
>東中野 しかし、両角連隊長その他のその他のそういう手記が残っているのに、それを信じないのですか。

何回も指摘しているが、両角手記は当時かかれたものではない。両角氏が戦後になって覚え書きとして書いていたものであって、阿部氏が尋ねて来たときに覚え書きの関連する部分を別室に行って抜き書きして書いて手渡したものであって、子息によれば原本は存在しない。

到底「手記」と言えるものではない。証言と同格の意義しかない。
南京戦史編集者からも他の一次史料によって裏付けられない限り信用できるものではない、と評された曰くつきのものである。解放説を証言する、第六十五連隊の生き残りすら、手記の主要部分をほとんど裏付けていない。山田日記と矛盾する部分がある。


東中野の説明は両角手記そのままである。他の資料によって支持されない、あるいは解放説をとる生き残り将兵の証言との矛盾の主なものを挙げる。

1.非戦闘員の解放があったという資料は両角手記以外にない。
[4930]「幕府山事件」東中野批判その1 に解説済み

2.捕虜の逃亡の資料がない。
    小野発掘日記群にも、第六十五連隊の生き残りの証言にもない。
    唐広晋氏だけが捕虜の逃走を証言したがすべて撃たれたとしている。

3.軍が俘虜を処置するよう命令・督促したという資料が軍の側に存在しない。

4.「山田少将が両角連隊長に処置を命じたが、両角連隊長が独断で解放した」とあるが、ウソである。

殺害には両角連隊長の第六五歩兵連隊だけでなく、山砲兵連隊が関与している以上、山田の指揮によることは明らかである。山田氏自身、「両角連隊長とハラを合わせたうえ、夜間、ひそかに解放することに決断した」と証言した。(阿部輝郎著「ふくしま『戦争と人間』」)(http://www.nextftp.com/tarari/gunmeirei.htm

5.田山大隊長が報告に戻ったというのはウソ

6.捕虜が解放されているだろうと思ったというのがウソ

7.捕虜が暴動を起こすに至った経過の説明を支持する証言がゼロ

「軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況」
この文章の一語一句として第六五歩兵連隊元兵士の証言すべてを寄せ集めても、支持する証言がない。


秦氏の見解もいい加減である。
1.長中佐が処刑を命令した事実は資料からは確認されない。

2.「わざわざ問い合わせをしてしまったために、軍司令部から殺せという指示が出たわけですが、」
大量の捕虜をえたときは問い合わせするように、という指示が出ている。軍司令部から殺せという指示が出たという資料はない。

3.「本当の事実経過に関しては、何しろ第十三師団の人達がみんな口をつぐんで言わないから困る」
第十三師団の人達は盛んに発言している。秦氏が「本当の事実経過」と考えることを言わないからわからない、などと言うのが間違い。発言の中からウソをあぶり出さなくてどうする。

4.「軍司令部は自分たちの命令通りに処理されたと思っていましたからね」
そんな資料ないです。

5.「舟の準備をした形跡はないし」
舟の準備は比較的少数のもので可能であり、「形跡」すなわち資料のあるなしで舟の準備をしたか、しなかったかについて述べるのは無理筋。「舟にしても、当時、あるのは数人乗り程度の漁船が数隻ですよ」←これは独断に過ぎる。「日本海軍の船を頼んだ形跡もありません」←こちらの方は納得できるが。

秦氏の見解のおかしな点の第一は捕虜八千人説です。いったいどの資料でそんなことが言えるのか。

ときに、

>秦氏は、「捕虜殺害のうち不法殺害は1/2」というアバウトな考え方で「4万人説」を主張しているわけですが、「幕府山事件」の「8千人」(秦説)まで「不法殺害は1/2」としてしまっているわけで、これは秦説の矛盾という他ありません。

ですが、
秦氏は民間人についてのみ不法殺害の割引を行っているようです。

「筆者としてはスマイス調査(修正)による一般人の死者二・三万、捕らわれてから殺害された兵士三・〇万を帰趨としたい。しかし不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(二分の一か三分の一)すべきだとかんがえる。つまり三・〇万+一・二万(八千)=三・八万〜四・二万という数字なら、中国側も理解するのではないか、と思うのである。」『南京事件』pp214
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[4987]Re(2):秦Vs東中野 幕府山事件...
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 ゆう WEB  - 07/11/24(土) 10:59 -

