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[4802]65連隊の第二虐殺現場 核心 07/8/24(金) 8:55
[4817]Re(1):65連隊の第二虐殺現場 熊猫 07/8/27(月) 8:46
[4818]なぜですか? 核心 07/8/27(月) 12:30
[4823]Re(1):なぜですか? 熊猫 07/8/29(水) 9:50
[4824]阿部輝郎氏の捏造の過程 核心 07/8/29(水) 22:01
[4828]Re(1):阿部輝郎氏の捏造の過程 熊猫 07/8/30(木) 9:18
[4829]父の話 核心 07/8/30(木) 11:11
[4830]捏造の主導者は阿部輝郎氏 核心 07/8/30(木) 13:22
[4825]捏造勢力に関して 核心 07/8/29(水) 22:08
[4827]さすがの揚子江も真っ赤になった 核心 07/8/30(木) 7:14
[4831]収容所が二箇所の件 核心 07/8/30(木) 20:47
[4833]Re(1):収容所が二箇所の件 熊猫 07/9/1(土) 22:40 [添付]
[4820]下関桟橋での斬首行為 核心 07/8/28(火) 1:10

[4802]65連隊の第二虐殺現場
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 核心 E-MAIL  - 07/8/24(金) 8:55 -

引用なし
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   最近、「南京の氷雨」を読み、65連隊に第二虐殺現場があったことを知ったのですが。
 
その虐殺の模様が以前、指摘した「南京大虐殺研究札記」の小俣行雄氏の記事と一致します。
以前、掲載した内容ですが父(栗原利一)が関係した虐殺ですのがもう一度引用しておきます。

”...そこで、揚子江の下関へ、捕虜を連れていって首を切った。日本兵は捕虜を一列にならべて首を切った。最初の列の処刑が終わると、次の列を前進させて、死体を揚子江に投げ込ませて、それから前と同じように一列にならべて処刑した。こうして朝から晩まで、つぎつぎに首をはねたが、一日に二千人しか斬れなかったという。
−彼らの話はまだつづく。
 二日目には手が疲れてきたので、機関銃をかつぎ出した。二台の重機をすえて十字砲火を浴びせた。河岸に向って一列に並ばせて、ドドドドッと、重機関銃の引き金を引いた。
捕虜たちはいっせいに河に向って逃げ出したが、岸までたどりついたものは一人もいなかったという。...”
(『侵略−中国戦線従軍記者の証言』現代史出版会)
 
この最初の日の斬首行為に父が参加していたという話は以前した通りです。
 
これが「南京の氷雨」の65連隊の第二現場の虐殺の模様だと思われます。
 
収容所が一つか、二つかですが捏造派が人数を少なくする傾向にあることを考えれば人数の多い一方の収容所だけを取り上げたとも考えられます。
また、収容所が一つだとした場合には父が火災を全く「作り事」と判断していることから考えると、父は第二現場の虐殺に参加していたために知らなかったとも考えられます。
ただ阿部氏のストーリーは両角ノートに辻褄をあわせるように仕立てられていますので第二の収容所があって、そこに全体の捕虜数から幕府山の捕虜数を差し引いた数の捕虜が収容されていた、と考えたほうが全体の整合性が取れると考えています。
 
いずれにしろ「南京の氷雨」の第二現場も処分(=虐殺)であったと考えていいでしょう。
41 hits

[4817]Re(1):65連隊の第二虐殺現場
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 熊猫 E-MAIL  - 07/8/27(月) 8:46 -

引用なし
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   核心さん
 小俣行男氏の著書の引用部分は、幕府山事件の歩兵第65連隊とは関係のない別の事件のことだと思います。
 
 栗原利一氏が斬首をした話は、12月20日のことではないでしょうか?この日は65連隊は下関にいたはずですし、他の部隊の処刑行為に出くわした利一氏が「剣の達人」として余興のような感じで斬首行為をしても何ら不自然ではありません。
46 hits

[4818]なぜですか?
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 核心 E-MAIL  - 07/8/27(月) 12:30 -

引用なし
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   父の話は「余興」のような話ではありませんでしたけど。

