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[5457]マギー・フィルムとフィッチ ピッポ 08/5/2(金) 15:42
[5461]Re(1):マギー・フィルムとフィッチ 渡辺 08/5/3(土) 2:36
[5464]Re(2):マギー・フィルムとフィッチ ピッポ 08/5/3(土) 9:13
[5476]Re(3):マギー・フィルムとフィッチ 渡辺 08/5/5(月) 2:42
[5477]WILLの古荘「論文」って ピッポ 08/5/5(月) 4:14
[5482]Re(1):WILLの古荘「論文」って 渡辺 08/5/6(火) 0:55
[5465]Re(1):付録 ピッポ 08/5/3(土) 12:27
[5488]マギー・フィルムの解説書(英文原文について) ピッポ 08/5/6(火) 9:42
[5495]Re(1):マギー・フィルムの解説書(英文原文について) ピッポ 08/5/6(火) 20:58
[5500]Re(2):マギー・フィルムの解説書(英文原文について) 渡辺 08/5/7(水) 0:02
[5503]Re(3):マギー・フィルムの解説書(英文原文について) ピッポ 08/5/7(水) 0:26
[5502]Re(2):マギー・フィルムの解説書(英文原文について) ピッポ 08/5/7(水) 0:10
[5521]Re(1):訂正です ピッポ 08/5/24(土) 18:37

[5457]マギー・フィルムとフィッチ
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/2(金) 15:42 -

引用なし
パスワード
   ===================
2つのマギーフィルム
===================

最近2つの史料(Web上にある)を読んで、疑問が氷解しましたので忘れないうちにメモしておきます。

1)『フィッチの回顧録』(第一〇章)
http://nanjingforever.web.infoseek.co.jp/george.html
2)『ラーベの日記(中国語版)』(2/11の項)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1254.html


A、1)からは先ず、渡辺さんのデータベースが全て確認できました。

渡辺さんのデータベース http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=365;id=imgbord#365
 
1938年
1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
2/12 フィッチ、南京に戻る
2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
2/23 ラーベ、南京を出発
2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
2/27 ラーベ、上海到着
3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく

フィッチが上海に出かけたのは、1月29日、英艦ビー号で。
フィッチはこう書いています。

 日本当局と長期にわたって交渉した結果、ついに私は英国艦ビー号で上海へ行く許可を得た。同号はちょうどイギリス領事と彼のスタッフを乗せて来たところだった。英国砲艦に乗ったのは何日であったか正確には思い出せないが、一月末であったにちがいない。(前出1))

そしてラーベの日記(日本語版)では1月28日と29日の日記で、29日出発で、往きは英艦ビー号、帰りは米艦オアフと記しています。フィッチは国際委員会委員長のラーベに旅程を真っ先に報告し、食糧買い付けなどの指示を仰いだのでしょう。

そしてフィッチは、マギーが新路口事件を撮影し終えたばかりのフィルム4巻と、その撮影内容解説(「マギーの解説書」の草稿でもある)を受け取って、ビー号に乗船したはずです。 

南京に戻ったのは、2月12日です。
フィッチはこう書いています。

 帰路は、ヤーネル提督が手配してくれた米砲艦オアフ号に乗って長江を遡り、平穏無事であった。
 南京に到着した私は、日本軍が前言を裏切って船荷の陸揚げを不許可にしたのを知って愕然とした。(前出1))

2月12日到着は、ラーベ、ボートリン、フォスター、ベイツが日記などに書いています。


B この第1回の上海行きが軍用列車であるというのは誤解だと思います。

例えば、笠原先生の『アジアの中の日本軍』「二 ジョージ・フィッチのアメリカ講演旅行」 http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/121.htmlなど。

フィッチは前出1)でこう述べています。

いずれにせよ、私はすぐ南京を離れることになっていた。

 上海のホリス・ウィルバー(Hollis Wilbur)から電報で(事前に手配しておいたもの) 「二十三日前に上海に到着を乞う」と言ってきた。この電報の援護によって、私は再び南京を離れる許可をもらい、翌朝六時四〇分に上海行きの日本軍の軍用列車に乗った。その列車は三等列車で、考えられるかぎりの不愉快さをともなった兵隊たちの大群で満員だった。私はそのとき、灰色のラクダの毛のオーバーの裏地に、虐殺場面を撮った一六ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気を使った。上海に着いたならば、私の荷物は疑いなく軍当局に念入りにチェックされるであろう。もし彼らが、これらのフィルムを発見したら何がおこるだろう。

