留意事項 リ ン ク
メンバー登録 T O P
思考錯誤の全投稿をメール配信して欲しい方、クリックして空メールを送信 管理からのお知らせ 思考錯誤ヘルプ
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
109 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→

[5547]岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) K−K@南京事件資料集 08/6/11(水) 0:35
[5548]Re(1):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) 熊猫 08/6/11(水) 2:57
[5549]Re(2):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) K−K@南京事件資料集 08/6/11(水) 22:14
[5550]Re(3):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) ピッポ 08/6/11(水) 22:42
[5551]Re(4):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) 熊猫 08/6/12(木) 8:35
[5552]推論ですが 熊猫 08/6/12(木) 9:14
[5553]Re(1):歪曲予防薬 ピッポ 08/6/12(木) 11:15
[5554]Re(4):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) K−K@南京事件資料集 08/6/12(木) 22:16
[5555]Re(5):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) ピッポ 08/6/13(金) 4:20
[5560]Re(4):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) 熊猫 08/6/23(月) 0:10
[5557]Re(3):岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第一連隊林隊所属) 渡辺 08/6/14(土) 2:17
[5558]時計と逆回りに移動 熊猫 08/6/14(土) 13:54

[5547]岩崎昌治陣中書簡(独立工兵第...
←back ↑menu ↑top forward→
 K−K@南京事件資料集 E-MAIL  - 08/6/11(水) 0:35 -

引用なし
パスワード
   ご無沙汰しております。
今回、戦後責任ドットコムで、岩崎昌治氏の陣中書簡を紹介します。
岩崎昌治氏は、昭和8年に召集を受け満期除隊した後、昭和12年9月に再召集を受け、上海戦に参加しています。
このとき所属したのが、上海派遣軍独立工兵第一連隊林隊です。
岩崎氏は、大場鎮の激戦を経て、南京攻略戦に参加し南京に行き、その後、昭和13年8月に戦死しました。

この書簡では、あまり知られていなかった独立工兵第一連隊の行動を知ることが出来ます。また、虐殺に関する記述もいくつか見られます。特に、12月17日消印の岩崎孝治宛(http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data8/data8-6.htm#09)の内容は、下関での死体焼却の模様や、南京戦における兵士たちの心境を示す資料となっています。

以前、東中野修道ほか『南京事件「証拠写真」を建商する』で紹介されていた『恥の写真帳』の議論の中で、独立工兵第一連隊林隊について触れられている部分がありました。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=52;id=imgbord
だいぶ昔の議論ですが、参考になれば幸いです。

戦後責任ドットコム
http://space.geocities.jp/ml1alt2/data/data8/data8-6.htm
327 hits

[5548]Re(1):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 08/6/11(水) 2:57 -

引用なし
パスワード
   ▼K−K@南京事件資料集さん:
>この書簡では、あまり知られていなかった独立工兵第一連隊の行動を知ることが出来ます。

追加資料
 この軍隊手帳と合わせて読むと、更に詳しく知ることが出来ます(^^)


 昭和12年9月に再召集を受け、上海戦に参加したのであればこの軍隊手帳と同じ経歴をたどったのではないかと思います。
216 hits

[5549]Re(2):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 K−K@南京事件資料集 E-MAIL  - 08/6/11(水) 22:14 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
> この軍隊手帳と合わせて読むと、更に詳しく知ることが出来ます(^^)
> 昭和12年9月に再召集を受け、上海戦に参加したのであればこの軍隊手帳と同じ経歴をたどったのではないかと思います。

こんにちは、熊猫さん。
これはまた、非常に貴重な資料をありがとうございます。
まさしく、独立工兵第一連隊(小池愛雄)第2中隊(林勝三)所属のようですね。
今度、防衛研究所図書館と靖国遊就館で少し調べてこようと思っています。
良い結果がありましたら、ご報告しますね。

