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[5283]安全区以外は無人地帯だったか?(城内編) 熊猫 08/1/27(日) 13:14
[5284]双塘難民収容所 熊猫 08/1/27(日) 22:02 [添付]
[5286]双塘難民収容所(1)訂正 熊猫 08/1/30(水) 3:40
[5296]渠劉氏証言 熊猫 08/2/5(火) 8:24
[5303]渠劉氏証言(1)訂正 熊猫 08/2/10(日) 23:41
[5298]胡偉証言 熊猫 08/2/8(金) 19:05
[5300]朱錫生証言 熊猫 08/2/10(日) 13:59
[5333]毛徳林(もうとくりん)の証言 熊猫 08/2/27(水) 2:05 [添付]
[5285]老人堂 熊猫 08/1/30(水) 3:35 [添付]
[5299]玉帯巷 熊猫 08/2/8(金) 22:16 [添付]
[5561]玉帯巷22号の李さんの氏名 熊猫 08/6/25(水) 23:23
[5302]西家大塘 熊猫 08/2/10(日) 23:24 [添付]
[5306]小彩霞街 熊猫 08/2/12(火) 9:40 [添付]
[5307]dou3門橋 熊猫 08/2/15(金) 21:04 [添付]
[5308]辺営 熊猫 08/2/16(土) 15:32 [添付]
[5309]泥馬巷 熊猫 08/2/16(土) 18:13 [添付]
[5310]倉巷 熊猫 08/2/16(土) 21:15 [添付]
[5325]陳華珍証言 熊猫 08/2/24(日) 0:30
[5311]五福巷 熊猫 08/2/16(土) 23:51 [添付]
[5312]箍桶巷 熊猫 08/2/17(日) 20:43 [添付]
[5313]牽牛巷 熊猫 08/2/18(月) 2:37 [添付]
[5314]牽牛巷(1)訂正 熊猫 08/2/18(月) 20:46
[5315]長楽街 熊猫 08/2/18(月) 21:43 [添付]
[5316]礼拝寺 熊猫 08/2/19(火) 21:50 [添付]
[5318]明瓦廊 熊猫 08/2/21(木) 1:20 [添付]
[5319]伏魔庵 熊猫 08/2/21(木) 9:23 [添付]
[5320]八宝街 熊猫 08/2/22(金) 20:58 [添付]
[5321]甘雨巷 熊猫 08/2/22(金) 23:42 [添付]
[5322]pao2馬巷 熊猫 08/2/23(土) 13:50 [添付]
[5323]鳳遊寺 熊猫 08/2/23(土) 16:30 [添付]
[5324]後宰門 熊猫 08/2/23(土) 22:43 [添付]
[5327]観音庵 熊猫 08/2/26(火) 0:16 [添付]
[5331]他の観音庵 熊猫 08/2/26(火) 22:49 [添付]
[5328]渡船口 熊猫 08/2/26(火) 0:46 [添付]
[5329]花紅園 熊猫 08/2/26(火) 1:03 [添付]
[5330]下浮橋 熊猫 08/2/26(火) 1:27 [添付]
[5334]上浮橋 熊猫 08/2/27(水) 8:54 [添付]
[5335]国府路 熊猫 08/2/29(金) 16:31
[5336]糖坊橋 熊猫 08/2/29(金) 21:09 [添付]
[5340]王府巷 熊猫 08/3/7(金) 13:23
[5355]訂正 熊猫 08/3/12(水) 20:58
[5341]馬台街 熊猫 08/3/8(土) 22:50
[5342]銅坊苑 熊猫 08/3/9(日) 20:16
[5343]北祖師庵 熊猫 08/3/9(日) 23:49
[5344]城隍廟 熊猫 08/3/10(月) 0:34
[5348]止馬営 熊猫 08/3/11(火) 1:39
[5353]船坂巷 熊猫 08/3/12(水) 0:50
[5356]成賢街 熊猫 08/3/12(水) 21:53
[5357]転龍巷 熊猫 08/3/13(木) 9:01
[5360]東花園 熊猫 08/3/14(金) 15:52
[5361]七家湾 熊猫 08/3/14(金) 22:38
[5362]小火瓦巷 熊猫 08/3/15(土) 23:37
[5364]西流湾 熊猫 08/3/18(火) 9:06
[5386]新路口 熊猫 08/3/26(水) 1:45
[5391]小心橋 熊猫 08/3/29(土) 16:57
[5448]恵定の証言 熊猫 08/4/23(水) 23:22
[5472]これも消災庵事件では? 熊猫 08/5/4(日) 17:18
[5449]四方城 熊猫 08/4/24(木) 1:23
[5450]正覚寺 熊猫 08/4/25(金) 8:27
[5452]祖灯庵 熊猫 08/4/26(土) 14:31
[5545]Re(1):祖灯庵 熊猫 08/6/4(水) 1:13
[5453]李府街 熊猫 08/4/27(日) 0:30
[5458]Re(1):安全区以外は無人地帯だったか?(城内編) ピッポ 08/5/2(金) 17:52
[5496]Re(2):安全区以外は無人地帯だったか?(城内編) 熊猫 08/5/6(火) 21:28
[5581]普照寺 熊猫 08/7/22(火) 0:27

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[5283]安全区以外は無人地帯だったか...
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 熊猫 E-MAIL  - 08/1/27(日) 13:14 -

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   「安全区以外は無人地帯だったか?」
 これは双塘難民収容所と老人堂の存在により否定することが可能です。
 今回はマニアックな南京ファンから初心者まで充分に楽しんでいただけるスレッドにしたいと思います。
 私の見解としては、南京城内南部地域には安全区に入らなかった市民がいて、城外は当然のこととして城内にも市民がいたことを証明したいと思います。
 とりあえずこのスレッドは、南京城内に限定して論証し安全区外の市民の存在の有無をメインテーマとします。
 皆さんの中には「お初」の資料を見る方や、見落としていた古い資料に気が付いていただければ幸いです。
 
598 hits

[5284]双塘難民収容所
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 熊猫 E-MAIL  - 08/1/27(日) 22:02 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuangtang02.JPG
・サイズ : 206.5KB
  