軍用列車は、2月のことだったのです。
そして、フィッチによるフィルム運搬は2回目です。

これによって、マギーフィルムには「マギーの解説書」にないシーンがあるが、何でだ?!
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=231;id=imgbord#231
という疑問もあっさり解けました。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=671;id=imgbord#671


C 上海で現像した「マギーフィルム」には2つ有る

ということは、上海で現像した「マギーフィルム」には2つ有る、ということです。
1つは、1回目に運んだ4リール。現像したネガに文字解説を挟み込んで複製プリントしたもの。これを映画甲とします。映画甲はベルリンのヒットラー総統のもとに送られました。添付書類である「マギーフィルムの解説書」もベルリンへと送られました。

もう一つは、2回目に運んだ8リールのうちの未現像を上海で現像し、複製プリント4セット作ったもの。これを映画乙とします。

フィッチは映画甲と映画乙をアメリカにもって帰り講演に利用しました。しかし、フィッチが体調を壊したこともあって、YMCAが短く使いやすく再編集したものと思われます。それが、ロサンジェルスのフィルムセンターに現在保管されている「China Invaded」です。(「ジョージ・フィッチと「彼の」フィルム」http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm )

映画甲はいま、ワシントンの国立公文書館と議会図書館に保管されているそうです。http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=616;id=imgbord#616


因みに映画甲+乙から生まれた「China Invaded」の文字解説は、映画甲のそれよりそれぞれが短くなっているようです。「China Invaded」の文字解説を笠原先生は全て記しています。( http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/121.html の後半)。ティンパーリがラーベの説明書きにしたがってつけた映画甲の文字解説は、NHKスペシャル「日中戦争」で紹介されました。


どうやら、私を含めて「マギーフィルムは唯一なり」という思い込みが、情報を錯綜させてしまったようです。


D 「マギーの解説書」は撮影取材メモを見て書いたのであり、現像上がりのフィルムを見ながら書いたのではない

だからこそ、「マギーの解説書」は、フィッチの南京到着前の2月10日付けでベルリンへと送ることが出来たのです。

現像上がりのフィルムを見ないで書いた証拠はこちらを読んでください。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=274;id=imgbord#670


E ラーベがローゼンから見せてもらったのは、映画ではなくて「解説書」

前記2)ラーベの日記(中文)を読めばたちどこころに分かりました。
これも詳しくはこちら。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=669;id=imgbord#669
「マギーフィルムの解説書」が、2月11日の項に添付されているのです。

ラーベの日記(中文)と、他の語版との関係についてはここをお読みください。
http://latemhk.tdiary.net/19371213.html


ラーベは、渡された「解説書」を映画のシナリオとして読み、自分の鼓楼病院訪問(12/24) http://latemhk.tdiary.net/20071224.html を思い出したのです。それが以下の記述です

英語版
  Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr.
Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to
forward to Berlin. I'm supposed to get another copy later, too. I saw some
of the casualties (shown in the film) and was able to speak with a few
before they died.I was shown the bodies of some of them in the morgue at
Kulou Hospital. [ p.188]

ドイツ語版
 Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen
laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin
schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der
(im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch
sprechen koennen, bevore sie starben.[p.259] あと1行あり
(文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット)



F ラーベの日記の誤訳にも振り回され

この部分の『ラーベの日記』(日本語版)2月11日の平野響子氏の誤訳に、WILL1月号の古荘光一珍論なども頼っているようです。

古荘珍論

ところが、『マギー・フィルム』は、フィッチの帰京より1日早く登場する。ラーベの「日記」の2月11日の項に、「マギーがすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。」とあるのがそれだ。

平野訳

「マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。」

これは全くの誤訳です。

ラーベはこのとき、マギーとも、映画とも出会っていません。
has taken motion pictures は「映画を撮影してきた」で「持ってきた」ではありません。

