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[5567]南京事件寺院被害 熊猫 08/7/6(日) 15:16
[5568]消災庵事件 熊猫 08/7/11(金) 13:35
[5569]長生寺事件 熊猫 08/7/17(木) 8:28
[5574]正覚寺事件 熊猫 08/7/20(日) 18:29
[5575]祖灯庵事件 熊猫 08/7/20(日) 21:19
[5587]龍華寺事件 熊猫 08/7/24(木) 1:23
[5591]東獄廟事件 熊猫 08/7/26(土) 0:16
[5592]まとめ 熊猫 08/7/26(土) 2:16

[5567]南京事件寺院被害
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/6(日) 15:16 -

引用なし
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    南京の寺院被害については、中国ではまとめられているが日本ではあまり話題になっていないような気がします。
http://www.china1931.cn/book/HTML/11027.html

 このスレでは『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)の記述よりは資料も内容も充実したものにしたいと思います。但し、放生寺についてはこのスレではなく別のスレにしたいと思います。

寺院の所在地
 
  

 一応、林長生氏の記述した寺院の位置が解るように地図をアップしました。実際にはその他の寺院でも虐殺行為があっていますので、彼は南京軍事法廷の調査員だった顧威の調査を元に記述したのではないかと思います。

祖灯庵・消災庵
 この寺院は「庵」という名前から尼寺だと思われます。正覚寺を含め既に紹介していますが、他の資料を追加して再度書かせていただきます。
430 hits

[5568]消災庵事件
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/11(金) 13:35 -

引用なし
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   消災庵事件
 この事件については林長生氏がその著書において上手くまとめていますので紹介します。
『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)より
【熊猫訳】
  5.消災庵で尼層と平民8人が殺害された。1937年12月13日午後2時、8人の日本兵が銃を持って消災庵の捜査に来るなり、すぐさま尼僧の慧定・真行・登元・登高の4人を裏門の外の防空壕内に入れると、銃撃後に銃剣で刺した。真行の年齢は65歳、胸に弾が命中してすぐに命を落とした。登元は腰に弾が命中し、脳を銃剣で刺された。登高は頭に3発弾が当たった。日本兵が出て行った後に2人はすぐに死んだ。慧定は腹と腿に弾が命中したが彼女の1人だけ死ななかった。それ以外に、別の5人がこの庵の防空壕の中で日本兵に殺害された。
 内容は粗雑ですが『証言・南京大虐殺』にも消災庵事件の記述がありますので紹介します。
『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会(青木書店)36頁より
  日本軍は僧や尼でさえも放っておかず、中華門小心橋消災庵の僧の隆敬、隆恵および尼の真行、灯高、灯無などは、庵の裏門入口で惨殺された。
 南京市文史資料研究会の文章が間違っているのか、翻訳が悪いのか判りませんが、僧の隆敬、隆恵という人物は消災庵事件とは関係ありませんので、該当書籍をお持ちの方は訂正しておいて下さい。また灯無という名前も手書き文字の読み取りミスと思います。ここで一旦被害者の氏名を整理します。

消災庵事件の被害者
  尼僧:真行(65歳)即死
  尼僧:慧定(31歳)生存、「恵定」と翻訳した書籍あり。
  尼僧:登元(10歳)死亡、朱成山氏は「灯元」と記述。
  尼僧:登高(不明)死亡、朱成山氏は「灯高」と記述。年齢は7歳か?
  平民:卓呂同(不明)死亡
  平民:卓三元(不明)死亡
  平民:呉朱氏(71歳)
  被害者A
  被害者B

 消災庵事件の資料を古い順に提示します。おそらく林長生氏もこれらの史料を読んで消災庵事件について記述したのではないかと思います。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)212-214頁より
【熊猫訳】
尼姑慧定為日軍残殺其師徒等致南京市政府呈文
   (1946年7月8日)
  敵軍が銃殺した師弟の恨みを晴らすために調査を懇請します。
  民国26年古暦の11月10日、敵軍が城に入り翌日午後2時、銃を持った8名の日本軍がやって来て庵を捜査しました。言葉が通じないので、話をする間もなく尼師弟等4人は裏門の外の防空壕内で、銃で撃たれたあと銃剣で刺されました。師の尼僧真行の年齢は65歳で、胸を撃たれて即死でした。尼僧の一番弟子の登元は10歳で腰を撃たれ胸を刺され、二番弟子の登高は脳を3発撃たれ顔を3回さされ、日本軍が行ったあとで二人の弟子は死にました。そして防空壕内には4人の尼僧の他に更に5人、合計9人が壕の中で死んでいました。しかし尼僧の1人は生きていたが、腹と腿を2発撃たれて動くことができませんでした。防空壕で10日余りの後に、辺りがやや落ち着き傷が悪化したので、鼓楼病院に移り治療しました。3回切り開き治りましたが、腿に後遺症が残り道を歩くのは困難なままです。今まで恨みを8年訴えれませんでした。今敵軍が投降し国府還都の勝利により、人口傷亡調査表(死傷人口調査表)を作成して報告し財産損失報告の各1通により、調査を懇請し恨みを申し立てます。生きてる者が恩恵を感じれば死んだ者は平穏です。ここに許可を受け真実を明かします。謹呈
  南京市政府抗戦損失調査委員会
            上申人消災庵住持慧定呈
            住所南京市門東橋小心橋38号消災庵

