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[5283]安全区以外は無人地帯だったか?(城内編) 熊猫 08/1/27(日) 13:14
[5284]双塘難民収容所 熊猫 08/1/27(日) 22:02 [添付]
[5286]双塘難民収容所(1)訂正 熊猫 08/1/30(水) 3:40
[5296]渠劉氏証言 熊猫 08/2/5(火) 8:24
[5303]渠劉氏証言(1)訂正 熊猫 08/2/10(日) 23:41
[5298]胡偉証言 熊猫 08/2/8(金) 19:05
[5300]朱錫生証言 熊猫 08/2/10(日) 13:59
[5333]毛徳林(もうとくりん)の証言 熊猫 08/2/27(水) 2:05 [添付]
[5285]老人堂 熊猫 08/1/30(水) 3:35 [添付]
[5299]玉帯巷 熊猫 08/2/8(金) 22:16 [添付]
[5561]玉帯巷22号の李さんの氏名 熊猫 08/6/25(水) 23:23
[5302]西家大塘 熊猫 08/2/10(日) 23:24 [添付]
[5306]小彩霞街 熊猫 08/2/12(火) 9:40 [添付]
[5307]dou3門橋 熊猫 08/2/15(金) 21:04 [添付]
[5308]辺営 熊猫 08/2/16(土) 15:32 [添付]
[5309]泥馬巷 熊猫 08/2/16(土) 18:13 [添付]
[5310]倉巷 熊猫 08/2/16(土) 21:15 [添付]
[5325]陳華珍証言 熊猫 08/2/24(日) 0:30
[5311]五福巷 熊猫 08/2/16(土) 23:51 [添付]
[5312]箍桶巷 熊猫 08/2/17(日) 20:43 [添付]
[5313]牽牛巷 熊猫 08/2/18(月) 2:37 [添付]
[5314]牽牛巷(1)訂正 熊猫 08/2/18(月) 20:46
[5315]長楽街 熊猫 08/2/18(月) 21:43 [添付]
[5316]礼拝寺 熊猫 08/2/19(火) 21:50 [添付]
[5318]明瓦廊 熊猫 08/2/21(木) 1:20 [添付]
[5319]伏魔庵 熊猫 08/2/21(木) 9:23 [添付]
[5320]八宝街 熊猫 08/2/22(金) 20:58 [添付]
[5321]甘雨巷 熊猫 08/2/22(金) 23:42 [添付]
[5322]pao2馬巷 熊猫 08/2/23(土) 13:50 [添付]
[5323]鳳遊寺 熊猫 08/2/23(土) 16:30 [添付]
[5324]後宰門 熊猫 08/2/23(土) 22:43 [添付]
[5327]観音庵 熊猫 08/2/26(火) 0:16 [添付]
[5331]他の観音庵 熊猫 08/2/26(火) 22:49 [添付]
[5328]渡船口 熊猫 08/2/26(火) 0:46 [添付]
[5329]花紅園 熊猫 08/2/26(火) 1:03 [添付]
[5330]下浮橋 熊猫 08/2/26(火) 1:27 [添付]
[5334]上浮橋 熊猫 08/2/27(水) 8:54 [添付]
[5335]国府路 熊猫 08/2/29(金) 16:31
[5336]糖坊橋 熊猫 08/2/29(金) 21:09 [添付]
[5340]王府巷 熊猫 08/3/7(金) 13:23
[5355]訂正 熊猫 08/3/12(水) 20:58
[5341]馬台街 熊猫 08/3/8(土) 22:50
[5342]銅坊苑 熊猫 08/3/9(日) 20:16
[5343]北祖師庵 熊猫 08/3/9(日) 23:49
[5344]城隍廟 熊猫 08/3/10(月) 0:34
[5348]止馬営 熊猫 08/3/11(火) 1:39
[5353]船坂巷 熊猫 08/3/12(水) 0:50
[5356]成賢街 熊猫 08/3/12(水) 21:53
[5357]転龍巷 熊猫 08/3/13(木) 9:01
[5360]東花園 熊猫 08/3/14(金) 15:52
[5361]七家湾 熊猫 08/3/14(金) 22:38
[5362]小火瓦巷 熊猫 08/3/15(土) 23:37
[5364]西流湾 熊猫 08/3/18(火) 9:06
[5386]新路口 熊猫 08/3/26(水) 1:45
[5391]小心橋 熊猫 08/3/29(土) 16:57
[5448]恵定の証言 熊猫 08/4/23(水) 23:22
[5472]これも消災庵事件では? 熊猫 08/5/4(日) 17:18
[5449]四方城 熊猫 08/4/24(木) 1:23
[5450]正覚寺 熊猫 08/4/25(金) 8:27
[5452]祖灯庵 熊猫 08/4/26(土) 14:31
[5545]Re(1):祖灯庵 熊猫 08/6/4(水) 1:13
[5453]李府街 熊猫 08/4/27(日) 0:30
[5458]Re(1):安全区以外は無人地帯だったか?(城内編) ピッポ 08/5/2(金) 17:52
[5496]Re(2):安全区以外は無人地帯だったか?(城内編) 熊猫 08/5/6(火) 21:28
[5581]普照寺 熊猫 08/7/22(火) 0:27

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[5328]渡船口
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/26(火) 0:46 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuangtang03(5).JPG
・サイズ : 110.0KB
  
添付画像【shuangtang03(5).JPG : 110.0KB】 渡船口
 地図に渡船口を記載して提示します。
『この事実を……』加藤実(星雲社)300頁より
方秀英(ほうしゅうえい)の証言
 1937年の12月に日本軍が南京を占領した時、家は渡船口二十三号でした。お隣に姚二子という精神病の人がいて、それに一家は回族で、竹製品の商売をし、玉帯巷に住まっていました。その人たちはその時は自分の家の防空壕に隠れていたのですが、日本軍が戸別に門を敲き、何とその家の爺さんとその息子たち四人とを銃剣で突っつき殺し、病気していた姚二子がその時日本軍にお茶を汲んで行ったら、やはり日本兵に門の処で突っつき殺されました。やがて日本軍は袁という名の車を造る大工の家に来て、老夫婦で若い息子を一人連れてたのですが、日本軍は爺さんを十一太刀突っついてくれ、爺さんは自分で民間の漢方薬を傷口に塗っていて、何年かして死んだのでした。日本軍は家の門の処に屍があるのを見掛けると、我が家の戸は叩きませんでした。その時道を通りかかった和尚さんが、わたしたちに急いで寧海路の難民区に行けと命じたので、わたしたち家中でその夜の内に難民区まで逃げたのでした。
その時道を通りかかった和尚さんが、わたしたちに急いで寧海路の難民区に行けと命じた
 この和尚さんは何者でしょう?
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[5329]花紅園
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/26(火) 1:03 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : huahong00.JPG
・サイズ : 76.5KB
  
添付画像【huahong00.JPG : 76.5KB】 花紅園
 便衣兵と誤認されて殺されたのではなく、日本兵の強姦の妨害をしたとか強姦に協力しなかったという理由で殺された市民が多いのに驚きます。飯沼親分の気持ちが解らんでもない。
『この事実を……』加藤実(星雲社)258頁より
楊淑文(ようしゅくぶん)の証言
 1937年にはわたしの家は珠江路の花紅園でした。1938年の春、兄が皮細工師の技で生計を立てていて、家の前に露店を出して古靴を修理していました。ある日の午前中に、不意に娘さんが一人、兄の目の前を走って行き、すぐ後ろを日本兵が追いかけて来て、兄にホアクーニャンはどこだと聞くので、兄が分からないと言うと、すぐ日本軍に打たれ、打たれた後小営河の岸まで捕まって行き銃殺されました。