試訳は

先にリバーレンド・ジョン・マギーが残虐行為の映画を撮った。ローゼン博士はそのフィルムの複製を上海で作らせベルリンに送るつもりだという。私も後で複製を入手するつもりだ。※(フィルムに登場する)何人かの被害者は私もこの目で見てる。そのうち幾人かとは死ぬ前に話もできた。私はさらに鼓楼病院の遺体安置所で何体か被害者の死体も見せられた。 (参照:http://latemhk.tdiary.net/20071224.html


中文では※のところに、解説を下記に記す、という意味の字句があり、「マギーフィルムの解説書」が引き続き添付されています。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1254.html


G こうして、「フィッチの12日到着」は No problem 無問題となりました 

現像済みフィルムは南京に届いてなくても、「解説書」も「ラーベの日記」も、どちらも成立します。


H 4巻か8巻かという問題も

マギー・フィルムの原版が4巻なのか8巻なのかの混乱も解消しました。
第1回上海持込:4巻(たぶん16/mm 100ft x 4)
第2回上海持込:8巻(たぶん16/mm 100ft x 8)

なお、第2回分に、ずっと前に現像済みが含まれるかどうかは不明です。
マギーが鼓楼病院で引き続き撮影したものが多いと思われます。


I ファクト イズ シンプル

まあなんといいますか、分かってしまったあとからですが、
真実は、複雑な説明を必要としないようです。
483 hits

[5461]Re(1):マギー・フィルムとフィ...
←back ↑menu ↑top forward→
 渡辺  - 08/5/3(土) 2:36 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>1)からは先ず、渡辺さんのデータベースが全て確認できました。

おひさしぶりです(^^)
「2/12? フィッチ、南京に戻る」と「?」マークが付いていたと思います。というのは、この日付には以前から疑問を持っていたからです。
結論としては 2月10日に戻ったと明示した資料があります。12日という日付にも事情がありそうです。
古荘光一なる人物の杜撰かつ偏見に満ちた記事は、夏淑琴事件裁判控訴審に向けて用意されたものだと思いますので、現時点ではこれ以上のコメントは控えます。
古荘氏が再発見した「新資料」には苦笑しましたが、東中野先生の迷走ぶりも、ここまでくるとは思いませんでした(^^;
270 hits

[5464]Re(2):マギー・フィルムとフィ...
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/3(土) 9:13 -

引用なし
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   渡辺さん
こちらこそお久しぶりです。

>「2/12? フィッチ、南京に戻る」と「?」マークが付いていたと思います。というのは、この日付には以前から疑問を持っていたからです。

「?」マークとっちゃっました。真に申し訳ありません。

>結論としては 2月10日に戻ったと明示した資料があります。12日という日付にも事情がありそうです。

渡辺さんは確かにそれを指摘なさっています。記載漏れ深くお詫びします。
「?」御投稿にリンクいたしますことでご了承願います。

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=374;id=imgbord#374

〜〜〜〜

私が今回確信をもったのは、
フィッチの帰京が2月10日あるいは2月12日であっても、「2月10日付けマギーの解説書」そして「ラーベの日記2月11日」どちらの成立にも、なんら影響を与えないということです。


〜〜〜〜

>古荘光一なる人物の杜撰かつ偏見に満ちた記事は、夏淑琴事件裁判控訴審に向けて用意されたものだと思いますので、

古荘珍論が裁判用だとは初めて知りました。えっ、こんなものが? 裁判に!!


>現時点ではこれ以上のコメントは控えます。

了解しました。
いま、マギーフィルムの経緯を簡単な表にしつつありますが、それだけは前の投稿に添付して置くつもりです。


ディスカッションは暫く待って、裁判の進行に合わせて行った方が楽しそうですね。

〜〜〜〜〜
PS

なお、ドイツ語得意な友人から次のようなコメント貰いました。

>> Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen.
>ですが、aufnehmenには「撮影する」という意味がちゃんとありますので、間違いなく誤訳ですね。刊行直後ならともかく、これだけ誤訳の多さが知られている邦訳に依拠して結果的に珍論を立ててしまっても、もはやそれは訳者の責任とは言えんでしょう(笑)
290 hits

[5465]Re(1):付録
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/3(土) 12:27 -

引用なし
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   この投稿の付録です。
表形式のためここでは作成が難しいので
弊サイトに作りました。

皆さんの検証のため、まな板に乗せたのです。

マギーフィルム経緯(試表)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1257.html
266 hits

[5476]Re(3):マギー・フィルムとフィ...
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 渡辺  - 08/5/5(月) 2:42 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>>古荘光一なる人物の杜撰かつ偏見に満ちた記事は、夏淑琴事件裁判控訴審に向けて用意されたものだと思いますので、
>
>古荘珍論が裁判用だとは初めて知りました。えっ、こんなものが? 裁判に!!