※せっかくですので、テキスト化してみました。
---- 引 用 ----
昭和十二年九月十日充員召集の為近衛工兵連隊に応召
同日独立工兵第一連隊第二中隊に編入
同月二十三日神戸港出帆
同月二十八日上海上陸
九月二十八日より十月二十一日に至る間軍直轄工兵として主として軍主要交通路補修作業に従事
十月二十日より十一月十一日に至る間第九師団に配属せられ大場鎮付近敵主陣地攻撃及蘇州河渡河攻撃に参加
十一月十日より十二月十七日に至る間軍直轄工兵として湖東会戦及南京攻略戦に参加
十二月十七日より第十六師団に配属せられ南京警備
一月二十二日より第十三師団に配属せられ准陽平地に於ける戦斗に参加
昭和十三年二月三日より准陽平
---- 終わり ----
221 hits

[5550]Re(3):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 08/6/11(水) 22:42 -

引用なし
パスワード
   ▼K−K@南京事件資料集さん:
▼熊猫さん:

こんばんわ

お二人から貴重な史料有難うございました。
写真、
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=fle;id=imgbord;name=/haji14%282%29.jpg
の記録がより現実実をもってきました。

ところで、この写真は下関駅なのでしょうか? それとも、近傍の駅なのでしょうか?
「十二月十三日午前十時」という写真の中の記述と
「南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)を工兵隊が占領したのが十四日未明です。」
ずれは、いろんな理由が考えられるとおもいますが、
いかがなんでしょうか?
229 hits

[5551]Re(4):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 08/6/12(木) 8:35 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>「十二月十三日午前十時」という写真の中の記述と
>「南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)を工兵隊が占領したのが十四日未明です。」
>ずれは、いろんな理由が考えられるとおもいますが、
>いかがなんでしょうか?


 画像からは南京政府鉄路管理処伝告(鉄・処・伝は旧字)という文字が読み取れます。
 鉄路管理処は、国民政府⇒行政院⇒鉄道部⇒鉄路管理処という組織形態になっているのだと思います。『国民政府職員録』(南京金陵通信社)1933年発行では「鉄路管理局」と記載されていますが日本人(島津敏男)の編集によるのか、時期が異なるためかは判りません。
 中国語の伝告[chuan2gao4]というのは「伝達する」「伝え知らせる」という意味です。
 鉄道施設に掲示されていたものであることは間違いないと思いますが、下関駅と特定はできません。駅以外の鉄道車両保管施設である可能性もありますし、南京城外には下関駅・江辺駅・京hu4駅(南京駅)・江口駅等の複数の鉄道施設がありました。


http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_119.htm

 南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)というのは「下関車站」のことでありシャキョウではなくシャタン或いはシャテンと読みたいところです(^^)
238 hits

[5552]推論ですが
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 08/6/12(木) 9:14 -

引用なし
パスワード
    小池部隊は13日に京hu4駅を占領し、14日に下関駅を占領したのではないかと思います。下関駅は見るからに立派な駅ですが、他の駅は貧相な建物だったのではないかと思います。南京の古い絵ハガキなどでも下関駅はありますが他の駅はありません。
 鉄道車両を鹵獲していますので、下関駅のような中間の駅ではなく、京hu4駅、江口駅のような鉄道の端にある駅の車両庫を占領したのではないかと思います。下関駅のすぐ北側にある京hu4駅を前日に占領したと勝手に想像しています。京hu4駅の実態は車両庫かも知れませんね。
248 hits

[5553]Re(1):歪曲予防薬
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 08/6/12(木) 11:15 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
> 小池部隊は13日に京hu4駅を占領し、14日に下関駅を占領したのではないかと思います。下関駅は見るからに立派な駅ですが、他の駅は貧相な建物だったのではないかと思います。南京の古い絵ハガキなどでも下関駅はありますが他の駅はありません。
> 鉄道車両を鹵獲していますので、下関駅のような中間の駅ではなく、京hu4駅、江口駅のような鉄道の端にある駅の車両庫を占領したのではないかと思います。下関駅のすぐ北側にある京hu4駅を前日に占領したと勝手に想像しています。京hu4駅の実態は車両庫かも知れませんね。

熊猫さん
さっそく歪曲予防薬、
=詳しい史料展開ありがとうございました。

---------
十二月十三日午前十時
小池部隊
林隊占領
客車八輪
汽関車三輪
----------

旅客昇降の「ターミナル駅」とは限らないわけですね。
操車施設かもしれないし近くの貨物駅かもしれない、
近傍にそうした施設がいっぱいある。
納得いたしました。
250 hits

[5554]Re(4):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 K−K@南京事件資料集 E-MAIL  - 08/6/12(木) 22:16 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>ところで、この写真は下関駅なのでしょうか? それとも、近傍の駅なのでしょうか?
>「十二月十三日午前十時」という写真の中の記述と
>「南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)を工兵隊が占領したのが十四日未明です。」
>ずれは、いろんな理由が考えられるとおもいますが、
>いかがなんでしょうか?