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[5330]下浮橋
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/26(火) 1:27 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuiximen00.JPG
・サイズ : 63.1KB
  
添付画像【shuiximen00.JPG : 63.1KB】 下浮橋
『この事実を……』加藤実(星雲社)300頁より
韓淑華(かんしゅくか)の証言
 日本の侵略軍が入ってきた時、わたしは下浮橋に住んでいて、ほんの十二才でした。ある日の午前中わたしは洋橋口で、二十才前後の男子が一人、日本兵に一発撃たれ、弾が胸を貫通したのをこの眼で見ましたが、夕方になり、傷が重すぎて死亡しました。その外に生姜巷で、五十歳余りのお婆さんが一人目本革に強姦されるのを目撃したのです。

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[5331]他の観音庵
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/26(火) 22:49 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : guanyinan01.JPG
・サイズ : 74.3KB
  
添付画像【guanyinan01.JPG : 74.3KB】 観音庵
 城内の観音庵は2ヶ所でした(^^;
 城外を含めると南京市には3ヶ所あったことになります。
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[5333]毛徳林(もうとくりん)の証言
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/27(水) 2:05 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuangtang04.JPG
・サイズ : 125.4KB
  
添付画像【shuangtang04.JPG : 125.4KB】 双塘難民収容所
 双塘とは「二つの池」という意味ではないかと思うのですが、暇な時にでも地名の由来を調べてみたいと思います(^^)
 今回提示した地図により、双楽園という地名が確認できます。中央の「十字」の記号がある場所が教会の建物の場所です。
『この事実を……』加藤実(星雲社)320-321頁より
毛徳林(もうとくりん)の証言
 車が城西の双塘礼拝堂と学校(今の十九中学)に着いて、門から入るや、全地一面の難民で男あり女あり老いたのも幼いのもみんないました。身動きできずに地に横たわっているのもいれば、涙にむせんで声が出ないのも、苦しくうめいて止まないのもいました。生活の面では、飲める水が一口も無く、その他はもう言うに及ばずの状態でした。一人わたしの知っているのがいて、わたしに言うには、老いたのも若いのも鼓楼の難民区に行くのが間に合わなかったのでした。凡そ家に留まっていた人ほ、全部銑殺されてしまい、この礼拝堂に来るしかなく、運を天に任せて、明日またどうなることやら今日は分からなく……みんな涙を流して分かれました。

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[5334]上浮橋
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/27(水) 8:54 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shuangtang03(6).JPG
・サイズ : 110.0KB
  
添付画像【shuangtang03(6).JPG : 110.0KB】 上浮橋
 加藤実の翻訳に「踏みつけにされ」という表現が都度でてきますが、踏まれたわけではなく原文の「zao1ta0」というのは、女性を「犯す」「暴行する」という意味です。
『この事実を……』加藤実(星雲社)325頁より
袁巧仙(えんこうせん)の証言
 わたしは名前を袁巧仙といい、前から上浮橋十一号に住んでいました。日本軍が南京を占領した明くる日のことですが、わたしには李という親戚(姪の夫の父親で、dou3門橋に住んでいた)があり、その老夫婦と息子さんとお嫁さんとの四人が家にいて、自分たちで掘った防空壕に隠れていました。日本軍が来て戸を叩き、李が恐くて、戸を開けるのが少し遅れたら、日本軍にお腹を二太刀突っつかれ、李のその時の凄まじい叫びで、四番目の息子(名前ははっきり覚えていない)が防空壕から走り出て来てみると、父親が地に倒れていて、逃げようとしたのが間に合わずに、日本軍に一太刀突っつかれ、すぐ又一発撃たれて、その場で撃ち殺されました。後に日本軍が民心を安定させ、わたしが李の家のお婆さんを見舞いにdou3門橋まで行ったら、お婆さんがわたしに言うのに、自分自身も四番目の子の嫁も日本軍に踏みつけにされたのでした。

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[5335]国府路
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/29(金) 16:31 -

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   国府路
 「安全区以外は無人地帯だった」というのは具体的に、何時のことをいっているのかが不明確な論法であり、12月13日以降に安全区に避難した市民もいれば、2月以降に安全区から出て行った市民もいます。南京事件の期間中ずっと無人地帯だったというのであれば、明確な事実誤認であり嘘としか言いようがありません。
 長江路というのは南京事件当時は国府路という名前で中山東路の北側を東西に通る道のことです。
『この事実を……』加藤実(星雲社)335頁より
馬桂芳(まけいほう)の証言
 1938年の春節(旧正月)の後、その頃、家は馬長興鴨子店(今の長江路の二番バスの停留所の向かい)をしていましたが、店の隣が良園菜館で、日本軍が毎日やって来て食い飲みしていました。確か2月のある日の晩七時か八時に、日本軍の一人が酒に酔って、菜館から出て行き、気が狂ったみたいに人をむやみに撲り、我が家の鴨子店のガラスも打ち壊してしまいました。 

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[5336]糖坊橋
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 熊猫 E-MAIL  - 08/2/29(金) 21:09 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : tangfangqiao00.JPG
・サイズ : 91.9KB
  
添付画像【tangfangqiao00.JPG : 91.9KB】 糖坊橋
『この事実を……』加藤実(星雲社)366頁より
張遠華(ちょうえんか)の証言
 1937年には伯母さんの張杜氏は六十歳余りで、家は糖坊橋六号でした。日本軍が入って来た三日目に、伯母さんは日本兵に強姦されてから部屋で撃ち殺され、下半身に着けていた物を全部剥ぎ取られました。従兄の張遠税(十八歳で、半ば口が利けない)も、家の戸口で撃ち殺され、屍は紅十字会が引きずって行き、小粉橋に埋めました。

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[5340]王府巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/7(金) 13:23 -

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   王府巷
 地図の提示が難しくなっているようですので、諦めますがわざわざ表示しなくても南京の地図をお持ちの方であれば探すのは容易な場所だと思います。双塘難民収容所の東側で、船板巷の西側の場所です。
『この事実を……』加藤実(星雲社)401頁より
左潤徳(さじゅんとく)の証言
 1937年には家は王府巷で、そこは人家が三百軒足らずしかない粗末な小屋架けの地区でした。家はとても貧しく、一家五人(父と母と妹二人とわたし)で、父が人力車を引くのとわたしがボロを拾うのとで暮らしていました。
 日本の軍隊が南京を占領した時、わたしは十七歳でした。12月のある日、日本兵がその辺一帯でわたしたち七、八人を捕まえて行き、綿入れの上着を脱げと強制し、「磨坊」と呼ばれていた中庭に追い立てて行き、一列に跪かせました。わたしは隣の一人と一緒に跪いていたのですが、日本兵が銃剣の先っぽで人を突つき始めたので、逃げなければ大変だと見て取り、腕で隣を一押しするなり、二人で突如立ち上がり、ぱあっと逃げ出しました。日本兵が銃剣を平らに両手で突き出すようにしてわたし目掛けて突きかかって来ましたが、わたしが身をかわしたので、銃剣の先が胸の皮膚をかきむしりました。わたしは銃剣の柄を握って、日本兵を地に押し倒し、その隙に乗じて大急ぎで裏門の方へ逃げて行き、日本兵が二発続けて撃ちましたが、弾が逸れ、わたしは逃げ出して来て、九死に一生を得ることができたのでした。