呉朱氏在消災庵被日軍槍殺的調査表節録
   (1946年7月18日)
 現場:本庵裏門空地
 被害者:氏名 呉朱氏、性別 女、年齢 71、本籍 南京、被害時住所 門東橋小心橋38号消災庵
 日時:26年11月11日(農暦)(1937年12月13日)
 被害状況:証人目撃証言:日本兵から本庵裏門の防空壕内に引っ張られ、歩兵銃で撃ち殺された。
 陳述人:氏名 慧定、性別 女、年齢 40、本籍 南京
     職業 本庵住持、住所 本庵
 調査人:氏名 顧威、性別 男、年齢 35、本籍 南京
     職責 本会調査員、住所 営門口9号
中華民国35年7月18日提出
 まず、顧威という名前の調査員を覚えて下さい。抗戦損失調査委員会の調査員と思われる顧威の名前は今後このスレッドで都度出てくることになります。
 7月8日に消災庵の慧定が上申書を提出してから、抗戦損失調査委員会の顧威が陳述書を提出したのが7月18日です。そして慧定が法廷で証言したのは半年後の翌年1月28日です。
 残念ながら『南京大屠殺史料集 24』には呉朱氏の調査だけで、他の被害者の陳述書は掲載されていませんでした。その後の慧定の裁判証言も記載されていませんが、幸いにも徐志耕の著書に記述されています。秋子氏は「慧定」ではなく「恵定」と翻訳していますので、そのまま提示します。どちらも間違いではありませんが、熊猫訳は中国側の資料の原文より「慧定」としています。
『南京大虐殺』徐志耕(外文出版社)431-432頁より
裁判官―――宋書同
書記宮―――丁象庵
民国三十六年一月二十八日午前
証人恵定入廷。
姓名・本籍・年齢・住所確認。
答 「恵定、女性、本籍地揚州、四十一歳、住所小心橋三十八号、尼僧、消災庵住持」
問 「南京陥落時、あなたの庵で被害にあった人はいますか」
答 「民国二十六年(旧暦)十一月十一日(陽暦十二月十三日)午後二時、小心橋の消災庵裏門に八人の日本兵がやってきて、地下壕内の八人を殺しました」
問 「その八人の名前はわかりますか」
答 「呉という苗字の人が二人、卓という苗字の人が一人、それからわたしの師父の真行と弟子の登元、登高がいました」
問 「どうやって殺したのですか」
答 「銃剣で突いたのです」
問 「全員銃剣で殺されたのですか」
答 「師父は銃弾で死にました」
問 「どの部隊だったかわかりますか」
答 「中華門から入城した部隊です」
問 「あなたはやられなかったのですか」
答 「わたしは銃で撃たれて傷を負いました。鼓楼医院に十一ヵ月入院して、いまでもまだ完全に回復してはおりません」
問 「あなたの証言は事実ですね」
答 「われわれ仏につかえる者はうそは申しません。当時わたし自身がこの身で体験したできごとです」


『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)397頁より
(戦犯谷寿夫の判決書の付属文書より)
【熊猫訳】
  19.民国26年12月13日(即ち農暦11月11日)、門東小心橋38号消災庵内にて、避難したる平民卓呂同・卓三元・呉朱氏等計9名を歩兵銃をもって射殺し、死にきれなかった者は銃剣をもって刺し殺し、この庵の主持の慧定は腿と腹に弾傷を受けたが、幸いにも助かった。
 慧定は証言において日本軍が南京城内に入り込んだのは12月12日と勘違いしています。そして中華門から入城した部隊というのも慧定の思い込みでしょう。慧定の周辺の南京市民の間で、そのような話が流布していたのか彼女自身が思い込んだのか、人は昔話をする際に直接自分が経験した事と、他からの情報を織り交ぜて語るものです。
 「呉という苗字の人が二人、卓という苗字の人が一人」というのは丁象庵書記官のミスか、秋子の翻訳ミスか慧定の勘違いか解りません。しかし最終的には付属文書で「卓呂同・卓三元・呉朱氏」と記載されていますので、事件の審査は慎重かつ丁寧に行われたことが解ります。