私は65連隊の虐殺現場は二箇所であり、収容所も二箇所であると今のところ考えているところなのですが。
 
阿部輝郎氏の著作の将校や兵士の証言も、それぞれが虚偽証言ではあっても自分の所属する部隊の動きには合わせてあります。

角田栄一氏も5中隊ですから、第二現場の護送と16日の斬首と考えたのですが。
「南京の氷雨」の彼の証言から「海軍船着場から逃がした」が「海軍船着場で処分した」であり「二挺の重機関銃を用意した」とも一致していると考えているのですが。
38 hits

[4820]下関桟橋での斬首行為
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 核心 E-MAIL  - 07/8/28(火) 1:10 -

引用なし
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   父(栗原利一)は一貫して幕府山は13日、14日と書いています。
これは以前お話したように12日に陥落と考えての記憶違いだと思います。

父に桟橋での斬首行為を近年になって確認した時に多少驚いた養子で「ああ、あれは別の話だ。」と返事がありました。
返事の様子からすると幕府山とは全く関係ない話のようでした。
それで熊猫さんの言われる20日と言うのもありうる、と考えてはいるのですが。
 
父も当然、より残虐な話は私にもしていません。
斬首行為の話は多分、父は私に話したことも(小学校3年生時)忘れていたと思います。
34 hits

[4823]Re(1):なぜですか?
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 熊猫 E-MAIL  - 07/8/29(水) 9:50 -

引用なし
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   ▼核心さん:
>私は65連隊の虐殺現場は二箇所であり、収容所も二箇所であると今のところ考えているところなのですが。
 ここが重要なポイントなんですが、板倉由明氏は「栗原利一証言」を信用していなかったために、今となっては非常に恥ずかしい間違いをおかしています。利一氏は幕府山の南側に捕虜収容所にいたわけですから、燕子磯が殺害現場であるというのは、板倉由明氏が【収容所も二箇所である】ということを知らずに、別の収容所を前提に「栗原利一証言」を検証したのと、燕子磯の「永済寺」を「永清寺」と勘違いしてしまったことにあると思います。
 安部輝郎氏は板倉由明氏の「永清寺の勘違い」が何を意味するかが根本的に理解できていませんし、氏の著書は殺害現場と収容所の場所を取材ミスしていますので注意して読んでください。
 そもそも両角証言が信頼できるものであれば、誰も【虐殺現場は二箇所であり、収容所も二箇所である】というポイントを見落としたりはしないはずです。

 以前、利一氏が斬首をした場所は下関だと記憶しております。その場合、12月20日以外は考えられないからです。日本刀で斬首する場合は、将校や剣の達人にその役がまわってくるもので、利一氏は上等兵(途中で伍長)で南京戦に出兵していますので、自分の日本刀は持っていなかっただろうし、上官の命令でもない限り斬首することはないからです。利一氏は剣の達人ということで、部隊では一目置かれていたのではないかと思います。
44 hits

[4824]阿部輝郎氏の捏造の過程
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 核心 E-MAIL  - 07/8/29(水) 22:01 -

引用なし
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   2チャンで書いた内容です。

昭和38年に両角業作氏が公開する予定の無い両角メモを阿部輝郎氏
に書き写させました(どのくらい真実かは知らない)。
それを元に「郷土部隊戦記1」が出来ました。

昭和47年に阿部輝郎氏が鈴木明氏を65連隊の連中に紹介して
虚偽証言を集めて「南京大虐殺のまぼろし」が出来ました。

昭和57年に阿部輝郎氏がまたまた虚偽証言を集めて
「ふくしま 戦争と人間」が出来ました。
 
昭和59年に父(栗原利一)が突然、真実を毎日新聞と
本多勝一氏に話しました。
 
それで田中正明氏、板倉由明氏、阿羅健一氏、大井満氏などが父に連絡を取り (森松俊夫、原剛も)父を脅したり(これは阿羅氏や田中氏の役割)
なだめたり(これは板倉氏や原氏の役割)して父の証言を歪曲したり
捏造したりしました。
 
阿部輝郎氏は歪曲した父の証言や新たな虚偽証言を追加して「南京の氷雨」を書きました。
44 hits

[4825]捏造勢力に関して
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 核心 E-MAIL  - 07/8/29(水) 22:08 -