『この事実を……』加藤実(星雲社)402頁より
孫慶有(そんけいよう)の証言
 1937年には、わたしは二十四歳で、家には父と母とわたしたち夫婦がいて、王府巷の中でした。わたしはその頃中古品を集める商売をしていました。日本軍が入ってくる前に、王府巷では一部の人たちが難民区に入っていました。家は貧しいだけに捨て難く、難民区へは行きませんでした。

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[5341]馬台街
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/8(土) 22:50 -

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   馬台街
 馬台街とは首都飯店の東側にある地域で、当然のことですが安全区ではありません。資料に誤記や誤植があるのは仕方のないことで、そのことで資料価値が下がるということはありません。洞富雄先生は馬台街のことを馬秦街と間違えています。
『日中戦争資料集9南京事件II』洞富雄(河出書房新社)107-108頁より
日本軍の暴行記録 第六六件
 十二月十九日(安全区外であるが管理者の目撃したもの)。昨日私が受けた報告によれば、アメリカ大使館付三等書記官ダグラス・ジェンキンズ氏(Mr.Douglas Jenkins)の居宅が略奪を受け、用務員一名が殺された。今日正午、私は馬秦街二九号にある上述の場所を調査したが、陳述のとおりであった。屋内はまったく混乱しており、用務員室の一つに先ほどの用務員の死体があった。他の用務員は逃亡してしまったので、現在そこには誰もいない。〔フィッチ〕

第六六件の原文
 On December 19 (outside Zone but observed by Director). Yesterday it was reported to me that the residence of Mr. Douglas Jenkins, Jr., Third Secretary of the U.S.A. Embassy, had been looted and one of the servants on the place killed. Today at noon I inspected the place, which is at 29 Ma Tai Chieh, and found it as stated. The house was in utter confusion, and the corpse of the servant was in one of the servants rooms. The other servants had fled, so there is no one on the place now.
 中国語の秦[qing2]はtaiとは発音しません、台[tai2]が正しいが解っていただけるかと思います。関連書籍をお持ちの方は訂正することをお勧めします。
336 hits

[5342]銅坊苑
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/9(日) 20:16 -

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   銅坊苑

 通常掲示板で、一つのスレに1人で40回連続投稿をした場合、掲示板としての性格は完全に機能していないと思われます(^^)「試行錯誤」の新記録を更新したのではないかと思います。
『この事実を……』加藤実(星雲社)108頁より
馬金義(まきんぎ)の証言
 日本軍が南京を占領した時、わたしは二十九歳で、妻と銅坊苑五号に住んでいました。わたしは夫子廟のある食べ物屋で料理人をしていました。
 1937年12月16日の午前九時過ぎに、わたしが中庭に立っていた時、門を猛烈に叩くのがいて、鍾という隣人が門を開けると、頬に髭をいっぱい生やした日本兵が一人入って来て、自転車を一台押し、刀を体に掛けていましたが、様子からして下級将校でした。わたしを手招きし、自分に付いて来るようにとの素振りなので、わたしは付いて出て行くしかありませんでした。道々通りの両側とも火が盛んに燃えているのしか見えないみたいで、日本軍が勝手に火を放ち焼き捲くっているのでした。わたしが付いて行き三坊巷の前の電報局の所まで行くと、門に「清水大隊」という札が懸かっていました。門を入ると日本兵がわたしを指し「中国兵だ」と言いました。すると日本兵が四、五人かかって来て手で殴るやら脚で蹴るやら、着ていた綿入れを引き破るやらし、黒い布で目隠しをして、「スーラスーラトイ」と言いました。わたしの腰のベルトを外して首に巻き、二人が片方ずつ持って、同時に力を入れて引っ張り、わたしが気を失うと、少し緩め、気が付くと、また力を込めて引っ張りました。そんな風に締めたり緩めたりして、わたしを何回か目が眩で分からなくさせたのです。

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[5343]北祖師庵
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/9(日) 23:49 -

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   北祖師庵
 地図に掲載されていない場所を捜し出すのは結構時間を要する作業なのです。北祖師庵というのは獅子山の南にあるのですが、皆さんの地図には掲載されていないと思います。
http://cid-aa8f425dc0b407f7.spaces.live.com/default.aspx
『この事実を……』加藤実(星雲社)117頁より
孫玉泉(そんぎょくせん)の証言
 わたしはもともと孫景波という名前でした。1937年の12月、日本の軍隊が南京を占領した三日目に、家中で北祖師庵から逃げて陰陽営に避難しましたが、わたしは日本兵に捕まりました。その時わたしと一緒に捕まって行った人がたくさんいました。様子からしてわたしたちをどこかへ連れて行って集団銃殺しようというのでした。わたしは付いて歩きながら、どうやって逃げ出そうかと胸算用していました。玉泉路まで来た時に、咄嗟に閃いて、日本軍がぼやっとしていた隙に、危険を冒して隊列から抜け出し、近くの横丁を近道して飛ぶように走り、とうとう幸いにも逃げ出すことが出来ました。
わたしはもともと孫景波という名前でした。
 なんと申しましょうか、途中で名前を変えるという習慣は理解しがたいのですが、玉泉路で逃げることに成功したから孫玉泉にしたそうです。夏淑琴さんの妹さんも途中で名前を変えていますので、中国の方にとっては特別に珍しいことではないようです。
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[5344]城隍廟
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/10(月) 0:34 -

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   城隍廟
http://cid-aa8f425dc0b407f7.spaces.live.com/default.aspx
『この事実を……』加藤実(星雲社)387頁より
李生源(りせいげん)の証言
 1937年の冬月には、家は城隍廟の後ろで、日本軍が入って来てからも難を逃れませんでした。冬月の末に、日本兵に捕まって行き、日本のある将校の所で湯を沸かさせられました。一度、その将校がわたしに質屋へ連れて行かせ、文物や金塊などを探して、好いのが見つかると、持って行ってしまいました。わたしはその将校が府西街から内橋までの間だけで、前後して四人殺したのを見掛けました。
 何日かして、日本軍は砂珠巷に住んで豆腐屋をしていた陸お爺さんを、半殺しになるほど殴り付け、放って家に帰らせた四日目に死んでしまいました。

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[5348]止馬営
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/11(火) 1:39 -

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止馬営
 地図は証言にあった西止馬営の場所を止馬営として表記しています。1937年当時は西止馬営という地名はなく広範な範囲が止馬営という地名だったはずです。そして温志才さんは現在の地名で証言をしたのではないかと思います。
『この事実を……』加藤実(星雲社)260頁より
温志才(おんしさい)の証言
 中国侵略日本軍が南京を占領した時、兄は西止馬営百五十号に住んでいました。1937年の12月18日に、兄が街で野菜を買っていたのを、日本軍に捕まって行き下関の江辺まで連行されて、機関銑で掃射され、その場で撃ち殺されたのですが、同時に捕まったのには姉の夫もいて、やはり下関で日本軍に機関銃で掃射されて死にました。