消災庵事件番外編
 消災庵事件と思われるのですが、残念ながら特定することが出来ない史料を提示します。
『ドイツ外交官の見た南京事件』石田勇治(大月書店)174頁より
(マギー牧師の解説書:フィルム四)
(二と三)仏教徒の尼僧と幼い修行尼僧(八、九歳)の事件
  この少女は事件後、数週間熱を出していたにもかかわらず、背中を銃剣で刺された。おとなの尼僧は、銃弾の傷が原因で腰の左側を複雑骨折し、傷は拡大性の感染症に発展した。回復は疑わしい。もし回復しても、歩けるようになるにはきわめて特殊な手術が必要となろう。彼女と他の何人かの尼僧は、城内南部のある寺院の裏の建物に住んでいた。日本軍は城内に侵入して、この付近の住民を大量に殺した。彼女を病院へ運んだ仕立屋の推定によると、およそ二五名の死者が出た。そのなかには六五歳になるこの尼僧院の「マザー院長」と六、七歳の幼い修行尼僧の姿もあった。日本兵は、このフィルムが映し出すように、尼僧と幼い修行尼僧に傷を負わせた。彼女たちは待避壕のなかに避難し、五、六日問、飲まず食わずで過ごした。待避壕には多数の死体があり、六八歳の老尼僧が死体の重さで圧死、あるいは窒息死した。五日後、この負傷した尼僧は、ある〔日本の〕兵士が中国語で「何とかわいそうに」と言う声を聞いた。彼女は即座に目を開けて、その男に助命を請うた。かれは彼女を待避壕から引きずり出し、何人かの中国人に、彼女を軍の仮手当所へ運ばせ、そこで軍医が手当てをおこなった。最柊的に彼女は近所の人の手で鼓楼病院へ運ばれた。


『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』(青木書店)293頁より
(ウィルソンの日記:1938年1月1日)
  尼僧が午後連れてこられた。二週間前に大腿骨を痛めていた。日本軍が南京に入城したとき、彼女は別の三人と一緒に壕舎に住んでいたところ、日本兵がやって来て、一人が壕舎の隅々に火をつけた。一緒にいた三人の仲間は殺されてしまった。彼女の傷は感染症がひどく、むずかしい状態だ。
マギー牧師の記述
 慧定は事件当時31歳であり「少女」という記述は消災庵事件と符合しません。しかし尼寺の所在地が「城内南部のある寺院」であることと「マザー院長」を真行のことだとすれば、その年齢が65歳であることが符合します。慧定は7月8日の上申書において真行のことを原文では「太真行」と記載しています。中国語には敬語という概念がありませんが、名前の前に「太」を付けると非常に尊い人であることを意味します。「真行様」と翻訳するのも不自然かと思い「真行」としました。
 また「幼い修行尼僧」の年齢が「八、九歳」が文中では「六、七歳」となっていまが、これらは登高と登元のことだと判断すれば消災庵事件と符合します。
ウィルソン医師の記述
 尼僧の負傷個所と人数の「別の三人と一緒」というのが、真行・登高・登元とすれば消災庵事件と一致します。