添付画像【shuangtang02.JPG : 206.5KB】 双塘難民収容所
  双塘にある教会と長老会布教団学校が難民収容所となっており、国際委員会が管理していた安全区とは別に、現在の南京市第十九中学(南京市新淮区双楽園68号)の場所に難民区がありました。今回は出血大サービスで初心者の方にもその位置が分かるように地図を提示しています。地図に記載されている文字とは異なりますが、新字体で「双塘(そうとう)」と書きます。
 難民収容所が存在した資料の出典は『拉貝日記』(江人民出版社)ですが、この双塘難民収容所の記録文書としては1月4日のミルズの調査と1月8日のスマイスの「双塘難民収容所の一日」そして他には「日本軍の暴行記録 第一八六件と一九四件」にも双塘のことが記されています。
 『拉貝日記』(江人民出版社)からの引用は熊猫訳によるものです。
『拉貝日記』1月6日より
教会と長老会伝教団難民収容所
1938年1月4日のミルズ氏の調査による。
組織
 所長:陳羅門(音訳)氏。彼は上海の材木商で、出張で南京に来たが戦争により南京を離れることができなくなった。それから彼が有能な収容所の所長であると証明する。 収容所は安全区外の城内の西南のとても貧しい地区にある(双塘)。
 難民人数:現在は1000人、以前は2000人だった。夜になると大勢の人が収容所に泊まりに来る。この収容所は常に日本兵の略奪にあい、女性は常に強姦に遭う。
 米の分配:収容所の中約3分の2の難民は食事を自分で解決して、残りの難民はビタ一文もなく、非常に貧しい。 1月5日にミルズ氏がこの収容所に3袋の米を提供し、そして2日間ごとに収容所に相応の数量を提供するように極力努める。

『拉貝日記』1月8日より
1938年1月8日
南京寧海路
南京日本大使館御中
福田徳康(熊猫注:篤秦)殿
尊敬する福田殿
 同封した『双塘難民収容所の一日』と題する一つにまとめて編集したものには率直に間違いがないことを表明します。南京の住民は今日今なお日本兵の侮辱と撹乱に耐えています。まとめて編集した報告は24時間内に13回の日本兵が中国の難民地方にやってきて発生した出来事です。
 報告より見ることができるこれらの事件は、日本兵がいつも中国の住民に大きな損害をもたらすものではないが、アメリカ国旗及びアメリカ大使館と日本大使館の告示により明確に表明されたアメリカ財産の管轄区への日本兵の進入は絶対に禁止されるものです。
 あなたが都合よく情況を調べられるよう、私は説明したい。双塘収容所は城内の西南に位置し、アメリカ長老会布教団の財産で、学校と教会といくつかの付属する建築物で構成されています。
 確かな方面よりまた日本兵が暴行した報告がありました。昨日の午後4人の日本兵が1人の中国の女性を連れ去り、彼女を莫愁路と漢中路の十字路付近にある家の中に2時間拘禁した。1人の外国人がこの誘拐事件を知りそして上述の場所に到着した時には、日本兵とこの女性がこの家を離れた後でした。
 上記に類似した事件が更に発生すれば、中国の難民は元の住所に戻ることはあり得ないことを、あなたは承認するしかありません。
 再度私が強く指摘していることを許して下さい、南京が正常な状態を取り戻すのは(私達からそのような告知されるように、日本の当局自身もこのような願望があります)完全に日本の部隊が新たに厳格で効果がある支配する如何によります。
 ご機嫌よろしく。
 あなたの忠実なる
署名 Lewis S.C.Smythe


双塘難民収容所の一日
(1938年1月6日13時50分〜1月7日10時50分)
1月6日
 13:50 3人の日本兵が1人の女性を連れ去り強姦した。
 14:10 1人の日本兵が3人の中国人を力仕事に連れて行った。
 14:30 4人の日本兵が収容所にやってきて、あちこち見て回り20分後に去って行った。
 15:35 3人の日本兵が10人の中国人を力仕事に連れて行った。
 16:10 3人の日本兵が1人の婦人を引っ張って行き表門の外にある収容所の小屋の中で強姦した。
 16:40 2人の日本兵が収容所に姑娘を探しに突入して15分後に立ち去った。
 17:05 3人の日本兵がビルに突入し、そこにある物を物色して20分後に立ち去った。
 18:35 2人の日本兵が2人の難民に彼らがもてあそぶための姑娘を要求したが、その場にいた3人の男子が拒んだので殴られた。
 23:00 3人の日本兵が塀を乗り越えて2人の女性を捕まえて連れ去った。
1月7日
 10:00 1人の日本兵が収容所に入って来て、あちこちと見て回り10分後に去って行った。
 10:15 武器を持った1人の日本兵が姑娘を探しに来たが、願いかなわず立ち去った。
 10:30 3人の日本兵が姑娘を拉致しに来て、拉致はせずに、門番の綿入れの靴を取って自分の古い靴を彼のもとに置いて行った。
 10:50 1人の日本兵がビルの中に入って行きその中の物を物色して10分後に去った。
 ミルズの調査とスマイスの『双塘難民収容所の一日』は多くの方にとって「お初」ではないかと思います。実は『日中戦争史資料9 南京事件II』洞富雄(河出書房新社)を読むとこれらに関連したことが記載されているのです。
『日中戦争史資料9 南京事件II』洞富雄(河出書房新社)より
日本軍の暴行記録
 第一八六件 一月九日午後三時頃、ミルズ師(Rev.Mills)とスミス博士が、雙唐へ出かけた。その辺の様子を見て、市の西南部に住民が帰れる状態かどうか知りたいと思ったのである。そこへ着いたところ、赤ん坊を抱いた一人の婦人が、今しがた三人の日本兵に強姦されたところであった。[スミス、ミルズ]
   *(訳注)徐氏の編書には、末尾に「数日前、雙唐にかんする別の報告がミルズ師によって提出されている」という附記がある。この報告について、徐氏は脚注で「これは入手した文章の中にない」と記している。

 第一九四件 一月十六日午後W・P・ミルズ師(Rev.W.P.Mills)が双塘に出かけたところ、土曜日・日曜日は住民にとって最悪の日で、日本兵がやってきては婦人を強姦するということを知った。ミルズ師はそこにいる間にも二人の日本兵をおいだした。(ミルズは後ほどもっと完全な報告(a)を提出する。)
  (a)これは入手した文書の中にない。
 第一九四件を読んで「あれっ?」と思った人はなかなかの南京事件の研究者です(^^)
 熊猫が原文を勝手に「双塘」と書き換えて表示しました。お手元に洞先生の資料集をお持ちの方は、該当箇所を「双塘」と訂正しておいて下さい。

 南京城内には安全区以外にも、難民収容所がありましたので「安全区以外は無人地帯だった」というのは間違いです。
385 hits

[5285]老人堂
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 熊猫 E-MAIL  - 08/1/30(水) 3:35 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : jianzi00.JPG
・サイズ : 83.8KB
  