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   本当だ(^^; よく読むと、秦氏、結構いい加減なことを言っていますね。

1.長中佐が処刑を命令した事実は資料からは確認されない。

実は私は、「処刑命令を出したのは長中佐」であると思い込んでいました(^^; もう一度、資料に当たり直すと・・・

鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』より
しかし、話の順序をよくきいてみると「始末せよ」といった当の参謀が、長大佐であったことは間違いない。長大佐。三月事件の理論的指導者といわれ、右翼革命成立の暁には、警視総監に擬せられていたという。その押しの強さと狂信的な姿勢とは定評があったが、頭は切れる人物だった。長大佐のクラス・メートの一人であった日高氏の話によると、かつて満州の炭坑にいて人手が足りないと知ると、自分で奥地に出かけていって、徴発した男の家を自の前で焼き払ったそうだ。それで里心を失くさせ、働かせようという意図だったのだろう。

 彼は山田旅団長に、捕虜を釈放した時の後難について、いろいろ実例を交えて送ってきたそうだ。無論、山田氏は「口が割けても」という強い態度で、長主任参謀の名前は口にしなかった。だから、これは、戦史を読んでいての僕の推論である。(P193)


板倉由明氏『南京事件 虐殺の責任論』より
一九八三年に筆者が聴取した、当時第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐の証言によれば、鎮江で渡河準備中の師団司令部では、「崇明島」に送り込んで自活させるよう命じたという。崇明島は揚子江河口の島だが、草鞋洲の記憶違いとすれば、正に「島流し」 ( 栗原スケッチの題 ) である。(P194-P195)

「殺害命令は長中佐が独断で出したと言われますが」と筆者が水を向けたのに対し、吉原が横を向いて「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が今も印象に残っている。
(『日中戦争の諸相』P193-P194)

確かに、みんな「推定」のレベルで、決定的なものはありませんね。小野賢二氏などは、こんな批判を加えています。(「十三のウソ」)

この視点は上海派遣軍司令官だった皇族の朝香宮鳩彦王中将の責任問題を意識してのものだろうが、参謀一人の独断命令や、山田支隊単独の判断で捕虜約二万人の大量虐殺など実行できるわけがなく、軍命令によって計画的・組織的に行なわれたのである。事実、軍命令であったことは陣中日記にも記述されている。また、当然のことだが、虐殺された人々にとって、軍命令であるか否かの区別は無意味でしかない。(P145)


ついでに、「豪胆の人 長勇伝」からです。ほとんど「見てきたようなウソ」の世界ではありますが、面白いので紹介しておきます。

阿部牧郎氏『豪胆の人 長勇伝』より

 あくる日の朝(「ゆう」注 17日入城式の翌日だが、明らかに日付がおかしい)、第十三師団の山田支隊長副官から方面軍司令部の長へ電話が入った。

「一万五千の捕虜の処置に困惑しています。師団に問合せると、方面軍に訊けというだけです。明確な指示をいただきたい」

 きいて長は怒りにかられた。

 きのうも第六師団と第百十四師団から同じ問合せがあった。使者を飛ばして直接訊いてくる連隊もいくつかある。答えられるわけがない。殺す以外にどんな手段があるというのだ。捕虜の人道的なあっかいをきめたジュネーブ協定など、貧乏国どうしの戦争の現実のまえではカラ念仏にもならないのだ。

 とっさに長は肚をくくった。だれかが責めを負わねばならない。逃げまわっても解決にはならないのだ。おれが責任をとってやる。おれが悪者になる。長勇が非情の決断をすることで方面軍司令部も第一線部隊も救われるのだから、もって瞑すベしである。

 呉淞の岸壁の向うにあった日本兵の死体の山を長は思いうかべた。土に杭を突き刺し、戦死者の鉄かぶとを杭にかぶせただけの、日本兵の即席の墓を、上海付近でいったい何百見たことだろう。蘇州河の近くにも、呉淞に負けないほど多数の日本兵の死体の山を見てきた。これが戦争なのだ。上に立つ者は、地獄に堕ちる覚悟のうえで、戦場にふさわしい悪鬼の決断をしなければならない。(P234)