 林長生氏の記述を更に解りやすくしたつもりですが、最後まで読んで頂いた方には感謝します。
317 hits

[5569]長生寺事件
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/17(木) 8:28 -

引用なし
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   長生寺事件
『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)より
【熊猫訳】
  1.南門外方家巷の長生寺の僧侶隆海は目撃した。1937年12月12日、日本軍は南京近郊地区を占領し長生寺へと来た。境内でこの寺の僧侶19人を殺害し、付近の民衆が殺害された数は計り知れない、そして付近の家屋は放火された。僧侶の隆海だけが恐ろしい出来事を見ている。事前に境内の地蔵王菩薩の後ろに隠れ、幸いにして難を逃れた。
 林長生氏は最初に長生寺事件について記述していますが、私は気が向いた件から取りかかる性格なものでお許し下さい(^^;
 長生寺事件の史料は少ないので、なかなかその実態を知ることができませんが、精一杯の史料を紹介します。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)215頁より
【熊猫訳】
  日軍在長生寺集体殺害市民的調査表節録
    (1946年7月20日)
 被害者:集団殺害
 被害時の住所:南門外方家巷長生寺
 日時:26年11月10日(1938年12月12日)
 現場:南門外方家巷長生寺周辺一帯
 被害状況:証人目撃証言:当人は長生寺の僧で、日本侵略軍が南京近郊地区を占領し当寺へ進撃した際に目撃している。長生寺の出家者計19名の集団を歩兵銃で撃ち殺し、更に付近の無辜の民衆が銃殺された数は計りきれず、同時に周辺の家屋をいたる所で放火し家屋を焼き払った。当人は恐ろしい焼殺を見て、その後は寺の地蔵王菩薩の仏龕の中に隠れ、幸いにも難を逃れた。
 以上述べた事は、すべて事実であり、決して偽りがない。……此結。
 陳述人:氏名 隆海、性別 男、年齢 58、本籍 鎮江
     職業 宝林禅林主持、住所 雨花台下養回紅村宝林禅林
 調査人:氏名 顧威、性別 男、年齢 35、本籍 南京
     職責 本会調査員、住所 営門口9号
中華民国35年7月20日提出


『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)398頁より
【熊猫訳】
  28.民国26年12月12日(即ち農暦11月10日)、南門外方家巷長生寺にて、この寺の僧侶19人の集団を歩兵銃で射殺した。この寺の主持隆海は地蔵菩薩の仏龕の中にいて、幸いにも助かった。


『南京事件資料集 2中国関係資料編』南京事件調査研究会321頁より
 82谷壽夫戟犯事件判決書付属文献の個別虐殺部分に関する統計抜粋
                      一九四七年
十二日、市民張得勝、方家巷の長生寺にて殺される。
 調査員の顧威の名前がまた出ました(^^)
 一連の寺院被害の事件について、方生寺・祖灯庵を除けば顧威が調査をしています。史料から判断して19人の僧侶とは別に、市民(張得勝)らが長生寺で殺害され、寺の周囲(方家巷)でも殺害事件があっています。
 長生寺事件は噂としてもそれなりに広まっていたようで、見たわけでも当事者でもない人までが証言しています。
『南京大虐殺』徐志耕(外文出版社)183-185頁より
宏量法師の証言
  わたくしは十四歳で長生寺に入りました。長生寺は中華門外の方家巷にありまして、この寺は中庭三つはさんで三十棟以上の建物がございます。間口五間の本堂の中央には金の釈迦牟尼像、その左側には観世音、右側には地蔵王菩薩、それからまわりに十八羅漢が並んでおります。そして第一棟の堂には弥勒仏、第二棟の堂には霊官、文昌、関帝、五福神がまつってあります。長生寺はなかなかきまりが厳しゅうございました。わたしの師父は梵根と申しまして、宗教心の厚いお方でした。日本人が寺を荒らすとは思ってもみないで、「日本人も仏教を信じているのだから、みんな仏門の弟子に変わりない」と申しておられました。
  日本兵は雨花台を攻め落とすとすぐやってまいりました。隠れるひまもごぎいません。梵根師父は寺の僧たちを本堂に集めて誦経し、お香をあげました。みんなざぶとんの上にひぎまずいて、慈悲深い仏様を拝していたのです。銃に帯剣した日本兵が中庭に整列しました。それから一人の日本兵が本堂に入ってくると、僧の肩をたたいて、一人ずつ出てこさせるのです。中庭に面した回り廊下のところで一人をひざまずかせて、もう一人の僧に横で「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえさせますと、銃声が鳴って、ひざまずいていた僧が殺されます。するとまた、もう一人出てこさせて、念仏をとなえさせます。こんなふうにして次々に十七人に念仏をとなえさせ、そして全員撃ち殺しましたんです。浄い仏様のおすまいが血で汚されました。僧衣を着て出家した人が、仏像の前で殺されたのです。仏様を殺したことになります。仏教を信じるという日本兵が、念仏を唱えながら仏教徒を殺害したのでございます。
  あの日、もう一人在俗の人で、あげパン売りの呉じいさんも、逃げる所がなくて長生寺に隠れておりました。一人の人間の命を救うことは、どんな供養にもまさります。師父はまったくの善意から、呉じいさんに僧衣を着せて坊さんになりすませられたのです。ほんにかわいそうなことをいたしました。日本兵はじいさんの後ろ首に軍刀を振りおろしたんですが、半分しか斬りおとせなかったのです。それで首の骨は斬り離されて、気管がまだつながっとるんです。首がグラグラ傾いて、血が吹き出してきて、傷口の肉がグッと収縮して内側にめくれこむのです。呉じいさんは地べたにころげて長いこと悲鳴をあげておりましたそうです。そのうち、ほかの日本兵が来て、こんどは銃剣で何回か突き刺しました。それから三日目には、日本人がまた「姑娘を出せ」といってきて、僧の隆慧さんをつかまえました。隆慧さんは満州旗人で、四十過ぎておりましたが、ひげもなくて色白だったものですから女だと思われたのです。日本兵数人がむりやり衣をはがしてみたら男だったものですから、怒ってまっ裸のままの人を陀羅尼門の大きな石のしきいの所までひっぱってきて、それからかつぎあげて下に投げ落としました。頭が割れて、脳みそや血が一面にとび散りました。
  お気の毒に、師父は当時五十近い年でしたが、もう一人高座寺から避難してきたお坊さんといっしょに日本兵に使役に連れていかれました。僧衣のまま出ていかれたきり、そのあとはゆくえが知れません。長生寺では全部で二十一人死にまして、残ったのは十一、二歳の見習い僧の妙興と能行だけでした。
  わたくしは当時、普照寺に隠れておりました。
 証言はリアルなのですが、本人は南京城内の普照寺にいたのですから目撃証言ではありません。見方を変えれば安全区以外の普照寺にも人がいて、「安全区以外は無人地帯だった」という与太話がウソであるという証拠にはなるでしょう。生存者である隆海の名前が出ないのも不自然です。
 また被害者が21人となっているのは、19人の僧侶に「張得勝」と「あげパン売りの呉じいさん」を加えれば辻褄は合いますが、信憑性の高い証言とは思えません。しかし長生寺の寺院としての規模を知るには、貴重な証言ではないかと思います。

