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1945年終戦直後、南京には1万6千人余りの日本人居留民が残っていました。
蒋介石の「仇を仇でかえすな」という方針により命は助かりましたが、「ときには街を歩いていて、いきなり殴られたり、石を投げつけられることもあった」(「集報」解説より)ということです。
そこで南京の居留民たちは、身の安全を図るために、「ゆう江門外」の「揚子江岸、南京駅に近く、北に獅子山をのぞむ」ところで集団で生活することにしました。
「集報」は、その日本人収容所内で発行されていた新聞です。手書きガリ版刷りの日刊紙で、世界の情勢から収容所内のさまざまな出来事までを掲載し、在留邦人の貴重な情報源になりました。
余談ですが、翻訳するための「中央日報」などを下関まで買いにいく際には、「買って帰る途中で、背後から石を投げつけられて、首筋から血を流しながら帰ってきた」などという事件もあったようです(解説より)。
この「週報」は、不二出版より「『集報』-南京日本人収容所新聞」との第で復刻されています。ガリ版の手書き、字も細かくて、読むのにちょっとした労力がいるのですが、この中に面白い記事を発見しました。1945年12月7日、中国記者の岡村大将会見記の翻訳です。
中国の仁義に感謝 日本の前途には悲観 岡村大将 中国記者の質問に答ふ
(リード)前駐華日本軍総司令官岡村寧次大将は五日終戦以来初めて中国側記者と単独会見し七十五分間に亘って投降以来の心境その他について記者の質問に答へたが、訪問の中央社記者は六日の『岡村会見記』を次の如く伝へてゐる
(本文)九月九日の投降調印以来、岡村の名は常に新聞紙上に散見したが、彼の地位は派遣軍総司令官より降て中国陸軍総部指揮下の投降事務連絡官となつた、
岡村は外交大楼(?)より還つた旧日本大使館内で記者と面会したのだが、この地この家こそ当年川越大使が我に対しいはゆる三原則を提出せるところ、初冬の白日樹葉徒に落ちて一つ二つ、軟かい冬の陽光に包まれる庭の寂寞はまた敗将岡村の心境を偲ばせるものがあつた
『自分は俘虜の身であり、一切は中国陸軍総部の命に拘はる、だから記者会見としては君との場合が初めてだ』
彼はまづかういった、次いで三ヶ月来の投降条項実施についての蒋委員長および何司令の偉大な精神に深い感激を表明し
『中国は古来仁義の邦だ、三ヶ月以来の蒋委員長および何総司令の厳格の中に寛大を失はない態度にはまことに感謝の言葉を知らない』
といった。そして記者との間に次のやうな一問一答が取交された
[問]中日戦争期間、日本軍が大陸戦場で使用した兵力は幾何か [答]百三十万、その中共産軍に用ねたもの二十万乃至三十万 [問]日本軍の死傷は [答]中央軍作戦に対しては毎回普通数千人の死傷を出した 共産軍作戦では毎年の死傷二千乃至三千を出してゐる
記者は更に日軍日僑の器材物品盗買および華北日軍及び酒井中将の共産軍参加に関し質し、更に后者について十二月三日東京朝日が社論『痛心』を載せた旨伝へると、岡村は初めこれを承認したが同時に巷間伝はるところ区々で恐らく誇大に報道されたものであらう、例外としての少数以外大体問題はないと信じてゐると述べた、
その例証として山東睦県の某少尉は一度びは共産軍に誘はれて投じたものの後非を悟って割腹自殺したことがあると語り
『共産軍に投じたものは数十人にすぎず酒井中将の如きは一退役軍人であって現在の日本軍とは何の関係もない』
さて、次です。
記者はかつての南京大屠殺事件を引合に出して彼の軍人としての感想を叩くと彼は煙草を啣へてゐたが俄かに顔色を変へ、苦笑のうちに
『当然それは悪い、我々は良心の立前からそのことをいはれるのを好まない、君再びそのことをいつてくれるな』と憮然とした、
記者らは相対して暫時沈然としたが、この時前の草原を見下すと二、三の兵士がのんびりと日光浴してゐる風景が見られた
岡村大将の反応も興味深いものですが、終戦後わずか3か月後の南京日本人収容所新聞に「南京大屠殺」の語が見られること、会見記を紹介した記者も特に反応を示していないことが注目されます。
このあとも「大陸の繁栄へ 中国と日本が協力」の中見出しで記事は続くのですが、目が疲れました(^^; 引用は、ここまでにしておきます。
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