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予告通りに資料公開させていただきます。今年の試行錯誤大賞は確実にゲットできると思っていたのですが、核心さんの反則技ともいえる資料公開がありましたので、非常に厳しくなりました(笑)。
国崎支隊の捕虜の末路は如何に? 私の軍事郵便コレクションの中からの公開です。
【封筒表受取人】 大日本広島県芦品郡有磨村柞磨 ×××××(父親の氏名)
【封筒裏】 13.1.8 国崎独立隊山田(鉄)部隊宮崎隊 ××××(差出人氏名)
【便箋1】 昭和拾参年の新春を詞奉りて謹みて御一報致します 吾等は南京を十二月三十日出発して揚子江を舟にて四日間で上海に着き今上海に滞在中です 吾等昭和十二年は思い出深い年でした十三年の新春を舟で同胞の血を流した揚子江河岸鎮江で迎へました舟は神戸大洋会社の神速丸で吾等山田部隊には意味深い神速隊で■へた部隊が又も神速丸に乗るとは何ん【ママ】と言ふ面白い事でしょう 揚子江には今だに機械魚設水雷が多くありて海軍の舟御用船が二隻沈みました夜間は航海しません
【便箋2】 南京には面白い死刑桟橋がありて毎日支那敗残兵又負傷者を日本刀で殺し射殺して居ます死体は全部揚子江に流して居て痛快です 上海は南京よりは大変家屋を焼き破壊して居ます而し外人の家屋はそのままで大部分は帰へて居ます共同租界はそのままです支那人は一人も揚子江の対岸より入れて居ません日本人は大変多く商売をして居ます中でもカフエー食堂が多く■■は少なく着物店は多いです 紡績工場も仕事をぼつ/\として居ます 吾等は第四工場に居ます仕事は大部し
【便箋3】 て居ます使用人は支那娘■男です 日本人使用の支那人は領事館の証明書で対岸より出入りして居ます 全体より見れば南京よりは大変破壊してあり樹なんか見る影もない様な所が何数【ママ】もあり而し戦死者も至る所に墓を作って祈ってあります 時に昨日■飼の兄よりの通信で九月四日に兄上様も召集で出征との事大変驚きました大至急居る所部隊名を通知下さい 元気で御奉公の■事と推察致します 又御姉上様朗教子ちゃんはどうして居るのですか元気ですか御様子下さい
【便箋4】 吾等は近日中に又も舟にて大連より天津に向かふとの噂です確実な事は不明なれども出発は確実です 上海でも夜間は〇下十五度位になる事は珍しくありません日光は照って居ても水が少し流れて居る所が凍ります 天津は〇下二、三十度は常との事です 今日広島県出身代議士山道襄一氏が御慰問下さいました先は御様子とし 御身御大切に ××(差出人名) 父上様 宮崎隊の存在は確認できませんでしたが、歩兵第41連隊に差出人が実在したことと、昭和13年4月16日に戦死したこと、そして当時のより細かい住所まで確認できましたので公開することにしました。
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