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[5353]船坂巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/12(水) 0:50 -

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船坂巷
 一九八二年八月八日付『南京日報』の記事を紹介します。これは母親を殺された李伯潜さんの証言が記事になったものです。
『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会(青木書店)96-97頁より
血の海の深き恨みは永久に忘れず
   ---六六歳の老人李伯潜みずから語る---

 わが家は船坂巷一八号で暮らしていた。一九三七年十二月十二日、日本軍が南京城を攻略占領した。十三日午前十時、一人の日本兵がわが家の表門を蹴破り、黒白分別なく、わたしの六〇歳になる父を強引に新橋十字路まで引きずっていった。一挺の機関銃が父や付近の人々が集められた所に設置されており、その銃を前にして日本兵が血まなこの限をギラギラと光らせながら、行ったり来たりして見回し、この人の群れに兵士をしている者がないと認定すると、やっとかれらを放して家に帰させた。
 父が連れ去られたあと、母ほ報せを聞いてかど口にかけつけ、頭を出してあたりの動静を見ようとしたその矢先に、一人の日本兵に発見され、中国兵を探しに一緒についてくるよう、銃剣で迫られた。母はてん足の年寄りではあったが、愛国の大義を深く理解していたので、ただちにきびしい言葉で撥ねつけた。まったく良心を失った日寇はわたしの母の腹に向かって発砲し、振り向きもせずに去っていった。

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[5355]訂正
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/12(水) 20:58 -

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   王府巷
双塘難民収容所の東側で、船板巷の西側の場所です。
 これは明らかに私の間違いで、証言には衛生局での放火による火災の件がありますので、朝天宮のある場所の王府巷が正しい場所です。お詫びと訂正をいたします。
衛生局の火災に伴う日本軍の虐殺行為は別途、スレをたてて検証したいと思います。

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[5356]成賢街
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/12(水) 21:53 -

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   成賢街
 もともと成賢街の住民というわけではないのですが、安全区ではなく成賢街に避難した市民の事例があります。一九八二年八月六日付『南京日報』に魏延坤さんの証言がありますので提示します。
『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会(青木書店)101-102頁より
一九三七年冬某日の目撃記
  ---五老村街道の住民魏延坤---

 わたしは人事を絶する惨劇である南京大虐殺の幸運な生存者であり生き証人のひとりである。一九三七年の冬のある日、ドンドンと砲声がする中、日本侵略軍が南京城に乱入した。わたしと両親とは住まいの頭条巷一八号から、大急ぎで成賢街のまだ竣工していない高層家屋の地下室に移って、そこに身を隠した。そこにはすでに三、四十人が身を隠していたが、誰も大気を吸おうとする者はいなかった。揚げ豆腐を作っているある中年の人が軽率にも穴倉の入口から外を見渡したところ、まずいことに日寇〔日本侵略者〕に見つかり、一発で射殺された。ほどなくして、数人の日寇がやって来て、銃剣で地下室の中の人を一人ずつ外に出るよう迫った。このまさに危急の時に、わたしは壁際にある排煙窓のところに、まだ口を塞いでいない小さな穴があるのを突然発見し、その中に潜り込んだ。続いて、外で一陣の銃声がするのを聞いた。わたしの父と母、それにその他の三、四十人の人々はこのようにして残虐非道な日本兵によって銃殺された。


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[5357]転龍巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/13(木) 9:01 -

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   転龍巷
 夏淑琴さんの事件では奇跡的に2人の少女が助かりましたが、近所に住んでいた路洪才さんの家族は皆殺されました。証言では転龍車となっていますがこれは笠原十九司氏と君島和彦氏の聞き取りミスで正確には転龍巷という地名です。転龍巷という地名は南京事件よりも古い時期の地図に掲載されていますし、現在もこの地名はそのまま残っています。
『南京大虐殺の現場へ』洞富雄/藤原彰/本多勝一(朝日新聞社)224-225頁より
路洪才さんの証言
 路洪才さんは南京事件当時六歳。家族は両親、祖母、母方の祖父母、母方の叔父三人、四歳の妹と路さんの一〇人家族で、このうち叔父の二人は路さんより小さい三歳と一歳だった。当時路さんの家は雨花門の近くの転龍車(城内)にあり、掃除道具のはたきと羽根の扇子を作っていた。現在は南京市のテレビ放送局に勤務し宣伝所長を務めている。事件当時、路さんは六歳で小さかったが、家族を殺され、父親とともに虐殺を目撃し、家の前の死体の山を見たことなどは強烈な印象として良く記憶していると言う。以下、路さんの証言を紹介しょう。(聞き手=笠原十九司・君島和彦)
 一九三七年の冬、南京はとても寒かった。日本軍に南京が占領される前から空襲があり、市民は南京を守ることはできないと思い、親戚や友人を頼って避難していた。南京市には東の方から多くの避難民(多くは農民)が逃げて来た。この避難民から日本軍の残酷なことを聞き、路さんの家族は相談して、中国の古い伝統的な男尊女卑の考え方に従って、父と一六歳の一番上の叔父と路さんの男三人だけが逃げることになった。しかし、残り七人は避難しなかった。その理由は、貧しい家族にとって大切な財産である二間ほどの小さな家を守らなければならないこと、母(三〇歳)は臨月で赤ん坊が産まれそうなこと、それに祖母と母方の祖父母は高齢なうえ、妹と二人の叔父は小さくて動きがとれなかったことだ。南京市内の難民区は知っていたが、そこを安全だと信じる人もいたが信じない人もいた。自分の家が一番安全だと思っている人もいた。また、どの家でも一人か二人の婦人が残って財産や逃げられない老人を守っていたのだった。
 日本兵が入城する前、路さんら三人は、江東門外の、現在、南京大虐殺紀念館が建っているあたりの濠にあった盧葦の島に六、七人の人と一緒に隠れた。そこまで来る途中で見た難民は背に荷物を背負ったり、家具などをてんびんで担いでいた。路さんの父親も二つの篭をてんびんにして、前には鍋などをいれ、後ろには布団をいれていて、路さんが疲れるとその篭に入れて運んでくれた。その避難行は夜間だったが、死体の転がっているのがわかった。



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[5360]東花園
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/14(金) 15:52 -

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東花園
 現在は東花園という地名は武定門北巷となっています。この武定門北巷の白鷺洲公園の北側一帯が、事件当時は東花園でした。彭玉珍さんはともかく何龍祥さんの告発は、当時2歳のはずですので家族か誰かの伝聞であり信憑性には疑問がありますが、彭玉珍さんの話からして当時、安全区ではなく東花園に市民がいたということでは、このスレの趣旨からしてさしたる問題はないと思います。むしろ伝聞を含め少しでも情報を集めようとするのが研究家としての資質であり、後から集めた情報を検証するべきでしょう。
 なお『南京大虐殺 日本人への告発』において中国人の苗字と名前の間に空間を開けて記載していますが、これは出版物として非礼な行為であり中国人の氏名を記載する際は文字間をあけずに記載していただきたいものです。
『南京大虐殺 日本人への告発』南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会(東方出版)31-32頁より
告発書