「やってしまえ。かたづけるのだ」
はっきりと長は告げた。

 近くにいた松井軍司令官の副官角良晴少佐がおどろいて駈け寄り、長を制止した。

 軍司令官室へ角は駈けこんだ。まもなく長は呼ばれてその部屋へ入った。

「いかんぞ。捕虜を殺してはならぬ。人道にもとるまねは禁止する」
顔を赤くして松井大将は命令した。

「わかりました。でも捕虜はどうしますか。明確な指示をくれと第一線部隊はいっています」
松井を腕みつけて長は訊いた。

何秒か松井は沈黙した。やがて苦しそうに顔をあげ、解放しろ、武装解除して故郷へ帰してやるのだ、と答えた。

「解放すれば捕虜は中国軍に復帰します。彼らによってわが将兵が何百、いや何千と殺されることになる。それでも良いのですか」
「わかっておる。それでも解放だ。仕方がない。受入れの能力がないのだから」

わかりました。答えて長は退去した。

事務所へ帰って受話器をとり、さっきの指示は一時取消しだと電話の相手に告げた。

三十分後、長の席の近くに人がいなくなった。彼は山田支隊へ電話をいれ、捕虜を射殺せよとあらためて命じた。報告は不要、とつけ加えた。松井に知らせずに処分するのが、松井にとっても最良の方法なのだ。

相手は困惑していた。ほかに手段がないか考えてみます。そう答えて電話を切った。

その日、午後二時から南京城内飛行場で全軍の慰霊祭がおこなわれた。(P235)



>秦氏の見解のおかしな点の第一は捕虜八千人説です。いったいどの資料でそんなことが言えるのか。

たぶん、板倉説に準拠しているのでしょうね。

板倉由明氏『南京事件 虐殺の責任論』より
 中国側記録では、十二日夜の中国軍は、主として和記公司付近から浦口へ渡江している。渡江を管理した第七十八軍(三十六師)は、お手盛りで自軍を優先させ、長官をはじめとする司令部員や高級指揮官、直属部隊もほとんどが船を確保して渡江している。残りの、下関まで逃げてきたが船がなくて取り残された部隊の外、第六十軍、第八十三軍、教導総隊など、包囲突破を命じられた部隊中、失敗した敗残グループが十三日頃から北方の幕府山方面へ移動し、十四日この地区に到着した山田支隊に降伏したものである。

 したがって捕虜の総数は可能性として一万人程度、「両角手記」に記されているように、実数は降伏当初においても六千〜八千人程度であろう。(「日中戦争の諸相」P194)

要するに、この方面にこんなに「中国軍兵士」がいたはずがない、という主張です。

このあたりに本気で取り組むと、今度は「中国軍の数」論議という、面倒でかつ限界効用が乏しそうな議論に突入しなければなりません。笠原論文と板倉論文を並べて比較検討をしなければならないわけですが、今回はちょっとそちらまで手が回りそうにない。


ただ少なくとも言えるのは、「山田支隊幹部の認識」は「一万五千名程度」で概ね一致していることです。「民間人の釈放」がウソだとすれば、これはそのまま、「山田支隊幹部が認識していた捕虜の実数」ということになります。

まあ、「両角連隊長は、「公式発表」1万5千人と「実数」8千人との「差」を説明するために「民間人釈放」というストーリーをでっちあげた」という考えも、純理論的にはありえない話ではないのですが・・・。ひょっとすると秦氏は、そう考えているのかもしれません。

山田栴二日記
◇十二月十四日 晴

<南京戦史資料集II>
 他師団に砲台をとらるるを恐れ午前四時半出発、幕府山砲台に向ふ、明けて砲台の附近に到れば投降兵莫大にて仕末に困る
 幕府山は先遣隊に依り午前八時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり
 捕虜の仕末に困り、恰も発見せ上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、上元門外の三軒屋に泊す(P331)


八巻竹雄氏『南京攻略戦』より
(第十二中隊長)
 途中沿道各所より敗残兵が群がり、武器を捨てて投降して来る。中隊だけでも千数百名の捕虜を得た。隊の後方を続行させた。我が軍も余り早い進撃で補給がなかった。したがって敵の捕虜に対しては、三日も四日も食糧がなく、餓死寸前の状態だった。食事時になると我れ勝に残飯を奪い合っている。

