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[5083]善悪二元論は感情論? 永好和夫 07/12/29(土) 2:07
[5084]Re(1):善悪二元論は感情論? とほほ 07/12/29(土) 2:52
[5093]Re(2):善悪二元論は感情論? 永好和夫 07/12/29(土) 14:50
[5089]Re(1):善悪二元論は感情論? とほほ 07/12/29(土) 4:31
[5095]Re(2):善悪二元論は感情論? 永好和夫 07/12/29(土) 21:57
[5096]Re(2):善悪二元論は感情論? 永好和夫 07/12/30(日) 0:44

[5083]善悪二元論は感情論?
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 永好和夫 E-MAIL  - 07/12/29(土) 2:07 -

引用なし
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   善悪二元論の是非についていろいろご解答くださいましてありがとうございます。

さて、「殺人」→「悪」→「制裁」というような思考について、論理性を失って感情論になっているのではないか、と思いましてご質問させていただきます。

たとえば、『殺人を絶対悪だ、仕方がないなどというのは論外だ』と決め付ける人は、以下の関してどのようにお考えなのでしょか?

日本の交通事故の死者は毎年6000人、負傷者は120万人ぐらいです。そればかりか貴重な石油を浪費して環境汚染で地球を破壊しようとしています。車は『走る凶器』といわれるように殺人犯としては北朝鮮や暴力団などとは比べ物にならないほど凶悪です。『拉致問題』であれだけ騒ぐ日本人はどうして交通事故では騒がないのでしょうか?それどころか、多くの日本人は『自分たちの都合』のために車の犯罪を見て見ないふりをしていますね。

殺人が絶対悪と断定してはばからない人は、車の運転を拒否していますか。それとも、『自分は絶対に交通事故で人殺しをしない』ということを論理的に説明できるでしょうか。車を運転して人殺しは絶対悪だという人は矛盾していませんか?自家用車をすべて廃止しようという運動はどうして起こらないのでしょうか。

日本政府は年間の交通事故の死者5000人目標にしているそうです。このことは、言い方を変えると『年間5000人が車で殺されるのは仕方がない』ということではないでしょうか。殺人が絶対悪と絶対視する人は、交通事故の死者は0でなければならない、ということですね。しかし、これは理想論で、現実不可能なことは明らかです。統計的に見て、来年も約6000人死ぬことはわかっているのです。ですから社会全体(日本として)としては『偶然約6000人死んだ』のではなくて、『約6000人が死ぬことがわかっている』のに自分たちの都合で車による殺人を見て見ぬ振りをしている『確信犯』なのではないでしょうか。この点はどうお考えになりますか。

殺人事件でもそうですよ。日本は年間約1000人が殺害されていますが、もし、来年一年間の殺人事件の犠牲者が100人だったら警視庁は表彰物ですよ。みんな大喜びするでしょう。これは不謹慎で論外ですか?

個人について考えるときは確かに命はもっとも大切ですが、日本社会全体として見た場合には、違った視点も必要ではないでしょうか。
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[5084]Re(1):善悪二元論は感情論?
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 とほほ E-MAIL  - 07/12/29(土) 2:52 -

引用なし
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   ▼永好和夫さん:
>たとえば、『殺人を絶対悪だ、仕方がないなどというのは論外だ』と決め付ける人は、以下の関してどのようにお考えなのでしょか?
車の犯罪を見て見ないふりをしていますね。
<略>
>殺人が絶対悪と断定してはばからない人は、車の運転を拒否していますか。それとも、『自分は絶対に交通事故で人殺しをしない』ということを論理的に説明できるでしょうか。車を運転して人殺しは絶対悪だという人は矛盾していませんか?自家用車をすべて廃止しようという運動はどうして起こらないのでしょうか。