彭玉珍
 日本軍が中国を侵略し、南京に攻め込んだ時、私は南京市東花園十八号に住んでいました。私が家の前の川でおしめを洗っている時、憎き日本兵が城壁の上から歩兵銃で二発撃ってきました。一発目が私の右腿に当たり、二発目は当たりませんでした。
 私は足をひきずって逃げ帰りました。以降、私の右腿はダメになり、後遺症が残り、生活能力を失ったまま、今日に至っています。

何龍祥
 私は、日本侵略軍が南京に入ってきた時、南京市秦准区東花園十七号に住んでいました。父(何心仁)は日本兵によって下関の揚子江岸に連れ去られ、惨殺されました。父は当時二十四歳でした。日本侵略軍は農民である父を国民党軍の兵士と見なしたのです。
 父は故なく日本侵略軍に惨殺され、家と財産が彼らによって焼き尽くされたことを、到底忘れることはできません。

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[5361]七家湾
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/14(金) 22:38 -

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七家湾
『南京大虐殺』徐志耕(外文出版社)229-230頁より
伍貽才(ごいさい)の証言
 わたしは末っ子で、あの時はまだ十二歳でした。三人の兄と母親は難民区に行きまして、六十すぎの父と二人で家に残りました。日本人がよく女を出せとか、タバコを出せとか言ってくるものですから、こわくてたまりませんでした。だから三、四日して、わたしも難民区のほうに行きました。
 そのあと四、五日して、近所の沙じいさんという人が母のところに来て、「おやじさん、日本人に刺し殺されたぞ」と知らせてくれました。わたしたらが家へもどってみると、年とった父が黒いあわせを看たまま、路地の入り口のところに仰向けに横たわっていました。あわせの上にこびりついた血はカチカチに固まっていました。胸を四ヵ所も突かれていました。
 沙じいさんの話によると、日本兵たちは酒を飲んでいたらしいのです。それで父のところに来て「姑娘を出せ」と言ったけど、父は何のことやら言葉がわからないものですから、そしたら日本兵五、六人が父を路地にひきずり出して、銃剣で何回も突いて殺したんです。

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[5362]小火瓦巷
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/15(土) 23:37 -

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小火瓦巷
 小火瓦巷といえば、紅卍字会南京分会のあった場所です。高瑞玉さんの証言では現在そこは学校になっているとのことですので、今の「白下区職業学校(小火瓦巷50号)」かなと思うのですが確認はとれていません。事件当時は安全区の寧海路(国際委員会の斜め前)に拠点を移していたそうですが、高瑞玉さんは小火瓦巷の紅卍字会南京分会に残ったままだったそうです。徐志耕の文章は小説風ですが、これもまたお国柄でしょうか(^^)
『この事実を……』加藤実(星雲社)416頁より
高瑞玉(こうすいぎょく)の証言
 わたしは幼い時から山東で大きくなった、棗荘の者で、抗日戦争の前に軍閥に人夫として捕まって南京に来たのです。南京がまだ陥落しない前に、友達の紹介で、世界紅卍字会の南京分会で仕事していました。あの時の紅卍字会は、小火瓦巷に分会が一つあり、場所はわたしの住んでいた付近ですが、下関にも分会があって、今は区房管所の建物です。日本兵が入ってくる前は、卍字会は専ら救済物資の配布などのような慈善的なことをやっていました。日本軍が入って来てからは、街串が屍体で、どれもが殺害された同胞でした。卍字会は屍体の収集と屍体の埋葬とを組織しました。その時は班が二つあって、一つの班が集めるのに責任を持ち、一つの班が埋めるのに責任を持ちました。わたしは屍を埋める班の班長で、その班はみんなで九十九人でした。屍を埋める地点は主として雨花台の両側で、憲兵運動場でした。

『南京大虐殺』徐志耕(外文出版社)376-377頁より
紅まんじ会
 高瑞玉が菩薩像の前で香を上げ額づいているところに人が知らせに来た。
 「陶会長が用事があるといって来ておられますが」
 「何事だ?」
 「死体を埋めることだそうです」
 自治会長の陶錫山は紅まんじ会の人に日本軍の命令を伝達したあと、高瑞玉に言った。
 「できるだけたくさん人を集めて急いで埋めてほしい。メリケン粉二千袋を支給するから、三叉河の精粉工場に受け取りに行くように」
 高瑞玉は山東から流れてきて南京におちついた人で、生活のため、死体嘩葬の仕事をひきうけることになった。彷は小火瓦巷の紅まんじ会の中に住人でいる。ここは金持らの寄進した奥行六つの庭をもつ大きな邸宅で、主堂の中央ほは関公と観音、弥勅の二菩薩がまつってあった。彼はここで毎日香を焚き拝礼をおこなっていた。十二月十三日の日本軍入城の時、ほかの紅まんじ会の人々はみな難民区に避難したが、彼は残った。「菩薩のおられる所にわたしも残ります。わたしが行ってしまったら菩薩のお世話をする者がいなくなります。善行をしておればなにも危いことはありません。菩薩のご加護があります」
 日本兵が紅まんじ会に踏みこんだ。彼は仏像の前にひぎまずき香を上げた。すると五、六人の日本兵が彼にならってひぎまずくと、一斉に額づいて拝みはじめた。彼が無事だったことを知って、付近の老若男女も紅まんじ会に避難してくるようになり、数十人にもなっていた。
 高瑞玉はこの数十人の人々を集めて言った。
 「紅まんじ会の仕事ができたぞ。みんなわたしと死体を埋めに行くんだ。食べる物、住む所、それと毎月銀貨で六元だ」
 彼は三、四十人を募った。隊長は欧陽都麟で、やせて八字ひげを伸ばした五十すぎの老人である。高瑞玉の紅まんじ会とのつながりで、弟の高瑞峰も金陵大学難民収容所の粥配給所の係員になっていた。ひしゃく一杯の粥が銅銭二枚である。金のない者にも与えた。紅まんじ会は慈善団体で、苦しむ人を救う団体である。高瑞峰は粥を配りながら、宣伝もした。
 「紅まんじ会で死体を埋める仕事をしないか。食糧と労賃がもらえるぞ。だれか行く者はないか」

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[5364]西流湾
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/18(火) 9:06 -

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西流湾
 西流湾とは首都飯店と馬台街の間にある地域です。現在は広範な範囲を西流湾といっていますが、1937年当時は中山北路の北側の地域のみでしたので、蔡永奎の証言は安全区の外での出来事になります。
『この事実を……』加藤実142-143頁より
蔡永奎(さいえいけい)の証言
 1937年の12月には家は西流湾十七号でした。日本軍が南京を占領した二日目に、捜査し逮捕するのに家に来て、わたしを見つけましたが、大急ぎで外にあった「ゴム輪の人力車」の列の中に身を隠したので、日本兵は長いこと探してどうにも見つからず、わたしはやっと運良く逃げられました。午後五時に、たくさんの人が駆り立てられ中山北路を通って下関まで行くがやがや騒がしい声が聞こえましたが、この人たちはみんな下関まで連行されて虐殺されたのです。
 やがて寧海路の難民キャンプに避難しましたが、中山服を着た青年が一人撃ち殺されたのをこの眼で見ました。

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[5386]新路口
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/26(水) 1:45 -

