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[3670]国崎支隊 熊猫 06/12/13(水) 22:24 [添付]
[3672]Re(1):国崎支隊 熊猫 06/12/14(木) 6:14
[3673]Re(1):国崎支隊 熊猫 06/12/14(木) 9:01
[3675]死刑桟橋 熊猫 06/12/16(土) 4:24 [添付]
[3681]『「南京事件」日本人48人の証言』より 熊猫 06/12/17(日) 0:41
[3682]『福山聯隊史 中国編』より 熊猫 06/12/17(日) 22:48
[3683]Re(1):『福山聯隊史 中国編』より ピッポ 06/12/18(月) 8:48
[4837]神速丸 熊猫 07/9/10(月) 8:48 [添付]

[3670]国崎支隊
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 熊猫 E-MAIL  - 06/12/13(水) 22:24 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : __hr_img012.jpg
・サイズ : 228.5KB
  
添付画像【__hr_img012.jpg : 228.5KB】  予告通りに資料公開させていただきます。今年の試行錯誤大賞は確実にゲットできると思っていたのですが、核心さんの反則技ともいえる資料公開がありましたので、非常に厳しくなりました(笑)。

国崎支隊の捕虜の末路は如何に?
 私の軍事郵便コレクションの中からの公開です。
【封筒表受取人】
大日本広島県芦品郡有磨村柞磨
×××××(父親の氏名)

【封筒裏】
13.1.8
国崎独立隊山田(鉄)部隊宮崎隊
××××(差出人氏名)

【便箋1】
昭和拾参年の新春を詞奉りて謹みて御一報致します
吾等は南京を十二月三十日出発して揚子江を舟にて四日間で上海に着き今上海に滞在中です
吾等昭和十二年は思い出深い年でした十三年の新春を舟で同胞の血を流した揚子江河岸鎮江で迎へました舟は神戸大洋会社の神速丸で吾等山田部隊には意味深い神速隊で■へた部隊が又も神速丸に乗るとは何ん【ママ】と言ふ面白い事でしょう
揚子江には今だに機械魚設水雷が多くありて海軍の舟御用船が二隻沈みました夜間は航海しません

【便箋2】
南京には面白い死刑桟橋がありて毎日支那敗残兵又負傷者を日本刀で殺し射殺して居ます死体は全部揚子江に流して居て痛快です
上海は南京よりは大変家屋を焼き破壊して居ます而し外人の家屋はそのままで大部分は帰へて居ます共同租界はそのままです支那人は一人も揚子江の対岸より入れて居ません日本人は大変多く商売をして居ます中でもカフエー食堂が多く■■は少なく着物店は多いです
紡績工場も仕事をぼつ/\として居ます
吾等は第四工場に居ます仕事は大部し

【便箋3】
て居ます使用人は支那娘■男です
日本人使用の支那人は領事館の証明書で対岸より出入りして居ます
全体より見れば南京よりは大変破壊してあり樹なんか見る影もない様な所が何数【ママ】もあり而し戦死者も至る所に墓を作って祈ってあります
時に昨日■飼の兄よりの通信で九月四日に兄上様も召集で出征との事大変驚きました大至急居る所部隊名を通知下さい
元気で御奉公の■事と推察致します
又御姉上様朗教子ちゃんはどうして居るのですか元気ですか御様子下さい

【便箋4】
吾等は近日中に又も舟にて大連より天津に向かふとの噂です確実な事は不明なれども出発は確実です
上海でも夜間は〇下十五度位になる事は珍しくありません日光は照って居ても水が少し流れて居る所が凍ります
天津は〇下二、三十度は常との事です
今日広島県出身代議士山道襄一氏が御慰問下さいました先は御様子とし
御身御大切に
     ××(差出人名)
父上様
 宮崎隊の存在は確認できませんでしたが、歩兵第41連隊に差出人が実在したことと、昭和13年4月16日に戦死したこと、そして当時のより細かい住所まで確認できましたので公開することにしました。
42 hits

[3672]Re(1):国崎支隊
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 熊猫 E-MAIL  - 06/12/14(木) 6:14 -

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   >大日本広島県芦品郡有磨村柞磨
現在の芦田町柞磨という所だそうです。

>13.1.8
昭和13年1月8日という意味です。この部隊に郵便物差出許可が出たのは、昭和12年12月15日ですので、これ以前の軍事郵便はないはずです。

>国崎独立隊山田(鉄)部隊宮崎隊
兵士達は「国崎支隊」ではなく「国崎独立隊」と言っていたのでしょうか、この呼び方は知りませんでした。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/
46 hits

[3673]Re(1):国崎支隊
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 熊猫 E-MAIL  - 06/12/14(木) 9:01 -

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   >吾等は南京を十二月三十日出発して揚子江を舟にて四日間で上海に着き今上海に滞在中です
『福山聯隊史 中国編』(古川書店)83p

 昭和十三年一月二日福山歩兵第四十一聯隊は南京を出発し上海にむかった。一月五日上海に上陸。
 歩兵第41連隊の移動は分散して行われたものと思われます。総定員3,747名、馬526頭を1隻の船で運搬したとは思えません。
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[3675]死刑桟橋
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 熊猫 E-MAIL  - 06/12/16(土) 4:24 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sikei02.JPG
・サイズ : 181.7KB
  
添付画像【sikei02.JPG : 181.7KB】 死刑桟橋
 浦口にあった碼頭のどれかを「死刑桟橋」と呼んでいたのだと思います。
 中国がwの資料も探したのですが分かりませんでした。
43 hits

[3681]『「南京事件」日本人48人の...
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 熊猫 E-MAIL  - 06/12/17(日) 0:41 -