中々哲学的なご主張で私ごときにはなんともいえませんが、少なくとも殺人と事故は異なりますよね。永好和夫さんの論理を突き詰めれば、究極のところで自己と他者の存在そのものが殺人を内包しているのですよね。自動車社会が6000人の人を殺してしまっている、と言う見方は正しいとは思いますが、自動車は殺人の道具でもありませんし、一部を除き、それは事故であり殺人ではありません。しかし永好和夫さんのように考えて「酒酔い運転による死亡事故」これは未必の故意による殺人に近いとして厳罰が課される世の中になってきてますよね。

永好和夫さん、もう少し考えてみませんか(^^ゞ
それを言っていたら、車に限りません、包丁だって何だってそうだし、それこそ自己と他者の存在そのものにまで言及していかねばなりません。ですからこそ法律では殺人罪とはどのような罪であるのかを明確に規定しています。
51 hits

[5089]Re(1):善悪二元論は感情論?
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 とほほ E-MAIL  - 07/12/29(土) 4:31 -

引用なし
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   ▼永好和夫さん:
>殺人事件でもそうですよ。日本は年間約1000人が殺害されていますが、もし、来年一年間の殺人事件の犠牲者が100人だったら警視庁は表彰物ですよ。みんな大喜びするでしょう。これは不謹慎で論外ですか?

と言うことで、この論点に移行してみます(あまり自信はない(^^;)。

殺人は悪です。しかしおっしゃるように日本社会では年間1000人が犠牲となっています。それが100人に削減されたら警視庁は表彰してもよいとは思いますが、100件の悪が敢行されたことを決して忘れてはなりません。

また、日本では(日本に限りませんが)「殺人罪」と言う刑罰で殺人を禁止している規定があります。しかもその刑罰たるやそれが悪であることを根拠にしているにかかわらず「死刑」と言う殺人を行う論理矛盾を抱えてます、この矛盾の解消には「死刑廃止」しかありませんし私は「死刑廃止論者」です。ただここで死刑廃止の議論は避けましょう。

殺人罪と言う規定があるにかかわらず、殺人は起きてしまう、だから殺人罪の規定は無意味だ。と言う論理は成立しないと思います。いかなる理由があろうと殺人罪は悪であり罰せられるべきだと思います。

ここまではおそらく大方の人には納得できると思います。
殺人罪の規定があっても殺人は起きるから無意味であるので殺人罪を廃止せよ、と言う方は皆無だと思います。

永好和夫さんの主張と言うのは「社会悪」としての殺人の絶対善悪をどう捕らえるべきかと言うご主張かと思います。社会が殺人を犯したら、それは「悪」以外の何者でもありません。永好和夫さんが例に挙げられた自動車事故の例や殺人事件の存在は「社会悪」として決して見逃すべきことではありません。車社会は「死亡事故0社会」の実現を、人間社会は「殺人事件0社会」の実現を目指すべきであることは自明であり、それが起きているから「悪」ではない、と言う論理は成立していないのではないでしょうか?

「銃」は殺人の道具です、それ以外に使い道はない道具ですので社会から銃を廃絶することは必要であると認められますが、自動車はそうではないです、がしかし自動車事故の廃絶は目指すべき社会目標です。より安全な物流手段、交通手段が可能であれば自動車の廃絶もありえると考えます。しかし、それがないにもかかわらず自動車を廃絶することはこれもまたおそらくは全世界の数十億の人間を殺人することになると思います、これも許されることではないです。だからと言って自動車事故による若干の殺人を許容することも出来ないから事故0の実現をめざし物流交通などのより安全な移動システムの構築にまい進する。

ここには一貫して「殺人は悪」の論理は貫かれており永好和夫論に見られるような「自動車社会を是としているのは殺人を許容している」とする矛盾は存在しない。
58 hits

[5093]Re(2):善悪二元論は感情論?
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 永好和夫 E-MAIL  - 07/12/29(土) 14:50 -