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   新路口
 新路口5号の夏淑琴さんの事件はK−Kさんとゆうさんがまとめていますので、今更私が提示する必要はないでしょう。
■K−KさんのURL
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/
http://wiki.livedoor.jp/kknanking/d/¿·Ï©¸ý»ö·ï
■ゆうさんのURL
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/kashukukinsapio.html
http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/tetteikenshou.html

夏淑琴さんの家族構成
祖父:聶佑成  祖母:聶陳氏
父親:夏庭恩  母親:夏聶氏
長女:夏淑蘭  二女:夏淑芳
三女:夏淑琴  四女:夏淑雲
五女:夏淑芬

新路口の地図
 亜細亜大学の某教授の著書を読む限り、新路口の場所を誤解しているようなので地図を再提示します。



新路口で起こった事件
『南京事件資料集 2中国関係資料編』青木書店 318-326頁より
82谷壽夫戟犯事件判決書付属文献の個別虐殺部分に関する統計抜粋
十三日、市民夏聶夫人、新路口五号にて刺し殺される。【323頁】
十三日、市民夏淑芬、新路口五号にて刺されて死ぬ。【323頁】
十三日、市民夏淑蘭、新路口にて刺し殺される。【323頁】
十三日、物売り夏小六子、新路口五号にて射殺される。【324頁】
十三日、銀細工職人聶佑成、新路口五号にて射殺される。【324頁】
十三日、平民聶陳夫人、新路口五号にて刺し殺される。【324頁】
十四日、商人衛永和、門東の新路口一一号にて射殺される。【318頁】
十五日、市民潘承立、新路口の井戸の近くにて射殺される。【326頁】

『中国側史料 日本の中国侵略』明石書店 67頁より
二六年旧暦一一月一二日 新路口一一号 衛炳kun1(こん)を射殺した。
 12月14日に新路口11号で衛永和と衛炳kun1(こん)が殺害されています。2人とも同じ名字ですので親族ではないかと思います。夏さんの家族が特別ということではなく、回族の大家さんの家族や衛さんの家も安全区ではなく新路口に残っていました。
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[5391]小心橋
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 熊猫 E-MAIL  - 08/3/29(土) 16:57 -

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   <b>小心橋</b>
 小心橋とは夏淑琴さんの家族が殺された新路口の東側の地域です。隣接する地域の市民が安全区に行ってないのに、新路口だけが無人地帯であったとは非常に考え難い話です。
『南京事件資料集 2中国関係資料編』南京事件調査研究会(青木書店)313-325頁より
82谷壽夫戦犯事件判決書付属文献の個別虐殺部分に関する統計抜粋
十五日、市民胡兆明・胡兆林、小心橋三二号にて射殺される。【313頁】
十三日、市民×××、小心橋にて、歩兵銃で撃たれて死ぬ。【314頁】
十三日、市民李■基、小心橋三四号にて殺される。【315頁】
十四日、市民石厚英、小心橋の家にて刀で背中を刺されて死ぬ。【315頁】
十八日、苦力王鳳鳴、小心橋にて射殺される。【325頁】
 「82谷壽夫戦犯事件判決書付属文献の個別虐殺部分に関する統計抜粋」を読むと消災庵事件が省略されています。私達が記録として知っているのは氷山の一角であり、大勢の人々が安全区に入らずに紅卍字会が埋葬した死体の一人になってしまったと考えるのが妥当だと思います。

消災庵事件
『南京大虐殺』徐志耕(外文出版社)430-432頁より
 中華門外雨花路第十一区公所内に設けられた臨時法廷では、声を張り上げ胸を打ち涙する人々がいた。千人以上の証人が谷寿夫部隊のおこなった放火、殺人、強姦、略奪の罪行、四百五十九件について証言した。
 わたしは国家資料館のおびただしいファイルの中から、一九四七年一月二十七、二十八の両日におこなわれた中華門付近の被害者計百九十六名の証人に対する尋問記録をさがしだした。この四十年間ほこり閉じこめられていたファイルの記録はわが民族の苦難の歴史の中のほんの一滴を示しているにすぎない。各証人の押した一つ一つの指紋はいまもはっきりと赤い印肉の跡を残している。
 以下にそのうちの数人の証言を写しておこう。
裁判官―――宋書同
書記宮―――丁象庵
民国三十六年一月二十八日午前
証人恵定入廷。
姓名・本籍・年齢・住所確認。
答「恵定、女性、本籍地揚州、四十一歳、住所小心橋三十八号、尼僧、消災庵住持」
問「南京陥落時、あなたの庵で被害にあった人はいますか」
答「民国二十六年(旧暦)十一月十一日(陽暦十二月十三日)午後二時、小心橋の消災庵裏門に八人の日本兵がやってきて、地下壕内の八人を殺しました」
問「その八人の名前はわかりますか」
答「呉という苗字の人が二人、卓という苗字の人が一人、それからわたしの師父の真行と弟子の登元、登高がいました」
問「どうやって殺したのですか」
答「銃剣で突いたのです」
問「全員銃剣で殺されたのですか」
答「師父は銃弾で死にました」
問「どの部隊だったかわかりますか」
答「中華門から入城した部隊です」
問「あなたはやられなかったのですか」
答「わたしは銃で撃たれて傷を負いました。鼓楼医院に十一ヵ月入院して、いまでまだ完全に回復してはおりません」
問「あなたの証言は事実ですね」
答「われわれ仏につかえる者はうそは申しません。当時わたし自身がこの身で体験したできごとです」

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[5448]恵定の証言
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 熊猫 E-MAIL  - 08/4/23(水) 23:22 -

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   >答「呉という苗字の人が二人、卓という苗字の人が一人、それからわたしの師父の真行と弟子の登元、登高がいました」

 消災庵の尼僧の恵定の証言には間違いがあります。南京軍事法廷の判決書の付属文書では、実際に殺されたのは名前の解らない者2名と真行、登元、登高までは問題ありませんが、卓呂同、卓三元、呉朱氏の名前が判明しており、「呉という苗字の人が一人、卓という苗字の人が二人」というのが正しい内容になります。
 南京軍事法廷は目撃者証言について、きちんと調査をしていたことを確認できる事例です。
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[5449]四方城
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 熊猫 E-MAIL  - 08/4/24(木) 1:23 -

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 はい南京の四方城といえば誰もが有名なこの画像を思い起こすのは当然であり、恥ずかしいことではありません(^^)
 しかし、このスレッドは南京城内と限定しており、城外の四方城は関係ありません。また、通済門外の四方城1号の龍華寺の難民が12月13日に30余人殺害されていますが、これもまた南京城外なので対象外となります。
 保国寺、棲霞寺、法雲寺、龍華寺と南京城外の寺には難民たちが避難していましたので、寺院は要チェックですね。

四方城
 だらだらと引っ張りましたが、これからが本論です(^^)
 南京城内にも四方城がありました。場所は雨華門と武定門の間で南東の角地が四方城になります。


 同じ地名が複数あるため、四方城だけでは場所を特定することはできません。
 今回は、間違いなく城内の四方城と特定できるもののみを提示します。
十六日、教員朱美秋、雨花門の四方城にて殺される。
十六日、市民朱孝悦、雨花門の四方城にて殺される。
 「雨華門の」とありますので、間違いなく城内の四方城です。
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[5450]正覚寺
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 熊猫 E-MAIL  - 08/4/25(金) 8:27 -