添付画像【jianzi00.JPG : 83.8KB】 老人堂
 夏淑琴さんと妹さんが保護された場所として、ご存知の方が多いのではないかと思います。この老人堂は安全区にあったわけではありませんので、「安全区以外は無人地帯であった」というのは間違いであることが解ります。
 老人堂は現在の南京市秦淮区剪子巷46号にありました。ここは今では「南京合意全染紗責任公司」という会社になっています。
 その歴史は1865年(同治四年)に江寧府(現在の南京)の知事だった塗宗瀛が剪子巷にあった崇義堂の建物に200名余りの老婦を収容して老人堂を作ったのが、最初ですからミルズの100年というのは大袈裟かも知れませんが、南京事件の当時から既に歴史ある養老院であったことは間違いではありません。また老人堂の傍には娃娃堂という孤児院がありましたので、日本の一部の書籍で混同されているようです。
 夏淑琴さん姉妹もミルズの報告する30数人の子供に含まれていたのではないかと思います。しかし2人の姉妹が収容された老人堂も決して恵まれた環境ではありませんでした。
 当時の老人堂の状況を知る資料としては、1月2日のミルズの『老人堂に関する報告』しか今のところないようです。以下は熊猫による翻訳です。
『拉貝日記』1月3日より
老人堂に関する報告
 赤十字会代表の提案により、私は1938年1月2日の日曜日の午後、劉さんと霍さんと一緒に城内の東南区にある剪子巷へ行き、そこの養老院を視察しました。私たちが確認のため点検した数は、全部で500人であり、我々が受けた報告と同じでした。これらの老人と共に更に30数人の子供が生活しています。政府が城市から撤退する際に、官員達は養老院に米と石炭を少し残したが、しかしほんの少しの備蓄はほとんど底をついています。もし1日か2日の間に補給しなければ、養老院の居住者は飢えてしまします。彼らにはおおよそ、3日ごとに5袋の米と1ヵ月に7トンの石炭が必要でしょう。彼らの報告によれば、城市当局は養老院にお金を残さず、今尚養老院に責任を負う人はいません。現在見たところ居住者の中から少しばかし能力のある者を1人か2人探し出して養老院の管理責任を負わせる必要があります。

 私は100年近く存在するこの養老院の指導を引き受ける責任を、自治委員会に要請事項として提出することを提案します。
 本来この養老院は市政機構に従属し、以前は市政部門が費用を支出していたので、新しい市政部門が指導責任を引き受けるべきです。
 劉さんは昨日の夜に自治委員会と交渉する準備をしました。彼はもし彼らが責任を負うことを拒絶するならば、すぐに我々に知らせると承諾しました。
 私自身の見解は、市政当局はこの管理業務を引き受けるべきです。しかし、養老院の居住者が苦境に追い込まれないように、いずれにしても素早い行動を取る必要があります。
 この養老院の児童に対しては特別に重視すべきです。父母を失った児童に対しては、特別な配慮を与える規定を定めるべきで、養老院に児童を残すのは適当でない。
署名 W.P.Mills

326 hits

[5286]双塘難民収容所(1)訂正
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 熊猫 E-MAIL  - 08/1/30(水) 3:40 -

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   >現在の南京市第十九中学(南京市新淮区双楽園68号)の場所に難民区がありました。

申し訳どざいません、地名を変換ミスしていました(^^;

  新淮区⇒秦淮区です。
365 hits

[5296]渠劉氏証言
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/5(火) 8:24 -

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    双塘難民収容所が実在した資料とは他に、実際に難民として逃げ込んでいた方の証言があります。注意して読まないと双塘難民収容所のことであることに気付きません。
『南京戦 被害者120人の証言』松岡環(社会評論社)237頁より
渠劉氏(きょりゅうし)の証言
 日本軍がやって来たとき、私は二十二歳でした。水西門近く、南東方向の双楽園に住んでいました。私は既に結婚していて、五歳と三歳の子どもが二人いました。それに二十九歳の夫と、姑の五人が一緒に住んでいました。夫は人力車の仕事をしていました。
 日本軍がやってくることは事前に聞いていましたが、貧乏だし、子どもも小さかったので逃げることはできませんでした。家は小高い丘の高いところにありました。だから西の方にある城壁のこわれたところから日本軍が入ってくるのが見えました。これは大変だと思い、当時双楽園にはアメリカ人の教会がありましたので、貧乏な人はそこに避難しました。先に夫が子どもたちをつれて、続いて私と姑も身の周りのものだけを持って、そこに避難しました。夫は教会に避難した人々の中心になって相談に乗ったりしていました。十二月十三日午後遅く、夫は食べ物を探しに出たところを日本の鬼に見つかり殺されたのです。教会からそう遠くないところです。
 「当時双楽園にはアメリカ人の教会がありました」というのは双塘難民収容所の教会のことです。
352 hits

[5298]胡偉証言
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 熊猫  - 08/2/8(金) 19:05 -

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    胡偉さんは事件当時、玉帯巷24号に住んでいました。この方の証言は玉帯巷には安全区に入らなかった市民がいたことと、双塘難民収容所での様子が解ることです。
『南京戦 被害者120人の証言』松岡環(社会評論社)251頁より
胡偉(こい)の証言
 日本軍が入ってきてから四、五日後のことでした。河の向こうに教会があって、臨時の難民区になっていたのですが、そこに日本兵が入り込んで若い女性を連れ出しました。知り合いの曹さんという十五歳の少女で、難民区から引き出された後、三人の日本兵に輪姦されました。当時、中国では強姦されると貞操を失ったということで家族や本人の面子がなくなり、なかなか結婚できませんでした。結局、彼女は後になってかなり年上の男と結婚しました。
 日本兵が殺戮を始めてから、はじめてそれが日本軍だと知ったのです。いつ殺されるかわからないので、私たちは渡し舟で河向こうの教会に逃げました。その教会は今ではありません。
 松岡環さんの本を読んで双塘難民収容所の存在に気がつくのは、初心者の方には難しいのではないかと思います。取材した著者自身は何も気がつかなかったのでしょうか、2人も双塘難民収容所を証言しているのに勿体ない気がします。

 「河の向こうに教会」と証言していますがこの「河」というのは秦淮河ですね。
354 hits

[5299]玉帯巷
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 熊猫  - 08/2/8(金) 22:16 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuangtang03.JPG
・サイズ : 109.8KB
  