引用なし
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   ▼とほほさんへ:
丁寧に回答してくださいましてありがとうございます。
>
>中々哲学的なご主張で私ごときにはなんともいえませんが、少なくとも殺人と事故は異なりますよね。

人命が失われるという点では全く同じですね。銃やナイフが人を殺すのも、車が人を殺すのも、拳やナイフや車に人を殺す意思があって殺しているのではなくて、拳やナイフや車を使う『人』が他人を殺しているのです。その点ではどちらも『人殺し』で同じですね。そもそも人殺しが罪とされる倫理(法ではりません)は『人命の尊さ』からくるわけで、その点では同じですね。

殺人と事故ということばの使い分けは、殺人は『人殺しの意図がある』、『事故とは偶然に人を殺してしまった』ということだろうかと思います。しかし、『人命が失われた』という点では全く同じです。

殺人は”意図的”に人を殺すしたから極悪という考えも問題があります。社会で起こっている殺人の大部分は、いじめや家庭内暴力など日ごろの虐待などが原因で理性を失って感情的になり”殺すつもりはなくて”殺してしまった、あるいは憎悪と敵愾心で人間性が破壊されて病的なケースがほとんどです。ですから必ずしも『意図的』であるとはいえません。

一方、交通事故も個人としては『殺してやろう』という意図があって起こるものではありませんが、社会全体からみたら、年間約6000人死ぬことは統計上わかっているので、社会の責任としては明らかに『意図的』です。地震や雷のように避けられないわけではありませんから。都会に住む人には車は必需品ではありませんし、私は熊本に住んでいますが車はもっていませんし、それで不便はありません。

私が問題にしているのは、『自分たちに都合がわるいことは重大なことでも見て見ぬ振りをする、あるいは詭弁を弄して弁明する』という姿勢です。これはウヨクの思想と同じではないかと思うんです。年間6000人の死者、120万の負傷者、資源の浪費、環境汚染を考えると、車の弊害は決して些細なことではありません。これを軽視することはエゴイズムだといったら言いすぎでしょうか。

殺人については、『金持ち喧嘩せず』といいますように、社会的強者は権力により、社会的弱者を支配、隷属、弾圧する暴力的空間を作って弱者の人権を蹂躙しているのが現実社会です。ですから、殺人を起こす人のほとんどが社会的弱者です。最近のメディアの報道のように殺人の残虐性だけを強調した報道を流して視聴者の感情を煽り理性を失わせ、刑罰を重くするような傾向は、権力側が社会的弱者を束縛する方向に向かう危険を感じます。

『殺人』と『事故』では言葉の綾で、人命を奪っていることでは同じ罪であるのに、印象はぜんぜん違います。自分たちの都合で、このような言葉の使い分けをやっている点が問題だと思います。行為について感情論になるのではなくて、『人命が失われた』という事実と、そのようなことが起こった『原因、背景』についての冷静な考察ことが大切ではないでしょうか。

永好和夫さんの論理を突き詰めれば、究極のところで自己と他者の存在そのものが殺人を内包しているのですよね。

そうです。だからこそ『テロとの闘い』ではなく、差別偏見をなくし、飢餓貧困を撲滅しない限り世の中は平和にならないと思います。

自動車社会が6000人の人を殺してしまっている、と言う見方は正しいとは思いますが、自動車は殺人の道具でもありませんし、一部を除き、それは事故であり殺人ではありません。しかし永好和夫さんのように考えて「酒酔い運転による死亡事故」これは未必の故意による殺人に近いとして厳罰が課される世の中になってきてますよね。