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   正覚寺

 正覚寺は武定門444号にあり現在は「侵華日軍南京大屠殺正覚寺遭難同胞記念碑」が建てられていますので、その場所の特定は簡単です。
 武定門の傍にある大きな寺院で、17人の僧侶と非難していた市民が殺害された場所です。殺害された市民の人数は分かっていませんが、17人の僧侶については名前まで判明しています。


写真の後方に見えるのが武定門です。記念碑の裏面には殺害された僧侶の名前が刻まれています。

17人の僧侶
 慧北、徳才、寛宏、徳清、道禅、劉和尚、張五、源涼、黄布堂、暁侶、慧huang2、慧光、源悟、能空、倡修、広祥、広善

正覚寺の位置


 17人の僧侶と一緒に殺害された、市民の氏名が全く分からないというわけではなく、一部の市民の氏名は国内の書籍でも確認することができます。
『南京事件資料集 2中国関係資料編』南京事件調査研究会(青木書店)309-334頁
82谷壽夫戟犯事件判決書付属文献の個別虐殺部分に関する統計抜粋
十三日、市民周小二子、門東の正覚寺内にて殺される。【311頁】
十三日、市民周喬夫人、門東の正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、市民周宏元、門東の正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十五日、市民劉金泉、門東の正覚寺内から烏衣巷口まで連れて行かれて射殺される。【311頁】
十三日、市民李発芝、正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、市民李宏奎、正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、市民郭栄寿、門東の正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、物売り黄小二の子、年齢わずかに六歳、門東の正覚寺内にて、鉄剣で突き刺されて死ぬ。【317頁】
十三日、農民李宏濤、門東の正覚寺内にて、銃剣で刺されて死ぬ。【318頁】
十二月中、僧侶戴金生、武定門の正覚寺にて刺し殺される。【334頁】
  
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[5452]祖灯庵
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 熊猫 E-MAIL  - 08/4/26(土) 14:31 -

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   祖灯庵
 本来のタイトルは晩市にするところですが、晩市3号には祖灯庵という明の時代からの古寺がありました。しかし、この貴重な文化遺産を歴史から抹殺してしまったのは他ならぬ日本軍です。
 小山吉三が至誠堂から『最新南京地図』を発行したときには、既に祖灯庵は無くなっていましたが、1936年に日新興地学社より発行された『最新南京地図』のまる写しだからでしょう、しっかりと記載されています。
 提示した地図より祖灯庵が実在したことが解ります。

 

「祖灯庵住特宏亮為其師弟等被日軍殺害致南京市政府呈文」
 固有名詞としてそのままにしていますが、意味としては「祖灯庵の住職宏亮による師弟たちが日本軍に殺害されたことによる南京政府への上申書」とでも申しましょうか、そのうち誰かが翻訳した書籍を出版するでしょうから期待しましょう。
 南京の日本軍が文化遺産を守ったというのは否定論者が創作した嘘で、祖灯庵では宏定、宏開、惟洲の3名の僧侶を殺害し、古寺に放火して仏像や仏典を焼却してしまいました。
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[5453]李府街
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 熊猫 E-MAIL  - 08/4/27(日) 0:30 -

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   李府街
 李府街は旧城門の城内南側に位置した場所にあります。もともと中山門は国民政府が朝陽門を壊して、その北側に中山東路と一緒に造ったものです。中山東路の南側を並行して通る道が古来の幹線道路で、李府街は明の時代からずっと南京城の東側の玄関でした。

  

 この地域の農家の皆さんも日本軍によって殺害され強姦されており無人ではありませんでした。
『南京事件資料集 2中国関係資料編』南京事件調査研究会(青木書店)
82谷壽夫戟犯事件判決書付属文献の個別虐殺部分に関する統計抜粋
十三日、市民金宜春、李府街一号の門前にて、刀で殺される。【310頁】
十三日、市民孫宝学、李府街二号の門外にて、撃たれて死ぬ。【310頁】
十三日、市民儲春香、李府街一号にて、刀で殺される。【311頁】
十三日、農民孫在善、李府街にて銃剣で刺し殺される。【325頁】
十三日、農婦儲劉夫人、李府街一号にて射殺される。【326頁】

83谷壽夫戦犯事件判決書付属文献の強姦部分に関する統計抜粋
二、十九日(すなわち旧暦十一月十七日)、李府街にて農民孫宝慶の兄嫁孫陳夫人を輪姦し、その日の夜に死なす。(証人は孫宝慶、金儲氏)【335頁】

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[5458]Re(1):安全区以外は無人地帯だ...
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/2(金) 17:52 -

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   ▼熊猫さん:
>「安全区以外は無人地帯だったか?」
> これは双塘難民収容所と老人堂の存在により否定することが可能です。
> 今回はマニアックな南京ファンから初心者まで充分に楽しんでいただけるスレッドにしたいと思います。

熊猫さん有難うございます。
これだけ多くの地区で、掃討作戦の被害にあった南京市民がいたことを、毎回再確認し驚いています。

ただ、個々に地図がついていますが、初心者である私には、
「ここは南京のどのヘンなのだろうか?」
という疑問が先走ってしまいます。

そこで御願いなのですが、
南京城内全図にそれぞれの地点をプロットして、索引代わりに見せていただけないものでしょうか?

裁判の控訴審も始まるようですし、夏淑琴裁判の意味を広くとらえる意味でも、御願いしたく存じます。
(おそらく、前例執筆後にはご予定なのかもしれませんが、途中でもいかがでしょうか)
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[5472]これも消災庵事件では?
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 熊猫 E-MAIL  - 08/5/4(日) 17:18 -

引用なし
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    マギーフィルムの解説書にある城内南部のある寺院というのは、小心橋の消災庵のことである可能性が極めて高いと思います。
 ゆうさんのURLからコピペ
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#1
(二と三)仏教徒の尼僧と幼い修行尼僧(八、九歳)の事件
 この少女は事件後、数週間熱を出していたにもかかわらず、背中を銃剣で刺された。おとなの尼僧は、銃弾の傷が原因で腰の左側を複雑骨折し、傷は拡大性の感染症に発展した。回復は疑わしい。もし回復しても、歩けるようになるにはきわめて特殊な手術が必要となろう。
 彼女と他の何人かの尼僧は、城内南部のある寺院の裏の建物に住んでいた。日本軍は城内に侵入して、この付近の住民を大量に殺した。彼女を病院へ運んだ仕立屋の推定によると、およそ二五名の死者が出た。そのなかには六五歳になるこの尼僧院の「マザー院長」と六、七歳の幼い修行尼僧の姿もあった。日本兵は、このフィルムが映し出すように、尼僧と幼い修行尼僧に傷を負わせた。
 彼女たちは待避壕のなかに避難し、五、六日問、飲まず食わずで過ごした。待避壕には多数の死体があり、六八歳の老尼僧が死体の重さで圧死、あるいは窒息死した。
 五日後、この負傷した尼僧は、ある〔日本の〕兵士が中国語で「何とかわいそうに」と言う声を聞いた。彼女は即座に目を開けて、その男に助命を請うた。かれは彼女を待避壕から引きずり出し、何人かの中国人に、彼女を軍の仮手当所へ運ばせ、そこで軍医が手当てをおこなった。最柊的に彼女は近所の人の手で鼓楼病院へ運ばれた。
 「ある寺院」が「消災庵」であるという条件付きですが、「この付近の住民を大量に殺した。」とあります。夏淑琴さんの家族は「この付近の住民」でした。
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[5496]Re(2):安全区以外は無人地帯だ...
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 熊猫 E-MAIL  - 08/5/6(火) 21:28 -

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   ▼ピッポさん:
>そこで御願いなのですが、
>南京城内全図にそれぞれの地点をプロットして、索引代わりに見せていただけないものでしょうか?