添付画像【shuangtang03.JPG : 109.8KB】  南京城内には安全区を除いて、双塘難民収容所と老人堂がありましたが、そもそも南部地域には大勢の市民が安全区に入らずに生活をしており、この人たちが日本軍の殺戮の被害に遭いました。その最も有名なのが新路口の夏淑琴事件ではないかと思います。
 玉帯巷の状況を胡偉証言より推察することができます。
『南京戦 被害者120人の証言』松岡環(社会評論社)250頁
胡偉(こい)の証言
 彼らはわが家の門の前を通過しました。当時もそれが日本軍だとは知りませんでした、何しろ戦乱の時代でしたから……。当時の習慣に従って、母親はそれが日本軍とも知らず、行軍してきた兵士をねぎらうためにお茶をご馳走しようとしました。日本兵は差し出された湯飲みをたたき落としました。母親はお茶が冷めたからだと思い、再び熱いお茶を入れ直して湯飲みを持って玄関から出て行きました。直後に銃声が聞こえました。父親と私が驚いてそとに駆け出ると、母親が血を流して倒れていました。腹から内臓がはみ出ていました。お腹を撃たれたのです。
 当時、わが家は二十四号でしたが、二十二号の李さんの家も悲惨な状況でした。李さんの父親が軍刀で数か所も斬られて殺されていました。そして四番目の息子も防空壕から体を半分を出したままの状態で殺されていました。あたりには他にも殺された死体が散乱していました。その中に、斬られたけれどもまだ死んでいない隣人の許さんという人がいました。彼の話によると、日本兵は頭に帽子を被った跡のある者はみんなその場で殺したと言っていました。また隣人で卜さんという大工がいましたが、日本兵に服を脱ぐように言われ、それに従って服を脱いだ途端、銃剣で刺し殺されました。
 玉帯巷には胡さんの家族だけでなく、他の市民も安全区に入っていなかったことが解ります。
331 hits

[5300]朱錫生証言
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 熊猫  - 08/2/10(日) 13:59 -

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『この事実を…』加藤実(星雲社)102頁より
朱錫生(しゅしゃくせい)の証言
 民国26年(1937年)には、わたしは二十二歳でした。日本兵が南京に攻めて来て、陰暦の冬月11日に入って来たのでした。入って来る前に、わたしは父と一緒に難民所に行きましたが、そこはそのころ福音堂と呼ばれていた所で、今の十九中学です。
 双塘難民収容所は「福音堂」と呼ばれて、南京陥落時から難民収容所として存在していたことが解ります。
 教会を正式な日本語に訳すとすれば、「アメリカ長老派伝道団教会」とするのが妥当ではないかと思います。
354 hits

[5302]西家大塘
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 熊猫  - 08/2/10(日) 23:24 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : xijia00.JPG
・サイズ : 138.2KB
  
添付画像【xijia00.JPG : 138.2KB】  「城内南部以外は無人だったのか?」と問われれば「それは違う!」と答えるべきでしょう。今回はその事例を提示します。西家大塘という地名や天山路は地図を調べてもなかなか探せない地名です。
 他の地域から孤立した場所にあったせいでしょうか、西家大塘の住民は韓宝如だけでなく他の市民も安全区に入っていなかったことが解ります。

西家大塘
『この事実を……』加藤実(星雲社)68頁より
韓宝如(かんほうじょ)の証言
 1937年に日本軍が南京を占領した時、わたしは老西家大塘十五号に住んでいました。日本兵が入って来た二日目に、わたしは家の戸口で日本軍が銃で男女六人を撃ち殺したのを目撃しました。三日目には天山路で四人日本軍に殺されるのを見ました。1937年の12月中旬に、日本兵が天山路四十三号に泊っていたのを、隣の倪徳秋が好奇心から見に出かけたら、日本軍に一発撃たれ、腸が流れ出て死んでしまいました。その場にいた人が驚いて叫び出したので、日本兵がすぐ驚き叫んだ人に向かって発砲し、隣人の王伯母さんと、施校支さんと、施校賓さんとの三人を撃ち殺しました。わたしはその時家で隠れていて、窓からこの惨状を目にしたのです。

340 hits

[5303]渠劉氏証言(1)訂正
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 熊猫  - 08/2/10(日) 23:41 -

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   >渠劉氏(きょりゅうし)の証言

 申し訳ございません。入力ミスをしています。
 渠劉氏⇒梁劉氏(りょうりゅうし)
376 hits

[5306]小彩霞街
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/12(火) 9:40 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuangtang03(2).JPG
・サイズ : 109.8KB
  
添付画像【shuangtang03(2).JPG : 109.8KB】 小彩霞街 
 玉帯巷の市民が特別というわけではなく、他の地域も安全区に入らなかった市民がいました。今回はその隣の小彩霞街にも市民がいたことを表す証言を提示します。
『この事実を……』加藤実(星雲社)121頁より
伍必毅(ごひつき)の証言
 1937年には、家は昇州路の南側の小彩霞街で、わたしは十八歳でした。その年の12月15日に、我が家の門が叩き壊され、日本軍二人と通訳一人とが闖入して来ました。「みんな皇軍を歓迎するように。もう門を閉めないように」と通訳が言いました。それから、この辺りで軒並みに箱はひつくり返し戸棚は倒しして、家々にあった糧食をみんな探し出し、麻袋を見つけて詰め込み、わたしと馬銀東と伍始経との三人に担がせ、付いて行かせました。門を出て西へ向かい、余り行かない内に、通訳が又わたしたちに斜め向いから人力車を一台引き出して来させ、糧食を車に乗せ、続いて西の方へ牽いて、渡船口に曲がって、一軒一軒から糧食を探し出して来て、わたしたち三人に牽かせ、水西門の方へ行きました。洗いざらい奪い取られた人たちは、涙するだけで、口も利けませんでした。
 家の門を開けたままにしていた証言は知っているのですが、伍必毅証言からするとそれらは日本軍からの命令があったようです。戦時ですので記録に残らない命令もあったのかも知れません。門を閉めると日本軍から酷い目に遭わされるというのは、日本軍の命令が市民に伝わっていなかったのかも知れません。。「もう門を閉めないように」というよな証言は伍必毅証言しか知りませんので、他に該当する資料や証言がないか見つけたら追記します。
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[5307]dou3門橋
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/15(金) 21:04 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuangtang03(3).JPG
・サイズ : 109.8KB
  
添付画像【shuangtang03(3).JPG : 109.8KB】  同じ地図画像を何度も流用して申し訳ございません。最終的には城内の地図の画像1枚にして、該当場所とタイトルに同じ番号を付けるなどの対応をしてメモリー節約の工夫をしたいと思います。
 今回はdou3門橋です。ユニコード文字が表記できるかどうか不安ですので、dou3とピンイン表記しました。dou3は阜偏に旁が「走」です。