先に述べたとおりです。拳も車もそれ自体は人を殺しません。人を殺すのは『人』です。自分たちに都合がいいように法律を作ってかってに解釈しているのだと思います。自衛隊などが典型です。毎日毎日人殺しの練習ばかりしている合法的な『殺戮団体』ですね。そして『専守防衛』という美名のもとに国民を騙しているのですから悪質です。そもそも、戦争というのは、敵味方どちらも『専守防衛、正義の戦い』の名目で行なわれるのです。世界中の軍隊が『自衛隊』なのです。『侵略隊』をもっている国などありませんよ。『侵略するぞ〜〜〜』などといって戦争する国などありません。ことばの綾で国民を騙しているだけです。そして戦争が起これば犠牲になるのは常に社会的弱者、つまり一般国民です。
>
>永好和夫さん、もう少し考えてみませんか(^^ゞ

思いつきでご質問しているのではありません。常に疑問を持って考えて、客観性のある結論を導きだすことを念頭においております。

>それを言っていたら、車に限りません、包丁だって何だってそうだし、それこそ自己と他者の存在そのものにまで言及していかねばなりません。ですからこそ法律では殺人罪とはどのような罪であるのかを明確に規定しています。

車社会の問題は被害の大きさから重大問題で、決して無視できないものです。社会に計り知れない害を及ぼしているのですから。しかも自分たちのエゴで人命が傷つけられ、犠牲になったり環境が破壊されているのです。包丁の例と一緒にするのは問題です。ふつうの状況では、包丁は『殺人の意図』がない限り人殺しはしません。車は『殺人の意図』がないのに莫大な人命を奪い、傷つけている点、そして規模において同列に議論すべきではないと思います。

法律に負け背手おけばいいというのも問題ではないでしょうか。すべて法律で決着がつくのでしたら議論は無用です。ほとんどの人が事件についての詳細については知らないのですから。直接事件について関与した人と調査した人で法のもとに解決すればいいということになってしまいます。実際には法というのはいいかげんで、どのようにも解釈できますし、裁判における判決も世論の影響を受けます。そして、法律は往々にして国家権力に有利に働きやすいことは活動家であるとほほさんは実感しておられると思います。ですから問題提起しているのです。車社会について述べたのはあくまで例であって、問題提起は『二元論で善悪を判断する』というやり方についてです。

人間というものは非常に多面的であり、神様ではありませんから、良い面と悪い面を常に持ち合わせています。ですから、良い面に着目するとどんなひとでも善人になり、悪い面に着目するとどんな人でも悪人になってしまいます。また、チョムスキーは、人間は環境によりどんな人でも聖人になることができ、ある状況においてはどんな人でも悪魔のような人間になってしまうものである、と述べています『グローバリズムは社会を破壊する(明石書店)』。これも非常に示唆的です。

人間は過ちを犯すものであり、物事を感情や体験、経験によって判断してしまうものです。そして他人の過ちには気づきやすく、自分の過ちには気づきにくいものです。ですから人間は一人で生きていけない以上、お互いに他人を傷つけあいながら生きていると思います。『他人に迷惑をかけないように』などといいますが、それはあくまで気持ちであって、他人に迷惑をかけないで生きている人間などはいないのでしょうか。だからこそ『寛容の精神』がとりわけ社会的弱者に対しては大切ではないかと思います。

それから、理性的な判断や論理的な思考というのは訓練によって培っていかないと身につかないものだと思います。そのような意味で『試行錯誤』のHPには理性的に真剣に議論する場として貴重であると思います。
67 hits