こんにちは、ピッポさん。
現在のところ、具体的な資料がありませんので、推測のみでお答えさせていただきます。

陣中書簡の「岩崎孝治宛封書・十二月十七日付」では、次のように書かれています。

「南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)を工兵隊が占領したのが十四日未明です。
…中略…
本日(十七日午後二時三十分)は午前中付近を巡察して午後は休養して居ります。
…中略…
のんびりとした気分です。下関駅の表窓により外を眺めて久しぶりに内地の人の事を思い出して居ります。」

この記述から、林隊は、南京陥落後、下関駅に宿泊していたことが判ります。そこで、「工兵隊が(下関駅を)占領した」というのは、”部隊本部として占拠した”という意味だと読むことが出来ると思います。

12月13日、林隊は、南京城陥落から敗残兵掃討戦、周囲の警戒などで、夜遅くまで行動していたものと思われます。その後、部隊の本部と定めて占拠したのが、「十四日未明」だったのではないでしょうか?

まぁ、あくまでも推測ですが…。
241 hits

[5555]Re(5):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ  - 08/6/13(金) 4:20 -

引用なし
パスワード
   ▼K−K@南京事件資料集さん:
>陣中書簡の「岩崎孝治宛封書・十二月十七日付」では、次のように書かれています。
>
>「南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)を工兵隊が占領したのが十四日未明です。
>…中略…
>本日(十七日午後二時三十分)は午前中付近を巡察して午後は休養して居ります。
>…中略…
>のんびりとした気分です。下関駅の表窓により外を眺めて久しぶりに内地の人の事を思い出して居ります。」
>
>この記述から、林隊は、南京陥落後、下関駅に宿泊していたことが判ります。そこで、「工兵隊が(下関駅を)占領した」というのは、”部隊本部として占拠した”という意味だと読むことが出来ると思います。
>
>12月13日、林隊は、南京城陥落から敗残兵掃討戦、周囲の警戒などで、夜遅くまで行動していたものと思われます。その後、部隊の本部と定めて占拠したのが、「十四日未明」だったのではないでしょうか?
>
>まぁ、あくまでも推測ですが…。

墨書は、別働部隊に対する戦闘最中の伝令のようなものに読めますね。
「ここは戦闘終わったからよそに回れ、ついでに鹵獲状況報告ヨロシク」
と。

「下関駅占領」は、戦争終了後いわばおもむろな「入城」、ということかもしれない、ということですね。部隊長も、Macとは違って葉巻は咥えてなかったでしょうが(w
317 hits

[5557]Re(3):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 渡辺  - 08/6/14(土) 2:17 -

引用なし
パスワード
   1987年に「南京大虐殺被害者追悼献植第1次訪中団」に同行した内山二郎氏が、中国へ向う船上で、団員として唯一人、南京攻略戦参加者のF氏にインタビューしたときのことを書いています。
F氏は独立工兵第一連隊に所属していたので、K―Kさんや熊猫さんが提示している資料と内容が一致します。
何十年も経ってからの証言ですが、当時の連隊の行動が語られているので貴重です。
なお、F氏が訪中団の団員リスト中の誰かは分かりません。また、引用文中に(中略)とした個所は、日中戦争の推移を記述した部分ですので、私が省略しました。
この資料は「恥」アルバムの写真について『中帰連』へ寄稿した後で見つけたので、残念ながら記事には反映できませんでした。