 その中にいた人品骨柄いやしからず、柔し皮の外套を着た将校らしい者がいた。残飯を兵隊の前で与へ様とすると、鄭重に辞退された。考えてみると支那人は面子を重んずる国民と聞く、多数の兵の前では、残飯は貰へないのだと思い、人前を避けて家屋の後ろで与えた処、結構喰べ終った。彼は我々が持つている倍もの大きさの名刺を差し出した。見た処、中央軍軍官教導総隊参謀少佐劉某と印刷してあった。彼れは既に覚悟をしていたものか、それとも単に恩義を感じたものか、着て居た立派な外套を脱いで、私に呉れようとしたが、自分は官給品ではあるが、着ているのでいらないと断った。連隊だけでも投降した捕虜は、一万数千名位いあったろう。
 (「歩兵第六十五連隊第十二中隊史」P42〜P43)

第五中隊長・角田栄一中尉
「深夜、百二十人で出発した。笹斗山鎮から観音門鎮付近で中国軍兵士が次々と無抵抗で投降、約三千人を捕虜にした。しかしこれだけの捕虜を連れて幕府山砲台の占領は無理と判断し、武器を彼ら自身の手でクリークに投げ込ませ、無力化して彼らを放置した。あとで来た連隊主力は、これら戦意皆無の中国兵を捕虜としたようだ。翌朝までに幕府山に入り、占領を果たし、万歳を山頂付近で叫ぶと、山のすそ野を進んだ連隊主力からも万歳が返ってきた。あのとき幕府山一帯にいた敗残兵は約二万人だったと記憶する」(「南京の氷雨」P66-P67)



>「筆者としてはスマイス調査(修正)による一般人の死者二・三万、捕らわれてから殺害された兵士三・〇万を帰趨としたい。しかし不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(二分の一か三分の一)すべきだとかんがえる。つまり三・〇万+一・二万(八千)=三・八万〜四・二万という数字なら、中国側も理解するのではないか、と思うのである。」『南京事件』pp214

自分のサイトのトップに掲載しておきながら、すっかり忘れていました(^^; こちらは私の勇み足でした。
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[4990]Re(3):秦Vs東中野 幕府山事件...
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 タラリ E-MAIL  - 07/11/24(土) 23:37 -

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   長勇は虐殺の推進者ではない。ただのトリック・スターだ。

徳川義親氏に語ったホラの例を読むと、

日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、
「人を殺すのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという。
(「最後の殿様」P170〜P173)


あたかも12月13日に江岸で見られた光景のようですが、この日に長中佐が江岸にいた事実はありません。また、別の日のこととしても味方の兵士を斬り殺すということは到底ありえません。出任せのホラです。馬上で戦国時代の陣羽織を着て行軍して見せたり、人を驚かせる演技性性格であることは確かです。ただし、このような人物が歴史の重大事を動かしていたかというとかえってそれはないでしょう。

彼を知るものが皆、このような途方もないホラにびっくりした事実はあります。しかし、彼が上官の命令を装って無断で命令を伝達したということは何ひとつ確認されていません。異常な命令が出されても必ず復命によってその結果が報告されますから、復命のところまで彼が全部握っていなければ必ずばれます。ばれれば、重大な軍機違反ですから、参謀といえども厳重処分を免れません。下手すると松井大将や朝香宮鳩彦親王の顔に泥を塗ることになります。やれるわけがありません。

秦氏は下克上があったなどと言いますが、軍内部で下克上の風潮があったのは確かですが、実は上官の面前で命令を無視する、拒否するというところまではやっていません。必ず、上官の手の及ばないところ、目が行き届かない現場において、上官の指示を無視して、自分が思うような、やりやすいような活動を行う、というのが本質です。派遣軍司令部の内部で勝手な偽造命令を出すということはありえません。

彼の破天荒な言動を書きとめた手記は多いのですが、よく見れば、事後において軍の内情、あるいは軍のその部署に詳しくないひとに語ったホラに過ぎません。長中佐は事件においてどういう役割をなしたか、と言えば、残虐行為、不法な殺戮を称揚、教唆する発言をばらまいただけに過ぎません。この意味で長のなした役割はトリック・スターと呼ぶのが相応しいでしょう。

トリック・スターというのはドラマで本質的な役割を演じているのではないが、ドラマの本筋に関連した話題を常に口にし、周囲の人間にはあたかもドラマが彼を中心に動いているかのように見られる役回りを言います。ドラマの本筋は別の役者によってひそかに進行しており、トリック・スターは本筋の進行には関係なく、彼らの周りで飛び回っているだけです。しかし、彼の華麗な、わかりやすい言動があることでドラマは活性化します。例えば寅さんの映画でマドンナと彼女の恋人の恋愛がなんらかの理由で行き詰まっている。寅さんは彼らの間を行き来して大いに話題を盛り上げるが、実は彼らの間でひそかに思い過ごしに気が付いてヨリを戻していく、というような展開が例です。