[5095]Re(2):善悪二元論は感情論?
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 永好和夫 E-MAIL  - 07/12/29(土) 21:57 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>▼永好和夫さん:
>>殺人事件でもそうですよ。日本は年間約1000人が殺害されていますが、もし、来年一年間の殺人事件の犠牲者が100人だったら警視庁は表彰物ですよ。みんな大喜びするでしょう。これは不謹慎で論外ですか?
>
>と言うことで、この論点に移行してみます(あまり自信はない(^^;)。
>
>殺人は悪です。しかしおっしゃるように日本社会では年間1000人が犠牲となっています。それが100人に削減されたら警視庁は表彰してもよいとは思いますが、100件の悪が敢行されたことを決して忘れてはなりません。
>
>また、日本では(日本に限りませんが)「殺人罪」と言う刑罰で殺人を禁止している規定があります。しかもその刑罰たるやそれが悪であることを根拠にしているにかかわらず「死刑」と言う殺人を行う論理矛盾を抱えてます、この矛盾の解消には「死刑廃止」しかありませんし私は「死刑廃止論者」です。ただここで死刑廃止の議論は避けましょう。
>
>殺人罪と言う規定があるにかかわらず、殺人は起きてしまう、だから殺人罪の規定は無意味だ。と言う論理は成立しないと思います。いかなる理由があろうと殺人罪は悪であり罰せられるべきだと思います。
>
>ここまではおそらく大方の人には納得できると思います。
>殺人罪の規定があっても殺人は起きるから無意味であるので殺人罪を廃止せよ、と言う方は皆無だと思います。
>
ご回答ありがとうございます。議論は善悪二元論を問題にしているのです。殺人などの事件がおきたとき、背景や原因、問題に対する視点を考慮しないで善悪二元論で善悪を判断することの危険性について問うているのです。

『いかなる場合でも殺人は処罰されるべき』といいますが、極端な例ですが、正当防衛で相手を殺してしまった場合でも、人を殺したということでは『殺人』です。それでは正当防衛は『悪』か?法律でも社会的一般観念でも『止むを得ない』として正当化してますよね。つまり、正当防衛における殺人の善悪の問題は、「殺人」→「悪」→「罪」という善悪二元論ではけっしてないのです。私は正当防衛については、人を殺すことはあってはならないことであるけれども「止むを得ない」と解釈しています。

一般の殺人でもいろいろ原因や動機を調べて総合的に判断します。同じ殺人でも原因、背景によって刑の重さが違うのは、二元論ではないためです。オウムの麻原でも、あれだけの危害を加えても弁護士代だけでもどれだけ時間と国民の血税をかけて裁判をおこなったか。麻原の弁護士代だけで5億円あまりかかったといわれています。

わたしは犯罪を肯定しているわけでも殺人罪を否定しているわけでも決してありません。あらゆる犯罪はあってはならないことですが、背景や原因によっては正当防衛のように「止むを得ない」ことがあるように相対的な判断が必要であることです。殺人以外でも虐待や強盗、人権蹂躙などは「あってはならないこと」です。しかし、それらを原因や背景を考慮せずに結果だけで善悪を決めてしまうのは非常に危険であることを強調したいのです。

死刑の善悪はここでは述べませんが、死刑でなくても、刑罰というのは自由を奪い、強制労働を行なわせるなど、国家権力による合法的な『人権蹂躙』です。ここでも、原因や背景を無視して『人権蹂躙』→『悪』というような単純な二元論で善悪を決めていないことがわかります。『犯罪を行なった』という原因、背景があるからこそ、犯人に対しては『人権蹂躙はあってはならないこと』であるが「止むを得ない」というふうに解釈しています。この場合にも二元論で論じているのではなくて犯罪を多角的視点から相対的に客観的に判断すべきだと思います。裁判で過去の判例が参考になるのはそのためでしょう。

それから善悪二元論で陥りやすい問題点は視野狭窄になることです。人間は神様ではありませんから過ちを犯すものです。ですから、欠点だけに着目して善悪を決定してしまえば、すべての人間は悪人になってしまいます。また、悪行でも程度の差があります。恣意的か過失かによって異なります。またその人が置かれた背景も考慮すべきです。裁判では『犯行の動機』が非常に重視されるのはそのためです。