苗学標証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)122頁より
苗学標(びょうがくひょう)の証言
 日本兵が入って来た時わたしはdou3門橋の山東会館に住んでいました。12月14日の午前中、わたしは日本兵に捕まって莫愁湖の向かいの許歪頭鴨毛桟の外まで連れて行かれましたが、ふと見ると空き地にもう何百人も捕まって来ていて、日本兵何人かが銃を平らに構えて見張っていました。やがて又日本軍が少し来て、一人一人捕まった人の頭や肩や手や腿などを撫でました。ぺしやくしや話をしながら、撫でた人たちを両側に分けて立たせました。午後の四時過ぎまでずうっとそうやり、選び出した三百人余りを中国兵だと言って、機銃掃射で殺しました。射殺してから、わたしたちこちら側の者たちに死体を沼に投げ込ませました。
 沼に死体を投げ込んだ当事者の貴重な証言です。
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[5308]辺営
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/16(土) 15:32 -

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・名前 : jianzi00(2).JPG
・サイズ : 83.7KB
  
添付画像【jianzi00(2).JPG : 83.7KB】 辺営
 南京事件の市民被害者の多くは、敗残兵狩りの巻添えを除けばその多くは、安全区に入らなかった市民が殺されています。夏淑琴さんの例ではその生存率は15.4%で、本来なら皆殺しにされるところを奇跡的に助かったわけで、城内東南地域の生存率は極めて低いものと思います。

陳橋証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)125-126頁より
陳橋(ちんきょう)の証言
  わたしは日本軍の南京大虐殺の生き残りで証人です。家は旧は南京門東辺営二十一号でした。1937年の12月10日に、国民党の将兵たちが北へ逃げると街沿いに伝わりました。わたしはその時十五歳で、母に付いて難民区へ逃げ、高家酒館安楽里の三階建て家屋の一階の客間(今の高家酒館四十号之一か二)に住まっていました。
 ……中略……
 我が家の隣の奚小翠の父親が、難民区へ行かず、自分の家に住んでいたために、日本軍に銃殺されました。
 陳橋は避難して辺営には居なかったのですから「日本軍に銃殺されました。」というのは伝聞か推論でしょう。しかし安全区以外は無人だったということを否定する根拠としては問題はないでしょう。
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[5309]泥馬巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/16(土) 18:13 -

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・名前 : nima01.JPG
・サイズ : 63.6KB
  
添付画像【nima01.JPG : 63.6KB】 泥馬巷
 私が提示した地図は1936年の『最新南京地図』日新興地学社出版の復刻版で、至誠堂の『最新南京地図』はそのパクリですので、同じ間違いをしています。
 本来泥馬巷と表記されるべき個所が泥馬営と表記されています。他の2種類の地図を調べましたが、どれも泥馬巷と記載されており、朱秀英証言でも泥馬巷となっていますので泥馬巷が正しいと判断して間違いないでしょう。

朱秀英証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)130-131頁より
朱秀英(しゅしゅうえい)の証言
 1937年の12月13日には、わたしは九歳でした。日本兵が入って来た時、母がわたしを連れて泥馬巷十六号、旧の同義公染坊に隠れました。母が寝台の下に隠れたので、わたしもベッドの下に潜ろうとしたら、不意に日本兵が一人わたしの後頭部を掴みあげて、銃剣を抜き、わたしの首に押し付けて殺そうとしたところを、ちょうど一人のお婆さんが見つけ、脆いて命乞いしてくれたので、日本兵はやっとわたしを放ちました。明くる日の午前中に、わたしたち難民区へ行って隠れました。
 叔父は王宏富と言いましたが、日本軍に泥馬巷十六号から笠橋市まで捕まって行って殺害されました。

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[5310]倉巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/16(土) 21:15 -

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・名前 : shuangtang03(4).JPG
・サイズ : 109.8KB
  
添付画像【shuangtang03(4).JPG : 109.8KB】 倉巷
 12月13日にこの地域を掃蕩したのは第六師団です。元兵士たちは自分たちの行為を正当な戦闘行為と証言するが、三歳の弟を抱いた罪のない少年を残忍に切り刻む行為が、はたして正当な戦闘行為であろうか?
 隣接する地域を含めて、安全区以外が無人地帯であったという話が如何に出鱈目であったかかよく分かる。
 
諸鴻宝証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)135頁より
諸鴻宝(しょこうほう)の証言
 1937年に日本軍が入って来た時、わたしは満十五歳で、家は倉巷九十九号でした。わたしたちは大家族でみんなで三十何人もが一緒に住んでいて、母方の祖母と父方の祖母、父と母、叔父や伯父にその子や孫とたくさんでした。
 日本軍が入って来てから、焼き殺し犯し掠めと、為さざる悪事はありませんでした。行った所はどこも一面の火の海となりました。街には死体がごちゃごちゃに転がり、血痕がそこかしこでした。日本軍は中国人を粗末な草と見なし、ほしいままに殺戮しました。12月13日に、日本軍は通りを抜け横丁を縫って大掃蕩を展開し、わたしたちが門を閉めていても、門の外の騒々しい日本軍の喚き声やら革靴の音やらが聞こえていました。突然、我が家の門が蹴り開けられ、日本軍の何人かが闖入して来て、猛々しくわたしに向かって来、わたしはその時三歳の弟を抱いて部屋に座っていたのですが、日本軍の一人が有無を言わせず、刀を揮って、わたしの頭部をやたらと斬り付け、七太刀か八太刀でしたが、わたしの被っていた綿の帽子が斬り刻まれ、途端に頭から血がどくどく流れ、ぎりぎり突き刺すような痛みを感じたと思ったら、目の前が真っ暗になってひっくり返り、あっと言う間に眼が眩んで、人事不省になってしまいました。小さい弟が脇に放り出されたのは分かっていて、それからは何も分からなかったのです。日本軍が行ってしまってから、母が寝台の下から出て来て、わたしが血溜りの中に倒れているのを見、もう少しで気絶するところでした。

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[5311]五福巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/16(土) 23:51 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : wufu00.JPG
・サイズ : 58.6KB
  
添付画像【wufu00.JPG : 58.6KB】 五福巷
 提示した地図は五福街となっていますが、この場所は五福巷です。現在も五福巷という地名は残っており、そこには南京赤十字病院があります。通済門よりその場所を確認できるのではないかと思います。

周興前証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)138頁より
周興前(しゅうこうぜん)の証言
 1937年には、家は五福巷三十四号で、父は周qi2栄といいました。日本軍が南京を占領した時、父は年老いて難を避けには家を離れたがりませんでした。日本軍が家に闖入し、老人を捕まえ、ホアクーニャンをと要求し、いないと言うと、日本軍は銃を振り上げて老人を虐殺したのです。老人は死んでからも目が大きく見開かれ、閉じられませんでした。
 「家を離れたがりませんでした。」なぜ安全区に入らなかったのかという疑問を出す人がいますが、それぞれの人にその人数分の理由があると思います。案外その理由は単純だったのかも知れません。
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[5312]箍桶巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/17(日) 20:43 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sinro02(2).JPG
・サイズ : 88.1KB
  
