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[5436]「南京」関連書籍三題 ゆう 08/4/19(土) 7:28

[5436]「南京」関連書籍三題
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 ゆう WEB  - 08/4/19(土) 7:28 -

引用なし
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   最近入手した「南京」関連の書籍を、3点ほど紹介します。

○「南京大虐殺 記憶の暗殺」 内山薫著

副題は、「東史郎はなぜ裁判に負けたか」。2007年12月の発行です。

おそらく「南京」関連の書籍出版をフォローしている方も、この本についてはほとんどご存知ないものと思います。出版社は北京の「世界知識出版社」。中国の出版社が日本語書籍を出す、という珍しい例です。

私は「東史郎裁判」についてはほとんど知識を持たないのですが、裁判の経緯、争点がわかり、大変興味深く読みました。仕掛け人は板倉由明氏。東氏への攻撃、しいては「南京大虐殺」史実派に傷をつけようという、意図的な裁判だったようですね。

この本は、Amazonでも取り扱っていないようです。私は中国書籍専門店から入手しましたが、そんなルートしかないかもしれません。


○「知られて居ない南京戦史」 斉藤忠次郎著

著者は、中島師団下の輜重十六連隊所属。何となく聞き覚えのある名前で、ひょっとすると「証言による『南京戦史』」を見ると、名前が出てくるかもしれません。

さて、本書の「はじめに」は、こんな感じです。

南京城郊外江東門にある侵華日軍大屠殺遇難記念館の壁に表示された三十万の数字は第二次世界大戦で広島で二十万即死の原子爆弾被害に対置する為に中国人が申出ままに検証もせずに受付けたものである。

それに尾鰭をつけたものが、洞富雄の「決定版南京大虐殺」である。洞は著述に当っては日本軍の編成表も南京城の地図も参考にせず、二十年間の垢を上載して書いた、虚構の著述で日本軍を侮辱している。(P3)

そして本の各所で、洞氏の記述を攻撃しています。


しかし内容は、これから連想されるような「タテマエ戦記」ではありません。「南京戦史」には結構真面目な証言者も登場しますが、この斉藤氏もその一人と言えるでしょう。

目につく記述を、紹介していきます。
(ゆう注 無錫にて)街道脇には、煉瓦で囲った棺桶があった。行く先々、煉瓦をはずし棺のふたをとって点検したようだった。中国兵の死体があれば、ズボンを下ろして点検してあった。女の死体の局所には棒をさし込んでいた。(P33)

徴発も、うまい奴と、下手な奴と差があるらしい。戦場には、普通の法は存在しない。有るのは、軍律だけ。一度作戦に出て、携帯口糧を使い果たし、補給を受けられなかったら、後は現地調達となる。上級指揮官も、厳しい軍律を適用できない。兵隊は、目につく物を自分の物のように取り扱う。(P36)

(ゆう注 下麒麟門にて)分隊長は、「今から宿営地の周囲の敗残兵を掃蕩する。敗残兵の隠れそうな、我方に必要のない小屋等は、焼くように」と各兵に一個宛マッチが渡された。

私の分隊は○○(ゆう注 原文実名)上等兵が長で出発した。十字路を太平門の方向にしばらく行くと、部落の背後を少し離れたところの東方の下を見れば、畑の番小屋が二つ並んで有った。近づいて、きびがらのような外囲いに火をつけた。火は簡単について、燃え上がった。中から無帽でカキ色のラシア服を着た敗残兵が飛び出した。(中略)

命中弾は右足大腿部を外から中に貫通して倒れた。近寄って兵で取巻く。敵の服をさぐって三角巾を出し、その男に傷をしばらす。「連隊本部に連れて行こうか」との話も出たが、何かと面倒なと判断した○○上等兵の命令で、射殺した。

あくる日、○○(原文実名)衛生軍曹を長とする掃蕩隊に加わった。この時は別方向で、京滬街道の左側を行った。周囲一〇〇メートル位の台地とまではいかない高見の所に民家があった。点検すると、老婆が出て来て、我等の登って来た方向に逃げた。「それっ、射てっ」と言うので撃った。倒れて、もがきがなくなる迄、撃った。○○軍曹が一番弾丸を使った。(P43)