>実は私は、「処刑命令を出したのは長中佐」であると思い込んでいました(^^; もう一度、資料に当たり直すと・・・

長中佐が命令を出したという一次資料はありません。噂がいろいろあるだけなので、その噂の信憑性を彼の言動を伝える手記・証言などから検証するしかありません。

長中佐は沖縄軍司令官になったときも、まだこれから戦闘が長く続くときに多くの部下を差し置いてさっさと自決してしまいました。まことに無責任きわまりないことですが、彼は結局歴史においてなんら、主な役割を果たしていません。

これに対して両角行作は、「人格者」、「部下思い」と言われ、戦後においても企業で重役についていたようですが、優柔不断な上官である山田少将の背中を押し、支隊の早期渡河を成就させるため、二万五千の捕虜を情け容赦なく殺害することを決したのです。他の六十五連隊証言者はいずれも心の動揺を隠せず、あるいは矛盾に満ちた証言をしているのですが、彼の手記にはいささかの心の動揺も見えないばかりか、捕虜の幸せを願うという見かけさえみせるという戦慄すべき冷静さまで持ち合わせている人物です。こういう人物こそが、歴史に残る大虐殺をやり仰せるのです。



鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』より
 彼は山田旅団長に、捕虜を釈放した時の後難について、いろいろ実例を交えて送ってきたそうだ。無論、山田氏は「口が割けても」という強い態度で、長主任参謀の名前は口にしなかった。だから、これは、戦史を読んでいての僕の推論である。(P193)


同書の、鈴木明の山田氏への聞き取りの場面では、「捕虜を釈放した時の後難」などひとつも出てきていません。むしろ、鈴木は山田氏がまとまったことを何も言わないので彼のセリフを引き延ばすのに汲々としていました。したがってこれは鈴木の作文と見て間違いありません。


「殺害命令は長中佐が独断で出したと言われますが」と筆者が水を向けたのに対し、吉原が横を向いて「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が今も印象に残っている。
(『日中戦争の諸相』P193-P194)


―吉原が横を向いて「長はやりかねぬ男です」と言った暗い顔が―といった思わせぶりを使っている時点で印象操作もここに極まれり、と笑えます。

長は否定派にとっては軍(司令部)が、正式に虐殺命令を出したのではない(のではないか)、という言い逃れになっており、肯定派の一人である洞氏にとっては軍が命令を出したことには間違いがない(のではないか)という断罪のタネに用いられています。いわば双方にとって、希望的観測でjokerと見られていますが、根拠は一切なく、みんな彼の外見に幻惑されているのです。



「13のウソ」より
この視点は上海派遣軍司令官だった皇族の朝香宮鳩彦王中将の責任問題を意識してのものだろうが、参謀一人の独断命令や、山田支隊単独の判断で捕虜約二万人の大量虐殺など実行できるわけがなく、軍命令によって計画的・組織的に行なわれたのである。事実、軍命令であったことは陣中日記にも記述されている。また、当然のことだが、虐殺された人々にとって、軍命令であるか否かの区別は無意味でしかない。(P145)


この「批判」は、はじめに《捕虜の大量虐殺が軍命令なしに行えることはない》という推測ありき、とでも評するしかありません。小野氏が根拠になると見たのは次の二つでしょうが、

◆遠藤高明少尉
「今日到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるものの如し」

遠藤少尉は推測と明示しています。

◆宮本省吾少尉
「大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮(虜)兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」という条ですが、

宮本少尉は「大隊」と書いていて、軍とは書いていません。彼が直接参照できるのは大隊の態度までであり、軍命令を直接に参照できる立場にはありません。

宮本少尉は火事の結果収容困難になったためと解しましたが、この日の他の日誌を会わせ読むならば、「大隊」は連行の目的を部下には告げていません。日記は虐殺の後で書かれているので宮本少尉は当初の解放目的を知らされることなく、何かあったら機関銃で撃つようにという指示はあったのですが、暴動を起こしたから射殺したという経過を誤解した、という、否定派の反論を完全に否定できません。