添付画像【sinro02(2).JPG : 88.1KB】 箍桶巷
 箍桶巷というのは広範な範囲で、その蔡家苑という場所は新路口と隣接した場所にあり、夏淑琴さんの家とは100m以内の距離です。汪玉華証言は夏淑琴事件と殆ど同時刻に同じ地域で発生した事件であり、同じ部隊による犯行である可能性が極めて高い事件です。

汪玉華証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)171頁より
汪玉華(おうぎょくか)の証言
 1937年は、家は南京の箍桶巷蔡家院で、一家五人、父と母とわたしたち兄妹三人でした。年の暮れのある日、家中で朝ご飯を食べていたら、急に戸の外で、日本兵が来たぞ!と誰かが叫ぶのが聞こえました。父はわたしたち兄妹三人を連れてご飯茶碗を放り出し大急ぎで近くのある建物の防空壕に隠れ、母さんはお婆さんの家まで走って行きました。日本軍はわたしたちの処まで捜査に来て、防空壕に隠れていた二十人余りを全部引っ張り出し、強いて地に跪かせました。その時わたしはやっと七歳で、他の子供何人かと塀の隅で跪き、恐くてずっと震えていました。おとなの人たちが跪こうとしないと、日本兵はその人たちを地に押し倒し、銃剣で体をやたらと突っつき、結局二十人近くが突っつき殺されたり傷つけられたりしました。父の汪泰洪は日本兵に銃剣で活きたまま突っつき殺されました。日本兵が行ってしまってから、わたしと兄と妹とは傷を受けた隣の人に難民区まで連れられて伯母さんに引き渡されました。後になって、伯母さんがお婆さんを見に家に帰って、はじめて分かったのが、母さんがお婆さんの家に行く道で既に日本兵に殺されてしまったことと、お婆さんも家で日本兵に殺害されたことでした。
 「箍桶巷蔡家院」となっていますが実際には蔡家院ではなく蔡家苑であったと思います。
 「院」も「苑」も中国語では全く同じ発音で[yuan4]となり、汪玉華の証言を聞き取りした周氏の記載ミスと思われます。
 新路口と蔡家苑の掲載された地図は、以前この掲示板で提示していますので再確認をお願いいたします。
http://t-t-japan.com/bbs2/data/sikousakugo/file/sinro03.JPG
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[5313]牽牛巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/18(月) 2:37 -

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・名前 : suoniuxiang00.JPG
・サイズ : 61.3KB
  
添付画像【suoniuxiang00.JPG : 61.3KB】 牽牛巷
 殺されるか殺されないかは、兵士によって随分と異なるようです。「日本軍が……」などと一律に判断するのではなく、無造作に市民を殺す兵士もいれば、理性的な兵士もいたということでしょう。

周秀美証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)177頁より
周秀美(しゅうしゅうえい)の証言
 1937年の12月13日に、中国侵略日本軍が南京を占領しました。丁度その日に、父の周保銀が大牽牛巷十七号の中庭の防空壕に隠れていましたが、日本軍に捜査されて見つかり、検査されて疑わしいところが見つからなかったので、父に門の処に日本の旗を掲げさせました。父と弟一人とが自分の家の門口に日本の旗を掲げようとしていたところを、xuan2子巷からやって来た別の日本兵二人に見つかり、発砲されて父と弟とがその場で撃ち殺されてしまい、日本軍が引き上げるのを待って、わたしたち漸く父と弟との死体を片付けたのでした。

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[5314]牽牛巷(1)訂正
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/18(月) 20:46 -

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   >周秀美証言
>周秀美(しゅうしゅうえい)の証言

 申し訳ございません。「周秀美」は間違いで「周秀英」です。
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[5315]長楽街
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/18(月) 21:43 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : suoniuxiang00(2).JPG
・サイズ : 61.3KB
  
添付画像【suoniuxiang00(2).JPG : 61.3KB】 長楽街
『この事実を……』加藤実(星雲社)178頁より
傅永成(ふえいせい)の証言
 1937年の冬には、わたしはもう満十歳でした。わたしは日本軍が中華門から入って来るのをこの眼で見ました。あの時は、お金のある人たちはほとんど逃げて行ってしまい、貧しい人たちや商売をしている小商人たちだけが残っていました。わたしは街で、日本軍が銃で街角で団子を売っていた人を撃ち殺したのを見ましたが、父が銃声を聞いて、わたしを家に呼びかえし、門をしっかり閉めさせたのを、日本軍がその家の門をこじ開け、父の傅寿qi2を街まで引きずって行って銃殺しました。日本革はそれにわたしたちの内庭の査さんと言う男の人を引きずり出して、刀で首を斬り落とし、その母親も息子の殺されたのを見て、日本軍に武者ぶりついて格闘すると、日本軍に脚で蹴り殺されてしまいました。日本軍はわたしも引っ張り出して、ズボンを引きずり下ろすと、男の子だったので、やられないで済むことになりました。わたしたち長楽街では日本軍にみんなで二十人余り殺害されたのですが、日本軍はその死体を集めて来、火を放って焼き捨て、跡形も無く消し去ろうとしたのでした。
 
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[5316]礼拝寺
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/19(火) 21:50 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : nima01(2).JPG
・サイズ : 63.9KB
  
添付画像【nima01(2).JPG : 63.9KB】 礼拝寺
 南京城内の礼拝寺と礼拝寺巷は全く違う場所なので紛らわしいのですが、伍貽才の証言から「内橋」や「白衣庵」という地名が出てきますので、漢西門の傍の礼拝寺巷ではないでしょう。提示した地図には白衣巷と記載されていますが実際の地名は白衣庵が正解です。
 『最新南京地図』は間違いが多いので注意してください。礼拝寺巷も間違えて礼拝寺街と記載されています。
伍貽才証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)186頁より
伍貽才(ごいさい)の証言
 1937年の冬月には、わたしは十三歳でした。日本軍が南京を占領してから、父の伍必成と兄とわたしは礼拝寺に隠れました。父は白衣庵で爺さん五人が日本軍に酷く殴られているのを見掛けましたが、父自身は隠れ切れずに、日本兵に白衣庵で四太刀突っつかれて、その場で死にました。六十歳でした。父の死は、わたしがこの眼で見たものです。家の上の兄ももう少しで日本軍に殺害されるところでした。
 