---
       南京戦Fさんの証言

 陸でどんなに多忙を極めている人でも、海に出れば食べて、眠って、のんびりお喋りする他に用がない。私はこの訪中団でただ一人の南京攻略戟経験者であるFさんを訪ねた。
「みんなしらばっくれて黙っているだけだよ。第一線の兵隊はみんな(残虐行為を)やっているんだ」
 七四歳の好々爺は淡々と自分の過去を語ってくれた。
 Fさんが徴兵検査を受け、赤羽の近衛工兵連隊に入隊したのは昭和九年一月。二年間のお勤めを終えると埼玉県の郷里で農業に従事していた。
 昭和一二年七月七日、蘆溝橋事件が勃発。(中略)
 ……Fさんが予備役招集を受け准尉として独立工兵第一連隊へ入隊を命じられたのは八月三〇日のことである。
「こっちからふっかけたケンカだが、その時は侵略戦争だなんて分らなかったよ。お上からの命令だから日本人として立派に責任を果して来ようと思ったさ」と入隊当時の心境をふり返える。
 九月一三日、Fさんは裏日本を貨車で隠密輸送され、神戸から輸送船に乗船した。そして瀬戸内海、関門海峡を抜け、五島列島付近で船団を組み護衛駆逐艦に護られて上海へ向かった。日本軍は既に八月二三日に第三師団が呉淞橋付近に、第二師団が川沙鎮に強行上陸を開始して僑頭堡を確保L、中国軍との間に激烈な戦闘が始まっていた。中国軍の戦意はきわめて旺盛で、陣地を固守しながら、しばしば果敢な逆襲をくりかえしていた。Fさんたちの上陸地点は呉淞沖である。
「街も道路もえらい荒れ様だった。上海駐留の海軍陸戦隊の連中が制圧していたんだ」
あくる日、宝山城の松井大将の指揮下に入る。上海からは嵐山−蘇州−無錫−常州と一路南京をめざして進攻した。
「Fさんも一般の人に悪いことしたんですか」と私はぶしつけな質問をした。
「やったよ、特に蘇州や常州あたりでね、兵隊でも農民でも殺しちゃった。女と見れば追っかけて行って犯したよ。米でも豚でも牛でもみんな略奪した。徴発といえば体裁いいけどね」
「そういう事って軍紀上は禁止されていたんでしょう」
「もちろん大っぴらじゃないよ、でも上官は見て見ぬふりさ」
 Fさんが南京に辿りついたとき、既に南京城総攻撃は始まっていた。
「一二月一二日の払暁戦でついに光華門上に日章旗がひるがえったんだ。それからすぐ城内の掃討戦に入ったんだが、わたしらは『下関へ廻って城内から敗走する敵兵を待ち伏せし速やかに捕虜にすべし』という命令を受けたんです」
 独立工兵第一連隊は紫金山の南を通って玄武湖の北側を京滬鉄路沿いに下関に出た。
「あれは十三日だったよ。ゆう[手へん+邑]江門からわんわん敗残兵や一般人が逃げ出してくるんだ。連中を捕まえていっしょくたに有蓋車に詰めこんで、錠をかけて揚子江岸へ連れて行ってね。一車両ずつ外へ出して、ダダダダーソと撃っちゃったんです。勇敢な連中は河へ飛び込んで泳いで逃げるんだ。それをまた河岸からダダーソと狙い撃ちする。いま思えば本当に胸が痛みますよ。無残なことをしました」
 南京大虐殺、それは日中戦争の初期の昭和十二年十二月、中国の首都南京を占領した日本軍が、その地でくりひろげた大規模な、略奪、放火、婦女暴行、集団虐殺などの残虐行為の総称であり、十五年戦争において日本がアジアの各地で犯したすさまじい戦争犯罪を象徴するのがこの事件である。被害者の総数は五万とも十万とも二〇万とも三〇万とも言われており未だ定説はない。
[内山二郎「南京大虐殺贖罪の旅」、田辺和彦編『緑の贖罪―南京・追悼献植訪中団の記録』(南京大虐殺被害者追悼献植第1次訪中団、1987年)pp.41-44]
---

