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>○夥しい「死体の山」はどこにあったのか
> 前田記者や大寺上等兵が見た「夥しい中国兵の死体の山」は、いったいどこにあったのであろうか。
前田記者が見たのは下関の話で、幕府山の捕虜は関係ない。
>>・・・下関をすぎると、なるほど深沢のいうとおり道路の揚子江岸に夥しい中国兵の支隊の山が連なっている。(『戦争の流れの中に』より、東中野本のpp150)
大寺上等兵のは大湾子と魚雷営のふたつである。大寺上等兵に「夥しい中国兵の死体の山」という表現はない。東中野は、いつものことだが、出典を無視した、切り張りが多い。この後もその連続なので、いちいち指摘しない。
>>午后は皆捕リョ兵方(片)付けに行ったが俺は指揮班の為行かず。昨夜までに殺した捕リョは約二万、揚子江岸に二ヶ所に山の様に重なって居るそうだ、 『南京戦史資料集2』P348〜350(東中野本にはなし)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− >○幕府山占領後に大量の投降兵が出た
>幕府山砲台は発電機や探照灯や地下室を完備した要塞として、
私はそういう資料を知らない。東中野も出典をしめしていない。 ちょっと関心があるのは『13のウソ』に小野氏が大湾子の虐殺にサーチライトを持ってきた、と書いていることである。これも資料の提示はない。
>山の上から投げられた手榴弾により一人が戦死し、六名が重傷を負っている。
「一人が戦死し、六名が重傷」の部分の資料はどこにある?
>日が暮れる午後五時ごろまでに一万四千七百七十七名が投降していた。
堀越文男陣中日記では「第一大隊は1万四千余人の捕虜を道上にてカンシしあり(午前)。」とある。午前中にすでに1万四千余人が投降していた。ただし、1桁まで正確に数えたのは収容時だろう。午後五時にはすでに収容されていたと見た方がよい。同日中にも捕虜は増加中である。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− >○捕虜を得た会津若松六十五連隊の苦悩
>そこで非戦闘員などはどんどん解放されて、両角連隊長の「回想」では、捕虜約「八千名」が残った。
非戦闘員の解放があったという資料は両角手記以外にない。
■『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。(「南京戦史資料集II」)
1.『南京大虐殺を記録した兵士たち』所載の日記中の捕虜数の時系列で八千に減ったという事実があれば必ず、残されるはずであるが、それはない。
2.山田旅団の生き残り証言者の中に解放を証言するものがまったくいない。
3.平林氏は「1万4000の捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した」と証言した。 朝日新聞・横田記者もまた、十五日発の記事で「第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった。」と書いた。
両者とも十四日において必要な茶碗の数が一万四千ないし五千であったとの認識であった。横田記者は十五日において、捕虜数が一万四千七百七十七人との認識であった。両者とも十四日において、八千人しか収容しなかったという両角手記を否定している。
4.山田氏は鈴木聞き取りであいまいかつ、明らかにウソとわかる証言を交えて、両角連隊長の数字に口裏を合わせていた。これはかえって八千人説が虚偽である傍証となる。
>付近の村落は中国軍の清野作戦によって焼かれ、建物はなかった。
極東軍事裁判で殷有余証人は一般人、兵士ら三百人とともに捕虜となって民家に収容されたと証言している。堅壁清野作戦といっても戦場となるべき主要道路沿線の家屋の焼き払いであって、少し奥に入れば多少の民家は残っていたと思われる。 また、軍事施設、海軍関係の施設は当然、無傷で残されたはずである。
>そこで幕府山の上元門郊外を探して、ようやく発見された幕府山要塞の十数棟の建物に、捕虜は収容されることになった。寿司詰め状態である。
「上元門郊外を探して、ようやく十数棟の建物を発見した」という記述は一次資料にはない。新聞では東部上元門、山田日記で上元門外と表現される収容所は掃討中に偶然見いだされたもので、わざわざ探し廻って見つけたものではなかろうと思われる。この収容所は二十二棟である。
>しかし会津若松六十五連隊の兵士たちは、自らの食糧を切りつめ
「自らの食糧を切りつめ」と記載した資料は一切ない。
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