引用なし
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   これも2チャンで書いたことですが、私は捏造勢力は戦史室を中心とした旧陸軍隠密派と言うものも含んでいると考えています。
彼らは故意に歴史を捏造しようとしている人たちなので、いまのところ真剣に対応するつもりは無いのですが。
(昨年、大御所の森松俊夫氏から、この掲示板に書き込んだ通りの嘘を2回も聞かされていますので。某社でのスケッチ帳の破りとりもそこいらの指示だったようです。)
56 hits

[4827]さすがの揚子江も真っ赤になっ...
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 核心 E-MAIL  - 07/8/30(木) 7:14 -

引用なし
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   下関の埠頭の斬首行為は父が、私が小学3年生の時に話した出来事です。
父は当時のことを思い出したのか、相当の回数、両腕を振り上げては降ろしし、首を斬る動作をして最後に「さすがの揚子江も真っ赤になった。」と言って大笑いしていました。
 
これに該当する出来事を探していたのですが。
 
父は25歳で剣道3段です。
角田栄一中尉は30歳すぎで剣道5段です。
角田氏の方が父より腕は勝っています。
彼は歩兵隊中尉ですから護送の任務はありますが、機関銃で掃射するようなことはありません。
それなのに「大虐殺したのは俺だよ。」と言って、虐殺の当事者であるという発言をしています。
確かに連隊単位での斬首行為なら20人以上の兵士が行なえば、日に二千人を殺害し、揚子江を真っ赤にすることも可能かな、と考えたのですが。
 
つぎに下関の埠頭まで捕虜をどこから、どうやって連れてきたのかを考えました。
それで、もし幕府山と同じ捕虜収容所からなら父はその人数を考慮しているハズなので、より埠頭に近い場所から連れてきたのだろう、と今のところ考えています。
 
いぜれにしろ「処分」ですから殺害の意思は確定的にありました。
39 hits

[4828]Re(1):阿部輝郎氏の捏造の過程
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 熊猫 E-MAIL  - 07/8/30(木) 9:18 -

引用なし
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   ▼核心さん:
>昭和38年に両角業作氏が公開する予定の無い両角メモを阿部輝郎氏
>に書き写させました(どのくらい真実かは知らない)。
>それを元に「郷土部隊戦記1」が出来ました。
 問題なのはこの時点で収容所と殺害現場が複数であった認識がされていないことなのです。つまり両角業作氏は、「事件のことは知らない」あるいは「事件を隠蔽している」かのどちらかなのです。
両角業作氏は事件を知っていたか?
 12月17日に大湾子での殺害があった日は、両角連隊長殿は南京入城式のため中山門に参列し国民政府行政院で松井大将の有難い言葉を聞いて、その後は励志社での酒宴に出席されていたはずですので、たとえ真実を語っていたとしても両角業作氏の事件認識は伝聞によるものです。
 「事件のことを私に聞かれても知りません」とは言ってないので、両角業作氏か阿部輝郎氏のどちらかが、間違いなく嘘をついています。勿論、二人とも共犯である可能性もあります。
 阿部輝郎氏が、両角業作氏を取材したのであれば、その証言の矛盾(収容所と殺害現場は複数であったことを言わなかったのか?)を指摘しないのは不自然です。
47 hits

[4829]父の話
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 核心 E-MAIL  - 07/8/30(木) 11:11 -

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   父の話は一貫して「両角さんなどは現場は知らないのだ。」です。
父は昭和天皇と両角業作氏を深く敬愛していたようですので、自分は知っているが、両角さんくらいになると現場で起きたことなど知らない、ということです。
ただ、具体的に起きたことは知らなくても「処分」の指示は出していたのです。
これは父が「あれほどのことは両角さんでなければ出来ないことだ。」と言っていましたから。
父は、指示は両角氏から出されているが、現場にはいないので何が起きたかは知らないのだ、だから自分は話すのだ、と言うことです。

田山芳雄氏は勿論、現場で起きたことを知っていたでしょう。
だから終戦直後も部下を回って口止めをしてあるいたのだと思います。
また、木村守江氏は私の印象では、知っていたけど話さなかった、だと思います。
(父は木村氏が知っていて話さないでいることを多少は軽蔑していたようです。)
現場には居なかったでしょうから。