>また、当然のことだが、虐殺された人々にとって、軍命令であるか否かの区別は無意味でしかない。

「虐殺された人々にとって、軍命令であるか否かの区別は無意味」なのは当然ですが、まさにその区別をしようとしているところで、それを言うことは無意味です。


>>秦氏の見解のおかしな点の第一は捕虜八千人説です。いったいどの資料でそんなことが言えるのか。

>たぶん、板倉説に準拠しているのでしょうね。


板倉由明氏『南京事件 虐殺の責任論』より
 中国側記録では、十二日夜の中国軍は、主として和記公司付近から浦口へ渡江している。渡江を管理した第七十八軍(三十六師)は、お手盛りで自軍を優先させ、長官をはじめとする司令部員や高級指揮官、直属部隊もほとんどが船を確保して渡江している。残りの、下関まで逃げてきたが船がなくて取り残された部隊の外、第六十軍、第八十三軍、教導総隊など、包囲突破を命じられた部隊中、失敗した敗残グループが十三日頃から北方の幕府山方面へ移動し、十四日この地区に到着した山田支隊に降伏したものである。

 したがって捕虜の総数は可能性として一万人程度、「両角手記」に記されているように、実数は降伏当初においても六千〜八千人程度であろう。(「日中戦争の諸相」P194)


>要するに、この方面にこんなに「中国軍兵士」がいたはずがない、という主張です。


秦氏自らは八千人の根拠を一言も触れていないので、私は「いったいどの資料でそんなことが言えるのか」としか書けない(聞けない)わけです。

いくら板倉クンと仲良しであろうが、仲良しだという理由で板倉説を踏襲したと決めつけては秦氏に失礼であろうと思います。

資料なしに説を立てるわけには行きません。私の知る限りの資料において八千という数字が出てくるのは両角業作氏の手記ただひとつです。両角業作氏の「手記」をあえて信用するわけは何なのですか、しかも両角手記は一切表に出すことなく、八千というunderestimateされた数字を出すという意図はどこにあるのですか、と私は秦氏に面と向かって問いただしてやりたいです。


>このあたりに本気で取り組むと、今度は「中国軍の数」論議という、面倒でかつ限界効用が乏しそうな議論に突入しなければなりません。笠原論文と板倉論文を並べて比較検討をしなければならないわけですが、今回はちょっとそちらまで手が回りそうにない。

板倉クンの説ですが、「下関まで逃げてきたが船がなくて取り残された部隊の外、第六十軍、第八十三軍、教導総隊など、包囲突破を命じられた部隊中、失敗した敗残グループ」というのを数えた資料というのはありませんね。(面と向かって問いただしたくても彼はもはやこの世にいないのが残念です)
13500人、14777人、15300人、・・・という系列の数は六十五連隊の兵士がそれぞれの時点で実際に数えた数です。数えていない数字をもって数えられた数字を覆すことはできません。したがって「中国軍の数」論議の必要はありません。

幕府山附近に逃げてきた中には民間人もいました、警官もいました(唐広晋)。また、荷物運びや、塹壕堀りだけのために動員された「雑兵」もいるはずです。南京城から逃れたものだけではなく、老陸宅で六十五連隊と対戦した部隊も見つかって六十五連隊の兵士を喜ばせています。それらが1万以下とか8000以下という資料は出せないはずです。

『本当はこうだった 南京事件』では、1万人も捕虜がいたとすれば、
・・・歩き出すと少なくとも長さは二倍になり、しかも時間と共に列は長くなる。悪路を四列縦隊で歩くのは、よほど統制がとれ、訓練を積んだ集団でなければ困難である。経験者によると、中に入った二列は埃と息苦しさ、精神的圧迫感で非常に疲れるという。だから長距離・長時間の行軍では自然と二列縦隊になってしまう。・・・
全長が十二キロになるだとか、行進に五時間かかるだとか、二ページに渡って愚にも付かない理由を並べて「結局このような場合、捕虜の実数は一万人などいなかった、」などと結んでいます。

六十年代、七十年代には数万のデモ隊が都内を数時間歩く光景などザラだったのですが、あの光景もなかったのでしょうか(笑い)。

捕虜が一万人もいない、ということを言うのにあるときは中国軍はそれほどいなかった、と机上の計算をして否定する、あるときは一万人があるくとどうなるか空疎な想像をめぐらして否定する、ということは、どちらの根拠も自信を持っていないことを示しているのです。

>ただ少なくとも言えるのは、「山田支隊幹部の認識」は「一万五千名程度」で概ね一致していることです。「民間人の釈放」がウソだとすれば、これはそのまま、「山田支隊幹部が認識していた捕虜の実数」ということになります。