ちらばってた兵が、全部で六人の中国人を捕まえて来た。皆市民服だが、その中で屈強な大人の体格はしているが、まだあどけない少年がいた。この六人を、すり鉢池のふちに連れて来た。少年だけは助けようとの論もあったが、結局全部池のふちから射って、すり鉢池に落した。(P44)

何とまあ、徴発、放火、捕虜殺害、民間人殺害、何でもありです。


「弁護」ぶりが興味深いので、合わせて紹介しておきます。
南京事件 四大要因
虐殺 指示範囲の事をした者には責任がない。
掠奪 公的給与の無かった時に、腹の中に入れてしまった者は掠奪ではない。
放火 指示範囲の事をした者には責任はない。
強姦 犯した者の個人責任である。

私は掠奪も強姦もしていない。(P53)

ここまで正直な「告白」をした方を攻撃するのは私の本意ではありませんので、あえて「批評」は書きません。


○「天津から南京へ」 昭和13年6月、奉天市、ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー

いや、何でこんなパンフレットを入手したかというと、東中野修道氏「再現 南京戦」に、こんな記述があったからです。
ついでながら記しておくと、次のような資料もあった。それは奉天のジャパン・ツーリスト・ビューローの発行した旅行案内の小冊子で、表紙には「天津から南京へ」という書名が書かれ、南京の名所旧跡が写真入りで紹介されていた。

その印刷は昭和十三年五月三十日で、発行は六月五日となっている。少なくとも印刷に三ヵ月を要すると仮定すると、この旅行が企画されたのは遅くとも昭和十三年二月であったことになる。南京大虐殺が事実であったとすれば、南京陥落から二ヵ月しか経っていない段階で、はたして南京旅行が企画されたであろうか。(P357)

戦争の真っ最中に、いくら占領地とはいえ、戦争中の敵国内へのツアー旅行を「企画」したあ? 当時は除州会戦の時期だったはず。泥んこになって生死の境で戦争を戦う兵隊さんたちが聞いたら、間違いなく怒り出します。庶民には「海外旅行」など不可能な時代だったでしょうに、そんな能天気な旅行会社、本当にあったのでしょうか。

というわけで、このパンフを入手してみました。

パンフの最初は、こういう感じです。
天津から南京へ
津浦線は北支の中心地京津地方と中支の中心地南京地方を連絡する重要幹線にして、河北、山東、江蘇、安徽四省を縦貫してゐる。これ等の諸省は支那にとつても古くから政治、経済の中心地をなした地方であり、又吾国にとつても早くから交渉のあつた地方である。

今回の支那事変は、一般の人達にもこの沿線地方を馴染み深いものにした。この方面の戦場は洪水のため泥濘地多く、水深は胸を没する程であつた。八月二十二日前進を開始して以来、十一月中旬遂に黄河の流れに日章旗を映ぜしめ、昭和十三年正月を迎へるとともに皇軍は堂々と済南に入城するに至つた。

(略)

この線に沿って南北からの攻略は日ならずして完成し、この地方一帯が、吾国と新興支那との提携により、東洋和平の礎を築くのもさほど遠いことではないだろう。

これに「津浦鉄道」の概略の紹介が続き、天津から南京に至る名所旧跡が一部写真入りで紹介されます。しかしどこにも、「南京旅行を企画」するなどという記述は見当たりません。

当たり前ですよね。このパンフの対象は別に「南京」だけではなく、「天津から南京まで」の広大な地域です。そして、上の引用文の太字部分の通り、まだ「この線に沿って」の「南北からの攻略」はまだ「完成」していないのです。こんな時期に、「天津から南京まで」のツアーなど、組めるはずがない。

要するに、また平和になって「天津から南京まで」の名所旧跡を訪問できるといいな、という趣旨で編纂されたパンフである、と見ていいでしょう。


・・・というわけで、「東中野氏のトンデモ」ネタが、また一つ増える結果となりました。
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