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双塘難民収容所 双塘にある教会と長老会布教団学校が難民収容所となっており、国際委員会が管理していた安全区とは別に、現在の南京市第十九中学(南京市新淮区双楽園68号)の場所に難民区がありました。今回は出血大サービスで初心者の方にもその位置が分かるように地図を提示しています。地図に記載されている文字とは異なりますが、新字体で「双塘(そうとう)」と書きます。 難民収容所が存在した資料の出典は『拉貝日記』(江人民出版社)ですが、この双塘難民収容所の記録文書としては1月4日のミルズの調査と1月8日のスマイスの「双塘難民収容所の一日」そして他には「日本軍の暴行記録 第一八六件と一九四件」にも双塘のことが記されています。 『拉貝日記』(江人民出版社)からの引用は熊猫訳によるものです。
『拉貝日記』1月6日より 教会と長老会伝教団難民収容所 1938年1月4日のミルズ氏の調査による。
組織 所長:陳羅門(音訳)氏。彼は上海の材木商で、出張で南京に来たが戦争により南京を離れることができなくなった。それから彼が有能な収容所の所長であると証明する。
収容所は安全区外の城内の西南のとても貧しい地区にある(双塘)。 難民人数:現在は1000人、以前は2000人だった。夜になると大勢の人が収容所に泊まりに来る。この収容所は常に日本兵の略奪にあい、女性は常に強姦に遭う。 米の分配:収容所の中約3分の2の難民は食事を自分で解決して、残りの難民はビタ一文もなく、非常に貧しい。
1月5日にミルズ氏がこの収容所に3袋の米を提供し、そして2日間ごとに収容所に相応の数量を提供するように極力努める。
『拉貝日記』1月8日より 1938年1月8日 南京寧海路 南京日本大使館御中 福田徳康(熊猫注:篤秦)殿 尊敬する福田殿 同封した『双塘難民収容所の一日』と題する一つにまとめて編集したものには率直に間違いがないことを表明します。南京の住民は今日今なお日本兵の侮辱と撹乱に耐えています。まとめて編集した報告は24時間内に13回の日本兵が中国の難民地方にやってきて発生した出来事です。 報告より見ることができるこれらの事件は、日本兵がいつも中国の住民に大きな損害をもたらすものではないが、アメリカ国旗及びアメリカ大使館と日本大使館の告示により明確に表明されたアメリカ財産の管轄区への日本兵の進入は絶対に禁止されるものです。 あなたが都合よく情況を調べられるよう、私は説明したい。双塘収容所は城内の西南に位置し、アメリカ長老会布教団の財産で、学校と教会といくつかの付属する建築物で構成されています。 確かな方面よりまた日本兵が暴行した報告がありました。昨日の午後4人の日本兵が1人の中国の女性を連れ去り、彼女を莫愁路と漢中路の十字路付近にある家の中に2時間拘禁した。1人の外国人がこの誘拐事件を知りそして上述の場所に到着した時には、日本兵とこの女性がこの家を離れた後でした。 上記に類似した事件が更に発生すれば、中国の難民は元の住所に戻ることはあり得ないことを、あなたは承認するしかありません。 再度私が強く指摘していることを許して下さい、南京が正常な状態を取り戻すのは(私達からそのような告知されるように、日本の当局自身もこのような願望があります)完全に日本の部隊が新たに厳格で効果がある支配する如何によります。 ご機嫌よろしく。 あなたの忠実なる 署名 Lewis
S.C.Smythe
双塘難民収容所の一日 (1938年1月6日13時50分〜1月7日10時50分) 1月6日 13:50 3人の日本兵が1人の女性を連れ去り強姦した。 14:10 1人の日本兵が3人の中国人を力仕事に連れて行った。 14:30 4人の日本兵が収容所にやってきて、あちこち見て回り20分後に去って行った。 15:35 3人の日本兵が10人の中国人を力仕事に連れて行った。 16:10 3人の日本兵が1人の婦人を引っ張って行き表門の外にある収容所の小屋の中で強姦した。 16:40 2人の日本兵が収容所に姑娘を探しに突入して15分後に立ち去った。 17:05 3人の日本兵がビルに突入し、そこにある物を物色して20分後に立ち去った。 18:35 2人の日本兵が2人の難民に彼らがもてあそぶための姑娘を要求したが、その場にいた3人の男子が拒んだので殴られた。 23:00 3人の日本兵が塀を乗り越えて2人の女性を捕まえて連れ去った。 1月7日 10:00 1人の日本兵が収容所に入って来て、あちこちと見て回り10分後に去って行った。 10:15 武器を持った1人の日本兵が姑娘を探しに来たが、願いかなわず立ち去った。 10:30 3人の日本兵が姑娘を拉致しに来て、拉致はせずに、門番の綿入れの靴を取って自分の古い靴を彼のもとに置いて行った。 10:50 1人の日本兵がビルの中に入って行きその中の物を物色して10分後に去った。 ミルズの調査とスマイスの『双塘難民収容所の一日』は多くの方にとって「お初」ではないかと思います。実は『日中戦争史資料9 南京事件II』洞富雄(河出書房新社)を読むとこれらに関連したことが記載されているのです。
『日中戦争史資料9 南京事件II』洞富雄(河出書房新社)より 日本軍の暴行記録 第一八六件 一月九日午後三時頃、ミルズ師(Rev.Mills)とスミス博士が、雙唐へ出かけた。その辺の様子を見て、市の西南部に住民が帰れる状態かどうか知りたいと思ったのである。そこへ着いたところ、赤ん坊を抱いた一人の婦人が、今しがた三人の日本兵に強姦されたところであった。[スミス、ミルズ] *(訳注)徐氏の編書には、末尾に「数日前、雙唐にかんする別の報告がミルズ師によって提出されている」という附記がある。この報告について、徐氏は脚注で「これは入手した文章の中にない」と記している。
第一九四件 一月十六日午後W・P・ミルズ師(Rev.W.P.Mills)が双塘に出かけたところ、土曜日・日曜日は住民にとって最悪の日で、日本兵がやってきては婦人を強姦するということを知った。ミルズ師はそこにいる間にも二人の日本兵をおいだした。(ミルズは後ほどもっと完全な報告(a)を提出する。) (a)これは入手した文書の中にない。 第一九四件を読んで「あれっ?」と思った人はなかなかの南京事件の研究者です(^^) 熊猫が原文を勝手に「双塘」と書き換えて表示しました。お手元に洞先生の資料集をお持ちの方は、該当箇所を「双塘」と訂正しておいて下さい。
南京城内には安全区以外にも、難民収容所がありましたので「安全区以外は無人地帯だった」というのは間違いです。
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