それから、人間一人として見るか、国家として見るかという視点の違いによる判断も大切です。人間一人についての視点では、殺人を犯さないことは最重要なことです。しかし、国家として見た場合、殺人が一人も起こらないことを最重要とすることは人間に神様になることを要求するようなものです。日本は殺人が起きているから犯罪国家だ、などという善悪二元論の判断はおかしいですよね。他国との比較によって判断しますよね。もちろん犯罪がなくなる努力をしていくことは大切ですが、国家として見た場合、人一人の命は相対的に小さくなるのは当然です。10年間で8万人死者、1200万の負傷者、環境破壊をする交通事故や30万人の自殺、300万の自殺未遂が、過去10年10数人の『拉致被害者』よりも重視されるべきではないでしょうか。『救う会』とマスコミを政治利用した国民の集団ヒステリーは、自分たちの被害(もちろん気の毒なことですが)という個人問題をマスコミによって超肥大化させ、植民地支配を放置したばかりか、制裁、軍事的威嚇を加えてきた背景、を無視して善悪二元論により、「拉致」→「犯罪」→『北朝鮮は犯罪国家』というイメージを作り出したものです。『拉致問題で歪む日本の民主主義』(スペース伽耶)の中で高嶋伸欣琉球大学教授は、善悪二元論をいたるところで批判しています。

それから刑法というのは『犯罪人を処罰するため』のものではなくて、『犯罪人の人権を擁護するため』のものです。これは刑法や憲法の基本です。私は刑法の精神を『平和の精神』と考えています。法律で報復が絶対許されないのもそのためだと思います。また法律というものは、すべての犯罪に杓子定規で一律に当てはめられるものではありません。裁判で長期間かけて原因、背景、動機などを綿密に調べるのはそのためです。このように時間と費用をかけて裁判を行なうことからも犯罪人を処罰するためではなくて、罪を犯した人の人権を擁護して再発防止に勤めることが刑法の精神であることが分かると思います。

それから社会問題を考えるときは感情に偏せず、問題を俯瞰的に見ることが大切です。家族や知人の不幸は個人的に同情するのは当然ですが、日本だけでも人の不幸は一日何百件もおきています。それらすべてを国民一人ひとりが同情しろなどというのは馬鹿げていると思います。ニュースで報道される犯罪は氷山の一角であり、しかもニュースで報道されること自体、国民の大多数に知らせることで事件の超肥大化です。ニュースにならない圧倒的大部分についてはごく一部の人しか知らずに終わってしまうのですから。拉致問題の被害者はたしかに不幸ではありますが、NHKだけでも10000回ぐらい報道されているのです。国家権力が個人の不幸を一億倍ぐらい誇大報告して、国民全体に、まるで自分たちが直接被害にあったような錯覚を起こさせて集団ヒステリーを起こさせて日本を『戦争する国』にしようとしている点こそが問題です。

それから国際間では、『正義なき国際社会』といわれているように、アメリカが国連を牛耳り、アメリカが世界の裁判官になってしまっている現実を知るべきだと思います。ブッシュの侵略戦争で犠牲になった人びとは虫けら同然で、アメリカを訴えることはできません。侵略戦争の最高責任者である極悪非道のブッシュはイラク戦争の責任を取りましたか?人のことをいう前に自分たちのことを考えて見なければなりませんね。アジア太平洋戦争の最高責任者は『平和国家の象徴』でい続けたし、ブッシュの戦争幇助をしたコイズミも反省すらしてませんね。そして日本は『アメリカ貢献』を『国際貢献』といって国民をだまして自衛隊を派兵(派遣ではない)して憲法九条を踏みにじり戦争犯罪幇助を続けています。北朝鮮の拉致よりもずぅ〜とひどい犯罪を現在進行中です。そして国民は自分たちの犯罪は棚に上げて北朝鮮を非難してるんですね。
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[5096]Re(2):善悪二元論は感情論?
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 永好和夫 E-MAIL  - 07/12/30(日) 0:44 -

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   とほほさんへ:
>
永好和夫さんの主張と言うのは「社会悪」としての殺人の絶対善悪をどう捕らえるべきかと言うご主張かと思います。社会が殺人を犯したら、それは「悪」以外の何者でもありません。永好和夫さんが例に挙げられた自動車事故の例や殺人事件の存在は「社会悪」として決して見逃すべきことではありません。車社会は「死亡事故0社会」の実現を、人間社会は「殺人事件0社会」の実現を目指すべきであることは自明であり、それが起きているから「悪」ではない、と言う論理は成立していないのではないでしょうか?