(捕虜がどのように収容されていたかは未だ確定できないと思います。父の護衛していた収容所では人数の増減などは無かったように父は考えていたようです。)
55 hits

[4830]捏造の主導者は阿部輝郎氏
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 核心 E-MAIL  - 07/8/30(木) 13:22 -

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   捏造の主導者は阿部輝郎氏でしょう。
私も「郷土部隊戦記1」を読んで、初めて日中戦争の実態を知ることだできたのですが。
この本が書かれた当時、福田篤泰氏、両角業作氏、佐藤知事が序言を書いた本に、異論を唱える元兵士が出てくるなんてことは考えられなかったと思います。
三人とも序言の中で平和が続くことを願っています。
両角氏も万が一に備えて、元兵士等の名誉を守るために知っている事実を曲げた手記を書かれたのだと思います。
 
そして南京論争が起きるにつれて捏造勢力が助力して「南京大虐殺のまぼろし」、「ふくしま 戦争と人間」が書かれました。
 
父や私はこの論争は全く知りませんでした。
 
結論から言えば、65連隊の歴史の捏造は本人の望んだことかどうかは別にして、阿部輝郎氏の主導によって行なわれたのです。
53 hits

[4831]収容所が二箇所の件
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 核心 E-MAIL  - 07/8/30(木) 20:47 -

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   ▼熊猫さん:

>【虐殺現場は二箇所であり、収容所も二箇所である】

虐殺現場は二箇所であり、収容所が二箇所である、と多少あてずっぽうで言っているのですが、この意見に妥当性があるのですか?
自分としてもまだ確信できるまでに至っていないのですが。
私は阿部氏は角田氏や平林氏から事実を聞いた上で、印象操作なども行い、捏造している、と考えているのですが。
殺害現場が二箇所と言うのも真実を知った上で、突然「南京戦史」や「南京の氷雨」で言い出したと考えているのですが。
収容所が二箇所(以上?)であることが妥当性があるのなら、阿部氏は平林氏などからそのことを聞いた上で隠蔽したと考えているのですが。
39 hits

[4833]Re(1):収容所が二箇所の件
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 熊猫 E-MAIL  - 07/9/1(土) 22:40 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : bakuhuzan00.jpg
・サイズ : 48.2KB
  
添付画像【bakuhuzan00.jpg : 48.2KB】 ▼核心さん:
>虐殺現場は二箇所であり、収容所が二箇所である、と多少あてずっぽうで言っているのですが、この意見に妥当性があるのですか?
>自分としてもまだ確信できるまでに至っていないのですが。
二箇所というのは最低の数字であり、それ以上である可能性を含めた数字です。
虐殺現場
■12月16日魚雷営
■12月17日大湾子(利一氏が参加した現場です)
 これで二箇所となるのですが、魚雷営は16日だけでなく17日もあったと兵士の日記から間違いないと思います。
 板倉氏が利一氏に最初に連絡をとった時点では、大湾子の殺害を燕子磯の殺害と混同したために、間違った幕府山事件の認識が右翼の人々に広まってしまったのではないかと思います。「だったら燕子磯の殺害をした部隊はどこだ?」という疑問がでますが、幕府山事件とは無関係と思います。
 目黒福治氏の日記を読むと、16・17・18日の3日間に及ぶ殺害があったとも解釈されます。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/hohei19.html#HMeguro
 結論から申しますと、殺害現場が二箇所というのは控えめで謙虚な数字です(^^)。何故か両角連隊長殿の日記には、16日の魚雷営の殺害が記載されていません。

収容所
 有名な収容所の写真に写っている背景の山は、老虎山(安部氏が勘違いしている場所)ではなく百菓山です。利一氏が警備した収容所を勝手ながら「五百村収容所」と呼ばせていただきます。私の認識としてはタラリさんよりも少し北側の幕府山に近かったのではないかと思っています。
 安部氏は自説を補強するために、現地の住民を取材した内容を記述しています。アサヒグラフの写真を見れば判る事ですが、南京が北半球ではなく南半球にないかぎり安部氏の「上元門崗収容所(正しくは上元門崗ではなく上元崗です)」は間違っています。背景に写っている山が老虎山だとすると、兵士や建物の影が逆になります。
 そしてもう一つが「上元門付近の収容所」があったと思われます。
50 hits

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