宏量法師の情報ソースは?
 先にも述べましたが、宏量法師は事件当時は普照寺にいたにもかかわらず隆海の名前を出していませんので、直接、隆海から事件の話を聞いたとは考えられません。しかし証言の内容からして創作とは思えません。「見習い僧の妙興と能行」から聞いたのか、その後他の寺院の被害についても証言していますので「調査員の顧威」から聞いたのか、南京の仏教関係者の間での噂話ではないかと思います。
 
 
274 hits

[5574]正覚寺事件
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/20(日) 18:29 -

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   正覚寺事件
 南京事件の中でも重要な位置づけになっているのか、正覚寺事件は現場に記念碑が建てられています。さて、この記念碑は困ったことに間違った記述がされています(^^;
 「更に日本軍は中華門外で尼の真行・灯高・灯光らを殺害した。」(熊猫訳)と記述されていますが、3人の尼僧は中華門外ではなく小心橋の消災庵で殺害されました。
 またこの記念碑に記載されている正覚寺事件の最初の被害者の名前が慧北ではなく慧兆となっています。手書文字の読み違いでしょうが、どちらが正しいのか判りませんので、特定は致しません。尚、ここで翻訳した史料には「慧北」と「慧兆」の名前がありますが、史料の原本通りに都度使われている名前を表示してますので、熊猫のタイプミスではありません。

   
『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)より
【熊猫訳】
  2.正覚寺では15人の僧道が日本軍に殺害さた。1937年12月13日、日本軍兵士の一隊が武定門444号の正覚寺境内まで突入し、寺院を守っている17人の僧道集団を、歩兵銃で射殺、或いは銃剣で刺し殺した。それと同時に氏名の解らない避難者30数人が、この寺の空地で殺された。 
  この17名の僧侶の名前は、慧北、徳才、寛宏、徳清、道禅、劉和尚、張五、源涼、黄布堂、暁侶、慧huang2、慧光、源悟、能空、倡修、広祥、広善である。
 「慧huang2」のhuang2は「ヘンが王、ツクリが黄」です。殺害された僧侶の名簿には17名が記載されていますが、その中の2名は僧侶ではなかったということでしょうが、林長生氏の文章を読むと被害者の僧侶が17名なのか15名なのか悩んでしまいます。林長生氏が見たと思われる史料を提示しましょう。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)214頁より
【熊猫訳】
  日軍在正覚寺集体屠殺僧道的調査表節録
  (1946年7月18日)
  被害者:氏名 慧光、性別 男、年齢 46、本籍 江西
      被害時の職業 僧、被害時の住所 武定門444号正覚寺
  日時:26年11月11日(農暦)(1937年12月13日)
  現場:本寺空地
  被害状況:証人目撃証言:本寺僧道の慧光等15名(各氏名別表)は皆寺院を守る集団は日本侵略軍の中島部隊の兵士から歩兵銃で撃ち殺され、あるいは銃剣で突き殺された。同時に氏名の解らない避難者30数名も、本寺の空地で殺戮にも遭った。しかし物は全て損失し、奪われたものは勝利をもって計ることはできない。
  陳述人:氏名 蓮華、性別 男、年齢 42、本籍 安慶
      職業 本寺主持、住所 本寺
  調査人:氏名 顧威、性別 男、年齢 35、本籍 南京
      職責 本会調査員、住所 営門口9号
中華民国35年7月18日提出