夏淑琴事件裁判の控訴審(3月17日)は1回結審し5月21日判決と決まりました。
控訴審で、東中野らはマギーのフィルムなるものは南京戦前に撮影されたティンパリーらによるプロパガンダフィルムだという新たな主張を始めました。
裁判は結審したのですが、東中野側は詳細な主張を書いた書面を出したいとのことだそうです。
古荘の記事は、内容的には東中野の主張とほぼ同じではないかと思われます。
古荘は2月12日にフィッチが南京に帰ったにもかかわらず、2月10日や11日に南京占領後のフィルムを上海と南京で同時に見られるはずがない、だから12月13日以前からフィルムは存在したというものです。(南京で16mmフィルムの現像ができなかったというのは事実でしょう。)
その時点で、古荘説は既にトンデモなのですが、それがプロパガンダ映画だと飛躍するので、裁判官もあきれたことでしょう。

ところで、この日付の問題を最初に提起し、問題解決のきっかけを作った功労者はピッポさんであることを確認しておきます(^^)
しかし、古荘氏って、あの文章で本当にフリー・ジャーナリストが務まるんでしょうかね…
274 hits

[5477]WILLの古荘「論文」って
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/5(月) 4:14 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
>▼ピッポさん:
>>>古荘光一なる人物の杜撰かつ偏見に満ちた記事は、夏淑琴事件裁判控訴審に向けて用意されたものだと思いますので、
>>
>>古荘珍論が裁判用だとは初めて知りました。えっ、こんなものが? 裁判に!!
>その時点で、古荘説は既にトンデモなのですが、それがプロパガンダ映画だと飛躍するので、裁判官もあきれたことでしょう。


WILLの古荘「論文」なるものを図書館でパラパラしてみましたら、かれの「新資料」大発見とは、フィッチが1937年11月(10月?)に董顕光と会った、という『フィッチ回顧録』初版本(台北発行)の一行だけなのですね。それは、リーダースダイジェストが後々転載する際に、紙幅の都合でカットした部分だったようですね。

それと、「ラーベの日記」の日本語版の誤訳との2つを根拠として、マギーフィルムの存在をあたかも大陰謀の虚偽のように書き立てて、その他99,9%を妄想で埋めつくして古荘「大論文」とした、というシロモノです。

99,9%が妄想ですから実に分かりやすい読み物でもあります。これを賞賛するネトウヨ君たちのブログを見てみましたら、誰一人として、古荘の立論の出発点である上記2点(記述の0.1%)には触れていません。彼らはただただ、妄想のすばらしさに驚嘆しているのです。
310 hits

[5482]Re(1):WILLの古荘「論文」って
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 渡辺  - 08/5/6(火) 0:55 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>かれの「新資料」大発見とは、フィッチが1937年11月(10月?)に董顕光と会った、という『フィッチ回顧録』初版本(台北発行)の一行だけなのですね。それは、リーダースダイジェストが後々転載する際に、紙幅の都合でカットした部分だったようですね。

"My Eighty Years in China"には、初版とそのダイジェスト班の2種類があります。
史料集に掲載されている翻訳はダイジェスト版からのものですが、問題の個所が翻訳されてないとか、ダイジェスト版であることが書かれていないとか、揚げ足とりにすぎません。
『ケン』と『リーダーズダイジェスト』はフィッチの「南京日記」を掲載したものです。また、『ケン』や『リーダーズダイジェスト』の記事はフィッチに無断で掲載されたのですが、古荘はそのことに触れていません。"My Eighty Years in China"にはちゃんと書かれています。
また、古荘は『リーダーズダイジェスト』にウィルソンの日記が掲載されている号があることを、知らないようです。
古荘の記事の書き方の問題のひとつは、『日付欄』とか、勝手に題名を邦訳して原題を示さないことです。古荘に"再発見"された本のうち、董顕光の一冊以外は、すべて現物か写しを所蔵していますので、原題が何かわかりますが、これはひどいはなしです。
ところで、『日付欄』という変な題名の本の原題は"Dateline"と思われ、東中野が曾虚白訳『董顕光自伝』といっているもののことでしょう。
実は、東中野が引用する曾虚白訳は、かなり原書と内容が異なります。東中野は中央宣伝部の「写真班」が活躍し、王小亭が参加していたとするのですが、原書は全く逆ともいえる内容です。
つまり、原書では、アマチュアがやっていたのでうまく行かなかったとし、王小亭が央宣伝部に関係あるなどとは言っていません。
曾虚白か東中野の誤訳でしょう。しかし、中文訳からの重訳ではなく、原書を引用すべきでしょう。