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[5318]明瓦廊
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/21(木) 1:20 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : mingwalang00.JPG
・サイズ : 108.5KB
  
添付画像【mingwalang00.JPG : 108.5KB】 明瓦廊
 提示した地図では瓦廊となっていますが、この場所が明瓦廊です。

孫啓chen1証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)187頁より
孫啓chen1(おうけいちん)の証言
 わたしは害を受けた者の家族ですが、父の孫瑞feng1は、中国侵略日本軍が南京を占領して大虐殺をした時に害に遭いました。あの時家は明瓦廊十一号で、父は日本軍に銃剣で殺害されたのですが、その地点は明瓦廊七号の門の前でした。同時に日本軍に惨殺されたのが我が家の隣の謝徳源で、やはり日本軍に銃剣で殺されました。

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[5319]伏魔庵
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/21(木) 9:23 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : fumoan.JPG
・サイズ : 85.9KB
  
添付画像【fumoan.JPG : 85.9KB】 伏魔庵
 今回のタイトルは伏魔庵とするべきか、秦状元巷とするべきか悩んだのですが、楊秀華さんは南京陥落時には秦状元巷にいたがその後伏魔庵に避難した方です。
『南京戦 被害者120人の証言』松岡環(社会評論社)241-242頁より
楊秀華(ようしゅうか)の証言
 当時、私は十二歳でした。童養xi2として、親と別れ夫になる人の家に入りました。そこでは十三歳の夫と私、その弟、夫の両親の合計五人で暮らしていました。夫子廟近くの秦状元巷という所に住んでいました。その家は借家で、家主は回族の人でした。家業は義父が人力車引きをして生活を支えていました。
 私が童養xi2としてここに来てから一年くらいして、爆撃もあり日本軍が来ました。
 義父が日本兵に捕まりました。半月後してからようやく戻ってきました。その間、日本兵が強奪したものを運ばされていたと言っていました。
 日本兵が義父を連れ去り私たちは危険を感じて、近所にあるフームー庵という廟のような建物に隠れました。私と義母、弟の三人と近所の人たち十数人がそこに隠れました。そこは家から歩いて十分くらいのところです。ほとんどが少女と老婆でした。食事は家に戻って食べ、再び避難しました。
 夫はある店(焼きそばを作る店)の見習いとしてここにはいませんでしたが、帰ってきませんでした。夫も日本兵に捕まったのです。日本兵に何をやらされていたのか知りません。やはり半月くらいして戻ってきました。
 フームー庵には親戚なども避難していました。難民区に避難した人もいましたが、私たちのような貧乏人は難民区に行かず、適当に近くに隠れました。家主は難民区に避難していました。ある時、そこに日本兵が来ました。
「花姑娘はいるか」と廟の中の隠れている人をのぞき回りました。そこで一人の女性が引っ張り出されました。
 彼女のおなかが大きく膨らみ「私は妊娠しています」と日本兵に身振りで訴えたのですが、日本兵は「関係ない」といってズボンをはぎ取り、みんなが見ている前で強姦したのです。昼間ですよ。日本兵は二人でした。一人がその妊婦を強姦し、もう一人が別のお婆さんを強姦しました。お婆さんは「自分には孫もいる」と抵抗したのですが、お構いなしに強姦されました。


童養xi2:tong2yang3xi2
 将来息子の嫁にするため子供の時から引き取られた女の子。トンヤンシー

フームー庵
 伏魔庵(fu2mo2an1)のこと。通訳と松岡環さんの調査が不十分だったためと思われます。提示した地図にその所在地を表記しています。
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[5320]八宝街
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/22(金) 20:58 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : babaojie00.JPG
・サイズ : 64.7KB
  
添付画像【babaojie00.JPG : 64.7KB】 八宝街
 八宝街とは飛行場の南側の地域です。裕福な人は南京から脱出していたり難民区に避難していたようですが、飛行場に60〜70人集められていたということなので、この地域も全くの無人地帯とは言い難いようです。
『この事実を……』加藤実(星雲社)200頁より
汪玉蘭(おうぎょくらん)の証言
 1937年の12月に日本の侵略軍が南京を攻めた時、家は八宝街十八号でした。その頃人々が逃げたり戻ったりで、お金のある人たちはみんな逃げて行きましたが、家は貧しく行きませんでした。日本軍が入って来た後至る所で人を捕まえ、八宝街一帯に住んでいたラオパーイシンで、凡そ家にいた者は全部日本軍に捕まり明故宮飛行場まで連れて行かれたのですが、わたしたち一家も捕まって行きました。その時捕まったのは六、七十人で、わたしたち一緒に座らされ、周りには機関銃が据えられていました。

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[5321]甘雨巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/22(金) 23:42 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : guanyu00.JPG
・サイズ : 53.6KB
  
添付画像【guanyu00.JPG : 53.6KB】 甘雨巷
 甘雨巷は隣接地域を含め、安全区に入らずに家にいて被害に遭った市民がいたことが解ると思います。
『この事実を……』加藤実(星雲社)225頁より
王桂玲(おうけいれい)の証言
 1937年には、家は甘雨巷六十五号でした。日本軍が南京を占領してからのある日わたしの家に闖入して来て、門を入るなり先ずわたしの四番目の甥を一蹴りしたので、わたしが急いで小さな子を抱きかかえ、夫の金同福は五番目の甥を抱こうとしたのですが、日本兵が夫の左腕を一太刀刺し、夫が裏門の方へ走ろうとしたのを、日本兵がまた腹を一太刀刺したのです。その時家中で跪いて日本軍に赦しを請うたので、日本兵はやっと立ち去りました。

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[5322]pao2馬巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/23(土) 13:50 -

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・名前 : paomahang.JPG
・サイズ : 41.5KB
  
添付画像【paomahang.JPG : 41.5KB】 pao2馬巷
 南京には似たような地名や同じ地名がありますので、初心者の方でなくても勘違いするのではないかと思います。今回はpao2馬巷泥馬巷のことではありませんので、誤解のないようにお願いします(^^)
 同じ城内でも三条巷や四条巷となると、安全区内なのか安全区外なのか悩んでしまいます(^^;
 南京の人々は如何にして区別していたのでしょうか?郵便屋さんは大変だったのではないかと思います。
『この事実を……』加藤実(星雲社)228頁より
李秀芳(りしゅうほう)の証言

 日本軍が南京を占領した時、わたしの家はpao2馬巷でした。日本兵が入って来た三日目に、家に日本兵が何人か闖入して来たのですが、彼らは銃剣を、わたしの胸に着け、夫と息子の小毛とがわたしを守ろうとして、日本兵に続けて三太刀刺され、何日もせずに死んだのです。