 当初よりそのつもりでしたので、私も、そろそろかなと思っています。そのうち『南京大屠殺史料集』が中国から送られてきますので、そちらの資料の紹介もしたいと思います。
 南京城内には難民区が2ヶ所あったという事と、正覚寺、祖灯庵、消災庵の3つの寺院の事件と老人堂を提示したら、後は城内の安全区以外は何人いたのかが課題だと思います。
 韓湘淋(ラーベの日記でご存知かと思います)の証言では、1割〜2割の市民は安全区に入らなかったとのことですので、安全区の人数を20万人と想定すると22222人〜50000人の市民が安全区外にいたことになります。韓湘淋は集計したのではなく、自分が感じた数字ですがここで列挙した証言からも1割〜2割の市民は安全区に入らなかったものと思います。

 地図はこの下にでもぶら下げて提示したいと思います。
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[5545]Re(1):祖灯庵
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 熊猫 E-MAIL  - 08/6/4(水) 1:13 -

引用なし
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   晩市 
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)182頁
【熊猫訳】
  祖灯庵住特宏亮為其師弟等被日軍殺害
       致南京市政府呈文

       (1945年10月22日)

上申事項、宏亮は住職で南京城北の校門口晩市3号の祖灯庵の者です。本庵は明の時代に創設した数百年余りの歴史ある南京の古寺です。かつて民国26年には陸軍中央第88師が、軍用蹄鉄工場・病院ではなく、非常に多くの後方の留守物品などの貯蔵に本庵を借りていました。
 南京が陥落すると国民党軍は西に撤退し、敵である岡村部隊が南京に侵入し、庵内の貯蔵物品を見ると同時に放火し、当庵正殿の諸仏像を焼き払いました。二万元相当の、菩薩、神仏像を数体、厳かな使用器具及び青焼きの書類、およそ非軍事的な経典などの全て焼き尽くしました。また前住職の弟弟子の宏定、宏開、 徒弟で甥の惟州も殺戮に遭いました。これによって庵内の生計を立てた2畝余りの田畑には、強制的に倉庫が建てられ道路がつくられ、数年にわたって敵の暴威の下にあり、まだ回収する話はありません。
 この抗日戦争の勝利にともない、日月重光(太陽と月は再び光芒を放ち)し、先の新聞に掲載された政府告示を見て、数年に及び敵が破壊した民間財産の損なった弁償を市政府に報告し調査申請ができようになりました。
 ここに謹んで詳しく上申し早急な調査を希望するのは、一日も早く暴敵が占用した田畑の返還による、生計を維持であり、感激の至りとなっていません。特にここに用意した上申書に従い照合し調べて下さい。
謹呈

 南京市市長馬

         祖灯庵住特宏亮呈 十、二十二
         校門口晩市三号
 
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[5561]玉帯巷22号の李さんの氏名
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 熊猫 E-MAIL  - 08/6/25(水) 23:23 -

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   胡偉証言より
当時、わが家は二十四号でしたが、二十二号の李さんの家も悲惨な状況でした。李さんの父親が軍刀で数か所も斬られて殺されていました。そして四番目の息子も防空壕から体を半分を出したままの状態で殺されていました。


 今回は二十二号の李さんの氏名が解りましたので資料を提示します。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉(江蘇人民出版社)186-187頁より
【熊猫訳】
  李秀華結文(王秀華の調書)
    (1945年11月27日)

謹んで敵による縁者への犯罪の事実を以下の如く陳述した。
 南京陥落により民国26年の旧暦11月12日(1937年12月14日)に、敵軍の中島部隊が城内に入り込み、午前9時に玉帯巷22号にある住宅のドアをたたいた。気の小さい祖父の李福義と叔父の李学才の父子二人はなかなかドアを開けないので、促した敵が怒り直ぐに屋内に向けて発砲した。脅された祖父は、ドアを開けに行った。ドアから入ってきた敵は驚くことに祖父の李福義を屋内(玉帯巷内)から引きずり出した。約10分、既に祖父は倒れて血の海になっていた。死体からは全身十数ヵ所の刀傷が数えられ、その惨状は見ていられない。また同時に侵入した敵の一人は、部屋の入口で叔父の李学才をみつけ、銃剣を構えてすぐに胸を刺した。叔父が負傷しながらも外へ逃げたので、その後を追いかけた。逃げ道のない裏庭に逃げ込んだ。遂に喉を撃たれ地面に倒れて死んだ。
 上述べた事は、すべて事実であり、決して偽りがない。……此結。

 陳述人:氏名 李秀華、性別 女性、年齢 18
     本籍 南京、職業 竹貸、住所 玉帯巷8号。

 調査人:氏名 葉倬雲、性別:男、年齢:28
     本籍 広東省梅県、役職 菱角市分駐所所長
     住所:菱角市第30号。
 中華民国34年11月27日提出

        [中国第二歴史档案館 五九三/870]
 『南京戦 被害者120人の証言』松岡環(社会評論社)250頁の「李さんの父親」というのは、李福義さんのことだと思います。ネットや日本の書籍では見る事が出来ないマニアックな資料ではないかと思います。

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[5581]普照寺
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/22(火) 0:27 -

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   普照寺
『南京大虐殺』徐志耕(外文出版社)185-186頁より
宏量法師の証言
  わたくしは当時、普照寺に隠れておりました。普照寺は莫愁路の難民区寄りで、経典を講義する所でございます。やはり長生寺の隆和尚も普照寺に避難してきておりました。日本兵が寺に入ってきて、彼は羅漢菩薩の背中の上のほうにはい上がって陰れました。陳妙信という女居士に縄で食事をつり上げてもらっていたのです。ところが隆和尚がちょうど下ほおりてきたところに、日本兵が女をさがしに入ってきまして、まず輝因住持をひきずり出して、隆和尚には閉目して念仏を唱えさせたかと思うと、一発で輝因住持を撃ち殺しました。隆和尚も恐怖で気を失ってしまいました。
 寺に逃げこんだ尼さんや居士はみんな本堂の隣の西方殿の楼上に隠れました。みんな鍋底のすみを顔につけ、度厄法師の指示で合掌念仏しながら、声をたてないようにしておりました。本堂と西方殿の通路には寝床を一つ置いて通れないようにし、ここに六十過ぎのばあさんが寝ておりました。三、四人の日本兵がこのばあさんに手をつけようとしたので、ぱあさんはふるえあがって、あわてて蚊屋の内側を指さしました。日本兵は蚊屋をめくりあげて中にとびこむと、喜んで笑い声をあげました。中にいた七、八人の女たちは泣いたり叫んだりしましたが、十一、二歳の女の子までみんな凌辱されてしまいました。
 莫愁路にある普照寺も無人ではなかったということですね。
  
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