>99,9%が妄想ですから実に分かりやすい読み物でもあります。

これだけ暴走すると、誰にも分かりやすいので大歓迎です。
277 hits

[5488]マギー・フィルムの解説書(英...
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/6(火) 9:42 -

引用なし
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   ところで、

「マギー・フィルムの解説書」、ローゼンのドイツ外務省宛の1938年2月10日付け公信に添付されたものは、マギーが書いた英文(自筆?)だそうですが、それをそのまま採録したものは資料として存在するのですか?

ご存知のかた、おしえてください。

どうも、
英文→独文→日本語 と重訳のせいか、
意味の取りにくいところがあるようなので。
235 hits

[5495]Re(1):マギー・フィルムの解説...
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/6(火) 20:58 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>どうも、
>英文→独文→日本語 と重訳のせいか、
>意味の取りにくいところがあるようなので。

それはこの部分です。

 
フィルム一

 この映像の大部分が、一九三七年九月と一〇月の間におこなわれた日本軍の南京空襲で構成されている。このフィルムの巻末か、フィルム二冒頭のいずれかは、中国人のキリスト教徒を映している。かれらは避難所の一つに設けられた野外施設にいるところである。日付は、一九三七年一二月一九日である。  

フィルム二

(一)日本軍による南京陥落の数日後、南京上空に飛来する日本軍爆撃機。

(二)一九三七年一二月一六日。南京、上海路の中国人女性たち。息子や夫たちが元兵士の疑いで手当たりしだいに集められたため、脆いて日本軍にかれらの命乞いをしている。何千人もの一般市民がこのように縄で縛られ、下関の川岸や、池のへり、空き地に連れて行かれ、機関銃、銃剣、歩兵銃、さらには手榴弾で殺害された。

(後略)


このまま素直に日本語を読めば、フィルム(一)の終わりが12月19日で、フィルム(ニ)の2番目が12月16日ということになって、日付の進行が逆行しています。

今日のビデオテープならば、撮影途中のテープをカメラから取り出すことが出来ますが、マガジンでない100ftの16ミリ映画フィルムではそういうことはできません。

なお、「12月19日」という記述は、「マギーフィルムの解説書」が記載されている中国語版「ラーベの日記2月11日」の項でも、そこは「12月19日」と記述されています。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1254.html

ということは、
  
このフィルムの巻末か、フィルム二冒頭のいずれかは、中国人のキリスト教徒を映している。かれらは避難所の一つに設けられた野外施設にいるところである。日付は、一九三七年一二月一九日である。  


の訳文に不備があるのではないか、という気がしてきたのです。


【追記】
訳文に不備が無いとすれば、これは単なる解説書ではなくて、マギーからティンパーリに送った、編集指示書だったということになります。
そして、フィッチの第1回フィルム運搬は、100ftフィルム缶4個ではなくてもっと多かったということになります。

今のところいろいろ考えられます。とにかく、原文はないのでしょうか?
282 hits

[5500]Re(2):マギー・フィルムの解説...
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 渡辺  - 08/5/7(水) 0:02 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>>英文→独文→日本語 と重訳のせいか、
>>意味の取りにくいところがあるようなので。

