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東獄廟事件 書籍や資料よっては東岳廟と記載されていますが、東獄廟だろうと東岳廟だろうと同じですし、問題はありません。双橋門周辺の古地図には東嶽廟と記載されていますので、正式な名称は東嶽廟です。 北京の東岳廟も東獄廟と併用されていますので、ここでは原文に忠実に両方を用いますが、同じ廟のことであると認識して下さい。
『南京大屠殺之鉄証』林長生(中央編訳出版社)より 【熊猫訳】 6.東獄廟内で8人が殺害された。1937年12月17日、この廟の主持である顧威は数人の日本兵が廟内に闖入し、廟内の名前のわからない8人の民衆を殺害し、その中の4人は布で両目を目隠しされていたのを目撃している。廟内の謝お婆さんはたたき殺され、一面は血だらけになっていた。 「おお!顧威は東獄廟の主持であったか。」と思ったら大間違いです。残念ながら林長生氏は悲しいくらいに史料を読み間違えています。当然ですが顧威は東獄廟事件の目撃者ではありません。これが中国のネットであちこちとペタペタ貼られているのですから、大勢の中国人が顧威を東獄廟の主持だと思っていることでしょう。 林長生氏は「殺害された8人の内4人は目隠しをされていた」という内容の記述ですが、実際の顧威の調査では、殺されたのは7,8人で目隠しされていたのも3,4人と曖昧な人数に止まっています。
『南京大屠殺史料集 24』胡菊蓉編(江蘇人民出版社)216頁より 【熊猫訳】 日軍在東岳廟集体槍殺老百姓的査表節録 (1946年7月27日) 日時:26年11月15日(農暦)(1937年12月17日) 現場:南門双橋門東岳廟内外 被害状況:証人証言、この廟内外の地域で7,8名の名前の解らない民衆が日本侵略軍に銃殺されるのを目撃したが、しかし3,4名の死者は布で両目を目隠ししており、その状況ははっきりわからない。そして廟内で謝お婆さんが殴り殺され、一面が血だらけになった。 陳述人:氏名 鄭光華、性別 男、年齢 54、本籍 南京 職業 農夫、住所 南門双橋門東岳廟南路字鋪33号 氏名 実根、性別 男、年齢 50、本籍 寿県 職業 住持、住所 南門双橋門東岳廟 調査人:氏名 顧威、性別 男、年齢 35、本籍 南京 職責 本会調査員、住所 営門口9号 中華民国35年7月27日提出 史料より農夫の鄭光華と、東岳廟の住職の実根が目撃者であり、顧威はあくまでも調査員であることが解ると思います。殺された「謝お婆さん」というのは原文では「謝老太太」となっていますが、彼女は謝善真ではないかと思うのですが、それを確定する資料を持ち合わせていません。
『証言・南京大虐殺』南京市文史資料研究会(青木書店)36頁より 「空寒く地凍る時期、日本軍は中華門外で郷民三十人余に強制的に河に入って魚をとり、日本軍の食用に供するように命じた。これに従った者は凍死し、逆らった者は殺戮された。村の婦人の謝善真は、齢六〇を越えていたが、中華門外の東岳廟で日本軍によって銃剣で刺殺され、さらに竹竿を陰部に挿入され、残酷非道この上なかった。」 わざわざ「」でくくっていますが前半の部分は、東獄廟事件とは関係の無い出来事と思われます。『証言・南京大虐殺』については、原文が悪いのか翻訳が間違っているのか判りませんが、注意して読む必要があるようです。
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