捕らえた時点、つまり14日時点では山田日誌14777人、両角「手記」15300人ですが、殺害後の訓示では2万人という数字を聞いたことを多数が記しています。死体処理をしたものたちに対する訓示ですから、これは当時の「幹部」の認識であったと考えてよいと思います。ただし、「2万人」が17日当日の大湾子だけのものか、前日の魚雷営をこめた数字か、これはわかりません。


>まあ、「両角連隊長は、「公式発表」1万5千人と「実数」8千人との「差」を説明するために「民間人釈放」というストーリーをでっちあげた」という考えも、純理論的にはありえない話ではないのですが・・・。ひょっとすると秦氏は、そう考えているのかもしれません。

解放時の暴動説を本当らしくするためには、できるだけ殺害された捕虜は少なくしておかなくてはなりません。解放しようとしたが一万五千三百人全員を殺してしまった、ではまずいのです。そこで民間人釈放と火事で逃亡という二重の割引を行いました。しかし、両角手記では火事の後に4000人になっているはずが、連行は2000人になっているのが不思議ですね。今回東中野氏がそこのところをうまく辻褄を合わせてくれたので思わず吹いてしましましたが。

飯沼守日記には、十二月十五日に「山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ」とありますから、一万五千という報告はちゃんと届いています。軍司令部には十六日にも連絡に行っていますから、民間人は解放して実数8000人にはしましたけど、と報告を入れて指示をあおいでなんら不思議はないのですが、8000人という報告はしていません。ですから、一万五千人は実数で間違いないのです。

結局、秦さんは日本軍をあまりにも悪者にしたくはないために、八千人説に固執しているのです。しかも根拠を言うとたちまち攻撃されますから、あえて根拠は言わないのです。「お主も悪よのう。」
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[5015]一応アップ 「幕府山事件(1...
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 ゆう WEB  - 07/12/8(土) 6:45 -

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   「幕府山事件」については、既にK−Kさんのサイトの膨大な資料集、タラリさんの詳しい研究がネットの財産となっています。

しかし以前から気になっていたのですが、「自衛発砲説と小野説とはどこがどのように違うのか」「そもそも「幕府山事件」というのはどういう事件だったのか」を初心者向けにきちんと解説しているサイトがまだありません。

Googleで「幕府山事件」を検索するとなぜかトップにきてしまうサイトの持ち主としては(^^;、いつかは何とかしなければならない、と思っていました。


今回のコンテンツ(まだ半分、16日の虐殺までですが)は、そのような初心者向けの解説を目的としています。そして、「自衛発砲説」をベースにしながらも勝手な想像をどんどん付け加えて自爆してしまっている東中野氏のこの本も、おおいにネタにさせていただいています(^^)  なかなかわかりやすい「まとめ」になったのではないか、と自負しています。

東中野氏は無理やり16日の虐殺を正当化しようと試みています。最後の方にその批判を書いてみたのですが、「国際法」は私の不得手な分野で、「批判」としてはまだまだ弱いような気もしますので、折を見て書き直すかもしれません。

「東中野氏 『再現 南京戦』を読む(5) 幕府山事件(1) 16日「魚雷営の虐殺」まで」
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/saigen5.html


ともあれ、タラリさんの議論は、HPの記事を含めて大いに参考にさせていただきました。感謝します。改めて読み返させてただくと、おそろしく「濃い」内容でした。

・・・さて次は、「幕府山事件(2) 17日の惨劇」です。どうまとめるか、まだ何も考えていないのですが、のんびりと取り組んでみることにします。
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[5207]ここがヘンだよ、両角手記
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 ゆう WEB  - 08/1/5(土) 17:48 -

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   まずは(皆さんよくご存知とは思いますが)、「17日の虐殺」部分を引用します。

夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。

 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。

 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。

 そのいきさつは次の通りである。

 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。

 二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。

 あっけないといえばあっけないが、これが真実である。表面に出たことは宣伝、誇張が多過ぎる。処置後、ありのままを山田少将に報告をしたところ、少将もようやく安堵の胸をなでおろされ、さも「我が意を得たり」の顔をしていた。

 解放した兵は再び銃をとるかもしれない。しかし、昔の勇者には立ちかえることはできないであろう。

私がまず疑問に感じていたのは、「二千人ほどのものが一時に猛り立ち」の表現でした。

「両角手記」では、この直前に、捕虜の数は「四千名」と明記されています。どうしてここに突然「二千人」なんて表現が出てくるのだろう?


