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既にお気づきの方もいると思いますが。
以前、「南京大虐殺研究札記」に父(栗原利一)の幕府山の話が掲載されていることは指摘したとおりです。 その中で魚雷営の一日目に父も加わって中国兵捕虜の首を切りまくっていた、という話(私が小学三年生の時に父から聞いていた話で、近年、幕府山の話と間違えていて、父に確認したときに「ああ、その話は別の話だ。」との返答を得ていた話)をした時に、熊猫さんから矛盾しないか、との指摘があったのですが。 その時に中国側の本にも同じような記述があったのは覚えていたのですが、書名が思い出せませんでした。 他のスレッドで「証言・南京大虐殺」(青木書店)の指摘があったので、思い出すことが出来ました。 この中の魚雷営の話と「南京大虐殺研究札記」の魚雷営の話は同一で、父はその一日目の虐殺(というか処分)に加わっています。
そのように考えると「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」の記述で2万人強の捕虜数とも一致してきます。 父は幕府山は13500人と言っているだけなのです。
基本的には、65連隊の二箇所の合わせて2万人強の虐殺(処分)は両角業作氏の指示なり、責任で実行されたものと思われます。
65連隊の初代在京残桜会会長が服部卓四郎氏であることを考えると、65連隊関係者が阿部輝郎氏の著作により、虚偽証言を捏造しまくった事情も理解できます。
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