『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)398頁より
  26.民国26年12月13日(即ち農暦11月11日)、武定門444号正覚寺にて、慧兆・徳才・寛宏・徳清・道禅・劉和尚・張五・源涼・黄布堂・暁侶・慧huang2・慧光・源悟・能空・倡修・広祥・広善ら17人を集団銃殺した。
 調査員の顧威の名前には気づいていただけたかと思います。7月18日というのは顧威が消災庵事件について記述と同じ日付になっています。同じ日に調査したのか、書いた日付が同じだけのことなのか興味のあるところです。
 蓮華の陳述では「15名」となっていますが、別表には17名の氏名が記載されています。17名の名簿を見る限り「黄布堂」と「張五」の2名は僧侶の名前とは思えません。「黄布堂」というのは「黄小二」の子供ではないかと思うのですが、いま一つ資料不足です。

氏名の解らない避難者30数人が……
 林長生氏は何を血迷ったのか、『南京大屠殺之鉄証』で与太話を記述しています。顧威の記述を微妙に書き換えたパクリ文章で、「鉄証」などと威勢良くほざくのは止めてもらいたい。
 本当に30数人の避難者は氏名が解らないのか?
『南京事件資料集 2中国関係資料編』(青木書店)3011-334頁より
(82谷壽夫戟犯事件判決書付属文献の個別虐殺部分に関する統計抜粋)
十三日、市民周小二子、門東の正覚寺内にて殺される。【311頁】
十三日、市民周喬夫人、門東の正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、市民周宏元、門東の正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十五日、市民劉金泉、門東の正覚寺内から烏衣巷口まで連れて行かれて射殺される。【311頁】
十三日、市民李発芝、正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、市民李宏奎、正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、市民郭栄寿、門東の正覚寺内にて射殺される。【311頁】
十三日、物売り黄小二の子、年齢わずかに六歳、門東の正覚寺内にて、鉄剣で突き刺されて死ぬ。【317頁】
十三日、農民李宏濤、門東の正覚寺内にて、銃剣で刺されて死ぬ。【318頁】
十二月中、僧侶戴金生、武定門の正覚寺にて刺し殺される。【334頁】
 林長生氏には失礼だが氏名が解らないのではなく、怠けて調べようとしないだけである。中国の研究者より日本の素人の方が真面目に調べとるぞ!
245 hits