悪ではないといっているのではありません。交通事故による殺人も銃による強盗殺人も「人命を奪った」ということでは同じなんです。ですから結果がすべて、人を死に至らしめた過程や動機を無視して善悪二元論で議論する人の考えでは、どちらも同じ『殺人』→『悪』ですね。ただ、個人的には事故とか過失致死とかいって「殺人」や「犯罪」とはいわない。ようするに言葉の綾でごまかしているんです。悪とか殺人とか犯罪という言葉は、憎悪や非難を含む感情的な意味をもっているから恣意的に使わないだけです。このことが車の殺人の罪の深さを国民の目からそらしているんですね。もちろん、何度もいうように背景や原因を考慮する必要で罪の軽重を考慮することが大切ですが。

一方で、国家的に見れば『走る凶器』は、今年6000人以上の国民を殺し、120万人の国民に傷害を与えたんですね。そして、このことは去年までの統計からわかっていたのです。つまり国家レベルでみれば、今年交通事故で死んだ6000人以上の人、120万の負傷者は偶然に死んだり傷ついたのではなくて、死ぬべくして死んで、負傷すべくして負傷したのです。なぜなら死んだり負傷したりすることは予めわかってたからです。ですから、これらの被害者は国家レベルで見たとき、決して不慮の事故ではなくて『国民の合意』によって『殺された』故意の大量殺戮なのです。国民が殺されても仕方がないって考えてるからでしょう。なぜなら『走る凶器』を撲滅しようとせず野放しにしているのは国民なんですから。

なぜ、国民は『拉致問題』や『暴力団』とは比較にならない凶悪な『走る凶器』の特大犯罪を野放しにしているのか?答えは簡単です。自分たちに『都合がいい』からです。『走る凶器』をなくしてしまうと自分たちが少々不便になる。要するに国民のエゴイズムなんです。交通事故によってなくなった人の遺族や障害者になった人の人生の苦しみは計り知れないものがありますよ。実際に身体を切断されたり植物人間になった被害者を看病している遺族の人の悲鳴を訊いて見るとわかりますし、良心的な加害者は良心の呵責で精神病になったり、『走る凶器の撲滅』を訴えている人もいます。

それから、『走る凶器』の環境破壊も想像を絶するものがあります。近年タバコの害が問題になっていますが、車を持っている人は、たいていタバコを毎日1000本吸う人よりも環境に害を与えています。タバコの煙は直接吸い込んでも死にませんが、車の排ガスを直接吸い込んだら即死します。それなのに、タバコの害ばかり誇大広告されてますね。『走る凶器』の個人所有を認めなくすれば、京都議定書は確実に守れますし、世界的に問題になっている地球温暖化防止の最良の解決策ともいえると思います。車をもっている人は、タバコの害を訴えるなら、訴える前に自分の車を廃車にすべきではないでしょうか。自分がタバコと比べ物にならない環境汚染に加担しておきながら、それよりも汚染能力が低いタバコを非難する資格があるのでしょうか。

このように『走る凶器』というのは国家レベル、世界的レベルで見れば、極悪の『凶器』であることは否定しようがない事実なのです。大戦後からいままで日本だけでも数十万の人間を虐殺し、数千万の人びとを傷つけながら地球を破壊してきたばかりでなく、現在そして今後も殺戮、環境破壊をし続けるのですから、ヒロシマ、ナガサキも真っ青です。

このような最悪の凶器を『自分たちに都合がいいから』といって犯罪行為に目を閉じ耳を塞いだり、屁理屈を捏ねて言い訳する人は、従軍慰安婦や南京大虐殺を否定する人と同じではないでしょうか。

つまり、『走る凶器』というのは人間のエゴイズムによる『合法的』な大量殺戮装置、環境破壊装置なんですね。合法的などというのは国民の合意によって人殺しを正当化する屁理屈に他なりません。車社会を許容している人は、大量殺戮と環境破壊を許容しているということのどこが誤っているのでしょうか?