"Eyewitneses to Massacre"のマギー文書のところにフィルム12まで収録されています。
末尾にフォスター夫人に返却するようにとのメモがありますので、上海でフィルムを回覧したときに使われたものと思います。
ドイツの資料と異同があるか、あとで調べてみましょう。
映画の解説は上海へ送る前、すなわち現像前に書かないと上海にいる人には映画の内容がわかりません。
そこで、撮影時の記録を見てリストを書いたと推測されますので、あいまいな部分もあるかも知れません。
マギーはフィルムを実際に見ていないので、「このフィルムの巻末か、フィルム二冒頭のいずれかは、中国人のキリスト教徒を映している」という個所ができたものと考えられます。
一般に、こういった文書はタイプライターで書かれ、薄い紙にカーボン紙を挟んで複写を複数作成するのが普通であると思います。
364 hits

[5502]Re(2):マギー・フィルムの解説...
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/7(水) 0:10 -

引用なし
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   何度も自己レスで失礼します。

▼ピッポ:
>今のところいろいろ考えられます。とにかく、原文はないのでしょうか?

(1)
「マギーフィルムの解説書」と「ローゼンリポート」の全文をとりあえず確認しなくてはいけないようです。

それは、図書館に言って「資料集」のアメリカ編をめくれば出ているのでしょうか? 出典についてどなたかご教示いただけないでしょうか?

(2)
英文の「ラーベの日記 」The Goodman of Nanking にある「ローゼンレポート」は、タラリさん主宰の『南京FAQ』が紹介するそれとは後半部分が違ってます。たぶん、どちらも長いものの抜粋だからでしょうか?

(3)
英文の「ラーベの日記」The Goodman of Nanking にある「ローゼンレポート」に関する、Vickert による巻末注50によれば、ラーベの帰国到着3日前、4月12日に「マギーフィルム」は高速宅配便でベルリン外務省に届いたそうです。その注50にはまた、現像代金が高額で上海総領事館は困ってしまい、予算では払えず結局大使トラウトマン署名による特別支出で支払ったことが書いてありました。

(4)
ということは、ベルリンへは「ラーベの分」と「外務省分」と、2セットのフィルムコピーが届いたことになります。だだし、外務省分はティンパーリ編集であり、ラーベの分は2月以降撮影分と1月までのオミット分を含んでいたかもしれません。
361 hits

[5503]Re(3):マギー・フィルムの解説...
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/7(水) 0:26 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
早速のレスありがとうございます。

>"Eyewitneses to Massacre"のマギー文書のところにフィルム12まで収録されています。
>末尾にフォスター夫人に返却するようにとのメモがありますので、上海でフィルムを回覧したときに使われたものと思います。

なるほど。これは、いわゆる「缶票に貼り付けた撮影スクリプト」とそのCC(カーボンコピー)ということですね。

>ドイツの資料と異同があるか、あとで調べてみましょう。

これは「アメリカ資料」と「ドイツ外交官の・・・」との突合せですね。


>映画の解説は上海へ送る前、すなわち現像前に書かないと上海にいる人には映画の内容がわかりません。
>そこで、撮影時の記録を見てリストを書いたと推測されますので、あいまいな部分もあるかも知れません。
>マギーはフィルムを実際に見ていないので、「このフィルムの巻末か、フィルム二冒頭のいずれかは、中国人のキリスト教徒を映している」という個所ができたものと考えられます。
>一般に、こういった文書はタイプライターで書かれ、薄い紙にカーボン紙を挟んで複写を複数作成するのが普通であると思います。


蛇足ですが、

マギーは、自分の日記には、
「今日は○○を撮影した」
という書き方はしてないみたいですね。滝谷二郎本だけによれば。

さりげなく、
「きょうはxxな患者に会った」
みたいなことは書いてありますが。

防衛上の配慮でしょうか。
363 hits

[5521]Re(1):訂正です
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 ピッポ E-MAIL  - 08/5/24(土) 18:37 -

引用なし
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   >因みに映画甲+乙から生まれた「China Invaded」の文字解説は、映画甲のそれよりそれぞれが短くなっているようです。「China Invaded」の文字解説を笠原先生は全て記しています。( http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/121.html の後半)。ティンパーリがラーベの説明書きにしたがってつけた映画甲の文字解説は、NHKスペシャル「日中戦争」で紹介されました。

の箇所、

ティンパーリが マギー の説明書きにしたがってつけた映画甲の文字解説は、NHKスペシャル「日中戦争」で紹介されました。

と訂正します。
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