[5575]祖灯庵事件
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/20(日) 21:19 -

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   祖灯庵事件

 「祖灯庵」という寺の名前からして尼寺と思うのですが、被害者の名前からして尼僧ではなく男性の僧侶ですので「庵」という文字が必ずしも尼寺を意味するものではないということでしょうか、私には気になって仕方がありません(^^)
『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)より
【熊猫訳】
  4.祖灯庵の焼殺。南京城北の祖灯庵は明の時代に建てられた、本市(南京市)の中でも古寺である。日本軍が南京を侵略占領後に、日本軍の岡村部隊の将兵数人は城北の校門口晩市3号にある祖灯庵に侵入して、宏定・宏開、惟洲の3人の出家者を殺害した。そしてこの庵を放火し正殿の諸仏陀・菩薩・神仏像・厳かな器具・証書・経典を焼却し、その価値は計算できない。
 私が『南京大屠殺史料集 24』を買ったのは「祖灯庵住持宏亮為其師弟等被日軍殺害致南京市政府呈文」が読みたかったからで、祖灯庵事件について詳しく記載されている書籍が無いことを不満に思っています。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)182頁より
【熊猫訳】
祖灯庵住持宏亮為其師弟等被日軍殺害致南京市政府呈文
    (1945年10月22日)
  上申事項、宏亮は住職で南京城北の校門口晩市3号の祖灯庵の者です。本庵は明の時代に創設した数百年余りの歴史ある南京の古寺です。かつて民国26年には陸軍中央第88師が、軍用蹄鉄工場・病院ではなく、非常に多くの後方の留守物品などの貯蔵に本庵を借りていました。
  南京が陥落すると国民党軍は西に撤退し、敵である岡村部隊が南京に侵入し、庵内の貯蔵物品を見ると同時に放火し、当庵正殿の諸仏像を焼き払いました。二万元相当の、菩薩、神仏像を数体、厳かな使用器具及び青焼きの書類、およそ非軍事的な経典などの全て焼き尽くしました。また前住職の弟弟子の宏定、宏開、 徒弟で甥の惟州も殺戮に遭いました。これによって庵内の生計を立てた2畝余りの田畑には、強制的に倉庫が建てられ道路がつくられ、数年にわたって敵の暴威の下にあり、まだ回収する話はありません。
  この抗日戦争の勝利にともない、日月重光(太陽と月は再び光芒を放ち)し、先の新聞に掲載された政府告示を見て、数年に及び敵が破壊した民間財産の損なった弁償を市政府に報告し調査申請ができようになりました。
  ここに謹んで詳しく上申し早急な調査を希望するのは、一日も早く暴敵が占用した田畑の返還による、生計の維持であり、感激の至りとなっていません。特にここに用意した上申書に従い照合し調べて下さい。
謹呈
南京市市長馬
       祖灯庵住持宏亮呈 十、二十二
       校門口晩市三号
  祖灯庵事件で日本軍が南京の文化財を保護したというのは、否定派が創作したデマであることが解ります。
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[5587]龍華寺事件
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/24(木) 1:23 -

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   龍華寺事件
『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)より
【熊猫訳】
  3.通済門外の龍華寺で大勢の僧侶が殺害された。1937年12月13日、日本侵略軍は龍華寺の境内に突入して来て、この寺で大勢の僧侶と印源の師公(師の師)を境内で集団殺害した。同時にこの寺の地下室に避難していた30数名の難民の集団殺害し、ある者は銃剣で突き殺した。
 林長生の著書を読んだだけでは、内容がさっぱり解らないのではないかと思います。そもそも「印源とは誰なのさ?」と突っ込みを入れたくなる内容です。
 どうやら龍華寺の生存者である「印源」の師である「心慈」と「心慈の師匠」を含む多くの僧侶と、30数名の市民が殺害された事件ですが、史料が少なく被害者の名前は心慈一人しか解りませんでした。そてでは史料を紹介しましょう。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)215-216頁より
【熊猫訳】
    日軍在龍華寺集体屠殺的調査表節録
        (1946年7月23日)
 被害者:氏名 心慈、性別 男、年齢 40、本籍 江蘇、被害時の職業 僧、被害時の住所 通済門外四方城一号龍華寺
 日時:26年11月11日(農暦)(1937年12月13日)
 現場:通済門外四方城一号龍華寺
 被害状況:証人証言:被害者本人はそこの師であり、当日日本侵略軍が城下の本寺に達したとき、被害者と師公(師の師)は日本軍によって集団で銃殺された。当地の民衆約30数人は、この寺の地下室の後に避難し、日本侵略軍から銃殺あるいは銃剣で突き殺されたが、被害を受けた民衆の姓名は不詳である。
 陳述人:氏名 印源、性別 男、年齢 35、本籍 南京
     職業 本寺住持、住所 本寺
 調査人:氏名 顧威、性別 男、年齢 35、本籍 南京
     職責 本会調査員、住所 営門口9号
中華民国35年7月23日提出 


『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)398頁より
【熊猫訳】
  25.民国26年12月13日(即ち農暦11月11日)、通済門外四方城一号龍華寺にて、この寺の地下室内に避難する難民約30数人を、銃殺と銃剣で突き殺した。
 【師公】[shi1gong1]というのは「師匠の師匠」という意味で、適当な日本語が思いつきませんでしたので、そのまま師公と翻訳しました。印源の陳述書を読む限り名前ではなく「師公」と弟子たちから呼ばれていたのではないかと思います。
 顧威の記述はこの龍華寺事件については粗雑だと思いました。日本語に翻訳してしまうと分かりにくいのですが、原文では書かずにすむ文字(漢字)は極力省略しています。私は翻訳していて、顧威が他の実務が忙しくて簡素化している印象を受けました。
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[5591]東獄廟事件
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/26(土) 0:16 -