▼K−K@南京事件資料集さん:
>※せっかくですので、テキスト化してみました。
>---- 引 用 ----
>昭和十二年九月十日充員召集の為近衛工兵連隊に応召
>同日独立工兵第一連隊第二中隊に編入
>同月二十三日神戸港出帆
>同月二十八日上海上陸
>九月二十八日より十月二十一日に至る間軍直轄工兵として主として軍主要交通路補修作業に従事
>十月二十日より十一月十一日に至る間第九師団に配属せられ大場鎮付近敵主陣地攻撃及蘇州河渡河攻撃に参加
>十一月十日より十二月十七日に至る間軍直轄工兵として湖東会戦及南京攻略戦に参加
>十二月十七日より第十六師団に配属せられ南京警備
>一月二十二日より第十三師団に配属せられ准陽平地に於ける戦斗に参加
>昭和十三年二月三日より准陽平
>---- 終わり ----
351 hits

[5558]時計と逆回りに移動
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 08/6/14(土) 13:54 -

引用なし
パスワード
   ▼渡辺さん:
> 独立工兵第一連隊は紫金山の南を通って玄武湖の北側を京滬鉄路沿いに下関に出た。
 12日は光華門外の工兵学校に宿営し、13日は工兵学校から時計と逆回りに揚子江まで移動したということになります。独立工兵連隊として鉄道設備の修復及び使用準備の任務を予ての行動だったのかも知れませんね。



2人の兵士の話を総合すると

12日
十二月十二日南京城[一ロに南京城と言っても一寸内地の人には思ひ出せないでせう。城壁の高約三十五尺以上はあります。周囲約四里と言はれて居ます。]攻略の命を受けて約二kmばかり手前の工兵学校に前進しました。さすがは支那の名物男が校長をやって居ただけあって見事なものでした。十二日深夜工兵学校を完全に我等工兵の手に取った。

13日
十二月十三日未明南京城を廻って後方の揚子江の河べりの交通船を分捕り付近の自動車十五台タンク三台オート、バイ二台を占拠しました。
あれは十三日だったよ。ゆう[手へん+邑]江門からわんわん敗残兵や一般人が逃げ出してくるんだ。連中を捕まえていっしょくたに有蓋車に詰めこんで、錠をかけて揚子江岸へ連れて行ってね。一車両ずつ外へ出して、ダダダダーソと撃っちゃったんです。勇敢な連中は河へ飛び込んで泳いで逃げるんだ。それをまた河岸からダダーソと狙い撃ちする。いま思えば本当に胸が痛みますよ。無残なことをしました

14日
南京の下関駅(支那語でゲカンシャキョウ)を工兵隊が占領したのが十四日未明です。時に敗残兵約八百名位我等工兵の手で揚子江の川べりで銃殺しました。
 「揚子江の河べり」という記述から13日に煤炭港周辺や江辺駅或いは、江口駅等で軍事活動をした可能性があります。そして何よりも「連中を捕まえていっしょくたに有蓋車に詰めこんで」とありますので、鉄道車両を施設を占領していたことになります。
289 hits

[5560]Re(4):岩崎昌治陣中書簡(独立...
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 08/6/23(月) 0:10 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>ずれは、いろんな理由が考えられるとおもいますが、
>いかがなんでしょうか?
『南京の古蹟』(昭和41年版)佐藤大雄 17頁より
下関停車場
 今南京駅と呼んで居るのは昔の下関駅である。上海から乗ると南京駅の三つ手前に堯化門という駅があるが、全くの田舎である。ここは明の太祖が南京の最外層の城壁の長さ三十里を造らうとして門だけを作り、城壁に及ばずして死んだその門の一つである。次に太平門、和平門の両駅を経て下関に着く、太平門駅は太平門からずっと離れて居るが、和平門駅は和平門外すぐである。
 少なくとも小池部隊は、13日には和平門駅を占領しているはずなので、14日の下関駅を心配しなくとも写真の記述とは矛盾しません。
226 hits

109 / 645 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃スレッド表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃設定 ┃お蔵入り ┃旧思考錯誤 ┃南京事件資料集  
ページ:  ┃  記事番号:   
314571
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
タブブラウザ Sleipnir 公式ページ(上級者向け) [AD-SIZE] Get opera goo RSSリーダー
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送