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▼ハルさん: >今回、貴サイト様を初めて拝見いたしました。 >またほとんど見ていませんが、気づいた点があるのでよろしくお願いします。
ありがとうございます。 今回のこの投稿を読んでも「ほとんど見ていない」ということはよくわかりました。 これを機会によくよく目をお通し下さい。
>(1)まず目撃場所が冒頭では揚子江となっていますが、後段では目撃場所が八キロ下流ということになっています。通常ありえない勘違いですね。
目撃場所は冒頭にありますように、「揚子江岸」の「波止場」、「船の発着場」です。 後段の部分の「八キロほど先」の起点はこの文章では不分明です。 考えられる解釈のひとつは「中国軍と難民」の一団が下関の八キロ手前から逃げ出した、ですが、一団が逃げ出した起点を正確に断定するのは無理な話です。
ありえる解釈は 赤星氏と属する隊が下関に一旦達して目撃した後、下関の掃討を十六師団に譲って、八キロ手前の当たりの守備に転じた、そのとき、赤星氏は同僚の兵士から「どうしてあのような光景が現出したか」を聞いた、その話を書いたため「八キロほど先」と書いた。
>赤星氏は後段の噂話を元に、回想記を記述したものと思われます。つまり五万もの死体を目撃したというのはウソだと思われます。
冒頭で見たと書いています。あなたの文章解釈には無理があります。 「目撃したというのはウソ」という推測は成り立ちません。
>(2)戦闘があったのは13日ですから、14日に河を埋め尽くすような5万もの死体が流れているわけがありません。揚子江は池ではないのです。
「川全体に浮かべた”イカダ”のように、ゆっくりと流れている」と書いてあるのが、読めませんか。これは見ていないと日本人にはかけない状況です。この時期の揚子江は水量が少なく流れは非常にゆっくりなので、翌日も死体が浮いていたのですよ。
このページのひとつ前の「高森守一氏の記録」も同様なことを書いています。
>(3)川幅一杯、向こう岸まで死体を流すには、5万人を揚子江上に船で連れ出して河の上で殺害する必要があります。50人乗りの小船なら1000隻必要ですが、前日に中国軍が撤退しており、船がない状況ですから、理論的に考えて川幅一杯の死体が存在する可能性はありません。
5万人の死体はすべて船で連れ出して殺害して揚子江に捨てたものだ、と誰か書きましたか? どうして5万人の死体が江上に浮かんでいたか、私のページをよーくお読みになって理解に努めましょう。
>(4)14日、揚子江上には第三国の船舶が滞在していますが、川幅一杯の死体の目撃情報はありません。
あなたの言う、「第三国の船舶」とはどこの国の船舶で、それは揚子江のどの当たりにいたのですか? その乗員が死体はなかったと書いたという文書がありましたか?
>(5)河に浮かぶ死体は、通常肉体の一部分しか見えませんから、民間人であるかどうかの判断は難しいでしょう。民間人の根拠は目撃時の状況ではなく、後段の噂話が根拠のようです。
「噂話が根拠」ではなく、目撃した情景を描写しているのです。 当日目撃したものが「それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、」と書いているのです。それはそのときの赤星氏の判断であったことは受け入れざるをえません。 兵士が民間人の服を着た例もありますから、民間人の服を着たものがすべて民間人とは限りませんが、逆に民間人の服を着ていてもすべて兵士である、などとは言えません。 男を女と見間違えたり、大人をこどもと見間違えることはありません。
>(6)撤退時の様子については中国軍人の史料が残っていますが、民間人を乗せて脱出したという記録はありません(宋希連手記)。船が足りず軍人同士で争うほどですから、民間人がいたとしても、船に乗って撃沈されるという状態ではありません。
軍が撤退したときに用意した船は比較的大きな船でしょうが、揚子江には庶民が乗る、手漕ぎの舟もたくさんありました。また、戸板や桶、家具につかまって対岸に逃れようとしていた証言があります。
>ということで、これを虐殺の証言に使うのはどうかと思われます。
この証言は「虐殺」の直接の証言として使っているわけではありません。 本文を読めばわかりますが、虐殺に対して「伝聞」となっています。この証言は大量の死体についての証言です。そこをお認めいただいた上で、このページをよくお読みになって虐殺に対する認識を深めていただければ幸いです。
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