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   東獄廟事件
 書籍や資料よっては東岳廟と記載されていますが、東獄廟だろうと東岳廟だろうと同じですし、問題はありません。双橋門周辺の古地図には東嶽廟と記載されていますので、正式な名称は東嶽廟です。
 北京の東岳廟も東獄廟と併用されていますので、ここでは原文に忠実に両方を用いますが、同じ廟のことであると認識して下さい。
『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)より
【熊猫訳】
  6.東獄廟内で8人が殺害された。1937年12月17日、この廟の主持である顧威は数人の日本兵が廟内に闖入し、廟内の名前のわからない8人の民衆を殺害し、その中の4人は布で両目を目隠しされていたのを目撃している。廟内の謝お婆さんはたたき殺され、一面は血だらけになっていた。
 「おお!顧威は東獄廟の主持であったか。」と思ったら大間違いです。残念ながら林長生氏は悲しいくらいに史料を読み間違えています。当然ですが顧威は東獄廟事件の目撃者ではありません。これが中国のネットであちこちとペタペタ貼られているのですから、大勢の中国人が顧威を東獄廟の主持だと思っていることでしょう。
 林長生氏は「殺害された8人の内4人は目隠しをされていた」という内容の記述ですが、実際の顧威の調査では、殺されたのは7,8人で目隠しされていたのも3,4人と曖昧な人数に止まっています。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)216頁より
【熊猫訳】
  日軍在東岳廟集体槍殺老百姓的査表節録
      (1946年7月27日)
 日時:26年11月15日(農暦)(1937年12月17日)
 現場:南門双橋門東岳廟内外
 被害状況:証人証言、この廟内外の地域で7,8名の名前の解らない民衆が日本侵略軍に銃殺されるのを目撃したが、しかし3,4名の死者は布で両目を目隠ししており、その状況ははっきりわからない。そして廟内で謝お婆さんが殴り殺され、一面が血だらけになった。
 陳述人:氏名 鄭光華、性別 男、年齢 54、本籍 南京
     職業 農夫、住所 南門双橋門東岳廟南路字鋪33号
     氏名 実根、性別 男、年齢 50、本籍 寿県
     職業 住持、住所 南門双橋門東岳廟
 調査人:氏名 顧威、性別 男、年齢 35、本籍 南京
     職責 本会調査員、住所 営門口9号
中華民国35年7月27日提出 
 史料より農夫の鄭光華と、東岳廟の住職の実根が目撃者であり、顧威はあくまでも調査員であることが解ると思います。殺された「謝お婆さん」というのは原文では「謝老太太」となっていますが、彼女は謝善真ではないかと思うのですが、それを確定する資料を持ち合わせていません。
『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会(青木書店)36頁より
「空寒く地凍る時期、日本軍は中華門外で郷民三十人余に強制的に河に入って魚をとり、日本軍の食用に供するように命じた。これに従った者は凍死し、逆らった者は殺戮された。村の婦人の謝善真は、齢六〇を越えていたが、中華門外の東岳廟で日本軍によって銃剣で刺殺され、さらに竹竿を陰部に挿入され、残酷非道この上なかった。」
 わざわざ「」でくくっていますが前半の部分は、東獄廟事件とは関係の無い出来事と思われます。『証言・南京大虐殺』については、原文が悪いのか翻訳が間違っているのか判りませんが、注意して読む必要があるようです。
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[5592]まとめ
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 熊猫 E-MAIL  - 08/7/26(土) 2:16 -

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   放生寺について
 南京城内には国際委員会の安全区と双塘難民収容所が、そして城内を除く南京市内には、上新河難民区・鳳凰難民区・莫愁湖難民区・和記洋行・保国寺・慈幼院・放生寺が難民区となっていましたので、安全区以外の難民区を整理した際にアップしたいと思います。

顧威の調査について
 今回提示した顧威の調査表は、節録(抜粋)であり実際には他にも多くの調査表があり、全ての調査表を入手すると更に詳しい内容が解るものと思われます。
 
住持と主持
 正覚寺の蓮華が「主持」となっているのは熊猫の間違いで、「住持」が正しいです。それ以外は原文通り住持と主持を使い分けています。
 住持は住職という意味です。

その他の証人
長生寺事件
  張高氏・陳良氏の二人が証人となっており、張得勝・王二喜の被害者の名前が判っています。
消災庵事件
  卓玉如・卓葉氏の二人が証人となっており、卓呂同・卓三元の親族ではないかと思われます。
正覚寺事件
  戴庭之証人により、僧侶戴金生の法名は「輝煌」であることから殺された僧侶の数は15名ではなく、16名ということになる。李陳氏も証人となっている。

 当初の予定通り『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)の記述よりは資料も内容も充実したものになったのではないかと思います。資料を入手次第、更に内容を充実させたいと思います。
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