『自分が都合がいいことと正しいことはめったに一致しない』

ある知識人(名前は失念しました)のことばですが、まったくそのとおりだと思います。ですから、車を運転する人は人殺し環境破壊に加担することを認識すべきでしょう。車を運転しながら、『人殺しは仕方がないなどというのはけしからん』という人は矛盾してますよ。因みに私は車を運転しません。

「銃」は殺人の道具です、それ以外に使い道はない道具ですので社会から銃を廃絶することは必要であると認められますが、自動車はそうではないです、がしかし自動車事故の廃絶は目指すべき社会目標です。より安全な物流手段、交通手段が可能であれば自動車の廃絶もありえると考えます。しかし、それがないにもかかわらず自動車を廃絶することはこれもまたおそらくは全世界の数十億の人間を殺人することになると思います、これも許されることではないです。だからと言って自動車事故による若干の殺人を許容することも出来ないから事故0の実現をめざし物流交通などのより安全な移動システムの構築にまい進する。
>
銃は殺人の道具であることは当然です。『走る凶器』と違うところで最大の問題点は、一般の人には銃はなくても不都合にならない、という点ですね。凶暴さの点では、年間の殺害者の数からみても銃よりも『走る凶器』のほうが比較にならないほど危険ですね。山●組なんかはかわいいもんですよ。無くすことが自分たちに都合が悪くないことは、みなさん同意します。自分たちに都合が悪くなることは、どんなに相手に害を与えていても同意しないものです。民間人の銃保有はアメリカで問題になっていますが、凶悪性では『走る凶器』には敵いません。もっとも、警察や自衛隊のような『合法的』な暴力団は危険です。とくに自衛隊は毎日毎日人殺しの練習ばかりやってますからね^^現にイラクで戦争中毒アメリカの殺戮幇助をやってますし、国家権力が『北朝鮮の脅威』をねつ造し国民を洗脳して”いつか来た道”を歩む恐れがありますね。『非合法的』な暴力団は他国を侵略したり、沖縄戦のように自国民に大量自決を強制したりすることはやりませんけど、『合法的』な暴力団は他国を爆撃、侵略したり、自国民に自殺や人殺しを強制します。

『軍隊は国家権力が国民を弾圧する装置であり、国民を守らない』

歴史の教訓です。多くの日本人は虚構の平和に酔い痴れていますが、沖縄人は肝に銘じてますよ。

人は他人の過ちには気づきやすく、自分の過ちには気づかぬものです。私自身もエゴイズムの塊だと思いますよ。それを認めることこそ大切だと思います。そして理想を求めることは大切ですが、同時に現実を見つめることも大切だと思います。チョムスキーが指摘するように、世の中ウソ、ウソ、ウソ、ウソの塊ですから、過ちを指摘することは簡単であり、お互いに非難し合う事はだれでもできます。矛盾だらけの世の中を良くしていくためには、多くの人が団結、連帯していかなければなりません。そのためには、自分と異なる意見に対して寛容である必要があると思います。また、人間ですから誤った方向に進んでしまうことはむしろ当然です。歴史をみれば、社会は紆余曲折して今日に至ったのであり、常に良い方向へ進んできたのではありませんから。社会運動も同様です。相手の意見を聞く耳をもつことこそ大切ではないかと思っています。

*批判は大歓迎です!!どんなことでもいいですよ。罵詈雑言、誹謗中傷も歓迎いたします。
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