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   >死体は全部揚子江に流して居て痛快です
第十軍参謀・吉永朴少佐の証言165p〜166p
-----十四日以降はどうですか。
 「二、三日してから作戦上の任務で下関に行きました。揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体が水浸しになっていました
-----相当数というと、どの位ですか。
 「正確にはわかりませんが、数千はあったと思います。第十軍は南京の南側からだけ攻めたのでなく、国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います
-----すべてが軍人の死体ですか。
 「軍服を着てない中国人も相当ありました。あとで聞いた話ですが、南京には軍服が相当脱ぎ捨てられてあったと言いますので、軍服を着ていない中国人は便衣兵だと思います。軍服でない中国人の死体が吊るしてありました」
-----どこにですか。
 「はっきりしませんが、吊るしてあったという記憶があります。潮のかげんで土手にうちあげられたのかもしれません。それを吊るしてあったように記憶してたのかもしれません」

砲艦勢多艦長・寺崎隆治少佐の証言250p
-----寺崎さんが城内に入ったのはいつですか。
 「勢多はずっと下関にいて、命により対岸の硫安工場を占領しました。
 戦闘機のベテラン岡村基晴(少佐)が同期で、南京に来ましたので、下関でローソクをともして祝杯をあげたこともありました。
 私がはじめて城内に入ったのは十七日の入城式の時だったと思います。
 この時は国民政府の広場に参列して、松井石根大将や長谷川晴中将と万歳三唱しました。比良の艦長だった土井申二中佐が隣で、この時、土井さんが作った漢詩をもらいました。
 陸軍の案内で紫金山や光華門なども見に行きましたが、死体はありませんでした。死体があったのは揚子江の沿岸だけです。下関と浦口付近だけです
-----揚子江岸の死体は全部でどの位ありましたか。
 「四、五千人はあったと思います」
-----その死体はどういう死体ですか。
 「中国軍が揚子江に逃げる時、海軍が来ましたし、浦口に逃げた時は日本の陸軍が来ていましたからその時の戦死体です
 通常の戦死体なら、揚子江を流れるようなことはないでしょう。殺した後に誰かが川に投げ込むか、川の側に連行されて殺害されたものと思われます。当時の軍人達が揚子江の死体を見て、国崎支隊を連想しているところに支隊の評価が現れています。
59 hits

[3682]『福山聯隊史 中国編』より
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 熊猫 E-MAIL  - 06/12/17(日) 22:48 -

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抗州湾政戦上陸その十 (68p)

 福山歩兵第四一聯隊は首都南京の対岸浦口攻略を命ぜられて昭和十二年十二月二日湖山を出発
 途中の道はよく、すでにクリーク地帯を経って高原地帯だ。樹木の両側にはいたるところに草原があり、樹木が茂り、農夫が働いておって、のどかな農村風景まるで日本内地の秋季演習で行軍しているようだと、楽しい二列縦隊の行軍の列は進撃する。
 福山四一の将兵は対岸浦口攻略のことほ知らず「南京の土を踏まなければ……」と長城戦から、杭州湾上陸と苦労を続けた兵士たちは、首都南京攻略の手柄話を故郷に持って帰れるぞ。行軍ほ二昼夜ぶっとおしで続いても、遅れる兵はいない。
 十二月八日「揚子江を渡河せよ、敵の退路を浦口で遮断せよ」の命令が伝えられた。
 石臼潮には第十軍直轄になっている。満州の独立工兵第十一聯隊がダイハツ舟艇を野をこえ、山をこえて持ってきていた。
 揚子江は清流と思っていていたのに、濁流がとうとうと流れて河幅は二千メートル。
 敵兵は全くおらず、十二月十一日渡河成功して浦口を攻撃した。
 遠く彼方の夜空をこがす炎、いんいんたる砲声、ああ南京の総攻撃が始まったなあと福山四一は浦口に近つく。
 十二月十二日、いよいよ浦口攻略戦となった。第三大隊は北方山地から頭段庄に前進、第一大隊は石仏寺高地から攻撃を始め、第二大隊は予備軍としてひかえた。
 夜になると予備軍をそれぞれ投入して、激戦となった。


抗州湾政戦上陸その十一(69p)

 昭和十二年十二月十二日南京攻略戦の最終段階で米警備艦パネ一号、英砲艦レディバード号事件が発生した。これは日本砲兵が敵艦と誤って撃沈したが、英米両国に陳謝して損害賠償を約して円満に解決したが、南京虐殺事件があった。
 福山歩兵第四一聯隊は南京の対岸浦口に上陸していたのでまったく無関係であった。
 残念ながら無関係ではありません。まったく無関係であったとは・・・・・・・図太い神経をしています
47 hits

[3683]Re(1):『福山聯隊史 中国編』...
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 ピッポ E-MAIL  - 06/12/18(月) 8:48 -

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   ▼熊猫さん:

> 福山歩兵第四一聯隊は南京の対岸浦口に上陸していたのでまったく無関係であった。

残念ながら無関係ではありません。まったく無関係であったとは・・・・・・・図太い神経をしています


福山聯隊史 中国編
片岡修身、古川書店、<u>昭53</u>

とありました。1978年発行。
51 hits

[4837]神速丸
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 熊猫 E-MAIL  - 07/9/10(月) 8:48 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : soku00.JPG
・サイズ : 76.3KB
  
添付画像【soku00.JPG : 76.3KB】  大阪から中国へ兵士を輸送する船舶の写真です。
 たぶん「神速丸」の写真ではないかと思うのですが定かではありません。
 
61 hits

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