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[5323]鳳遊寺
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/23(土) 16:30 -

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・名前 : fengyousi00.JPG
・サイズ : 88.0KB
  
添付画像【fengyousi00.JPG : 88.0KB】 鳳遊寺
 加藤実は鳳遊寺の「遊」を簡体字を使って表記していますが、本来この地名に使われていた文字は「遊」であり日本語に翻訳するのなら「鳳遊寺」と表記するのが妥当であり、以下に提示する張毛氏証言も該当部分は修正して表記しています。
 また本論には関係ありませんが地図中の豆腐巷という地名は間違いで豆腐坊というのが正確な地名です。
『この事実を……』加藤実(星雲社)229頁より
張毛氏(ちょうもうし)の証言
 1937年には家は鳳遊寺で、冬月の11日に日本兵が南京の城壁を乗り越えて来て、人を殺すは人を捕まえるは財物を掠め奪うはで、更にはホアクーニヤンを欲しがり強姦しました。わたしはその時幼い子を二人連れていて、もうちょっとで日本軍に捕まって行くところだったのを、やはり門の中の人が赦しを求めてくれたお陰で助かったのですが、関りになるのを恐れて、わたしたち母子三人を追い立てる人もいました。日本軍がわたしたちを追いかけて来た時、万策尽きて、子供を抱えて水たまりに跳び込んだのですが、日本軍はそれでも放とぅとせず、わたしたちに発砲し、子供一人が撃ち殺され、やがて他の人がわたしを救い上げてくれて、ある家のベッドの下に隠れさせてから、戸に鍵を掛けたので、三日の間水一滴もお腹に入れませんでした。
関りになるのを恐れて、わたしたち母子三人を追い立てる人もいました。
 人間の本性が見えてくる生々しい話ですが、鳳遊寺には張毛氏さんの家族だけでなく他の人々も安全区に入ってなかったことが解ります。
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[5324]後宰門
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/23(土) 22:43 -

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・名前 : hou00.JPG
・サイズ : 109.7KB
  
添付画像【hou00.JPG : 109.7KB】 後宰門
 南京城内の東部地域は市民が少なかったのですが、後宰門地域の様子が解る証言を提示します。
『この事実を……』加藤実(星雲社)237頁より
高史氏(こうしし)の証言
 1937年に家は後宰門で、日本軍が南京に侵入して何日もしないで、家に闖入し、夫の弟とわたしの弟とにホアクーニャンを要求しました。その頃後宰門地区に住んでいた世帯は多くなく、ある者は難民区まで逃げて行っていて、ほとんど人がいないのに、どこからホアクーニャンが来られるんでしょう。日本軍の要求を満足させなかった為に日本軍に発砲され撃ち殺されたのです。
 提示した地図を見て、中山門を建設する際に本来の城門の位置から北に移動していることに気がついた方は、熊猫の酒飲み友達になってください(^^)
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[5325]陳華珍証言
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/24(日) 0:30 -

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   陳華珍証言
『この事実を……』加藤実(星雲社)256頁より
陳華珍(ちんかちん)の証言
 1937年にはわたしの家は水西門の倉巷百号で、冬月に日本軍が攻め込み、家の者は難民区に身を寄せるのが間に合わず、日本軍が我が家に闖入し、叔父に歓迎の旗を掲げるよう命じましたが、言葉が解らなかったので、日本軍は直ちに家の門口で地に円を描き、叔父をその円の中に立たせ、銃で撃ち殺しました。後で遺体は家の者が水西門外へ引きずって行って埋めたのです。

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[5327]観音庵
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/26(火) 0:16 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : guanyinan00.JPG
・サイズ : 58.1KB
  
添付画像【guanyinan00.JPG : 58.1KB】 観音庵
 観音庵というのは城外にもありますので、提示した地図が間違えてる可能性があることを事前に断わっておきます。もっとも下記の内容が城外の観音庵であるならば、南京城壁の周囲は大勢の市民がいたことになり、否定論が嘘であることを証明してくれる有難い内容となります。

 家族であるか近所の住民であるかの違いだけで、李文英と管学才は同じ事件を証言しているのではないかと思います。
『この事実を……』加藤実(星雲社)258頁より
李文英(りぶんえい)の証言
 1937年に日本軍が南京を占領した時、わたしの家は観音庵十二号でした。兄は十六歳で(小さい時の名はチビ犬と言いました)、人の家で見習いをしていたのが、避難しに家に戻って来ていて、家に戻った初めの日に、日本兵の一群がわたしの家に闖入し、母を見て強姦しようとしたので、兄が身を挺して掛かって行き、日本軍の暴虐を阻みました。日本軍は兄を地に押し倒し、兄に向かって一発放ち、兄は一声凄まじく叫んで、その時は傷つき死にませんでしたが、傷はとても重く、治療もできず、ベッドで二日ウンウン唸って恨みを懐き憤然として死んで行きました。明くる日わたしと母とは難民区へ避難しに行ったのです。

『この事実を……』加藤実(星雲社)302頁より
管学才(かんがくさい)の証言
 1937年の12月13日に、日本軍が南京に侵入しましたが、家はあの時観音庵二十九号で、わたしは留守番で難民区には行きませんでした。わたしは日本軍が至る所で人を殺し火を放ち、隣人の許澤霖が、日本軍に発砲され紅土橋で撃ち殺されるのをこの眼で見ました。あの日に日本軍に撃ち殺された人が横死体となって街に満ちましたが、死体を片付けられる人はいませんでした。日本軍が入ってきた明くる日、夜の七時過ぎに、日本兵の一隊が観音庵に闖入してきました。わたしの隣人に小犬(十四歳)とそのお母さん(四十四歳)がいて、日本軍がその家に来た時に小犬のお母さんを強姦しようとし、小犬が走り出てきて阻止したので、日本兵に発砲されその場で撃ち殺されてしまいました。わたしはその時彼の家の斜め向いから何歩も離れていないところにいたのですが、日本兵が恐ろしく残忍で、わたしもそれで救い出しに行かれませんでした。日本軍の暴虐さに就いては、わたしはこの眼で目撃してるのです。
 李文英証言では「チビ犬」そして管学才証言では「小犬」となっていますが、中国語の原文『侵華日軍南京大屠殺 幸存者証言集』朱成山(南京大学出版社)はどちらも同じ「小狗子」となっています。小狗子とは被害者の呼び名であり固有名詞ですから、子犬とかチビ犬とかの翻訳は不適切でそのまま小狗子と訳すべきでしょう。
 年齢が16歳と14歳の違いはありますが、その家族と近所の住民との認識が違うのは何ら不自然なことではないと思います。
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