もう一つの疑問は、「虐殺開始時刻」です。「夕刻」に田山大隊長が「俘虜の集結を終わった」と報告してきた。しかしなぜか、渡河開始は「十二時ころ」の少し前です。

「集結」が終わったらすぐに「渡河輸送」を始めればいいのに、この6時間もの間、「捕虜解放」の使命を帯びていたはずの部隊は、一体何をやっていたのか?


この二つの疑問を同時に解消するストーリーがあります。

「夕刻」に輸送を開始した。そして「12時ころ」には半数ぐらい輸送済みであった。

そう考えれば、今日では「暗くなりかけた頃」ということが明らかになっている「殺害開始時刻」を両角が「12時ころ」にずらしたことも、突然「二千人」という不思議な数字が出てくることも、同時に説明がつくのです。


おそらく両角は、そう言いたかったのでしょう。しかし後世の方々は、残念ながら両角手記の「行間のストーりー」を汲み取ってはくれませんでした。

「郷土部隊戦記」では「夜十二時頃、十数隻の小舟にのって一回目に渡河した二、三百人」(P112)との表現になっています。もちろん、東中野氏はそんなことに気がつかず、頓珍漢な両角手記論を繰り広げています。


念のためですが、もちろん今日では、これは両角の大嘘であることが明らかになっています。「自衛発砲説」に口裏合わせをしたはずの幹部連からして、この調子です。


<第一大隊長・田山芳雄少佐>

 舟は四隻― いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。
(略)
 銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです」
(阿部輝朗氏『南京の氷雨』 P103)


<連隊砲中隊・平林貞治中尉>

 とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。
(鈴木明氏『南京大虐殺のまぼろし』 P199)


<第一機関銃中隊・箭内享三郎准尉>

 上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。

(阿部輝朗氏『南京の氷雨』P99)

 集結を終え、最初の捕虜たちから縛を解き始めました。その途端、どうしたのか銃声が・・・。突然の暴走というか、暴動は、この銃声をきっかけにして始まったのです。
(同上 P101)


折角の両角ストーリーに同調してくれる幹部は、いませんでした。


ただいま、東中野「再現 南京戦」批判シリーズの続き、「幕府山事件(2) 17日の惨劇 解放が目的だったのか」「幕府山事件(3) 東中野氏の「解放目的」説」にとりかかっており、この作業の中で気がついた「トリビア」です。
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[5267]Re(1):処刑目的の証明
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 タラリ E-MAIL  - 08/1/18(金) 22:44 -

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   1月6日に『南京事件の真実』のページに

「7.大湾子への連行が処刑目的であったことの証明」

を追加しました。内容はこの元記事に加筆修正したものです。
本日1月18日、改訂しました。
 
また、 以前からupしていた、
「a.民間人の解放はあったか」
も改訂しました。以前より多少読みやすく整理できたかと思います。

ゆうさんとの議論がおおいに刺激になりました。感謝しております。
  
190 hits

[5382]Re(1):「幕府山事件」東中野批...
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 タラリ E-MAIL  - 08/3/24(月) 23:28 -

引用なし
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   ▼タラリさん:
>>○夥しい「死体の山」はどこにあったのか
>
>> 前田記者や大寺上等兵が見た「夥しい中国兵の死体の山」は、いったいどこにあったのであろうか。
>
>前田記者が見たのは下関の話で、幕府山の捕虜は関係ない。

前田記者は祓川記者と車に同乗して千あるいは二千の捕虜の死体を見た、と書いています。
大湾子に至る道は山が迫っていて、人が四人並んで歩くのが困難であったようで、車は通れません。
また、この死体は魚雷営の死体でもありません。紅卍字会の埋葬表にある、魚雷営関係の死体は下関魚雷軍営脇524(二月十九日)、下関魚雷軍営埠頭5000(二月二十一日)、下関魚雷軍営埠頭300(二月二十二日)の計、約5800で千、二千といった数ではありません。


一方、六十五連隊の山砲兵は彼らが殺したのも目じゃないほど大量の死体が下関にかけて積まれていたことに驚いています。

前田記者が見たのが幕府山事件の死者であるように、切り張りするのは東中野の下手な作文です。
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